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文楽十二月公演 源平布引滝 国立劇場小劇場 [文楽]2008-12-18 [文楽アーカイブス]

 文楽を初めて観てから、ちょうど今月で30年になった。当時の中堅が幹部になり、メンバーも大きく入れ替わった。12月は次代を担う中堅と若手が中心になった公演で、20年後、30年後の人間国宝が出演しているのだと思うならば面白い。しかしながら、さすがに年を重ねないと面白くならないのが古典芸能の特徴で文楽も例外ではないようだった。

 「源平布引滝」の通し上演は、歌舞伎では九月に新橋演舞場で海老蔵が主演したばかりである。それと比較するのもなんだが、海老蔵の義賢、実盛も悪くなかったのだなあと改めて感じた。どちらも完成された芸とは言い難いものがあるのだが、華やかさ見応えといったものは、海老蔵が断然勝っていたからである。

 歌舞伎では仁左衛門が孝夫時代の出世作となった「義賢館の段」は、文楽では昭和45年以来の上演というから38年ぶりということになる。筋書に載っていた写真の文雀の若さに驚いた。歌舞伎では壮絶な立ち回りが見せ場だが、人形には残念ながら限界があって、芝居の発端という以上には面白さを感じることができなかった。

 一番の原因は、この場面だけではないが大夫と三味線の非力さによると思う。特に「竹生島遊覧の段」の完成度の低さは耳を塞ぎたくなるほどだった。ある大夫の音声障害?と思えるような絶不調が原因なのだが、こうして消えていった大夫を何人もみてきたので、やがて淘汰されていってしまうのだろうか。

 「九郎助内の段」は四人の大夫の語りわけである。次代を担う大夫の競演ということだろうが、睦大夫、文字久大夫、千歳大夫、咲甫大夫のいずれにも満足することはできなかった。やはり時間が必要ということなのだろうと思う。

 人形陣は、玉男亡き後、大夫よりも人材に対する危機感があるのか、勘十郎、玉女、和生、清十郎といったところが本公演同様に主役を遣う。彼らの上の世代が、もう何人もいないので、必然的にそうした立場になるのだが、やはり20年、30年の時間は必要のようで、感動はなかった。周知の物語でも感動できるのは演者が、長年積み上げてきた芸の力に他ならない。それを突き抜けるような天才の出現はないものだろうか。満足気に帰る多くの観客の中で、イライラとしていた。何をやっても満員御礼、厳しい観客の目もない、ぬるま湯的な環境で何かが生まれるとは到底思えない。

2008-12-18 00:49
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国立劇場文楽鑑賞教室 二人三番叟 文楽の魅力 菅原伝授手習鑑/寺入りの段・寺子屋の段 [文楽]2008-12-14 [文楽アーカイブス]


 幕間にまたまたCypressさんとバッタリ!昨晩は京都の南座で夜の部を観て、今日は日帰りで上京して文楽三昧だとか。相変わらずタフな人である。こちらも同じスケジュールなので一緒に過ごして、おしゃべりできたのは嬉しいことだった。ハードスケジュールは、こちらも同じで25日は4時起きで京都の顔見世に行き、翌朝の新幹線で東京に舞戻って国立劇場へ行き、さらに武道館でアンジェラ・アキのライブという工程で今年の劇場通いはお終いでなのである。

 さて学生対象の文楽鑑賞教室も、日曜日はほとんど一般人の客席である。松羽目の装置で「二人三番叟」が踊られる。文楽が初めての観客にも、短い演目でとにかく文楽に触れてもらおうということで、人形が三番叟を踊るという面白さが伝わるかどうかは疑問だが、有無を言わさず舞台に注目させてしまうには、打ってつけの演目だったかもしれない。

 通常の公演では、なかなか出番のない若手の修練の場とも機能しているようで、天使の目にも新鮮に映ったのは何よりだった。「二人三番叟」が終わると、定式幕の前に大夫が出てきて義大夫の説明。普段、大夫の素の話を聞く機会がないし、また高校生対象だからか平易な内容でありながら、ポイントは外していないので面白く聞く。三味線の説明では、メールと三味線の音を対比させての説明が秀逸。ちょっとした上方漫才のようなノリで楽しめた。その後、人形遣いが出て首や三人で遣う人形の説明などがあり、再び大夫が出てきて菅原伝授手習鑑の人間関係を説明して締めくくった。

