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畑中良輔著 『日本歌曲をめぐる人々』を読んで [音楽]


日本歌曲をめぐる人々

日本歌曲をめぐる人々

  • 作者: 畑中 良輔
  • 出版社/メーカー: 音楽之友社
  • 発売日: 2013/02/07
  • メディア: 楽譜



昨日発売となった畑中先生の『日本歌曲をめぐる人々』が届いたので、早速読み始めて一気に読破した。うかつにも、「日本歌曲<友>の会」発行の『歌』という会誌に10年にわたり寄稿していた「日本歌曲・考」と題された連載があったのを全然知らなかった。執筆していたのは、天使が先生と親しくなった時期と重なっていたのに。

先生の最後のご本になるであろう『日本歌曲をめぐる人々』は、先生のお誕生日を前にして僥倖にめぐりあったというところだろうか。解説を書かれている塚田佳男先生は、天使の学生時代に合唱団を指導されていた方で、畑中先生との御縁といい、不思議な想いでいる。

さて『日本歌曲をめぐる人々』では、次の人々が登場する。


永井郁子

山田耕筰

橋本國彦

團伊玖麿

中田喜直

平井康三郎

石桁眞礼生

栗本尊子

関屋敏子

エピローグ

上記以外にもさまざまな人が登場し、日本歌曲の題名が紹介されていく。読む進むうちに、どうしても聴いてみたくなるが、2月12日(火)の紀尾井ホールの演奏家では聴く事ができるだろうか。

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さて、記憶に残るような記述があったので採録しておく。

永井郁子の項で

歌うほうも聴くほうも、何のことやらわからないままに、「芸術的なひととき」というありがたい時期を過ごしていた時代(それは今もなお!)への疑問は永井自身、全国を廻って痛感しただろう。

これは、歌曲に限らず、あらゆる芸術に当てはまるかもしれない。

そして山田耕筰のオペラ『香妃』のことについてふれられている。1981年の全曲日本初演を天使は観ているのだが、舞台裏ではさまざまなことが起きていたようである。また新国立劇場の開幕を飾った「健 TAKERU」の話も興味深い。

そのほか、山田耕筰のエロ話とか、「おーい、何してんだ。中田のチンポコくわえるのか?」といったドキッとするようなエピソードもあって面白く読めた。是非読まれることをお勧めしたい。
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畑中良輔 追悼公演 ありがとう、ブル先生 藤沢市民会館 2013年1月20日 [音楽]


荻窪ラプソディー: ブル先生の日々是好日

荻窪ラプソディー: ブル先生の日々是好日

  • 作者: 畑中 良輔
  • 出版社/メーカー: 音楽之友社
  • 発売日: 2012/07/13
  • メディア: 単行本



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携帯電話の着信記録を見ると、ちょうど一年前の今頃だった。畑中先生から電話がかかってきたのは…。聞き覚えのある、あの声で「劇場の天使さん!」と言われた時は心臓が止まるかと思うほど驚いた。天使はごく親しい人を除いて、正体を明かしていない。まあ、読む人が読めば分かる様に書いているのだけれど、何もお知らせしていなかった先生に見破られるとは…。悪い事はできないものだとつくづく思った。

お正月に浅草歌舞伎で一緒だったCypressさんが、10年ほど前に天使を畑中先生に紹介してくれたのだけど、ちょうど愛する人を失ったばかりで失意の中にいた天使に、進むべき道を指し示してくれたのは、他ならない畑中先生だった。どこの馬の骨か分からない、全く畑違いの人間に、どうしてあんなに優しく接してくれたのか。他人には優しい先生が、どうして自分自身には厳しいのか。天使は憧れよりも強い気持ちを先生に抱く様になっていた。先生に会いたくて、オペラの初日を狙って劇場へ行くというストーカーまがいの事をした事もあった。

藤沢市民会館へもオペラを観に何度も通ったものである。先生に最後にお目にかかったのは新国立劇場での「沈黙」のロビーでだった。車椅子でお帰りになる先生に「さようなら」とご挨拶をするつもりだったのに、何故か「ありがとうございました」という言葉が出てしまった。今も不思議なのだが、あの時は「さようなら」よりも「ありがとうございました」という言葉が一番ふさわしかったのだった。

今日の藤沢市は富士山こそ見えなかったけれど快晴。開演まで1時間ほどあったが、予想通り長蛇の列で、最終的には二階席まで満席となった。出演者や曲目は当日までよくわからなかったのだけれど、2500円という低価格では、普通は実現しないような豪華メンバーによる演奏会となった。宗教曲、ドイツ歌曲、日本歌曲、オペラアリア、オペラ合唱曲と多彩な曲目で、3時間にも及ぶ演奏会となった。驚くべきはプロの出演者に対しても支払われたのは交通費だけで、出演料なしの公演だったという事だ。畑中先生のためにという想いだけで集まった出演者、関係者に心から拍手を送りたい。

クラシックのコンサートらしく音響反射板が設置されているステージだが、舞台後方には反射板がなく、ホリゾント幕で、そこに1階客席後方に置かれたプロジェクターから先生の画像が投影される仕掛けになっていた。お別れの会で遺影に使われたもの。紀尾井ホールでの演奏会のものなど、天使も知っている画像もあったが、初めて見る練習中の画像など興味深いものを見せていただいた。

中でも先生が毎朝お作りになっていたという野菜ジュースをミキサーで作っているところとか、鎌田實さんの諏訪中央病院でのコンサートの画像は先生の別の一面を見た気がして楽しく思えた。特に病院でのコンサートでは、畑中先生は白衣を着て首に聴診器を引っ掛けていて、どこから見てもお医者様である。こんな先生なら診察して欲しいなあと思った。そして蓼科の別荘がお近くの縁で、天使の尊敬する現役最長老のチェリストである青木十良さんとのツーショットの画像は天使を興奮させた。

会場に入るとピアノの調律が開演直前まで行われていて、リハーサルがいかに大変だったかをしのばせた。最初はオーケストラと合唱によるフオーレのレクイエムから第1曲目の「入祭堂とキリエ」から始まった。藤沢市民交響楽団を指揮するのは誰?と思ったら、畑中先生から受け継いだ平野忠彦さんだった。

演奏が終わると合唱団とオーケストラが退場して、椅子が片付けられピアノを中央に動かすという大きな舞台転換があって、畑中先生にゆかりの歌手が登場して歌曲を2曲披露するという形式で進んだ。途中に平野氏のMCが入って3名が続けて歌った。歌曲のステージのはずなのに、カウンターテナーの弥勒忠史はヘンデルの歌劇『リナルド』から「私を泣かせてください」を歌った。独特の装飾音をつけて面白く聞いた。

そういえば、この弥勒さんが出演した「天国と地獄」を観たのが藤沢に来た最初のオペラだったように思う。ロビーでお会いした先生に誘われて、先生のお隣で見る事になったのだけれど、予想外の出来事に緊張してしまって、何を観たのか全然覚えていないのである。

前半の最後は、男声合唱のお好きだった畑中先生偲んで、モーツァルトの歌劇「魔笛」から「おお、イシスとオシリス」(僧侶の合唱)が歌われた。テノールが少々不安定だったような気もしたが、畑中先生も喜ばれたと思う。ここまでが約1時間ほどで休憩となった。

