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ラインの黄金 新国立劇場 2015年10月4日 [オペラ]







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新国立劇場の飯守芸術監督が満を持して挑むワーグナーの最高傑作『ニーベルングの指環』の序夜『ラインの黄金』の上演が始まっている。ただ就任時のハリー・クプファー新演出『パルジファル』に比べ、2000年に亡くなった演出家ゲッツ・フリードリッヒが1990年代後半にフィンランド国立歌劇場のために演出した『ニーベルングの指環』をレンタル?しての上演だという。

近年の四面舞台を備えた日本のオペラを上演する劇場では標準装備?の迫り機構を駆使しての舞台装置。前段、中段、後段に別れた大きな傾斜舞台を上下させること照明の変化によって場面を構成していくシンプルな舞台。音楽に集中できるという利点があり、物語も鮮明に浮かび上がるのだが、2015年の時点で上演されるべき舞台だったかどうかは大いに疑問な代物。

あのキース・ウォナー演出『東京リング』のいささか刺激的だった演出に比べると毒にも薬にもならない単調な舞台で大いに退屈した。それでも音楽が良ければ救いがあるのだが、ハープが6台もオーケストラピットに並んだのが話題になるほど大編成であり、同時期に上演された二期会の『ダナエの愛』も同じ東フィルが演奏しているとあっては、高水準な演奏を期待しても無理だったようである。指揮者の意図がどこまで再現されたかも疑問なゆるい演奏で集中力を切らさないで音楽に向き合うのは大変だった。

飯守泰次郎芸術監督が、フィンランドの使い古された時代遅れの演出を何故受け入れたのだろうか?全く新しい東京発の『ニーベルングの指環』を創造するべきではなかったろうか。もし経済的ことが優先され、芸術面に妥協したならば、何ら日本のオペラに益にならない。

歌手ではローゲのステファン・グールドが従来のこの役のイメージを打ち破る好演。アルベリヒのトーマス・ガゼリやミーメのアンドレアス・コンラッドがクセのある役を面白く演じてみせた。ヴォータンのユッカ・ラジライネンは声に迫力が乏しくて残念。エルダのクリスタ・マイヤーが存在感をみせたが、総じて他の役には不満が残った。

【楽劇「ニーベルングの指環」序夜『ラインの黄金』】
全1幕 
10月4日(日) 14時開演 16時45分終演


指揮:飯守泰次郎
演出:ゲッツ・フリードリヒ

出演:
ヴォータン:ユッカ・ラジライネン
ドンナー:黒田博
フロー:片寄純也
ローゲ:ステファン・グールド
ファーゾルト:妻屋秀和
ファフナー:クリスティアン・ヒュープナー
アルベリヒ:トーマス・ガゼリ
ミーメ:アンドレアス・コンラッド
フリッカ:シモーネ・シュレーダー
フライア:安藤赴美子
エルダ:クリスタ・マイヤー
ヴォークリンデ:増田のり子
ヴェルグンデ:池田香織
フロスヒルデ:清水華澄

管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団


英国ロイヤル・オペラ日本公演「ドン・ジョヴァンニ」2015年9月17日NHKホール [オペラ]













5年ぶりの英国ロイヤル・オペラの日本公演である。来日公演にそれほど魅力を感じなくなったけれども、やはり歌劇場の存在としては大きいのでとりあえずチケットを買ってみたという感じである。この歌劇場に接したのは、1986年の来日公演が最初で9月から10月にかけて4演目の公演があった。

マーク・エルムラー指揮
マイケル・ジュリオット演出
『カルメン』
アグネス・バルツァ、ホセ・カレラス、ジノ・キリコ、ジョアンナ・ボロウスカ

ジャック・デラコット指揮
アンドレイ・シェルパン演出
『トゥーランドット』
オリヴィア・スタップ 、フランコ・ボニソルリ 、シンシア・ヘイマン

ジャック・デラコット指揮
イライジャ・モシンスキー演出
『サムソンとダリラ』
ジョン・ヴィッカーズ、ブルーナ・バグリオーニ、ジョナサン・サマーズ

ガブリエル・フェッロ指揮
ジョン・コプリー演出
『コシ・ファン・トゥッテ』
キリ・テ・カナワ、アンネ・ゾフィー・フォン・オッター 、リリアン・ワトソン 、ジョン・エイラー 、ウィリアム・シメル 、ワルター・ベリー