 15分の休憩後、Bプロで「寺入りの段」は咲甫大夫・団吾、「寺子屋の段」は津駒大夫・清二郎で上演。Cypressさんは津駒大夫がご贔屓のようだが、天使が贔屓していた貴大夫が亡くなってからは中堅・若手に興味を失ってしまって、あまり楽しめなかった。人形は戸浪が勘弥、千代が清十郎、源藏が玉也、松王丸が玉女と20年後、30年後の文楽を支える人たちが演じた。だから発展途上なので、それなりに楽しめても、大きな感動を得るのには、まだまだ時間がかかりそうである。

2008-12-14 23:25
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奥州安達原 文楽九月公演・第二部 国立劇場小劇場 [文楽]2008-09-14 [文楽アーカイブス]

 上演時間5時間という長丁場。しかもお目当ての咲大夫が怪我の治療のために休演となってしまって、恐ろしくテンションが下がってしまって、結局後半の「一つ家の段」と「谷底の段」は観ないで帰ることにした。

 世代交代は第二部に顕著のようで、特に「環の宮明御殿の場」は次代の文楽を担うべき若手と中堅の実力派の大夫が揃ったようで壮観だった。咲甫大夫、文字久大夫、千歳大夫、英大夫の四名に、「一つ家」の中を語る呂勢大夫を加えれば30年後の文楽はこの人たちの双肩にかかっているのだとわかる。

 実力の世界とはいえ、天使が密かに贔屓にしていた貴大夫の居場所はなかったのかなあと思わないでもなかったが、千歳大夫が語る「よう着てゐやるか、ドレドレヤア、そなたはこりや裸身、着る物はどうしやった」以下の部分は、胸をえぐるような痛切さがあって、近頃の文楽では珍しく心震わせられる思いだった。ここまで見事に語られては、並みの大夫では太刀打ちできまい。人形では安部宗任を豪快に遣った玉輝を好ましく思った。袖萩の紋寿、浜夕の文雀がいいのは当然だけれど、あの千歳大夫の語りがあってこそと思わないでもなかった。それほどに傑出していた。

 かつて国立劇場で先代の勘三郎によって「奥州安達原」が歌舞伎でも通し上演されたことがあって、「一つ家」など岩手が乳房を露わにするなど面白く観たのだが、さすがに文字久大夫では聞く気になれなくて失礼ながら「道行千里の岩田帯」で劇場を後にする。清十郎を襲名した清之助は、強烈な印象を残すまでにはいたらず、将来に期待といったところだろうか。大きな名前を襲名したのは周囲の期待も大きいのだろう。次代を担う覚悟で取り組んで欲しい。

2008-09-14 00:14
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近頃河原の達引 口上 十種香 奥庭狐火 文楽九月公演・第1部  [文楽]2008-09-09 [文楽アーカイブス]

 今回の公演で最も感動したのは「口上」での蓑助だった。泣かされた。上演された他の演目よりも心を揺さぶられた。今まで忘れていたけれど、蓑助は脳卒中で倒れて、長いリハビリの末に舞台に戻った人だったのだ。普段は変わらずに人形を遣っているけれど、そこに至までにどれだけの努力を積み重ねてきたのか…。いまだ不自由な言葉しか話せないのに、愛弟子の襲名披露口上に発した振り絞るような言葉。儀礼ばった口上でこんなに感動するとは予想していなかっただけに涙が止まらなくなった。

 古式にのっとってなのか、清之助改め清十郎は一言も発さない。舞台下手から進行役の文字久大夫、勘十郎、蓑助、清十郎、住大夫、寛治。後列には同じく勘緑、蓑二郎、清三郎、清五郎が並んだ。住大夫、寛治と大幹部に続いて蓑助の言葉となった・「どうぞ、よろしくお願い申し上げます」といったような気がした。語尾が不明瞭で聴き取れないのだが、弟子の晴れの舞台に華を添えようという気持が嬉しい。それを引き取って兄弟子である勘十郎が口上を替わって
述べた。奥庭では八重垣姫の左手を出遣いで出て兄弟子の門出を祝った。麗しい、誠に麗しい。

 それに比べると「近頃河原の達引」は感心しない出来のように思えた。「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」で有名な演目で、「酒屋」とともに人気演目ではある。「四条河原の段」は、伝兵衛が横淵官左衛門を殺す場面。松香大夫に清友
。今回は襲名があるので「十種香」がメインとはいえ、朝から世話物というのも気が乗らない。