休憩後はオーケストラの楽員が増えてヴェルディの歌劇『アイーダ』から「凱旋行進曲」。天使も学生の頃にオーケストラと一緒に歌ったことがあるが、なかなか難しい曲である。男声合唱には中盤に難所があって、案の定ハラハラさせられたが何とか歌いきってひと安心だった。

オーケストラの椅子を片付ける転換の間に、平野氏とご子息の貞博氏によるMCがあって、食輔と呼ばれた食通の畑中先生のエピソードが語られた。それからは、オペラのアリアを1曲ずつ歌う形式に変わる。それぞれ一番得意なレパートリーを歌ったはずでいずれも楽しめ、藤沢ニューイヤーオペラコンサートといった趣になる。

前半で感心したのは菅英三子が歌ったドリーヴの歌劇『ラクメ』から有名な「鐘の歌」。驚くべきテクニックを披露して満場をわかせていた。その次に歌われたのは、小濱妙美によるワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』から「愛の死」。ここで不覚にも涙ぐんでしまった。『トリスタンとイゾルデ』は亡くなった最愛の人と最後に観たオペラだからで、最後の和音が消えるとき、二人の愛も消えてしまうと思えて、それ以来『トリスタンとイゾルデ』は聴かないと決めていたのだった。

それ以降は、売れっ子のソプラノ、テノール、バリトンの声の競演となったが、いずれも素晴しい歌唱で甲乙つけがたかった。女性に歳のことをいうのは失礼だが、松本美和子が71歳というのは驚いた。容姿も歌声も20歳は若く見えるのである。塩田美奈子はカスタネットを鳴らしながら歌って喝采を浴びていたし、女性のトリは佐藤美枝子で得意のコロラテューラを披露し、福井敬は藤沢でも歌ったカラフの有名なアリアを歌って締めくくった。

ここでオーケストラと合唱団が入場するまで、平野さんと福井さんの師弟コンビでMCを担当して、畑中先生の思い出を語った。最後にソリストも全員登場してモーツァルトの「レクイエム」からラクリモーサを合唱して締めくくった。実は天使は通算でモーツァルトの「レクイエム」を10回ほど歌っているので暗譜で歌えることをいいことに、お隣の席が空いてしまったので一緒に口ずさんでしまった。畑中先生とは音楽では全く無縁だったのだが、天使の歌声を聴いてもらえればよかったかななどと思ったりした。舞台の上も客席も畑中先生に感謝の念を表す会になっていて心温まるものだった。藤沢の今年のオペラの演目は、モーツァルトの『フィガロの結婚』だという。先生は日本の封建時代に翻案しての上演の夢を語ってくれたことがある。スザンナが腰元・お鈴とか…。結局夢の上演になってしまったが、普通の演出でも面白い舞台になってくれることを祈りたい。

プログラム

第1部
フォーレ       「レクイエム」 入祭堂とキリエ    合  唱

R.シュトラウス  あなたは私の心の王冠         山本 香代
            献呈

メンデルスゾーン ズライカ                  栗林 朋子
            歌の翼に

中田喜直      歌をください               岩崎由紀子
平井康三郎    うぬぼれ鏡                

ヘンデル      『リナルド』私を泣かせてください   弥勒 忠史

貴志康一      かごかき                 久保 和範
梁田 貞      城ヶ島の雨     

ヴォルフ      祈り                     白石 敬子
           ミニヨンの歌

モーツァルト    『魔笛』おお、イジスとオリシスの神よ(僧侶の合唱) 合  唱


休憩


第2部
ヴェルディ 『アイーダ』 凱旋行進曲           合  唱

ロッシーニ 『セビリアの理髪師』私は町の何でも屋  大沼 徹

マスネ   『ルシッド』 泣け泣け我が眼!       悦田比呂子

マスカーニ『カヴァレリア・ルスチカーナ』ママも知るとおり 清水 華澄

ドリーヴ  『ラクメ』鐘の歌                 菅 英三子

ワーグナー 『トススタンとイゾルデ』愛と死(リスト編) 小濱 妙美

ヴェルディ『ルイザミラー』穏やかな夜には        樋口 達哉

ヴェルディ『リゴレット』悪魔め、鬼め!          牧野 正人

ドヴォルザーク 『ルサルカ』白銀の月          松本美和子

ルーナ  『サルスエラ「ユダヤの子」』私はスペインから来た 塩田美奈子

ベッリーニ 『カプレーティ家とモンテッキ家』おお、幾たびか 佐藤美枝子

プッチーニ 『トゥーランドット』誰も寝てはならぬ         福井 敬


アンコール
モーツァルト 「レクイエム」ラクリモーサ         全員


合唱:湘南コール・グリューン
    湘南市民コール
藤沢男声合唱團
   紀声会
   アンサンブル藤沢

管弦楽:藤沢市民交響楽団

畑中良輔追悼公演実行委員会

委員長:平野 忠彦(指揮・司会)
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再現・その3 NHKラジオ深夜便「輝いて生きる」 畑中良輔・更予米寿&卒寿記念コンサート  [音楽]

収録(インタビュアー:水野節彦)
2010年3月2日(火)自宅にて

放送(アンカー:石澤典夫)
2010年3月10日(水) 午前1時12分より

※この放送より10日後、2010年3月20日に畑中更予さんはお亡くなりになりました。
※畑中良輔先生は2012年5月24日にお亡くなりになりました。
※元になった音源は、2012年7月7日 「畑中先生お別れの会」に先立ち、会場内で流されたものです。

お二人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

再現・その1
再現・その2
(敬称略)

水野 奥様がドイツリート、歌曲がいい。先生は日本の歌曲をもっと

良輔 まあ、初めはヴーハーペーニヒ先生にベルリンの第一バス歌手、宮廷歌手だから正しい昔からの伝統的な歌い方を厳しく仕込まれましたからね。ドイツリートが僕の基本になるでしょう。さきほどから言ったように、やっぱり、ドイツリートは例えば、Liebe 愛って言葉があるでしょう。そしたら愛は人間の精神をどのようにaufhebenって、ドイツ語で難しいけれど、上にあげるっていう 愛っていっただけで、ただイタリアオペラは、惚れた腫れた、それの情熱で行くでしょう。ただやっぱり、愛というamareとLiebeの感覚ってあるじゃないですか。ただ、やっぱり惹かれるのは、やっぱりLiebeの哲学性、やっぱり歳をとるにしたがって、歳取るとみんな、哲学書、歴史書、そっち移っていきますんでね。

水野 でも、そのドイツリートを超えて日本の歌曲を、やっぱり世界へっていうのは、

良輔 うん、やっぱりね、日本人じゃなきゃ、ない感覚があります。これは美術に関しても、これほど精密な素晴らしい、もう琳派の絵をひとつとってみても、日本人独特の美意識があるじゃないですか。そしたら音にしても、一絃琴なんか、たった一本の糸で素晴らしい音楽ができてくる。音色の中に、そういう日本人じゃなきゃできないドイツリートの歌い方、イタリアの音楽、日本人がイタリア人が気がつかないものが取り出せる。だから今、日本人は、リート歌うの好きですね。