当時は4演目が当たり前で大阪などでも公演があった。アグネス・バルツァとホセ・カレラスの『カルメン』、キリ・テ・カナワの『コシ・ファン・トゥッテ』などスター歌手が出演する演目が人気を集めたように思う。確か『サムソンとダリラ』では エレナ・オブラスツォワがキャンセル。1988年のメトロポリタンの『イル・トロヴァトーレ』も降板してしまった記憶がある。それにしても約30年前で、その頃は新国立劇場はなく、二期会や藤原歌劇団のオペラ公演だけが頼りという状態だったので、チケットもよく売れたのだろう。

今回もNHKホールと東京文化会館に分散しての二演目上演。それなりにスター歌手が揃ったので、よく知られた演目を選んだのだろうが、さすがにS席55,000円は今のご時勢では高額すぎたのか売れ行きは芳しくなかったようである。もっともWEBを通じて様々な手段をつかっての販促が功を奏したのか、ほぼ客席は馬っていたが、30年前の興奮といったものはなく、ごく日常の風景としてオペラ公演が受け入れられているようだった。

開幕前、幕前に総支配人と通訳の女性が登場。足元が暗かったのか大きな音を立てて女性が顔面から転倒。「誰かが降板?」「あの女性は大丈夫か」といったどよめきが起った。内容はドン・オッターヴィオの ローランド・ヴィラゾンがノドの調子が悪いけれど、観客のために歌います的なアナウンス。事実、調子がよくなさそうで、高音には張りや艶がなく、とりあえず似たような音を出しましたといった感じで何とか最後まで歌いとおし大きな拍手を受けていた。第二幕では調子を上げていたようなので最終日も歌ってくれるだろうと思う。歌が今ひとつでも、気持の入った歌唱と存在感で納得の役作りだった。

さて今回の目玉は、流行のプロジェクション・マッピングを使用した演出だろうか。すでに日本でも使われている手法なので目新しさはないが、舞台装置に映像を投影するのが基本なので、どのような工夫をもって上演するのか興味深かった。

基本の舞台となるのは通常の舞台の上に置かれた回り舞台を備えた床。その上に明るい灰色っぽい二階建ての立方体の建物。それを回転させる回り舞台。さらに上手と下手からも壁がスライドしてくるという大掛りな仕掛け。二階建ての立方体の中には、階段や小部屋、隠し壁?などがあるものの家具類は一切無し。ちょっとした「オトナのためのリカちゃんハウス」といった趣。しかし、足のある幽霊が徘徊しているので不気味な効果のある「ブラックなリカちゃんハウス」かも。二階の回廊には壁や固定の手摺がなく、映像が映し出されやすくなっていて、歌手達は腰の高さに張られたロープを命綱にして演技をするというものだった。

開幕と同時に次々と動きを伴った文字が現れる。どうもドン・ジョヴァンニが不適切な関係をもった女性の名前らしい。その後も3Dの奥行をもった画像が、回り舞台の回転にあわせて動いていくなど様々な動きをみせて技術的には大変面白いのだが、舞台面があまり変化しないのと説明的な部分もあって、観客の想像力を奪った面もあったと思う。

一番の問題は最後の「地獄落ち」で派手なマッピングの演出が施されるのかと思えば、中央の建物は動かすことが出来ないので、ドン。ジョヴァニが舞台中央に小さくうずくまるというもの。ホームレスや難民の姿をダブらせる狙いがあったのかもしれないが地味。それに伴い最後の六重唱は上手と下手に歌手が集まって歌うという変則版で、「ドン・ジョヴァンニ」を聴いたという満足感を殺ぐもので感心しない。