 「人の落ち目を見捨てるを、廓の恥辱とするわいな」などと女の心意気が天晴れなのだけれど、住大夫と錦糸ではそうした見事な言葉が上手く伝わってこないような気がした。文楽の大夫の最長老で第一人者のはずなのに、相性が悪いのか、あまり感心する舞台に出会ったことがない。それは綱大夫にも言えることで、飛ぶ鳥を落とすような勢いがあった頃に比べ、衰えが進んだようでお俊の可憐でありながらシンのつよい性格が十全に描かれていないような気がした。筋立てはよく理解できたし、手応えもありながら感動に至らないもどかしさが残った。

 清十郎の襲名は「十種香」と「奥庭」である。嶋大夫が「十種香」を語り、狐火では寛治が三味線という豪華版である。人形も勝頼に蓑助、濡衣に文雀、謙信に勘十郎と現在望みうる最高の配役を得た。新清十郎の八重垣姫は、悪くはないけれど全体に輪郭がぼやけた感じで明解さが足りないように思った。もっともっと自己主張して派手に決めてもよいのではないだろうか。「奥庭」も瑠璃灯が下がった古風な演出であったが、もう少し怪しげな雰囲気が欲しい気がした。

 なにはともあれ、文楽は着実に世代交代の時期を迎えたようである。これからは新清十郎をはじめ、勘十郎、玉女、和生といった人たちが活躍していくことだろう。清十郎にして40年以上の修業をしているという。それでも観客を満足させる域に達しないとは、芸道修業の奥深さをまざまざと感じさせれれた。

2008-09-09 23:21
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五月文楽公演 鎌倉三代記 増補大江山 国立劇場 [文楽]2008-05-18 [文楽アーカイブス]

 文楽を観る度に、自分のなかで舞台に向かう熱が冷めていくのを感じる。ちょうど世代交代の時期でもあるので、若手中堅の頑張りはあるものの、技芸のレベルの低下は仕方がない。一朝一夕で芸が成熟するはずもなく、ここは辛抱して見守り続けるしかないのだと達観はしている。それでも心を動かされる舞台がだんだん減ってきているのは悲しい。

 そして最も憂れいているのは観客のことである。国立劇場の文楽公演は大変人気があってチケットをとるのが難しい。「あぜくら会」の会員であっても予約日に手にいれられないこともある。それでも以前は「どうしても観たい」という気持さえあれば、当日券で観ることは可能だった。客席最後列の通路にパイプ椅子が並んで、最低でも36席補助席の当日券が出た。もちろん消防法違反である。コンプライアンスが声高に叫ばれる昨今であるから、当然のように当日売りの補助席は廃止。わずかに車椅子スペースに3席のみが用意される。それも車椅子の方がおられれば発売されない。
 
 前売り券を買えばいいと言われても、当日にならないと予定が立たない観客もいる。天使もその一人で、今回も第2部は急に仕事になって見逃すことになり、チケットが無駄になった。以前なら当日券に並んでもという気持があったが、手に入れられるかどうかわからないものに長時間並ぶ情熱は失せてしまっている。「どうしても住大夫を聴きたい」と素直に思えなくなっているからである。

 今日も第1部、第2部とも完売だった。熱心な観客とはいうものの、普通の人が気軽に観に行けるような雰囲気がないのが天使には大いに不満である。みな肩に力が入りすぎなのである。序幕からそんなに気合を入れては最後までもたないと思うのだが、若手の舞台を軽く聞き流すということができないらしい。人間が4時間以上も集中できるわけもなく、大半の観客は途中から居眠りをしている。それを誤魔化す?ためなのか最後は、どんなものでも盛大な拍手で幕である。

 そうかと思えば、まったく無反応な観客もいる。笑いもしないし、拍手するわけでもない不気味というか、何しに劇場へ足を運んだのか謎としか思えない観客がいる。他の観客のちょっとした物音に激しく反応し抗議する観客もいて、クラシックの聴衆より怖い感じだったりもする。高尚な古典芸能を鑑賞?しているといった「気取り」のある客席がどうも好きになれない。新しい観客が増える余地が非常に少ない現状で文楽に未来はあるのか?文楽マニア?、文楽エリート?といった鼻持ちならない観客の存在にうんざりさせられる。そんなに感動できるような舞台でもないのに、どうしてそんなに熱狂的な拍手できるのか?さっきまで居眠りしてたのに…。観客の反応が嘘くさいのである。何をやっても大喝采なら芸など伸びるわけがない。ある意味、一番レベルの低い観客は文楽の客かもしれない。
 
