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近江源氏先陣館 伊達娘恋緋鹿子 12月文楽公演 国立劇場小劇場 [文楽]2009-12-08 [文楽アーカイブス]

 12月は若手・中堅が活躍する舞台が繰り広げられるので楽しみな公演である。31年前の12月に初めて文楽を観たときの出演者は以下の通りだった。今も現役の大夫、三味線、人形遣いがある一方で、懐かしい名前があり、消えてしまった人もいる。

「寺入りの段」豊竹 英大夫/鶴澤 浅造
「寺子屋の段」竹本 伊達路大夫/野澤 勝平(野澤 喜左衛門)・野澤 勝司(豊澤 富助)

女房戸浪  吉田 簑太郎 ( 桐竹 勘十郎)
菅秀才  吉田 玉英
よだれくり 吉田 栄光( 吉田 玉也 )
女房千代 桐竹 一暢
小太郎   吉田 簑二郎
下男三助 桐竹 勘士朗
武部源蔵 吉田 玉松
春藤玄蕃 吉田 玉女
松王丸  吉田 小玉 ( 吉田 文吾)
御台所  豊松 清之助 (豊松 清十郎)


「新口村の段」口 竹本 文字栄大夫/竹澤 弥三郎
         前 豊竹 嶋大夫/鶴澤 清介
         後 豊竹 小松大夫/竹澤 団二郎(竹澤 団七)

忠三女房 吉田 簑司
八右衛門 豊松 清之助 (豊松 清十郎 )
亀屋忠兵衛 桐竹 勘寿 (
梅川 桐竹 紋寿
樋の口の水右衛門 吉田 福丸
伝が婆 吉田 玉英
置頭巾  吉田 栄光 (吉田 玉也)
弦掛の藤治兵衛 吉田 玉輝
針立の道庵 桐竹 小紋
親孫右衛門 吉田 作十郎
捕手小頭 吉田 若玉 (吉田 文司)

「勧進帳の段 」武蔵坊弁慶   豊竹 呂大夫
         富樫之介正広 竹本 相生大夫
         源義経      豊竹 松香大夫
         伊勢三郎    竹本 津駒大夫
         駿河次郎    竹本 貴大夫
         片岡八郎    竹本 南司大夫
         常陸坊海尊   竹本 文字登大夫
         番卒       竹本 三輪大夫
         番卒       竹本 津国大夫
         梶下左忠太  竹本 緑大夫

三味線    鶴澤 清治、鶴澤 清友、鶴澤 燕太郎(豊澤 菊二郎)、鶴澤 八介、野澤 錦弥(野澤 錦糸) 、竹澤 弥三郎、鶴澤 浅造

富樫之介正広 吉田 玉幸
梶下左忠太 吉田 文昇
源義経 吉田 和生
伊勢三郎 吉田 玉輝
駿河次郎 桐竹 亀次
片岡八郎 桐竹 勘弥 ( 吉田 勘弥)
常陸坊海尊 桐竹 勘士朗
武蔵坊弁慶 吉田 玉昇

 今月は大曲『近江源氏先陣館』と『伊達娘恋緋鹿子』の二本立てである。今日の出演者が30年後にどのように成長しているか大いに楽しみである。もっとも天使は、見届けられそうもないが…。



 文楽は古典芸能のなかでも実力主義が徹底しているように思える。『盛綱陣屋の段』の千歳大夫、文字久大夫、『八百屋内の段』の呂勢大夫らが、日頃の実力を発揮していた。彼らが文楽の将来を背負って立つのは間違いがない。また、そうした自覚が見えるのも頼もしい。

 その一方で、伎倆の実力通りに冷遇されていると感じる大夫もいて複雑な思いである。歩みが遅い、あるいは音声障害かと思うような声の出ていない大夫がいる。たぶん後輩達の後塵を拝する形になって、彼らの心中はいかがなものかと思わずにいられない。彼らとて、数十年に渡る芸道修業にあけくれたはずである。どうして差がついてしまったのか、さらに年月を重ねれば良くなるものなのか…。 今日も満員御礼の出ていた文楽の盛況を観るにつけ、複雑な思いである。

 人形遣い、三味線とも、元々が手薄な陣容ゆえに、人間国宝級が出演しないだけで、本公演とあまり変わらない。静かに世代交代へ向かっているのは間違いがない。勘十郎、玉女、和生、清十郎らが活躍し、客席から拍手が起こるなど人気も出てきているようである。彼らが大成するかどうか、見届けるのも天使には困難だろうと思う。