回り舞台を設置するというスペース上の問題があるにしろ、NHKホールの間口の広い舞台でモーツァルトを上演することに無理があったのではないだろうか。指揮者のパッパーノは指揮とフォルテピアノを弾くという大活躍なのだが、緻密で繊細な彼の奏でる音楽も巨大な劇場空間に拡散ぎみ。30年前ならいざ知らず、新国立劇場のようなモーツァルト・オペラに適した空間で聴く事を知ってしまった観客には辛い結果となった。オリジナルの舞台装置を持ち込んだのだろうが、20MもあるNHKホールの舞台では左右の空間が埋まりきらないので音楽同様に観客の意識が拡散してしまっていたと思う。モーツァルトを聴いたという喜びのない舞台上演だった。オーケストラピットにはモーツァルトのオペラの編成なので楽員は半分くらい?上手の空いたスペースには合唱団がはいっていた。オーケストラも苦労したことだろうと同情した。

歌手陣は、アナウンスのあったローランド・ヴィラゾンはともかく、いずれも好調だったのは何よりだった。現代は歌手に要求されるのは、声のほかに、ヴィジュアル面も重視される傾向がある。ルックスや背の高さなどもうちょっとという歌手がいないでもなかったが、中ではツェルリーナを歌った ユリア・レージネヴァが小柄ながら、恵まれた声と容姿で楽しませてくれた。総じてスマートに演じられすぎるなあと思っていたらオールヌードの女性が登場したりと驚きもあるにはあったが、一歩間違えば退屈の極みになりそうな危ない舞台だった。


英国ロイヤル・オペラ日本公演「ドン・ジョヴァンニ」
キャスト表 2015年9月17日 18:30開演 NHKホール

W.A.モーツァルト作曲
「ドン・ジョヴァンニ」
全2幕 

台本: ロレンツォ・ダ・ポンテ
指揮 アントニオ・パッパーノ
演出 カスパー・ホルテン
演出助手 エイミー・レーン

装置 エス・デヴリン
ビデオ・デザイン ルーク・ホールズ
衣裳 アニャ・ヴァン・クラフ
照明 ブルーノ・ポエト
振付 シーニュ・ファブリチウス
殺陣 ケイト・ウォーターズ
合唱監督 レナート・バルサドンナ
コンサートマスター ヴァスコ・ヴァシレフ

レポレロ アレックス・エスポージト
ドンナ・アンナ アルビナ・シャギムラトヴァ
ドン・ジョヴァンニ イルデブランド・ダルカンジェロ
騎士長(ドンナ・アンナの父) ライモンド・アチェト
ドン・オッターヴィオ(ドンナ・アンナの婚約者) ローランド・ヴィラゾン
ドンナ・エルヴィーラ ジョイス・ディドナート
ツェルリーナ ユリア・レージネヴァ
マゼット(ツェルリーナの夫) マシュー・ローズ
ドンナ・エルヴィーラの侍女 チャーリー・ブラックウッド

フォルテピアノ アントニオ・パッパーノ
ロイヤル・オペラ合唱団 / ロイヤル・オペラハウス管弦楽団

◆上演時間

第1幕 
18:30 - 20:10

休憩 30分

第2幕
20:40 -22:05

沈黙  新国立劇場  [オペラ]

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新国立劇場のオペラ『沈黙』の前回の上演は中劇場だった。オーケストラピットに楽器が納まりきれなくて別室(B2階オーケストラリハーサル室)でオルガンや打楽器群が同時演奏されたものを中継するという奇妙な演奏形態だったのが話題になったりした。今回は大劇場へ会場を移したおかげで全部の楽器が納まった?ようである。