水野 要するにドイツ人やイタリア人の真似をするんじゃなくて、日本人として。

良輔 僕は、それを

水野 理解して。

良輔 真似することも大事。僕が始まりだから、そういの。それから、日本人じゃなきゃできない音楽、持てるはず感性を、日本人は。ただ、そこを発見するようにやるためには、日本の言葉の美しさ、だって美しくないじゃないですか、役者のしゃべっている科白が、僕は聞き取れない。テンポで、子音ばかりでしゃべって母音でしゃべらないから。どんどん骨の構造が変わっているんです今。顎の骨が退化しています。固いもの食べない。

水野 母音がはっきりしないということですか。

良輔 今、演劇へ行ってごごらんなさい。テンポが早いです。テンポが早くて、ひとつのドラマティックな迫力はありますよ。しかし、その科白の内容が、じっくり耳から心へ入るには、テンポが早すぎる。僕の耳が悪いのかな、みんなもわかんないって言う。

水野 いいお話も、いい歌も、やぱり分からなきゃ、伝わらなきゃ、

良輔 伝達なって意味ないでしょう。今わっ~とパワーでいっちゃうんです。みんながワイワイ裏で言っててね。

更予 本当、日本語が汚くなってね、それが悲しいです。もうね、あの、昔、黒柳徹子がね初めてNHKへ出てきたとき、もう凄い早口でってねえ、早口でびっくりしたら、今、黒柳徹子は普通になって、それより早い子がいるんです。NHKのアナウンサーでもね、だからちょっと古い方がね、とっても綺麗ですけれどね、若い子たちはもうちょっとね、人に分かるように訓練しないと。

良輔 お説教になっちゃった。(笑)

水野 私がお説教されているようで、すいません。

更予 したいですよ、だってね、それは私のためじゃなくて、みなさんのためです。ことに老人はね、今老人が多いでしょう、そんなに若い人とおんなじ速さじゃ、しゃべりませんよ。

水野 そうですね。合唱やっている若い人に、教えるときにも、やっぱり昔とだいぶ今変わってきてますか?

良輔 やっぱり、今発声が非常に、あの重要視されて、まず声を身体を使って、さっきから話はでているけれど、のどじゃなくて、身体の内臓が全部、もう頭の毛から足の爪までが、響きになるような発声を一生懸命みんな
割と発声練習はよくやるんじゃないですか。どんなアマチュアでも初め、1時間弱発声に時間かけます。そんで、第一もう背中の方まで息をいれながら、声を出すということは合唱以外に、今の人はさっき言ったテンポが早いから、肺の奥まで空気がこない。下肺葉の先まで、ここから上の肺だけ使かっちゃうから、身体が使えてない。そすると内臓が働かない、だから発声するというだけで素晴らしい身体の訓練ですよね。

水野 若い人の理解度っていうのはどうですか。歌に対する。

良輔 個人差がありすぎて、やっぱり若い人たちが、ロックやなんかでシャウトする、で皆マイクの声に慣れる。生の声を聞いたらびっくりして、よくオペラ教室なんか、これマイク使かってないんでしょなんて、高校生がくるんですよ。何も使ってないよって言ったら、凄いっていってね、みんな感動してます。マイクじゃない声を初めて聞いたんですよ。

更予 あのねえ、マイクを使ってね、歌っている人たちが、凄い表情を作って歌っているとね、電源切ってどうぞって言う。電源を切って歌って欲しいの。本当に、それがね電気でそうなっているという自分で作っているみたいなね表情で歌う。あれ、見ると耐え難くなってね、やっぱりマイク使っている人、一度電源を切った上でおやんなさいって言う。

水野 我々の場合は、マイクロフォン切ると商売にならないんで。

更予 それとは違う。歌としてね。あのポピュラーの人たちがね、自分たちが凄い歌い手のような顔をしているというのがね、クラシックの人たちがね、発声がイタリアオペラの歌い手なんてね、たとえば高い音Bの音を出すだけでも10年もかかる。そうやって修業させられるでしょう。だからそういう世界のクラシックの歌い手たちと、どんな違うかっていうことが分からないです。

良輔 でもね、カラオケで上手い人いますよ本当に。ハートがあってね。

更予 だから、それはちゃんと声が出せるけれど、それを使ってもできるという風にならないと。そうじゃないのが耐え難いの。

良輔 僕、全国、セミナー、各音大、それから一般市民が、とっても熱心ですね。ことに中高年の方は、僕が一口言うとすぐねノートされるから、目の前で、あれこれ年号間違えるとどうしようかなとかね。凄い熱心ですよ。

更予 でも、この歳で日本中かけずりまわるでしょう。だから今日は北の国に行ったと思うと、次の日は大阪だ。そして、今度は九州だって、今度は東京だと思ったら藤沢だとかね。もうなんだかね、やぱりボロ雑巾は。

良輔 みんなが喜んで、あの帰りにね、涙浮かべたりして、あとのアンケートがね、とっても細かく皆さん書いてくださる。本当にやってよかったなあ、心がつながったなあとかね、司会業の人がお決まりのようにしゃべるんじゃなくて、僕のように何がでてくるかわかんないから、勝手にみんながサッとのってくれるっていうのが嬉しいですね、やっぱり自分の生きている感じ、存在感が自分で

更予 そんなに飛び回る人っていないんですけれどね。大変だと思うんですけれど、やっぱり皆さんが喜ぶと。だから世の中のために働くっていう意識があるから、元気をいただけているんだと思います。

良輔 やあ、世の中のためにっていうのは、僕、あんまり好きじゃない。自分が好きだからやっている。

更予 でも、好きだからって言うけれど、みんなが喜ぶでしょう。だから、そのために働いているっていうことは、悪いことしているんじゃないから。私は、世の中に、うちの旦那が取られてしまったと諦めて、何もなんにも会話もする暇もない旦那さま、本当にだから、まあ、わたしの幸せはボロ雑巾でいいと思う。というのはねえ、雑巾って真っ白だとね、やっぱり何かこぼしたとき使いにくいんです。ボロ雑巾はパッとね、すぐにとってくれるでしょう。だから、私、そういう人間になりたいと思っているの。

水野 ああ、そうですか。若い人がみるみるうちにね、歌い方が、たとえば、先生の指導一つで変わっていってたときは。

良輔 一言で変わるでしょう。

水野 変わります。

良輔 ねえ、それは、やっぱり感性があるから。感性がなかったら、何をいいこと言っても通り過ぎてしまう。たとえば、阿修羅像とか仏像ひとつ見て、みんな修学旅行で、その前通るじゃないですか。ただ通っただけで、それを感じるには、そんだけの年が必要でしょう。阿修羅像に何十万も博物館に並んでいるのを見て、昔は阿修羅像なんて、本当に奈良の博物館で、誰もいない、僕は百済観音と握手したことあるんです、中に入って誰もいないから、仏像好きなもんだから、あんな時代じゃなくて、今あんな何十万の人が通り過ぎるだけでしょう。

水野 近づくだけで大変ですから。

良輔 ねえ、何を見た?結局何も見ていないでしょう。日本人のイベント好きというのも、ちょっとねえ。

水野 今たとえば、88歳と90歳、今、この歳になって見えてくるものとかは。

良輔 あのねえ、若い頃は自分が一生懸命生きている、生きねばと思うけれど、このごろは生かされているという感じ、不思議な僕の生まれかな、何か僕を助けてくれる精神的にも、何かこう何かがね、守ってくれるような生かされているという感じですね。うん、生きているっていうの。