 今月の文楽は、いろいろ思い巡らす楽しみはあるが、はやり人間国宝級が出演しないと一向に面白くなってはれない。大夫、三味線、人形とそれぞれ楷書の芸を見せるのが、やはり生涯かけて芸道を究めようとする、あるいは極めた人の芸とは、ひと味もふた味も違う。おかげで、どの場面も破綻なく演じられているものの、観客席まで届くような熱いエネルギーは感じられなかった。

 それは客席の観客のせいかもしれない、生真面目を絵に描いたように舞台に集中している人、大部分は居眠りしていても、見せ場になるとガバッと起き上がる人。字幕をひたすら追い続ける人。舞台すら観ないで床本集を
顔の前にもってきて読みふける人。どのように楽しもうと自由なのだが、もっとナマの反応を舞台に返さないと、舞台が盛り上がらないのではないだろうか。

 どうして文楽を観るのか、その理由はさまざまだろうが、天使はもっと面白がりながら、愉しみたいと思っている。時として耐え難いほど冷たい雰囲気の客席は、好きになれない。住大夫を聴く、簑助、文雀を観るだけが文楽の楽しみではないはずである。本来の文楽の姿に近いのが今月のハズである。回を重ねるごとに、どんどんスノッブになっていく客席が辛い。

2009-12-08 23:11
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仮名手本忠臣蔵 第41回文楽鑑賞教室 [文楽]2009-12-07 [文楽アーカイブス]

今月で文楽を見始めてから31年を迎えた。昭和53年12月の本公演を観たのである。翌年の12月に初めて鑑賞教室を観ていて今年が天使にとっては30年目である。その時の演目は、『菅原伝授手習鑑』で大夫、三味線、人形役割は以下の通りである。

「寺入りの段」
豊竹 英大夫(Aプロ)、鶴澤 清介(Aプロ)
竹本 緑大夫(Bプロ)、鶴澤 清友(Bプロ)

「寺子屋の段」
竹本 文字大夫(=竹本住大夫・Aプロ)、鶴澤 道八(Aプロ)
竹本織大夫(=竹本綱大夫・Bプロ)、竹澤 団六(=鶴澤 寛治・Bプロ)

菅秀才      豊松 清三郎
よだれくり    吉田 簑二郎
源蔵女房戸浪 吉田 文雀
松王女房千代 吉田 簑助
小太郎      吉田 玉志
下男三助    桐竹 勘緑
武部源蔵    豊松 清十郎
松王丸     吉田 玉男
春藤玄蕃    吉田 玉松
御台所     桐竹 勘寿


30年前なので、現在の人間国宝や切り場語りも40歳後半から50歳代の中堅クラスの出演だったことがわかる。大夫は現在ではどちらも切り場を語りになってるので、今月の大夫も将来は人間国宝になるかもしれないのだ。天使は、この時、Bプロで観たのだが歌舞伎とは違った魅力に驚き、泣かされ、感動して、現在に至るまで文楽を愛し続けているのである。

今回は土曜日の公演にでかけたのだが、夜の本公演も観るので、14時からの鑑賞教室と17時からの本公演と続けて観ればスケジュール的には良いのだが、あえて11時開演を選んだ。13時半前には終演となってしまい、17時まで時間を潰さなければならないのだが、東京体育館のプールで1000メートル泳いでから。雨の中を神宮外苑のいちょう並木の見物にでかけたりした。

何故、11時開演のAプロを選んだかというと、天使が大の贔屓である英大夫が「塩冶判官切腹の段」を語るからである。31年前は「寺入りの段」を語っていた(残念なことに天使は観ているはすなのに英大夫の記憶がないが、ともかく31年後には一番の聴かせどころを語るまでに成長していたということである。そして、この先何年か後には、切り場語りになり、人間国宝になるのだろうか。

今回は解説「文楽の魅力」はパスして、休憩後の「仮名手本忠臣蔵」に集中することにした。「下馬先進物の段」「殿中刃傷の段」「塩冶判官切腹の段」「城明け渡しの段」のみが上演された。有名作品とはいえ、初心者には難易度の高い演目の選択である。歌舞伎では色々入れ事があり、上演時間が長引きがちだが、文楽はポンポンと物語が展開していくのがよい。役者の芸を観るなら歌舞伎で、作品を理解するなら文楽という印象である。