さて中劇場での初演時は天使にとって特別な思い出がある。2012年5月24日にお亡くなりになった畑中良輔先生と最後にお目にかかったのがオペラ『沈黙』の会場だったのである。たぶん先生にとっても最後のオペラではなかったろうか。1階ロビーの奥のバーカウンターの裏のスペースで、車椅子に腰掛けた先生と二人きりになる瞬間があった。その時に交わした先生との会話の内容は明かせないが、一生の宝となる言葉をいただいた。終演後に再びお目かかった時、「ありがとうございました」という言葉が自然に出た。不思議だった。

オペラを観終わってから、自宅に戻り、チェロの弦を全部新しいものに替えに行った。そして映画を観に行ったのだが自宅にFAXが届いていた。天使が所属する教会員の最長老だったFさんがお亡くなりになった知らせだった。礼拝では常に天使の後ろにいて励ましつづけてくれた人である。老人介護施設に入所する日に、天使に温かい言葉をかけてくれた優しい人だった。施設に面会に行くと、認知症が進んだのか天使の顔を見ても誰なのか思い出せないようだった。それならといつも後ろ姿をみていたのだからと後ろを向くと天使のことを思い出してくれた。とんだ『一本刀土俵入り』だが、天使の受洗を誰よりも喜んでくれた。聖書を朗読し、讃美歌を歌い、一緒に祈った。二度目の訪問ではよく眠っていたので会わずに帰った。そして今度の日曜日に訪ねようとしていたところである。

「イエスは言われた。
『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」」

(ヨハネ 11:25)

今回のオペラ『沈黙』は本当に素晴しく感動的な上演だった。もし不満を感じる人がいたとしたら、幕切れのもっとも大切な場面に音楽ばかりで歌唱がなかったことだろうか。主・イエスがロドリゴに向けて語りかけた原作の言葉が演出と音楽だけで表現していて感動的だったのだが、クリスチャンでなかったり、原作を読んでいないと理解できない場面だったかもしれない。

踏むがいい。
お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。
私はお前たちに踏まれるため、
この世に生まれ、
お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

激しかった音楽が優しいものに変わり、踏み絵を踏んだ小餅谷哲男のロドリゴが法悦の表情を浮かべるうちに静かに幕となる。光の十字架が現れ実に感動的な名場面となる。そこへ至るまでも緊張感が途絶えることなく続いて驚くべき劇的な音楽空間が出現した。それは指揮者の下野 竜也のひたむきな音楽作りとそれに応えた東京フィルハーモニー交響楽団の名演に支えられたことも大きいだろう。ほぼ全編歌いっぱなしのロドリゴの小餅谷 哲男とキチジローの星野 淳の熱演も忘れ難い。巨大な十字架と回り舞台だけのシンプルな舞台装置や繊細な照明が多場面を上手く構成し音楽を助けていた。一筋縄ではいかない合唱も巧みに歌った新国立劇場合唱団も忘れ難い。日本人だけでもここまで完成度の高い舞台を創れるのかと感心した。終演後は、あまりに感動してしまってしばらく拍手ができなかった。天使にしては珍しいことであるが。

スタッフ

【指揮】下野 竜也
【演出】宮田 慶子
【美術】池田 ともゆき
【衣裳】半田 悦子
【照明】川口 雅弘

キャスト
【ロドリゴ】小餅谷 哲男
【フェレイラ】黒田 博
【ヴァニャリーノ】成田 博之
【キチジロー】星野 淳
【モキチ】吉田 浩之
【オハル】高橋 薫子
【おまつ】与田 朝子
【少年】山下 牧子
【じさま】大久保 眞(全日程)
【老人】大久保 光哉(全日程)
【チョウキチ】加茂下 稔(全日程)
【井上筑後守】島村 武男
【通辞】吉川 健一
【役人・番人】峰 茂樹(全日程)

【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

椿姫 新国立劇場 2015年5月23日 [オペラ]



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5月の新国立劇場・新制作『椿姫』をチケットぴあの貸切公演で観た。すべての座席が会員向けではなく一般向けに売られたということで、いつもとは違った客席であったようで反応がストレートだと感じた。