水野 それは何歳くらいから、そういう風に感じられたのですか。

良輔 やっぱり、ねえ。80歳近くなってから、自然にやっぱり、何か僕の周りにいる人たちが、とっても何か気持ちがふうっと、僕の心を支えているっていうのか、もっと出来ることは、なるべくちゃんとしたいなっていう気持ちもあるんで。このコンサートの前、紀州に行ってたんですよ。紀州の熊野灘、新宮っていう街がね、幸徳秋水の明治の頃、そこらへんを調べたかったことと、南方熊楠のこととか、いろいろ紀州の万葉歌人のこと、そこらへんを実際に調べたかったもんですから、で熊野灘の真っ向の風浴びて、いっぺんで肺炎になっちゃったんですけれど。

水野 まだまだ、これからやりたいことっていうのは、たくさんあるわけですね。

良輔 南方熊楠さんが、人間の枠をはみ出した、紀州田辺の生まれ、何をやったか。粘菌。普通、厚生年金の年金を思うでしょう。じゃなくて菌。アメーバーのもうひとつ、何億とつながっている、粘着力のある菌が一番あるのは紀州なんですよ。僕はなんでも知らないこと知りたい質だから、そういうこと考えると知りたいっていうだけ。第一、粘菌っていうものがよくわかんなかったから。

水野 そうですよねえ。

良輔 二三日前の新聞、アメリカで粘菌で熊楠先生の論文をちゃんと生かしてます。

更予 私は、そんな紀州にいったりしないで、80越してからの生活で熊楠さんのそういう話もね、凄いですけれど、私は一番楽しいのは、宇宙論なんですね。数学全然分からないけれど、天文学の素晴らしさっていうのがね、今最高ですね。それで、やっぱり、地球上の変なのをね、もうあんまりこだわらないで、私、空ばっかり仲良しになっています。

水野 数学が苦手。

良輔 僕は数学のない学校探したら音楽だったからね。未だに数字音痴ですよ。僕、一番数学ダメなんだけれども、お弟子で岡潔博士っていう数学の、そのお嬢さんが家にレッスンに来てたんですよ。父が新しい本を出したので持って行けと言われましたで、一冊いただいたら、しょっぱなに「数学は情緒である」って書いてあるの。目からウロコが落ちたっていうのか、「数学は情緒」である。ジャン・コクトーもあるんですね。詩の最高の形式は数学だっていうの。

水野 最後に健康法を伺おうと思ったんですけれど。

更予 わたし、本当にあの、喘息持ちでリュウマチで、そしてアレルギーでしょう、それとの戦いがずっと子供のときから、発声を教えてくれたのはね、結局、オギャーって生まれたときのまんまなんですよ。本当にね、あの赤ちゃんのねえ、泣き声みてごらんんさい、全身で泣いているでしょう。だから横隔膜の使い方を知らないで、皆さんが横隔膜の変な上の方でだけしか使えないのね。私が、みっつの大変な病気で、もう幼児のときに死ぬはずだったの。あの、やっぱりその、横隔膜の使い方ね、それが最低のところを使っているらしいです今ね。

水野 ジュースはつくられるという。

良輔 そう、それは毎日。今日はまだ作っていませんけれどね。グリーンジュース。

更予 グリーンジュースで養ってもらっています。

水野 奥さんは、つくられない。

更予 作んないわよ。

良輔 あの、作ることよりも買い物が大変。

更予 私はアレルギーだから。本当に病院泣かせです。

良輔 でも、やっぱり食べ物に関して、考えないといかんですね。

更予 あの、朝、良輔がここにいるときには、青汁があるんですけれどね。

水野 歌手としてもね是非、色気のある歌をですね。

良輔 もう枯れ木ですよ。

更予 枯れ木でもね、毎日この歳になって、今日初めて知ったことっていうのがあるのね。早くあの世に行った方がいいと思っても、生きる喜びってね、やっぱり歳とともにね、あの何か分からせてもらうことがたくさんあるのね。そのかわり、一生懸命覚えたこと皆わすれていっている。

良輔 忘れないと入ってこないよね。次が満杯になっちゃう。

更予 新しいことを知るためには、昔のいろんなこと、やなこともね、大好きなことも忘れる。なんだっけでいいの。それで、毎日、新しいことを知る喜びを、それが長生きの秘訣じゃない。

良輔 それを僕も思いますね。

水野 それに尽きますかね。

良輔 知らないことを知る喜びっていうのはね、エネルギーの源になる。どうでもいいやなんて思ったら、もうねえ、終わりだ。

水野 今日はどうもありがとうございました。

良輔 話が多岐にわたっちゃって。

更予 おしゃべりしすぎて、ごめんなさい。
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再現・その2 NHKラジオ深夜便「輝いて生きる」 畑中良輔・更予米寿&卒寿記念コンサート [音楽]

収録(インタビュアー:水野節彦)
2010年3月2日(火)自宅にて

放送(アンカー:石澤典夫)
2010年3月10日(水) 午前1時12分より

再現・その1

(敬称略)

更予 だけどね。

良輔 こんなに素晴らしい歌、小学唱歌ひとつ歌って涙流させる。

更予 教わらないからよ。

良輔 そういうの今いない。

更予 勝手に歌っているだけなの。

良輔 だから、いや僕は生後すぐにヨーロッパでも行けてた時代だったら、当然、もうヨーロッパの女王になってたはずだと思う。

更予 あの、実はね、行くはずだったんです。父はね、お金がないから、そういうのできないけれど、お友達がイタリアで、コロラトゥーラはイタリアじゃなきゃダメだから、そしたら、そのおじさん名前も忘れちゃったけれど、戦争になったら一に死んじゃった。それで、もう全然。それにあたし、あのコロラトゥーラってね、別にあんまり好きじゃなかったの。自分の声が。

水野 そうですか。

更予 そして、日本の歌っていうのでね、本当にその「四季の歌」もそうですけれど、低くて、ちょっとコロラトゥーラには辛いんですけれど、日本の歌曲の方がね、本当にその詩の心が歌えるので、そういうのに目覚めて、日本歌曲が好きになったんです。だから外国の歌は、あの色んな国のを勉強したけれど、やっぱりドイツリートが一番好きなんですね。それは詩の心が本当にね、深く表現されているから。で、詩の内容がねえ、日本の「月」「雪」「花」のような情感の世界だけじゃなくてね、やっぱり哲学があっての芸術でしょう。だからね、そこの、そこから湧いてくる詩のね、深みっていうのが、ドイツリートに一番感じられるから、それでドイツリートばっかり好きになっていったんです。39歳のときに、すっごく、あの、身体が悪くなって、それで、この人は世の中に出ていかなきゃならない時期になったでしょ、それで別居をして、私があの、声もなにもでできなくて筆談をしたりして、生徒を教えたの食べていかなきゃいけないから。そうすると、あの生徒が今でも私の筆談のレッスンをとったりする子がいるんです。で、良輔はねえ、オペラのいろんな本をだしていますでしょう、ああゆうんで大変で、もう私のことなんか離れているからわからない。だから、いつも死にそうなときは、ひとりぼっちなんです。あのね、とってもお医者はね、あなたの顔見ると嫌になります。なんていうくらい凄まじい発作を起こすんです。で、だから知らないですよ。仕事、仕事。