それだけに、贔屓があると興味も倍増する。今、文楽の大夫のなかで、誰に一番魅力を感じるかというと、豊竹英大夫以外には考えられない。実は天使にとって生まれた初めて観た大夫が英大夫なのだが記憶にない。同時上演の『鳴響安宅新関』で駿河次郎を語っていた竹本 貴大夫 にひと目惚れしてしまったからである。貴大夫がとってもハンサムに観えて一度で大好きになってしまったのである。

ところが30年も経過すると「抱かれたい大夫のナンバー・ワン」は英大夫がダントツの第一位である。彼の長所は、なんといっても人間的な良さが芸にでているように思えるからである。そして深くて的確な表現力が武器である。今回も語り出しの「浮き世なれ」の第一声で、仮名手本忠臣蔵の世界に観客を一気に連れて行ったと思わせたのは流石である。各登場人物の心の中まで見透せるような語りわけも見事だった。

判官が「打ち寛いで御酒ひとつ」と石堂らに酒をすすめるのも、由良助に生きているうちに会って伝えたいことがあるのだということが自然に理解できた。しかも某大夫のように、俺が俺がと前に出て、全体とのアンサンブルを破壊するような行為もなく、むしろ、その存在さえ感じさせないほど観客を劇世界に巧みに誘導していたと思う。非常にレベルの高い芸を披露していたように思う。

あまりに英大夫が見事だったので、他が全く記憶から飛んでしまったような気がする。さて、どんな風に物語が展開しているかなど意識させないほど、深くて遠い世界へ連れた行かれたような気がした。また、そうしたものが乏しいと将来の大成はないのかもしれない。少なくとも英大夫にはそれがあったように思う。

人形では中堅クラスの出演だが、やはり由良助を演じた勘十郎が素晴らしい人形を遣った。かつては、玉男が由良助では他を寄せ付けない圧倒的なものだったが、それに匹敵するような大きさ、力強さがあった。それ以外は、残念ながら発展途上で将来に期待したいところである。

2009-12-07 01:07
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天変斯止嵐后晴(テンペスト) 九月文楽公演・第三部 [文楽]2009-09-19 [文楽アーカイブス]

 かつて蜷川幸雄が演出した『テンペスト』を日生劇場?で観たことがある。佐渡島の能舞台で「テンペスト」のリハーサルをするという不思議な芝居だった。面白かったかどうかまでは記憶がない。シェイクスピアの最後?の作品「テンペスト」を観るのはそれ以来である。文楽に古典以外の新作が必要とも思えないし、上演されないから書き手も皆無という状態なので、十数年前に初演された作品ながら本公演に新作の新演出が上演されるのは久しぶりである。若手が中心になっているようだが、むしろ逆で、人間国宝たちこそが、新作に果敢に挑戦し、若手は古典の対策に取り組むというのが本当の姿だろうと思う。

 劇場内に入ると緞帳が降りており、時間になると客電が落ちて真っ暗になるという文楽では異例の始まり方である。場面毎に大夫が一人で語ったり、大勢で語り分けたり、三味線のほか、十七弦の琴、半琴、御簾内の打楽器も様々で、色々な音色が楽しめるなど意欲的な試みだとは思った。

 人形も黒衣を着たままで、人間の心の中を表現するというよりも、物語の展開の面白さを聴かせて見せるというのが演出の基本だったようで、なんだか単なる人形劇になってしまったようで複雑な想いで舞台を眺めていた。怪物キャリバンにあたる泥亀丸の人形の造型や、妖精アリエルにあたる英里彦の空中を自由に浮遊するイメージなど、文楽が人形劇だったのだと改めて思い出した。

 途中に休憩がなく、約2時間の舞台である。第一部や第二部に比べると上演時間が短く、一夜の催し物としても物足りなさが残る。筋書の床本には最後のプロスペローが観客に語りかける部分はない。実際の舞台では、プロスペローにあたる阿蘇左衛門を語る千歳大夫の顔と人形の首にスポットライトが当たり、有名な独白が語られる。文楽としては異例中の異例な幕切れで、なんとも言いようがない。高級?な塗り絵をえんえんと見せられた気分で、まあまあ毛色の変わったものを観られたという感想以外にない。たぶん面白かったかどうか記憶に残らない作品になることだろうと思う。

2009-09-19 23:54
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伊賀越道中双六 艶容女舞衣 九月文楽公演・第二部 [文楽]2009-09-19 [文楽アーカイブス]

 寛治以外の人間国宝が総出演しただけあって大人気の第二部である。入口には「満員御礼」の札が掲げられていた。失礼を省みずに意地悪な見方をすれば、あと数年?で見られなくなる可能性のある顔ぶれと言えないこともない。不謹慎とも言われようが、今回の第二部も四半世紀前には、豪華とも思われなかった顔合わせであり、そうやって順番が巡ってくるものなのだと思うしかない。