さてヴァンサン・ブサールによる新演出「椿姫」だが、装飾を極力取り除いたシンプルな装置でありながら、下手の壁と床を鏡面にすることにより、上手の壁面が写し出されることで空間が広がり、少ない人数で最大の効果をあげていたように思う。

舞台下手の壁と床が鏡面。下手の壁とそこに写し出される上手の壁は、まるで手のひらを合わせたような祈りの形?上手の模様や壁自体の位置がが変化することで面白い場面が次々に現れた。オペラは第2幕第1幕までを前半とし、後半は第2幕第2場以降としていた。

面白かったのは第3幕で、丸い縁取りにパリオペラ座のような真紅の緞帳?がヴィオレッタの死とともに下りてきて、ヴィオレッタと俗世界を完全に隔ててしまうという演出。その前から、ヴィオレッタとアルフレードたちの間には紗幕があって、触れるけれどその境界を越えることはできないという見事なアイディア。

幕切れは高級娼婦をしながらも、神様を信じ受け入れているヴィオレッタが亡くなって、永遠の命を手に入れ蘇ったところを見事に可視化していて感動的だった。もっともクリスチャンでない観客には、いまひとつ理解できないものだったかもしれない。

演出が面白いので、音楽は正直言ってあまり記憶に残らないものだった。酷くはないけれど、傑出した音楽でもないという凡庸な演奏だったということか。


作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ
台本:フランチェスコ・ピアーヴェ
指揮:イヴ・アベル 
演出:ヴァンサン・ブサール 

出演:
ベルナルダ・ボブロ/ヴィオレッタ
アントニオ・ポーリ/アルフレード
アルフレード・ダザ/フローラ
小原啓楼/ガストン子爵
須藤慎吾/須藤慎吾
北川辰彦/ドビニー侯爵
鹿野由之/医師クランヴィル
与田朝子/アンニーナ

合唱:新国立劇場合唱団 
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団



ばらの騎士 新国立劇場 2015年5月24日初日 [オペラ]

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2007年は「ばらの騎士」の当たり年で、11月にはファビオ・ルイージが指揮するドレスデン国立歌劇場来日公演、9月にはフランツ・ウェルザー=メストが指揮するチューリッヒ歌劇場来日公演、6月に初演された今回のプロダクションはに感激した記憶があって期待して初日の公演にでかけたのだが、結果は無残な上演に終わった。直前になってからの歌手の降板や、さすがに初演時のような演出家の厳しい目が無いからといって緩みっぱなしの芝居、よせばいいのにレパートリー公演を気取ったのか『椿姫』との交互上演など、足を引っ張る要素が多すぎたのか、まさかの不発に終わった。口の悪い友人は「新国の初日は衣裳付きのゲネプロ」などと憎まれ口をきくが、あながち間違いでもないような低水準。細かなミスの連続で、なんとか最後までたどり着いたという感じの酷さだった。

第1幕で演出の最大の見せ場は幕切れに元帥夫人がタバコをふかしながら、雨がつたう窓を物憂げに見つめるという独を浮き彫りにさせる芝居の部分だが、段取りに終わってしまって何も伝わってこなくて不発。さらに肝心な音楽も煮え切らないもので大いに退屈を感じた。特にオーケストラを完全にコントロールできていない指揮者のボンクラぶりには呆れた。

第2幕では男声陣が頑張っていたのだが、ここでも指揮者の腰の引けたような音楽のせいで華麗なる音の饗宴といったきらびやかなイメージがなくて、とっても地味。急な代役で気の毒なのだがゾフィー役のアンケ・ブリーゲルは未熟さばかりが目立った。

第3幕は最大の聴かせどころの三重唱で、各人の想いがまったく歌からは伝わってこなくて、どんなプロダクションでも涙ぐんでしまう天使の目からは全く涙が流れなかった。観客ほどには指揮者には思い入れのない舞台なのだろうけれど、もっともっと舞台に共感して音楽を作ってくれなければ困る。