 それでも文楽の客席にいることの幸福感に浸りたくてでかける。しかしながら、一番印象に残ったのが幕間の弁当時間だったのだからがっかりである。この季節は、外の床几?に出て弁当を広げるのだが、何故か足元に雀が寄ってきた。人に慣れすぎな雀で、試しにごはん粒を投げてみると、アッという間に雀が集まってきた。どうも弁当をわけてやる心優しい観客が多いようで、餌付けされた雀を初めて観た。もっとも野生動物に餌を与えることはよくないことなので、それ以上与えなかったけれども。

 「鎌倉三代記」は、「三浦之助母別れの段」の人間国宝・綱大夫が病気休演で千歳大夫が「入墨の段」に続いて語った。元気だけなのが取り柄のような始大夫から始まって、咲大夫まで、心を激しく揺すぶるような感動にはついにお目にかかれずじまいに終わった。もちろん手を抜いているわけではなく、自分の持てるものをすべて出し切っているとは信じたいが、一生懸命さだけでは足りないのである。芸の難しさ怖さであるのであろう。淡々と舞台が進んでいるという印象ばかりでドラマが浮かんでこないのが不満である。特に一番ドラマチックなはずの「三浦之助母別れの段」が一向に盛り上がらないので、逆にドラマの持つ綻びがクローズアップされてしまって楽しめない。理屈ぬきで感心させられる芸がなければ文楽を観ることは苦痛でしかなくなる。抜擢ともいえる千歳大夫のさらなる精進に期待したいというか、そこにしか望みを託せないのが苦しい。

 人形陣も勘十郎、玉女、和生ら次代を担う中堅が主な役を遣った。経験と時間がまだまだ必要で、これまた長い目で見守るしかないのだが「頑張れ」と祈りにも似た気持ちで舞台を眺めるしかないのが辛い。

 「増補大江山」は人間国宝の三味線の寛治が出演なのが目玉。舞台の要となっているのがよくわかって音楽的に安定したのが何より。見た目本位に楽しめる演目でかしこまって観るような演目ではないのだが、相変わらず客席が固い雰囲気なのには閉口した。玉也と清之助というさらに次の世代の舞台で、見た目本位に遣っていたのがむしろ好ましく思えた。

2008-05-18 05:20
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文楽二月公演 第三部 国立劇場小劇場 [文楽]2008-02-11 [文楽アーカイブス]

『義経千本桜』は忠信編といったところで「伏見稲荷の段」「道行初音旅」「河連法眼館の段」という場割。全編を通じて勘十郎の忠信が活躍。対する静御前は和生と、こちらも文楽の将来を背負って立つ人形遣いである。筋書には平成16年の舞台写真が掲載されていて、忠信を文吾、静御前を勘十郎という配役である。出演者の紹介ページには文吾の顔写真がまだ掲載されていて、若すぎる急逝が惜しまれてならない。

 道行で投げられた扇が微妙なタイミングでキャッチとなったが、続く「河連法眼館の段」では、早替わり、宙乗りなどケレンが次々と繰り出され飽きさせない。特殊な技巧を必要とする段だが、咲大夫と燕三は快調に語っていく。見た目の変化に目を奪われ、物語の持つ本質の部分が観客に伝わっていたかどうかは微妙。全段を締めくくる意味あいもある部分なので、もっともっと深い表現を望みたい瞬間が何度もあった。

 桜が満開の劇場から一歩出ると外は雪。劇場の係員が総出で雪かき。雪から桜、そしてまた雪へ。充実した文楽漬けの一日となった。


2008-02-11 08:13
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文楽二月公演 第二部 国立劇場小劇場 [文楽]2008-02-10 [文楽アーカイブス]

 『二人禿』は若手中心の景事。続けて観る観客が多いので気分が変わってよい。華やかさ可愛らしさが楽しく、文楽の原点は、こうした筋らしい筋もない人形芝居だったのかなあと想像した。

 『中将姫雪責の段』では、千歳大夫の活躍が目立つ結果となった。スキンヘッドで目立つ大夫ではあるが、嶋大夫の前をまかされるだけでなく、休演した伊達大夫の代演をも担当して実力をしめした。自信をつけはじめているのがわかり、抜擢ともいえない当然のことなのだと受け取った。この人に文楽の未来を託そうとしているようである。さらに嶋大夫の充実ぶりも目立った。