 「沼津」は、綱大夫が前半を語る。織大夫と名乗っていた頃は将来の文楽を背負ってたつと期待された人である。最近の衰えぶりには心痛むものがある。覇気がないというか声量の乏しさは隠しようもない。しかし、それ故に綱大夫の語りに集中できた部分もあって、全体の出来としては悪くないように思えた。同情される芸というのが本意ではないだろうが…。

 続いては住大夫の登場である。長生きも芸のうちというつもりはないが、実力以上に評価が高いような気がしてならない。昔から天使の好みではなかったので、どうしても辛口になってしまう。それだからこそ、彼の発する一言一句を聞き逃すまいと、いつもより集中しているのだが、言葉の持つ上っ面の意味しか伝わってこなくて、観客の心を震わせるような部分が少ない。生真面目な芸なのだが、色気や艶に乏しくて楽しむことが出来ないのである。まあ、殺風景な国立劇場の空間にはお似合いの芸なのかもしれない。そこに集った、これまた生真面目な観客が有難く、住大夫の芸を押し頂いているような図式が息苦しくてかなわない。それ自体は、住大夫が悪くないのだから仕方がないが、こんな天の邪鬼な天使を感動させてくれるような日が来ることを心から願いたい。

 筋書の白黒写真は、玉男の十兵衛、文吾の平作、蓑助のお米だった。もうこんな配役を観ることはないのだと思うと寂しくてならない。今回は蓑助の十兵衛、勘十郎の平作、紋寿のお米である。登場人物が少なく伝えなければならないことも多くて大変だろうが、現時点での最高の配役ということであろう。それは、現在の文楽の最高点、到達点を示すものであろうが、まだまだ道半ばという感じで、失ってしまったものの大きさを今さらながら再確認する結果となってしまったうようである。

 「酒屋」は、三人の切り場語りに挟まれて、天使のご贔屓である英大夫の登場である。春からすっかり大ファンなのだが、今回も天使を大いに満足させてくれた。美声なのはもちろん、その言葉にこめられた意味が陰影に富み、確かな芸で第二部に登場も納得の出来であった。何よりも素晴らしいのは、その芸に色艶があることである。今回は熱烈な女性ファン?の掛け声はなかったが、英大夫の発する色気、もっと言うならセクシーさに目がくらむ思いがするからである。熟成した色気を感じさせる点で、英大夫は文楽一の人である。芸に奥行きを持たせるには、これくらいのセックスアピールがなければ面白くない。さすがに硬くなっていた部分もあったように思うが、天使の好きだった貴大夫にも、こんな面があれば死なずにすんだのかもと思ったりした。

 そして天使の大好きな嶋大夫の登場である。けっして美声の持ち主ではないのだが、感情の的確な表現力では文楽では第一人者だと思う。思わず聞き惚れる部分が何度もあって幸福だった。物語自体は何コレ?の展開で身勝手な男には、まったく感情移入できないのだが、嶋大夫の語りだと何故か納得できてしまうのが不思議である。

 そのおかげか、文雀がお園を遣うのだが、英大夫に続いて嶋大夫しか観ていなかったようで、人形の印象は薄いというか、何も覚えていないというか、浄瑠璃に集中するほどには、人形を観ていなかったようである。どうも天使は、文楽の良い観客ではないことを再確認したような次第である。

2009-09-19 17:57
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鬼一法眼三略巻  九月文楽公演・第一部 [文楽]2009-09-19 [文楽アーカイブス]

 歌舞伎では「菊畑」や「一条大蔵卿」で有名な『鬼一法眼三略巻』から二段目、三段目、五段目を取り上げて休憩時間を入れて3時間半という上演時間である。歌舞伎の『菊畑』は好きな演目であるし、歌舞伎座のさよなら公演でも上演されるかと期待していたのだが、この秋には『義経千本桜』や『仮名手本忠臣蔵』が上演されることもあって今季は登場しないようである。

 九月には珍しく三部制になったのだが、人気は綱大夫、住大夫、嶋大夫と切り場語りが揃い、蓑助、文雀といった人間国宝が人形を遣う第二部が大人気だったようだ。第三部はシェイクスピアの「テンペスト」の翻案で、何かと話題になるのに、最も国立劇場らしい演目と上演形態の第1部が地味に思えてしまうのは困ったものである。所詮、現在の文楽人気も底が浅いものと言ってしまえばそれまでのことなのだろうけれど…。共通の演目があるのだから、歌舞伎ファンも文楽に足を運んでもよさそうなものだが、毎回超満員にならないところをみると、文楽は歌舞伎ファンは相手にされていないらしい。どちらも大変残念なことである。