とかく新演出までのサイクルが短い新国立劇場だが、こうした形骸化した演出でしか上演レベルを担保できないならば潔く新演出にしてしまったほうがいいのかもしれない。今更だけれど1994年10月20日東京文化会館、クライバーが最後のオペラを指揮したことになるウィーン国立歌劇場「ばらの騎士」の最終公演を聴いた2300人の観客の一人であったことを幸せに思う。あれを基準にしたら今日の出演者が気の毒だが、同じ演目でこうも違うものかという駄目なほうの見本のような公演だった。官能、陶酔、諦念といったものが一切表現できていなかったからである。


作曲:リヒャルト・シュトラウス 
台本:フーゴー・フォン・ホフマンスタール
指揮:シュテファン・ショルテス
演出:ジョナサン・ミラー
美術・衣裳/イザベラ・バイウォーター
照明/磯野睦
再演演出/三浦安浩
合唱指揮/三澤洋史


出演:アンネ・シュヴァーネヴィルムス/元帥夫人
ユルゲン・リン/オックス男爵
ステファニー・アタナソフ/オクタヴィアン
クレメンス・ウンターライナー/ファーニナル
アンケ・ブリーゲル/ゾフィー
田中三佐代/マリアンネ
高橋淳/ヴァルツァッキ
加納悦子/アンニーナ
妻屋秀和/警部
大野光彦/元帥夫人の執事
村上公太/ファーニナル家の執事
晴雅彦/公証人
加茂下稔/料理屋の主人
水口聡/テノール歌手
佐藤路子/帽子屋
土崎譲/動物商

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団


※出演者変更のお知らせ:オクタヴィアン役で出演を予定していたステファニー・ハウツィールは、本人と所属するオペラハウスの都合により出演できなくなりました。代わってステファニー・アタナソフが出演いたします。
※2015年5月24日(日)初日に、ゾフィー役で出演を予定していたダニエラ・ファリーは、本人の都合により出演できなくなりました。代わりまして、アンケ・ブリーゲルが出演いたします。

歌劇『トゥーランドット』(演奏会形式・イタリア語上演・字幕付)東京フィルハーモニー交響楽団第864回オーチャード定期演奏会 [オペラ]

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2月の二期会の『リゴレット』を指揮したアンドレア・バッティストーニが登場したオーチャード定期の演奏会形式の『トゥーランドット』にでかけてみた。違和感は二つ。まず、オーケストラのスケジュール優先だとしても二日続けてオペラを演奏会形式だとしても上演してよいものかどうか。国際的に活躍する主役級の歌手であれば、そのような強行スケジュールをこなせて当たり前?それとも日本だから適当に歌う?どちらにしても普通なら、これだけ重量級の歌を絶対に二日続けないはずだし、歌手もお金になるからといって安易に受けては駄目だと思うのだが。

そしてプッチーニのオペラなので、途中で音楽を停止せずに指揮するべきだと思うのだが、リューの「お聞きください、王子さま」はともかく、通常の舞台上演形式ではどんな大歌手が歌おうと絶対に止まらないはずの第3幕の「誰も寝てはならぬ」の後で音楽を止め、観客の盛大な拍手を受けさせていたこと。さらに言えば、第1幕と第2幕を続けて上演も、幕間狂言あるにせよカラフを歌った歌手には負担が大きかったかもしれない。

5月18日のサントリーホールの定期は完売だそうだが、17日のオーチャードホールは演奏会形式には適した開場だったと思う。オーケストラピットが舞台面まで上げられ、歌手のアクティングエリアとしたこと。オーケストラの後方に児童合唱、さらに合唱団が並び、舞台奥に銅鑼が置かれ照明が当てられているという印象的な舞台の設え。音響反射板には音楽に合わせて赤や青の照明が当てられ、上部には龍が浮かび上がったり、フラッシュで観客を驚かせたり、第3幕では星までも光るという具合。

