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ドライビング・ミス・デイジー 2009-03-22 [演劇アーカイブス]

2009年3月20日(金) 東京芸術劇場中ホール 14時開演/上演時間1時間45分
作・・・・・・・・・・・・アルフレッド・ウーリー
訳・演出・・・・・・丹野郁弓
装置・・・・・・・・・松井るみ
照明・・・・・・・・・沢田祐二
音楽・・・・・・・・・池辺晋一郎
衣裳・・・・・・・・・緒方規矩子
効果・・・・・・・・・岩田直行
舞台監督・・・・・中島裕一郎

デイジー・ワーサン・・・・・・奈良岡朋子
ホーク・コールバーン・・・・仲代達矢
ブーリー・ワーサン・・・・・・千葉茂則

 劇団民藝の奈良岡朋子と無名塾の仲代達矢の初共演で話題になった演目のファイナル公演313回目の上演を観に池袋にでかける。田舎の高校生だった頃、観られる芝居といえば「新劇」だった。奈良岡朋子を初めて観たのは劇団民藝の「奇蹟の人」のサリバン先生だった。仲代達矢を初めて観たのは俳優座の「どん底」のサーチンだった。思春期の演劇好きにとって、彼女と彼は神様のような存在だった。もしかしたら自分も…。などと勘違いしそうになって両親に必死に止められた。そして今、いつも芝居の側にいたいという願いは少しだけれど叶えられていて幸福である。

 来週には高校の同窓会が32年ぶりにあるのだが、あの名舞台に胸をときめかせてから30年以上の歳月が流れているのである。上京した当時は、劇団民藝の仲間や文学座支持会に入ったり、労演の会員になったりして新劇一辺倒だったのだが、2000年以降はほとんど行かなくなってしまった。今の自分には、とっても魅力のない演劇、とっても退屈な演劇でしかない。特に民藝は今でも左翼系演劇のムードがあったりして生理的に受けつけない。宇野重吉や滝沢修、北林谷栄らの名優の芝居が観られないのなら無用な劇団になってしまった。

 奈良岡と仲代の初共演が売り物といっても、何のことはない民藝には奈良岡の相手役になれそうな男優が大滝秀治ぐらいしかいなくなってしまって、仲代にはそもそも同年代の相手役がいないだけのことである。今回は劇団民藝と無名塾の共催という形でダブルキャストのブーリー役も民藝と無名塾からそれぞれ出ているが、東京公演は民藝公演の一環であるらしい。上演回数は決して多くないが普段上演している紀伊国屋サザンシアターと違って、昔のホームグランドである砂防会館ホールと同様の800名収容の劇場で上演できたのは何よりである。しかも補助席も出るほどの盛況である。平均年齢が高いのは相変わらずだが、二人の共演を目当てに一般の観客も多く集めていたようである。

 どうして映画でも有名なこの作品が選ばれたかはプログラムに詳しいが、老人二人の共演であれば、かつて杉村春子と尾上松緑が共演したアルブーゾフの「ターリン行きの船」、民芸では越路吹雪が客演した「古風なコメディ」。あるいは劇団四季が日下武史と藤野節子の「ゴールデンポンドのほとり」、映画や東宝の舞台では「黄昏」なども面白かったかもしれない。結論から言うと、せっかくの共演を活かしきれていない演目、演出のように思われて楽しめなかったからである。

 25年間を2時間足らずで表現しなければならないので仕方がないが、場面が細切れ過ぎるのと時間の流れがつかめないのにイライラさせられた。歌舞伎ではないから役者の芸をみせるものではないと知りつつも、これだけの芸達者、名優を集めながら、凡庸を絵に描いたような演出で驚く。この演出家は素人か?観客が登場人物に感情移入しようとする間も与えずにめまぐるしく舞台を展開していく。もっと芝居の行間を見せなければ観客の想像力の翼が広がっていかないではないか…。もっとも落胆させられたのは、最終場面の歩行が困難になり認知症でもある奈良岡と目が不自由になってしまった仲代の心のふれあいを観客に感動をもって届けられなかったことである。大多数の観客は、その中途半端な終わり方に納得できないでいるように思えた。まったく拍手が起こらなかったのも無理はない。緞帳は使わない芝居だったが、ちゃんと終わりに出来ないなら緞帳を使うべきではなかったろうか。

 そしてカーテンコール。三人とも若々しい?格好で出てくるのはご愛嬌だが、NBSの来日オペラの千秋楽ではあるまいし、金色の紙吹雪を大量に飛ばす意味が理解できなかった。観客が手拍子で二人を迎えるなんて、この芝居の重さとは相容れないものだと思ったが、安っぽく趣味の悪い結婚披露宴の仕掛けで観客は喜んでいたのだろうか。