 まだ文楽をたった30年間しか観ていない天使が言うのもなんだが、文楽を見る楽しみがどんどん失われていくのが寂しい。多くは名人といわれた人々が亡くなり、その至芸が消えていくことに起因するのだが、その穴を埋める存在が、なかなか現れないのがもどかしくもある。一朝一夕に完成しないのが芸であるし、果たして若手・中堅が育っていくのだろうかと心配にもなる。まったく文楽とは関係がないが、あの前進座を支えるべき中堅の役者が次々と座を去っていく惨状が他人事であって欲しいと思うが、現状は厳しいと言わなければならない。一般人にとって、文楽は歌舞伎以上に遠い存在なのだから、一部の好事家だけを相手にして公演を続けていくならば、未来はないと思わなければなならい。

 偉そうなことを書いたが、天使は文楽の良い観客とはいえない。文楽の大夫が苦しげ?あるいは恍惚な表情で浄瑠璃を語るのを見て想像をたくましくするのが好きである。また最初は闘志?満々のお隣の観客が、いつ居眠りを始めるのを観察するという悪い趣味があったりする。どちらも天使にとっては滑稽でしかない。いくらなんでも、超人ではないのだから、すべて演目のすべての場面に集中力を切らさずにいるなんて不可能である。歌舞伎にしても文楽にしても、集中力を切らして眠ってしまっても仕方のない場面があるものである。そんな時は、我慢しないで居眠りするに限る。そして肝心の場面を見逃さないことである。そうした場面は最後の方にあるので、最初から頑張ってしまうと、名場面の記憶がすべて飛んでいたなんてことにならないとも限らない。

 失礼ながら「清盛館兵法の段」がまさにそれで、あとの物語を理解する助けになっても、もともと面白い場面ではないし、大夫や三味線も地味ときては集中力が切れてしまうのも仕方がないことである。それに比べれば、最初の「播州書写山の段」は、舞台面の面白さもさることながら、寛治の三味線は当然のことながら、津駒大夫の語りに耳を傾けるべきものがあって、最後まで興味を持って集中して観る事ができた。

 「菊畑の段」は咲大夫と燕三が語る。咲大夫にはかつてのような覇気が感じられず、無難な語りに終始しるように思えた。美声を武器に言葉を正確に伝えることはできていても、それを通じて何を観客に語り伝えたいのかが判らないのがもどかしい。残念ながら感動するまでには至らないのである。玉女、和生、清十郎ら中堅の人形遣いにも同じことを感じてしまい、迫力、気迫ともに不十分だと思われた。

 一番面白かったのは「五條橋の段」だった。昔みた絵本?と同じく七つ道具を背負った弁慶と牛若丸との出会いで、長刀の刃の上にひらりと乗れてしまうのは人形ならではの表現で驚きをもってみた。古臭くて今の若者にはピンと来ない世界なのだろうけれど、客席の反応を見ると、ひどく懐かしい気がしたのは天使だけではなかったようである。

2009-09-19 00:53
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ひらがな盛衰記 五月文楽公演・第2部 [文楽]2009-05-27 [文楽アーカイブス]

梅が枝の手水鉢

假名垣魯文
  梅が枝の手水鉢
  叩いてお金が出るならば
  若しも御金が出た時は
  その時や身請をそれたのむ

Cypressさんは、ご存じなかったがようだが有名な戯れ歌である。作者は假名垣魯文というこで「ひらがな盛衰記」は明治時代には、もっと一般的だったのだろう。その戯れ歌の場面が観られる公演ということで、興味を持ったのを覚えているが、あれから21年経ってしまったらしい。大夫、三味線、人形遣いもすっかり代替わりしてしまって、中堅が中心の公演となったが、嶋大夫を中心として見応えのある場面が続いた。

 世襲制でもなく年功序列でもない実力主義というのが文楽人形浄瑠璃の世界である。特に第2部は、将来の文楽を背負って立つ中堅大夫が次から次へ登場しての競演となった。「梶原館の段」が松香大夫と清志郎、「先陣問答の段」が呂勢大夫に宗助、「源太勘当の段」が千歳大夫と清介という具合。千秋楽ということもあってか、いずれも気合の入った義大夫を披露していたが、一生懸命なのは当たり前なのであって、それを突き抜けたところに藝があり、観客を感動させるのだとしたら、まだまだ物足りないと思った。全体に硬さがあって力が入りすぎて、聞いていて疲れてしまうのである。