第1幕の冒頭では2階下手のバルコニー席から官吏が歌い、同じ場所に首切り役人が現れて小芝居を披露。2階上手バルコニーにはトゥーランドットが現れたり、第2幕以降はアルトゥム皇帝が登場するなど劇場を立体的に使用。さらには第2幕のピン、パン、ポンの登場を1階下手よりの通路を使い、第3幕では死んだリューが舞台を去っていくのに使われたりと、サントリーホールではどのように変えるのか興味深い演出がなされていた。第1幕と第2幕の最後は照明が全部落とされて真っ暗闇になるという方法が取られたが、第3幕だけは客電も点灯して場内が明るくなった後に音楽が止むと同時に真っ暗という凝ったもので効果的だった。

さて通常の舞台上演方式とは違い演奏会形式なので、音楽がストレートに客席に伝わってくる印象。燕尾服やドレスを身にまとった歌手のわずかな動きだけで舞台を想像できるのも面白いし、字幕が大いに助けてくれる。それだけに普段は気にしないようなちょっとしたミスも露になってしまうわけで、小さなモニターが舞台最前に用意はされているものの、指揮者と歌手が合わない部分もあってはらはらさせられた。第1幕では緊張感のある音楽を聴かせてくれていたのに、第2幕は題名役のサポート役に終始してしまったようで緩んだ音楽しか聴こえてこなかったのは残念だった。それを補って余りある第3幕の充実ではあったのだけれど。

歌手ではリューの浜田理恵が突き抜けてよかったと思う。カラフのカルロ・ヴェントレは高音も伸び美声なのだけれど伝わってくるものが少なかったような。題名役のティツィアーナ・カルーソーは、明日のことも考えてなのか声量全開というほどでもなく無難な出来としか言いようがない。ヒステリックに叫びだすような知性に欠ける歌唱でなかったのは何より。新国立合唱団と暗譜で立派に歌った東京少年少女合唱隊はよく訓練されていたと思う。

終わってみればブラボーの嵐に一部の観客とはいえスタンディングオベーション。観客を惑わすような演出がなく、ひたすら音楽に集中できたので賛辞は贈るけれど、お隣の「ブラボー」と叫び続ける聴衆が大興奮するほどでもなかったと思う。


2015年5月17日(日)15:00 Bunkamuraオーチャードホール

第864回オーチャード定期演奏会

指揮:アンドレア・バッティストーニ

トゥーランドット(ソプラノ):ティツィアーナ・カルーソー
カラフ(テノール):カルロ・ヴェントレ
リュー(ソプラノ):浜田 理恵
ティムール(バス):斉木 健詞
アルトゥム皇帝(テノール):伊達 英二
ピン(バリトン):萩原 潤
パン(テノール):大川 信之
ポン(テノール):児玉 和弘
官使(バリトン):久保 和範

合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:東京少年少女合唱隊 ほか

第1幕(約35分)
第2幕(約45分)

休憩 20分

第3幕(約40分)

METライブビューイング 『イオランタ』 『青ひげ公の城』 [オペラ]

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平日の朝10時開映でネトレプコ出演とはいえ、あまり馴染みのないチャイコフスキーの一幕物のオペラ『イオランタ』とバルトークの『青ひげ公の城』だったが、中通路から後ろはほぼ満席の盛況だった。両作品を通して素晴しかったのがゲルギエフの指揮だろうか。毛色の違う作品を一夜で上演するというもの挑戦的だが、保守的?といわれるMETの観客、特にネトレプコ目当ての観客に『青ひげ公の城』を観せてしまうという試み?も面白いと思った。しかも収録日はバレンタインデー!インタビューでも触れられていたが、「愛の日」には強烈すぎる組み合わせだったかもしれない。