 雪が降ろうかという日に雪責めというのも風情がある?悲惨な話で、人間が演じたら残酷な光景でも人形だといくらか薄められるのが救いである。やはり文雀の中将姫が中心になるが、雪景色の中で美しい高貴な女性が責められるという、何やら別世界の香気が妖しげに立ちのぼってきて想像力をかき立てる。

 『壺坂観音霊験記』は、住大夫、簑助の人気者に勘十郎で充実した。「沢市内の段」の住大夫は麗しい夫婦愛を描き出して感動的である。作品自体は作為が目立ち、観音の力でメデタシメデタシというのも文楽らしくていいのだが、頭で考えてしまうと一歩引いてしまいそうになる。それを夫婦愛という面を強調することで胸を打つ。

 住大夫の芸にふれるということが目的になってしまったような部分があって、なかなか否定的なことを言う人はいないだろうが、今ひとつ胸に迫るものが少なくて、期待外れだった。「こんなはずはない」と思っているうちに終わってしまった。絶対に感動できると思っていただけに完全に肩透かしを食らった感じである。同じ事は簑助にも言えて、勘十郎との夫婦愛など、細やかな描写の積み上げが期待されたが何故か満足するまでには至らなかった。

暗い話も最後は奇跡が起こって幸福になるという展開を千歳大夫が見事に代演。文楽の未来を感じさせたものの、全体的には低調だといわざるを得なかった。


2008-02-10 23:57
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文楽二月公演  第一部 国立劇場小劇場 [文楽]2008-02-10 [文楽アーカイブス]

  今回の公演で一番人気を集めたのは第二部だったようで、早々に切符が売り切れたと聞いた。もちろん住大夫と簑助、文雀が出るとなれば見逃せないと思うのは人情である。少し前までなら、玉男、簑助、文雀、住大夫、寛治ら人間国宝の舞台が上手く配分されていたような気もするが、綱大夫、清治が人間国宝に加わったことで一応バランスはとれているということだろうか。貴大夫や文吾の死、某大夫の不祥事による退座、伊達大夫の病気休演など一気に陣容が手薄になったような印象を受けた。

 『冥途の飛脚』は近松門左衛門の代表作で『傾城恋飛脚』や『恋飛脚大和往来』など改作物の原作である。ここには忠兵衛を除いて悪人はでてこない。もうトコトン彼のダメダメぶりが描かれる。論理的にみれば、何一つ同情する余地などない最低の男である。よく梅川が惚れたものだと思うが、結局金のため、自分のために窮地に落ちたのだからと責任をとる?といった解釈なのかと思ったくらい。 

 そのくせ、とっても人間臭い。優柔不断な弱さを羽織り落としという秀逸な方法で表現して上手い。落ちるところまで落ちた男女。その道行の寂しさ、もの悲しさは、綺麗事でない人間の姿を見せられたようで美化した改作物とは違ってリアルな感覚があった。

 《淡路町の段》は、英大夫に注目した。忠兵衛の玉女とともに、若い世代がいろいろな意味で奮起したのだと思う。眼目の《封印切の段》は、改作とは違い八右衛門が悪人ではないので、ただただ忠兵衛の愚かさを際立たせて語る綱大夫がよいのだが、少し枯れすぎた印象があった。《道行相合かご》は、三輪、文字久、新、芳穂、呂茂らの大夫、団七、団吾、清軌、清丈、清公の三味線。残念ながら、いろいろ変化のある舞台面なのに、詩情を描き出すまでには至らなかった。

若手、若手とばかり思っていた玉女が立派に忠兵衛を遣う。登場すれば拍手が起こるし、甘いマスクも幸いして人気があるのだろう。注目したのは八右衛門の玉輝である。こうした役柄で存在感を示せるようになったのが頼もしい。確かに過渡期にあるに違いない。大きなチャンスを生かして欲しい。


2008-02-10 23:54
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九月文楽公演 第2部 菅原伝授手習鑑 [文楽]2007-09-27 [文楽アーカイブス]

 千秋楽の9月24日は吉田玉男の命日である。ロビーには花が手向けられた遺影が飾られ、遺品の数々が展示されていた。また2階の無料休憩所では写真展も行われていて、何度も涙が溢れそうになって困った。生前楽屋に向かって歩く玉男を見たことがあるが、普通のお爺さんといった感じで舞台の上の玉男とは別人のようで驚いた記憶がある。芸の頂点を極めたといってよい玉男を見られたことは一生の宝だと今も思う。初めて文楽に連れて行ってくれた人は豊竹山城少掾や綱大夫の素晴らしさを繰り返し語ったものだが、いつか吉田玉男のことを誰かに語る日が来るかもしれない。