 男女、黒人とユダヤ人、雇い主と使用人、人種差別、高齢者問題、いずれも重いテーマなのだが、日本人の我々には普遍的テーマとして受け取るのは、やはり難しかったようである。どれほどの観客が登場人物に共感できたかは謎である。奈良岡はよく通る発声で文句はないのだが、感情の細かな表現には物足りなさが残り、仲代はコミカルな仕草が空回りしていて、台詞も明瞭さを欠いていたように思う。名優とはいえ絶頂期は過ぎているのだと言わなければならない。10年前とはいわないが、もっと早く二人の共演が実現していれば違った見方もできたかもしれなが、二人の年齢を加えたら150歳を超えているであろうか。せめて体力、気力ともに最も充実している時期であったらばと思った。

2009-03-22 00:05
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桜姫~清玄阿闍梨改始於南米版 シアターコクーン 2009-06-10 [演劇アーカイブス]

 『桜姫~清玄阿闍梨改始於南米版』(さくらひめ~せいげんあじゃりあらためなおしなんべいばん)の初日を観てきた。劇場内外の雑感はこちらです。

 南北の『桜姫東文章』を現代劇に書き換えて上演という企画。しかも舞台は南米というのが趣向?来月に歌舞伎版が上演されるので…、というほど安易な取り組みではないと信じつつ、同じ舞台装置を使った野心的な試みだけでもないと思いたいが、挑戦する姿勢はよいとしても全体的に未消化に終わって全く楽しめなかった。

 劇が始まってまもなく、舞台上の席が移動して(なぜそんな手のこんだことが必要なのか不明なのだが)芝居をするエリアが狭くなって、緊密な劇空間になるのけれど、最初に墓守として登場した大竹しのぶと笹野高史が空間を掴みきれていないのか、残念ながら何を言っているのか台詞が全く聴き取れなかった。四方を観客に囲まれているからか、役者も緊張していたようだし、観客も身構えてしまって、いきなり芝居の流れが停滞してしまい舞台が弾まない。それは最後まで続いて終わり方も解ったような解らないような変な幕切れで、カーテンコールなのか芝居が続いているのか疑問のままバンド演奏に突入してしまい、結末の出来事を理解できないまま終わってしまって欲求不満になる。

 まさか歌舞伎の幕切れの「本日はこれぎり」のような訳のわからなさを不条理劇として翻案したのではないとは思うが、双子の見世物芸人やセルゲイとゴンザレスを対比させるなど、思わせぶりな仕掛けはあっても徹底していないので理解に苦しむばかりだった。何よりも南米版といいながら、南米風というよりも串田流のとでも言った方がいいような無国籍風で、結局、串田はこうした世界観からいつまでも抜け出せない人なのだなあと思う。それが楽しいと感じられる人には心地よいだろうが、役者の演奏する素人同然の演奏を楽しめと言われても…。

 サーカスや見世物小屋風の劇場空間の中で、台詞と生演奏だけだと空間が埋めきれていないなあと思う。やはり肉体的なパフォーマンスがないと物足りない。歌舞伎ではないので大立ち回りなどは期待しないが、いい大人が列車ごっことは、それはないだろうと思った。何もない空間に色々な手法を駆使して多場面を出現させる方法も、だんだんと新鮮さがなくなってくるのが辛い。

 白井晃、笹野高史、大竹しのぶ、古田新太、秋山奈津子、勘三郎と芸達者が揃っても必ずしも面白い芝居にはならないのだと気がつく。期待が大きかっただけに失望も大きかった。歌舞伎の『桜姫』は、当たり役の玉三郎をはじめ、雀右衛門、染五郎、福助など観てきたが、その面白さでは遠く及ばない。もう企画した人間のセンスを疑うぐらい酷い。

 聖と俗、貴と賤、その間を揺れ動くはずの桜姫の行動が曖昧で、彼女を突き動かす力は一体なんなのか最後まで疑問のままだ。プログラムを見れば、作者は何度も何度も書き替えと言い訳をしている。結局時間切れで未完成のまま上演してしまったということなのだと理解した。ほとんどチケットは完売らしいからいいが、一ヶ月の公演で億単位のお金が動くというのに、作者は英国へ留学中だという。つくづくお気楽なものだと呆れた。作者はもっとも~っと苦しむべきだったと思う。苦しみ方が甘いのだと断言したい。

 カーテンコールで、勘三郎が客席の串田を舞台に上げようとしたが、串田は上がらなかった。この程度の芝居の出来では恥ずかしくて上がれまい。もっともである。

2009-06-10 22:47
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