 休憩後の「辻法印の場」は、チャリ場でなんとも馬鹿馬鹿しい場面なのだが、ここを受け持った英大夫が傑作である。彼が登場すると「待ってました!」と女性から声が何度も掛かったが、なるほど通して聞いてみると、確かに「待ってました!」と掛かっても可笑しくない出来であった。よく見れば二枚目なのだが、なんとなく風采の上がらない風貌で、あまり注目したことのなかった英大夫だったのだが、実は女性の母性愛をくすぐるタイプであったらしい。見れば見るほど、聞けば聞くほど愛しくなってきて、すっかりファンになってしまった。

 頼りない辻法印を弁慶に仕立てて兵糧米をまきあげようとする喜劇的な場面を語って余裕があるし、生真面目に語られば語られるほど、なんとも言われぬ可笑しさがこみあげてくる。きっと英大夫はいい人に違いない。人柄が藝に出たといったところだろうか。

 「神崎揚屋の段」は、「切場語り」としては、最高の藝の持ち主だと思っている嶋大夫と富助である。最初の「世なりけり」からグイっと観客の心を掴んで最後まで離さない。文楽で泣かされることなど、最近はほとんどないのだが、恋しい源太を助けるため、三百両を工面するあてもなく、涙に暮れるしかない梅が枝のいじらしさが伝わってきて泣かされた。嶋大夫が好ましく思われるのは、他の大夫のように芸術至上主義といった気取った感じではなく、観客とともにある大衆芸能の香気がするのがなんとも素晴らしい。

 右手で調子をとりながら、全身全霊で語り、観客を現代社会から最も遠いところへ連れて行ってくれる嶋大夫からは、しばらく目が離せないと思う。間違いなく円熟の藝を披露しているからである。嶋大夫の好演に刺激されたか続く「奥座敷の段」の咲甫大夫と清友も予想以上の出来で、見事にこの物語を締めくくってくれたと思う。

 千鳥・梅ヶ枝を遣った勘十郎を中心に、これまた和生、清十郎など中堅が中心になっての演目で、人間国宝級が出演していなくても高水準の舞台を実現できることを見事に証明していたと思う。清十郎のお筆は、「逆櫓の世界」と「源太と梅ヶ枝」を結びつける存在で、小劇場のロビーには「大津の宿」の幕切れの有名な笹引きの絵画が飾られていた。山吹御前の亡骸を笹に乗せて引いていく哀切きわまりない場面だが、大きいだけが取り柄のあまり上出来な絵とはいえなくて、何も伝わってこない絵だが、上演中の演目に因んだ絵画が飾られているのも悪くないと思った。

 さて9月の公演は三部制になるようだ。第一部が「鬼一法眼三略巻」、第二部が「沼津」に「酒屋」、第三部がテンペストを脚色した「天変斯止嵐后晴」(てんぺすとあらしのちはれ)というバラエティに富んだもの。たぶん第2部が大人気になるのは間違いなく、どうしてチケットを手に入れるべきか悩みそうである。

2009-05-27 00:30
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寿式三番叟 伊勢音頭恋寝刃 日高側入相花王 文楽五月公演・第一部 [文楽]2009-05-26 [文楽アーカイブス]

 開幕は国立文楽劇場・開場25周年記念として大阪でも上演された「寿式三番叟」である。大阪公演も観たCypressさんによれば、劇場が大きいだけに床に大夫と三味線が並ぶ形式だったとか。東京では能舞台風の装置の鏡板の前に9名の三味線とその後ろに9名の大夫が居並ぶという形式。

 翁を綱大夫、千歳を文字久大夫、三番叟を南都大夫と始大夫が語る。病後?の綱大夫が精彩を欠いていて心配。清治をはじめとする三味線の迫力、そして何よりも大地を踏みしめ五穀豊穣を祈る三番叟を遣う勘十郎と玉女の力強さに感心する。歌舞伎でいえば、猿之助の「二人三番叟」といった感じなのだが、こちらが本家本元ということか、その躍動感は無類である。

 人形が人間のように面を着けるというのも不思議な感覚なのだが、翁の面の笑顔がなんともいえない表情で、その静謐な動きに感動した。今さらながら三番叟というのは、おめでたい演目なのだと感じいった。