良輔 やっぱり転地しないと、喘息なっていうのはね、やっぱりしょうがないし、僕もねえ。

更予 だから、

良輔 朝から晩まで、学校と演奏とオペラと、全国、でもなんとか全国、日本の歌うたって、二人で回っていました。

更予 別れているときも電話夫婦でね、電話はよくくれましたけれど、そのときは、喘息じゃないからしらないんですよ。

水野 そんな時代もあったんですか。

良輔 だって戦後、働かなきゃ食えないじゃないですか。明日、買う豆腐のお金もなかったね、我々ね。

更予 だから、私はN響の人たちとバンドを組んで、進駐軍のところに歌いに行って、その時は良輔より私の方がお金がとれたのよ。そういう時代もあった。だって戦争がが悪いから、この人、全然文無しになったんですもの。

良輔 彼女、発音が素晴らしんですよ。たから、やっぱり進駐軍のオフィザーズクラブなんかで歌うと、一番彼女がよく、綺麗な英語で、歌うんだよ。

更予 知らないけれど、よく進駐軍の人たちが泣いたりして、将校が出てきてね、ごめんなさいって、みんなホームシックになっちゃったって言ってね。

良輔 だから、そのころ、僕もジャズ歌って、あの帯番組で朝9時15分くらい毎日あるんですよポピュラーの時間、それほとんどジャズ歌っていました。そして伊原健二っていう名前でやってた。もう芸大の先生も知っていたから、そしたら「ダンスと音楽」という本で、大型ジャズ歌手現るってねえう出たんですよ。

水野 紹介されたんですか。

良輔 うん。

水野 ジャズ歌手、畑中良輔。

良輔 でも更予もポピュラー歌って、それはN響の人たちが伴奏で、その日、どんな編成になるかわかんないから、僕が編曲していました。

水野 そのときでも、オペラというものは、やっぱり自分のめざすものだと思われてたわけでしょう。

良輔  目指すと、けっこうそれをやらないことには、

更予 だって生きるために大変だったんですよ。

水野 生きるためにジャズを歌い、生きるためにオペラを歌ったんですか。

更予 いや、だってそれ皆そうでしょう。

良輔 好きです。ジャズが好きだったし、だからヒットキットていうね、あの当時GIたちのために、その新しいポピュラー、ジャズのパンフレットが来るんですよ。それから新しいジャズをThat's only pepper moonだとかね。彼女はね、

更予 年柄

良輔 サンダーズなんてうまかったじゃない。

更予 シンコペが楽しくて、私大好きだけれど、その頃日本人てシンコペショーンがとっても

良輔 シンコペショーンは節分をね、ウパ、ウパ。

更予 それが大好きでね、

良輔 だから生活のためと、やっぱり僕、ポピュラーやったことが、今のよく司会業をやるけれど、聴衆がどんな音楽にどう反応するかとか、そういうポピュラー畑でずいぶん勉強した。

更予 でも、あのクラシックの人がね、畑中良輔ともあろうものが、ジャズ歌手になったなって言われて、私びっくりしたことがあります。

水野 そりゃ、そうでしょうね。

良輔 コロンビアが言ってきたんですよ、専属はいかがですかとか。新宿のコマができる前で、そこの音楽の支配人がやってきて、そこの音楽監督やってくれとか、でも、もうすでに芸大では助教授やってたんで、芸大をとるべきか、ポピュラーをとるべきか、ポピュラーをとってたら、今頃御殿に住んでたかかもね。

水野 ああ、そうですか。

良輔 あの戦後のあの混乱期が、僕にとっては非常に凄い経験ていうのか、人生体験、普通そのままいって、学校の先生してたら、アカデミックな教授になっていたかもしれないですねえ。

水野 で、今、わたしたちがこう、先生の定着しているのは、モーツァルト歌手っていうのが定着していますけれれど。

良輔 あの僕は、まるっきり大きな声で生まれてないんです。イタリアオペラ歌うような。

更予 でもパパゲーノがね、モーツァルトって言われるのは、モーツァルトの「魔笛」のパパゲーノはね、観たときは、私はオペラ嫌いなんですけれど、良輔は全くね、そのものがパパゲーノみたい、本当によく似合うと思ってね。

良輔 一番数多くやったのは、もう百何十回やってます。パパゲーノ。その相手役を彼女がやりましたけれど。

水野 そうですか。

良輔 二人で踊るんですけれど。

更予 あんまり好きじゃないんですけれど、この人が出てくると、何にもオペラやってないのに、お客さんが手を叩いちゃうんです。出てきただけで、パパゲーノの感じになっちゃう。

良輔 川端康成先生が、とっても僕のパパゲーノが好きでね、パパゲーノやるたびに、鎌倉からご夫妻で川端先生がよくいらした。鳥をとって女王様にあげて、自分が食べ物をもらうという、走り回るんですね。あの、野原やあれを自然児です。だから鳥の羽つけて、

更予 三枚目なんです。この人、三枚目が似合うの。でもね、二枚目半だなんて言うんですよ自分で。それを本番で言ったりする。なんか、それが自然、ごく自然。全然、良輔らしい感じがねお客さんにうけるのね。作ってないのね。だから、役をつくらなけいけなくてね、オペラはオーケストラを越える声をださなきゃいけないから、皆なん皆、緊張感つくるのね。自然のまんま。それが、

良輔 僕、初めて魔笛やったときは、中原淳一さんが楽屋に遊びにいらして、「ああ、畑中さん顔描いてあげようか」って、あのころは自分でとメーキャップして、今はメーキャップ師がいて、オペラは専門化されて、昔は自分で書いたもんですよ。そんで、中原淳一さんが描いてくれた。で、どんな衣装ですけかって言うから、さっき言ったように綺麗な鳥の羽、いっぱい着て出てくる、それ見てハッーていってね、どんな顔か描かれたか知らないの僕もね、もう開演で「畑中さん、板附ですよ」て言われて、そのまま舞台に出た。一幕終わったら、指揮者がマンフレット・グルリット先生だった。「畑中さん、マエストロが呼んでます。怒ってます」って言うからね、何怒られているかわからないから、行ってみた。「Look your face」て言われたんですよ。

水野 顔を見ろと。

良輔 うん、で僕どんな顔かよくわかんないから、鏡のところで観たら、貴公子みたいな王子様みたいな、

水野 美少年?