 「加茂堤の段」「筆法伝授の段」「築地の段」「杖折檻の段」「東天紅の段」「丞相名残の段」と菅丞相を中心とした物語が展開。吉田玉男を偲ぶにはこれ以上の演目はないように思った。菅丞相を遣った玉女の素晴らしかったことは「吉田玉男の命日」に書いた通りである。周囲の役も文雀の覚寿、蓑助の宅内、文吾の輝国らと充実して「道明寺」のような大曲も最後までまったく気をゆるめることなく舞台と対峙できたのは、出演者全員の並々ならぬ真心の入った舞台となった。

 そうした若手にも活躍の場が与えられた中では玉輝の武部源藏に注目した。他のイケメン人形遣いと比べれば損なキャラクターなのだが丁寧で実直な性格がよくでていたように思う。大夫では「筆法伝授の段」の切を語った嶋大夫がやはり抜きんでいたが、「丞相名残の段」を語った十九大夫の充実も特筆したい。

 「菅原伝授手習鑑」は三つの別れを描いているとはよく言われる。白太夫と桜丸親子。松王丸と小太郎親子。そして菅丞相と苅屋姫との別れである。観客はどうしてもそこに玉男との別れを重ねて観てしまう。所縁の演目で、師匠の当たり役を無事千秋楽まで務めおおせた玉女の胸中を思うとこみあげてくるものがあった。そして終演後も心の底から湧いてくる感動を押さえることができなかった。玉男は亡くなった。でも文楽は続いていく。玉男の芸は滅んでしまっても、その精神は立派に受け継がれていたように思う。


2007-09-27 00:14
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九月文楽公演 第1部 夏祭浪花鑑 [文楽]2007-09-26 [文楽アーカイブス]

 開演前に国立劇場近くの平河天満宮へお詣りに行く。マンションやらビルに囲まれた狭い境内だけれど、昔読んだ岡本綺堂の日記にはたいそうな賑わいが書かれていたので由緒正しい神社なのだろうと思う。第二部では「菅原伝授手習鑑」が上演されるので天神様へ手を合わせるのも意味のないことではないように思えた。毎回引くことにしている「おみくじ」は「末吉」だった。あまり運勢はよくない模様…。

 さて第1部は「夏祭浪花鑑」の半通し上演である。作者が「菅原伝授手習鑑」と同じ並木千柳、三好松洛、竹田小出雲というのも興味深いし、「鑑」という文字が外題にあるもの何やら意味ありげに思えてくる。

 住吉鳥居前、内本町道具屋、道行、釣船三婦内、長町裏、田島町団七内という場割である。住大夫、人間国宝になった綱大夫、咲大夫と充実した顔ぶれが揃い、同じく人間国宝になった清治が若手のホープ千歳大夫と登場と聴き所の多い公演となった。その中でも一番感心させられたのは「住吉鳥居前の段」の奥を語った松香大夫である。

 いささか世間とはズレてしまったような上方の全身に刺青をいれた若者を活写して見事に語っていくのである。牢から出たばかりなのに、直ぐに喧嘩をしてしまう救いのない危うい若さを言葉のはしばしに忍ばせて唸らせてくれた。これほど実力のあるひとだったとは大いに見直した。

 「道具屋」から「道行」は歌舞伎ではほとんど上演されない場面だが面白く観た。道行の残酷な展開も人形だと笑ってみていられるから安心である。歌舞伎と違って余計な思い入れの演技がなくトントンと話が運んでいくが、無軌道な若者を語るには良いテンポだと感じた。「釣船三婦内」の住大夫、「長町裏」の綱大夫、「田島町団七内」の咲大夫と文楽を聴く楽しみを改めて実感させてくれる素晴らしいもので一瞬も気をぬけない緊密な劇空間が広がっていたように思う。

 人間は団七を遣った勘十郎が迫力があって大きく、蓑助のお辰はむせかえるような色気が横溢。玉女、和生らの世代が活躍して、これまた充実した舞台を見せてくれて満足させてくれた。この舞台は間違いなく「大吉」だったと思う。


2007-09-26 23:12
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