 休憩後は「伊勢音頭恋寝刃」から古市油屋の段からで、いきなり切場語りということで住大夫が登場する。いつもながら面白味に欠ける語りで感心しない。天使は、どうも住大夫とは相性が悪いようである。それでも感心した点はあって、お紺の死ぬ覚悟をみせ観客にその哀れさを印象づけたとことはよかったと思う。

 お紺が文雀、万野が蓑助、貢が玉女と充実した顔揃いで観客のお目当てだったらしく、第一部の人気が高かったようだ。あまりに豪華な配役で、先月から切場語りに昇格した咲大夫への当てつけかと思ったほどである。しかしながら、以前なら満足させてくれたかもしれないが、中堅・若手のような未来を感じさせ、夢みせるような藝ではないところが、仕方ないとはいえ物足りなさが残った。

 「奥庭十人切りの段」は、津駒大夫と寛治というこれまた豪華版。人形ながらも凄惨な殺しが続いて、気が滅入るほど。いくらなんでも残酷すぎたように思う。

 切場語りになったのに、お披露目の演目が「日高川入相花王」とは…。咲大夫いじめかしらと思うような地味な展開。せっかくの昇格のお祝いが「真那古庄館の段」では可哀想。もっと彼の実力が示せる演目はなかったものかと思う。そんなことを考えてしまったので、少しも楽しめない演目になってしまった。そうした中でも紋寿の遣う清姫のケレンが見事なのだが地味に終わってしまったように思う。

2009-05-26 00:23
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女殺油地獄 2月文楽公演・第三部 [文楽]2009-02-18 [文楽アーカイブス]

もっと型破りな芸を 

先日、第二部の始まる前に、Cypressさんと歩いていたら、Cypressさんがご贔屓にしているMさまをみかけた。へえ~、CypressさんはMさまが好きなんだ…。そしたら今朝、仕事場でMさまにバッタリ。何故Mさまがここに?思わず話かけてしまった。以前には、やはりCypressさんがお好きなナマIさまとも会ったことがある天使。会いたくても会えないCypressさん、ごめんなさい。そのCypressさんは、すでに「女殺油地獄」を観ているばかりでなく、今月は大阪・松竹座の愛之助主演の「女殺油地獄」も観ていて比較を楽しまれたようだった。

 
 人間が演じる「女殺油地獄」と人形が演じる「女殺油地獄」は、どこが違うのだろう。人気役者が与兵衛を演じると、やはりどこかに自意識が残っていて、とんでもない奴であっても、何かしら救われる部分が残っていたりする。ところが、人形には自制がないので、トコトン落ちるところまで落ちてしまった人間をみせて作品が本来持つ力を十分に伝えていたように思う。

 見応えがあったのは、勘十郎で人間には不可能な動きを駆使して、油にのたうちまわわる地獄のさまを演じてみせた。人間では、本物にみえる油にまみれ、血潮も飛ぶが、そうした生々しさがなくても、観客を戦慄させて見事であった。それには咲大夫の力量も見逃せない。まさに円熟期を迎えていて、現在の文楽で一番の実力の持ち主であることを照明していたように思う。綱大夫とともに、若い時から期待されたホープなのだが、なかなか難しい問題があって、重用されていないように感じるのは残念である。

 不満を感じたとすれば、あまりに型どおりの展開で、少々物足りなく感じたことぐらいである。文楽全体に言えることだが、もっと型破りなものがあってもいいのではないだろうか。大阪では上演されている新作?なども、東京で上演したら良いと思う。東京の客席で多く見かける生真面目な観客を驚かすような演目があってもいい。

2009-02-18 22:17
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敵討襤褸錦 2月文楽公演第二部 [文楽]2009-02-17 [文楽アーカイブス]

ベテランから若手までバランスのよい舞台

二月は黒澤明監督没後10年ということで、BSで「七人の侍」「赤ひげ」「用心棒」「生きる」「天国と地獄」を放送していた。作品の最後には、作品の中には、現在では問題となる表現が含まれているが、オリジナルを尊重して、そのまま放送しました。といったような断りの文章が流された。50年前の名作映画でもそうなのである。江戸時代の作品に遠慮会釈などあるはずもない。精神薄弱者、被差別者に対する視点は、現在とは違いすぎて、誠に不愉快な物語である。しかも敵討とはなっているが、結末では敵討の模様は上演されない。