良輔 もう、美少年、色気があったかな?それであわてて、二幕になって顔汚して、日焼けした茶色なった真っ白の顔が、だからお客さん、なんで二幕になったら茶色になったかと思った人がいたかもしれない。

水野 それは、そうですね。

良輔 うん。

水野 混乱しますよ、こりゃ。

良輔 でも、初演だったからね。

更予 でも顔はそうでもね、その柄がね、オペラの役として本当にぴったしはまっている。そんときね良輔のパパゲーノだったら、誰にでもすすめたの。ほかのは、まあどうぞって、あんまりオペラ好きじゃないもんですから。

良輔 次に立川澄人君が出て、僕がやっている役どころを受け継いで回った。

(つづく)
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畑中良輔先生がご逝去されました [音楽]

「あなたが、劇場の天使なんでしょう。」
突然に電話で言われて慌てたのが今年の初めのこと。
オペラ「沈黙」でロビーでお目にかかったのが最後でした。


ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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原田禎夫 チェロ・リサイタル 東京・春・音楽祭-東京のオペラの森2012- 東京文化会館小ホール [音楽]

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原田禎夫といえば、東京クヮルテットのチェリストだった人。あまりソロで演奏しないと聞いていたので、千載一遇のチャンスと勇んで出かけたのに空席が目立つ寂しい入り。東京・春・音楽祭-東京のオペラの森2012-という上野周辺で行われている音楽祭の一環なのに、あまりPRしていないのか話題になっていないのが惜しい。

これまで味わったことのないほどの途方もない感動を味わっただけに聴衆の少なさは気の毒でもあり、悲しかった。客席には指揮者の小澤征爾やヴァイオリニストの徳永次男の姿もあっただけに、どれだけ注目に値する演奏会だったかは推して知るべしである。

小ホールの中央にすえられたスタンウエイのフルコンサートピアノ。その側面のロゴマークすれすれに椅子が置かれ、譜面台がひとつ。チェロのリサイタルって、あんなにピアノにくっついて演奏するのだったかと不思議に思うほどの配置。

演奏が始まると、ピアノ伴奏の加藤洋之と盛んにアイコンタクトをしていたので、音楽的には必要な距離感だたのだと納得。譜面を目で追いながらも時々、ピアニストに合図を送りながらの演奏だった。とかくチェリストというと自己陶酔型の演奏が多く、ヨダレを垂らすのではないかと心配になるほど恍惚の表情を浮かべる人が多いのだが、それとは対極にある演奏で、まず確固たる「音楽」というものがあって、作曲者と聴衆を結びつけることに腐心しているかのように、演奏には謹厳実直な父親のようなイメージがあった。もし、自分のチェロの先生だったら非常に厳しいレッスンを課されそうである。

それ故に、聴衆が享受した「音楽」はとてつもない堅牢なもので手応え十分なものだった。前半はドビュッシー、ブラームスで、様々な奏法と音楽的なアプローチが試みられていて興味深かった。原田の演奏からは「音楽」は自己陶酔などといった軽々しいものではなく、しっかり伝えるべきものを自分の中に持つということなのだろうと感じた。

その想いを強くしたのは後半のメンデルスゾーン:チェロ・ソナタ 第2番。そこには、浅はかな音楽解釈などが入り込む余地のない巨大な音楽世界が築かれていて、ただただ圧倒されるばかりだった。さらに止めを刺したのは、
「アンコールなんて慣れていないので」と言い訳?をしながら弾かれたラフマニノフのチェロ・ソナタの第三楽章。これが当日の白眉ともいうべき名演奏で、大いに満足を感じた。

何か大きな力に揺り動かされたような感じがあって、心の中に大きな空洞が空いたような不思議な体験をし、上野の坂道をふわふわとした足取りで歩いて、大きな幸福感に包まれた。どうしてあのような事が可能になるのか。チェロを弾くこと、音楽をすることは一体なんなのかと自問自答しながら家路についた。

■日時・会場
3.29 [木] 19:00開演(18:30開場)
東京文化会館 小ホール

■出演
チェロ:原田禎夫
ピアノ:加藤洋之

■曲目
ドビュッシー:チェロ・ソナタ ニ短調
ブラームス:チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 op.38
メンデルスゾーン:チェロ・ソナタ 第2番 ニ長調 op.58[

■曲目解説
ドビュッシー:チェロ・ソナタ ニ短調
仏デュラン社から出版された本曲の楽譜の扉には「さまざまな楽器のための6つのソナタ」の第1番と銘打たれている。つまり、この作品の後には、フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ、ヴァイオリンとピアノのためのソナタ……等が続くはずだったが、この構想は、ドビュッシーの死によって未完に終わった。ちなみに4曲目は「オーボエ、ホルン、クラヴサン」、5曲目は「トランペット、クラリネット、バスーン、ピアノ」、6曲目は「コントラバスを含む幾つかの楽器」という極めて風変わりな編成の作品が予定されていた。
1915年に書かれたこの作品は、ピアノによる主題提示に続きチェロの独奏から始まる第1楽章、フラジオレット奏法(弦の特定の位置に軽く触れて倍音を出す奏法)の使用が特徴的な「セレナード」の第2楽章、ロンド形式風の終楽章という3つの楽章から構成されている。初演は1917年3月24日、ジョゼフ・サロモンのチェロと作曲者自身のピアノで行われた。

ブラームス:チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 op.38
1865年の作品で、ロマン派を代表するチェロ・ソナタの傑作の一つに数えられている。作品の完成までに長い時間を費やすブラームスは、この作品にも3年近い歳月をかけた。また、成立に際しては、声楽の教師でチェロも堪能だった友人のヨーゼフ・ゲンスバッヘル(1829-1911)の助言が大きかったといわれている。
転調の激しいソナタ形式による第1楽章、ほの暗いメヌエット風の第2楽章、さまざまな表情の変化をともなう自由なフーガの形式の終楽章からなる、約26分の作品。完成直後の1865年夏、私的な場で初演されたとされる。公開の初演は1883年9月5日、ロベルト・ハウスマンのチェロと作曲者自身のピアノによって行われた。

メンデルスゾーン:チェロ・ソナタ 第2番 ニ長調 op.58
メンデルスゾーンにとって1843年は、ライプツィヒ音楽院を開校してその院長に就任するなど、非常に充実した年となった。同年に作曲されたこのソナタは、アマチュアながら優れた技術を持ったチェロ奏者の実弟パウルや、親友のチェロ奏者であるアルフレード・カルロ・ピアッティ(1802-1901)らの助言を受けながら作曲されたといわれている。
中高音域から徐々に低音域にまで広がる息の長いメロディで始まるソナタ形式の第1楽章、ロ短調によるやや軽妙な第2楽章、1分近い(!)ピアノの導入部に続いて、ようやくチェロによる情感のこもったメロディが始まる第3楽章、ロンド形式による終楽章という全4楽章構成。ロシアの伯爵ミハイル・ヴィーホルスキに献呈された。

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小澤征爾×村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について 話をする』を読んで [音楽]


小澤征爾さんと、音楽について話をする

小澤征爾さんと、音楽について話をする

  • 作者: 小澤 征爾
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/11/30
  • メディア: 単行本



11時から新橋演舞場で藤山直美と坂東薪車が共演した「年忘れ喜劇特別公演」の初日を観た。名作『銀のかんざし』での直美の名演技に舌を巻いた。なんて上手いんだろう。もうひとつの芝居は、商業演劇独特の盛り込みすぎで焦点がボケてしまったのと初日ゆえに上手く連携ができていない部分があって楽しめなかった。

地元のスポーツクラブが木曜日が定休日なので東京体育館のプールで泳いで帰ることに。途中で新国立劇場の『こうもり』が初日なのを思い出してチケットがまだ買えるようなので観にいくことにする。何しろオルロフスキー公をアグネス・バルツァが歌うハズだったからである。ところが原発を懸念して来日中止になったとのこと。しかも発表は11月16日にされていたのだとか。全然知らなかったのだけど、せっかく初台まで足を運んだので観る事に。初日からなのかエッティンガーの指揮はボロボロ。演出など色々工夫はあるのに面白さがなかなか伝わってこなくて困った。特に第2幕の肝心のチャルダッシュの辺りが沈滞気味で、ただでさえ弾まない舞台が一向に面白くなってくれない。