 歌舞伎では、かつて二代目鴈治郎によって上演されたが、暗かったという印象しかない。けっして面白い物語ではないのである。それを面白く見せるのが芸の力なのだが、もっとも感心させられたのは、春藤屋敷出立の段を語った嶋大夫である。愚鈍な助太郎を母親自ら殺し、敵同士になった若い恋人の別れなど、観客の紅涙を絞る要素に事欠かないのだが、過不足なく描き出して見事である。

 眼目は主人公が非人になって敵をねらうという趣向だが、感動できるようなドラマらしいドラマがない場面で、観客をいかに劇世界に引き込むことが勝負となる。主人公の人間としての高潔さ、志の高さを描き出すことができたら、成功ということになるだろう。現役最長老の住大夫は、さすがに世界を堅実に構成して納得させてはくれた。しかしながら、嶋大夫に感じたような感動があったかというと、はなはだ疑問である。深さが足りずに物足りなさを今回も感じてしまった。住大夫に感心しないのは毎度毎度のことなのであるが、多くの観客は彼の芸に心酔しているようなのが不思議に思える。

 人形では、清十郎、玉女、勘十郎らが活躍。蓑助が助太郎という珍しい役柄を遣った。何を遣っても蓑助に目が行ってしまうのは仕方がないが、中堅の人形遣いに目配りをしていたという意味でも彼の出演した意義は大きい。ベテランから中堅まで、バランスのよい舞台だったのがなによりだった。

2009-02-17 23:56
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鑓の権三重帷子 2月文楽公演第一部 [文楽]2009-02-16 [文楽アーカイブス]

文楽中堅の実力 
 
つい数年前までは、玉男、文雀、蓑助、住大夫、寛治ら人間国宝を上手く配してバランスのよい?公演が続いていた文楽も玉男の死によって、人気が集中するのは住大夫の出演する演目になっているようである。日曜日の11時開演とはいえ、空席が目立つ客席というのも珍しい。第二部は「敵討襤褸錦」は全席売切の大盛況だというのに、けっして舞台成果は見劣りするものではなかっただけに残念だった。

 近松の姦通物の一つで、20年ほど前に文学座が水木洋子が脚色し、江守徹が演出した「近松女敵討」を杉村春子主演で、サンシャイン劇場で観た記憶がある。さらに篠田正浩監督、岩下志麻主演で映画「槍の権三」というのも観た。なんと権三は郷ひろみ!馬を駆るのを得意とする武士が、泰平の世であるため茶道を立身出世のきっかけにしようしたばっかりに、人妻との不倫を疑われ、主人公二人は妻敵討ちにあい、密告?した朋輩も卑怯者ということで討たれてしまうという救いのない物語。

 眼目の「数寄屋の段」を語るはずだった綱大夫が病気で休演。その前の場である「浅香市之進留守宅の段」を寛治の三味線で語った津駒大夫が続けて語るという活躍でなんとか上演を続けた。さすがに前場を語り終え、すぐに次の床に上がることができなかったのか、舞台転換後に妙な間が空いてしまったが、非常事態なので仕方がなかった。疲れもみせずに1時間10分を語り通したのは見事で敢闘賞ものだった。英大夫、呂勢大夫、千歳大夫など中堅クラスでも重用されている一人ではあるが、その実力を発揮する場を得て、日頃の精進の成果をしめせたのは何よりだった。

 さすがにおさゐの悶々とした想いを深く表現するまでには至らなかったが、現代人には理解できない倫理観を、なんとなく納得させてしまったのは、出演者一同の努力の賜物であると思う。その中でも傑出していたのは、
おさゐを遣った文雀で、人妻でありながら権三へ深層心理では心を寄せていて、お雪の乳母の言葉に憤慨し、深夜の茶室で権三の帯を解く暴挙に出たのも、真の台子の奥義を教える替わりに、権三の肉体を欲していたのかもと思わせる生々しさだった。人形であるはずなのに、妙に官能的で危うい雰囲気が漂っていたのも凄い。十二歳年上で江戸詰で留守の夫・市之進との閨房の語らいの物足りなさまでも感じさせて恐かった。権三は和生が遣い、蓑助が得意とした二枚目の役をよく継承していて見応えがあった。

 権三にしても、お雪とすでに懇ろであるらしかったりと綺麗事ばかりでなく矛盾している。だから形式ばかりの妻敵討で倫理観を守ろうとする武士の滑稽さというのも意味深く、敵討ちよりも、そうしたドロ沼に落ちていく男女の姿に見るべきものがあるという主張があったのか、理解しがたい結末となる後半はあっさりと物語が展開してくれたのも観客にはありがたかった。 

2009-02-16 23:51
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