観客の年齢は高め、問題の多い舞台を素直に喜んでいる人が多かったですが、何事にも楽しみを見つけられる人って正直羨ましいと思った。初日ゆえなのか劇場には有名人が多数来場。何故わが愛する落語家の川柳川柳が新国立劇場に?と思ったら福田元首相でした。

プールで泳ぎ終わってから開演までの時間が少々あったので、オペラシティの2階にある本屋で新聞広告で見た
小澤征爾への村上春樹のロングインタビューをまとめた本を買い求めた。

小澤征爾さんと、
音楽について
話をする

と三行にわけて表記するのが正式名称のようです。初台の駅で読み出したら面白くて帰りの電車で読み続け、さきほど読み終えました。クラシック音楽に少しでも興味があり、小澤の指揮する音楽を聴いたことのある人、村上春樹の著作を読んだことのある人は必読の本だと思います。もう一頁、一頁をめくるのがこんなにスリリリングに感じた本は久しぶりでした。

「始めに  小澤征爾さんと過ごした午後のひととき」と題した文章から始まり、ベートヴェンのピアノ協奏曲第三番をめぐってのバースタインとカラヤンの聴き比べ、カーネギーホールでのブラームス、1960年代の回想、マーラーの音楽について、オペラのこと、そしてスイスでの教育活動のルポなどが続き、興味の尽きない話題が繰り広げられていきます。

二人の間の共通点は

仕事をすることにどこまでも純粋な喜びを感じているらしいこと。

今でも若い頃と同じハングリー精神を持ち続けていること。

頑固なこと。

なのだとか。そして二人の間の「心の響き」をまとめたのがこの本だということらしい。さて、どのような「心の響き」が書き連ねているのかは、是非ご自身でご体験ください。途中からたまらなくなって書かれている同じ曲のCDを発掘して聴きながら読みました。
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コジ・ファン・トゥッテ 新国立劇場 [音楽]

東京電力の嘘が次々に暴かれ、菅政権の対応の迷走ぶりは目を覆わんばかり。今月来日するメトロポリタン歌劇場は、直前の降板が相次ぎ出鼻をくじかれた格好になった。新国立劇場の新演出モーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』も降板が相次いだものの、悪条件のなか初日にこぎつけたことを喜び素直に感謝したい。だから今回は多少の音楽の綻びには目をつぶることにする。見るべきものはダミアーノ・ミキエレットの演出にあったからである。

指揮:パオロ・カリニャーニ →ミゲル・A.ゴメス=マルティネス
フィオルディリージ:アンナ・サムイル →マリア・ルイジア・ボルシ 
デスピーナ: エレナ・ツァラゴワ →タリア・オール
フェルランド:ディミトリー・コルチャック→グレゴリー・ウォーレン

今回の上演は、6月になってから『蝶々夫人』との交互上演で、ちょっとしたレパートリーシステムみたいなものである。毎日の舞台転換が必要になるだけに、『コジ・ファン・トゥッテ』は回り舞台の舞台面を使用した単一の舞台装置で、新国立劇場自慢の四面舞台を使用するので、毎日の舞台転換が容易に可能になったようである。もっとも、それでなくてもオペラ上演が6月に集中してしまい、観客動員の面では困難な部分があったようで、日曜の新演出初日というのに満席にはならなかった。高水準の興味深い舞台だけに残念だった。

オペラの舞台となるのは、何と現代のキャンプ場である。舞台はスーパーリアリズムの装置で、芝生と土に見える地面がステージ面から一段高くなっていて、日本風に言えば築山といった感じの小高い丘が真ん中にあり、大木が並んでいて、その回り舞台を回して場面を構成していく。歌舞伎でいう三方飾りなのだが、回り舞台全体を使うので演技スペースが狭いという感じはしない。まず最初の場面は、アルフォンソ・キャンプ場?の受付とカフェのある建物の場面。時計回りに舞台が回転すると建物の背面にあるテーブルのある窪地?というか背景は小高い丘になっているので、巧みに背後の舞台装置を隠している工夫が上手い。

さらに回転すると、フィオルディリージたちが宿泊しているキャンピングカーという場面。それが順番通りに回転していけば、ちゃんと場面が繋がっていくという計算し尽くされたもの。さらに第二の場面は、休憩時間以降は、地面の蓋が外され、なんと浅いながらも池が出現。登場人物たちが水しぶきを上げならが歌と演技を披露という面白さ。

この演出で最も優れていたのは、夏の午後遅くから、夕闇の迫る黄昏どき、さらに深夜へと続く、時間経過を見事に照明で表現していたことである。日本のジトッというやりきれない暑さではなく、爽やかな夜になれば肌寒さも感じるような西欧独特の空気感を伝えていたことである。

オペラを観ながら、かつてフィンランドのサボリンナ音楽祭が行われるオラビリンナ城近くの湖畔にあるサマーハウスを訪れたことを思い出していた。地元の人たちとバーベキューを楽しみ、サウナに入り、素っ裸でサウナ小屋から外に飛び出し、湖にジャンプして飛び込み泳ぎ回ったものだった。疲れると陸に上がり、サウナ小屋のポーチに座って夕暮れ中でビールを飲んだときの何ともいえない気持ち良さがよみがえってきた。あの時と同じ空気や時間の移ろいが見事に照明が表現していた。本火を使った焚き火さえも、あの時の心地よさを再現してくれるような気がしていた。

大胆な読み替え演出というわけではないが、アルフォンソは訳知りの老人といった風情ではなく、人間嫌いの世捨て人風な冴えない中年男である。フェランドとグリエルモは、世間知らずのおぼっちゃま風の大学生でグラビア雑誌にも登場するイケメンという設定。実際の歌手には辛い設定で肉体美を披露する場面もあるので、典型的なオペラ歌手体型では少々辛い。とにかく優等生タイプすぎる?衣裳だったので何故こんなに地味?という感じだったのだが、変身後はヘアスタイルから衣裳まで完全にバイク野郎というかなんというか…。あまりの変わり様に、これなら変身が気がつかない訳だし、男性として別の魅力も横溢していたように思う。鼻ピアスやタトゥーに髑髏マーク入りのレザースーツというワイルドな姿に、尖がったヘアスタイルなので、全く別の価値観を持った人間なのだということが一目でわかるというのに唸った。荒唐無稽な物語がリアリティをもったのである。

フィオルディリージやドラベッラもキャンプ場へやって来た若い女性という設定なので、服装もカジュアルだし露出も多い。ロココ調の衣裳に身を包んだ歌手が典雅?な姿のまま、赤裸々な思いを歌に託すのを聴くという複雑な楽しみ方。歌舞伎のお姫様が、切ない恋の想いに身悶えるのを観て、さらに想像を膨らませるといった楽しみは一切ない。そうした段階がないので、、歌の意味がストレートに伝わってくるものの、フィオルディリージが「岩のアリア」をキャンピングカーの屋根に上って歌うなど、視覚的にさらに歌の持つ背景を強化して演出家は上手いのだが、全てにおいてストレートな球を投げすぎのような気もした。

変化球はドン・アルフォンソとカフェのウエイトレスのデスピーナで、この二人も恋仲になっているという設定。現代化の課題としては、SEXあるいはSEXの香りをいかにふりまくかということで、実際に若い男女が同じテントに入ったりといった工夫はあるが、露骨な表現は避けたようである。それだけに説明がしずらく、視覚化も困難な恋愛感情を納得いく形で提示するのは難しかったと思う。

それ故に、本来なら無理矢理としか思えない和解などという結末はなく、恋人たちは別々の方向へ立ち去り、デスピーナさえもアルフォンソの元を去る。一人残されるのが訳知りのはずだったドン・アルフォンソいったほろ苦い結末を迎える。それはそうだよなあという納得な結末で、キャンプ場のコジにはふさわしい終わり方ではあったように思う。現代人には「永遠の愛」なんてないし、信じられないというのは自らのことをふりかえっても思い当たることである。せめて舞台上だけでもという気はしないでもないが、モーツァルトの音楽はそうした終り方をも受け入れる懐の広さがあったことを再認識した格好である。

舞台上に本物にも見える4WDが登場するかと思えば、軍艦のプラモデルをコーラスが順繰りに持って大海原を表現する舞台でしか可能にならない表現方法とか、あらゆるアイディアが詰め込まれた舞台で、小ネタが満載。恋人たちの動きにもアレアレといった部分もあって、なかなか目の離せない舞台だった。これは是非とも劇場で実際に体験していただくほかはないようである。


Così fan tutte, ossia La scuola degli amanti
2011年5月29日(日)  14:00開演   17時35分終演予定

【指揮】ミゲル・A.ゴメス=マルティネス

【演出】ダミアーノ・ミキエレット

【美術・衣裳】パオロ・ファンティン

【照明】アレッサンドロ・カーレッティ

キャスト
【フィオルディリージ】 マリア・ルイージャ・ボルシ

【ドラベッラ】 ダニエラ・ピーニ

【フェルランド】 グレゴリー・ウォーレン

【グリエルモ】 アドリアン・エレート

【ドン・アルフォンソ】 ローマン・トレーケル

【デスピーナ】 タリア・オール


【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
【合唱】新国立劇場合唱団
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ブル先生の日々是好日~荻窪ラプソディー~13 を読んで [音楽]


音楽の友 2010年 05月号 [雑誌]

音楽の友 2010年 05月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 音楽之友社
  • 発売日: 2010/04/17
  • メディア: 雑誌


 畑中良輔先生の「音楽の友」の連載である「ブル先生の日々是好日~荻窪ラプソディー~」の5月号を読む。前半は入院の模様、後半は「米寿と卒寿のコンサート」の出来事だった。当日は最前列で詳細に見たことなので感慨深いものがあった。多少、順番が事実と違う部分もあるのだが、以下のような事情では仕方がないことだったろう。

入院中にステロイドを処方され、筋力が低下し歩行が困難になっていた先生が、倒れたときの模様を以下のように書かれている。

 「富士山」が無事に終了。網川立彦が釈超空の詩による歌曲を歌い終えたあと、私は次の大川隆子が歌う和泉式部の和歌の解説に舞台へ出た。解説を終えて下手へと向きを変えた拍子に、私の両足が身体を支えきれなくなってバランスを崩し、マイクを握ったままフラフラと尻餅をついて、ゴロンと後ろへ転倒。「ゴツンッ!」という音がホールへ響き渡った。 驚いて駆け寄ってスタッフに抱えられて席に戻ったが、瞬間、脳震盪を起こして失神していたらしい。気がついたものの、自分が今どこにいるのか、何をしているのかサッパリ分からない。「今何やっているの?」と隣席の息子からプログラムを貰って見ると、自分の名前が書いてある。 「えっ?誰が歌うの?僕が歌うの?これが今日のプログラム?」と、まだ正気ではない。蒼白になった息子が「歌うのは止めた方がいい」と盛んに止めに入る。暫く考え込んだ。 「歌えるところまで歌う。大丈夫だから」と、立ち上がり、徐々に正気が戻って来る。 「ビロードのような声にならなくても、木綿の声で歌いま-す」と我ながら大きな声で場内へ叫んだようだった。(中略) 数日後、NHKのラジオ深夜便に、更予と二人で「米寿・卒寿コンサート」のインタビューを受け、全国に二人の声は流れた。

その1ヶ月後に奥様の更予さんは亡くなられた。転倒事故にも負けずに、畑中先生が命がけで歌曲を歌ったのも理由がないことではなかったのではなかったろうか・・・。音楽の友に掲載されている米島定宏氏のイラストが、演奏家当日の更予さんの表情・衣裳そのままで、あまりにも悲しい。
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畑中更予さんの死 [音楽]

 畑中更予さん89歳(はたなか・こうよ=ソプラノ歌手、畑中良輔・東京芸大名誉教授の妻)20日、多臓器不全のため死去。東京音楽学校(現東京芸大)卒。日本歌曲の芸術的な歌唱法を高め、多くの弟子を育てた。2月に、米寿の良輔さんと「米寿&卒寿記念コンサート」を開き、話題を呼んだばかりだった。

 新聞記事を目にして信じられない気持だった。先月の「米寿&卒寿記念コンサート」に、とても元気で出演されていたのに、本当に信じられなくて気持の整理がつかないままである。直接お目に掛かったことはないのだけれど、気持の大きい、日本人離れしたスケールを持った人だと思った。

奥様はコンサートで以下のようなことをされました。

朗読とおしゃべり・・・・・・とプログラムにはあったが、30歳の時の初リサイタル用にと畑中先生が詩を書かれ、中田喜直が作曲した「四季の歌」を4人の歌手がそれぞれの歌を歌い継ぐというサプライズを畑中先生に秘密で用意されていた。

 まずは更予さんのおしゃべり。小原孝がピアノでBGM風に演奏するという贅沢なもの。おしゃべりの内容は、戦後直ぐに二人が結婚したこと。進駐軍のキャンプでの仕事で食いつないで苦労したこと。子供の頃から、歌うことが好きで好きで仕方なく、芸大に入ったのに、病気で歌を断念しなければならないこと。しかもいくつも病気に何度も罹って、本当は死んでいた身体だったこと。それなのに90歳まで生きられたこと。とってもチャーミングなお話しだった。先生は投げキッスを送り。「愛しているよ」と叫んだ?お二人の間にお子様が生まれなかったのも、更予さんが病弱だったからなのかと知って、胸に迫るものがあった。畑中先生は、もし病気でなければ、ヨーロッパで世界的なコロチューラソプラノとして活躍できたろうにと奥様をいたわっていたのは先生らしい優しさだと感動させられた。

四季の歌 畑中良輔 詩/中田喜直 作曲

春の歌 酒井美津子
夏の歌 瀬山詠子
秋の歌 玉川美榮
冬の歌 大島洋子

ピアノ伴奏 小原 孝

お二人の純粋な愛の姿と畑中良輔先生のお気持ちを思うと涙が止まりません。

ご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌。

追記
発売になったばかりの「音楽の友4月号」に「畑中良輔・更予の米寿&卒寿記念コンサート」の記事が載っていて、更予さんのお元気な姿の写真がある。記事には明らかな間違いがあって驚く。
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