オペラの始まる前、ディドナードの前説のバックでイオランタ役のネトレプコがおどけて踊っていたのに爆笑させられた。大事な舞台の前に、あれだけリラックスした感じでいられるとはネトレプコはかなりの大物である。一幕物とはいえ聴かせどころ満載のオペラで、ネトレプコも会心の出来だったと思われ、大いに満足させてくれた。相手役のベチャワ、ロベルトのアレクセイ・マルコフ、レネ王のイリヤ・バーニク、医者のイルヒン・アズィゾフも好演していた。

演出は中央にイオランタの閉じ込められている家を置き、場面によって回転させる演出。周囲は幻想的な劇空間が作られているようだが、歌手のアップを多用する映像のため、全体像をなかなかとらえられずイライラとする。映像を多用して面白そうなのだが、やはり現場の劇場空間に身を置かないと楽しめない演出のようだった。

それは『青ひげ公の城』も同じで、劇場にいれば自分の意思で視点を選ぶことができるが、これだけ歌手の表情に焦点が与えられていると、細部まで楽しめないので欲求不満が残る。音楽は悪くないのに、演出を十分が伝えられていないことに不満を持った。

青ひげ公のミハイル・ペトレンコとユディットのナディア・ミカエルの二人だけの舞台だったが、最後まで緊張感を持って観る事ができたが、必ずしも音楽が耳障りのよいものではないので、少々退屈に思えた部分がなくもなかった。ゲルギエフの指揮をもってしても、聴きとおすのが辛かったかも。



●チャイコフスキー《イオランタ》
イオランタ:アンナ・ネトレプコ(ソプラノ)
ヴォデモン:ピョートル・ベチャワ(テノール)
ロベルト:アレクセイ・マルコフ(バリトン)
レネ王:イリヤ・バーニク(バス)
医師エブン=ハキヤ:イルヒン・アズィゾフ(バリトン)

●バルトーク《青ひげ公の城》
青ひげ公:ミハイル・ペトレンコ(バス)
ユディット:ナディア・ミカエル(ソプラノ)


『イオランタ』
作曲:ピョートル・チャイコフスキー
台本:モデスト・チャイコフスキー
原作:ヘンリク・ヘルツの戯曲『ルネ王の娘』
初演:1892年12月18日、サンクトペテルブルグ、マリインスキー劇場

イオランタは目が見えない。人里離れた場所で人形のように扱われながら暮らしている。父親のレネ王はずっと以前に娘を世間から隠し、マルタとベルトランという素朴な夫婦に世話を任せてきた。父王の最大の関心事は、娘に自分が盲目であることに気づかせないこと、そして娘の許嫁であるロベルトにその事実を知られないようにすることだった。イオランタは、目は涙を流すためだけにあると信じている。しかし漠然とした胸騒ぎが彼女を捉えていた。

アルメリクがイオランタの住まいにやって来て、レネ王とムーア人の名医の来訪を告げる。医者の診断は明快だった:治療を望むなら、まず本人に盲目であることを認識させなければならないと言う。だが王はそれを拒む。

ロベルトとヴォーデモンがイオランタの家に現れる。二人は、この家の秘密めいた雰囲気に圧倒され、身の危険を感じる。そしてイオランタの正体を知らずに彼女に出会うが、ロベルトは彼女が自分の許嫁であることに気づかない。実は、彼には好きな女性がいて、婚約を喜ばしく思っていないのだ。ロベルトはこの不思議な場所に不安を感じるが、ヴォーデモンは美しい娘に夢中になる。イオランタの美しさの虜になったヴォーデモンは、記念に赤いバラを所望する。イオランタは、彼に2度、白いバラを差し出す。ヴォーデモンは、彼女の目が見えていないことに気づく。イオランタは、“見る”ということの意味を知らないため、目が見えないことに気づいていない。レネ王は、ヴォーデモンがイオランタに話しかけているところを見つけ、長年隠してきたことを彼が娘に知らせてしまったと激怒する。自分の意思を持ったことがないイオランタは、視力を得たいかどうかさえ判断できず、これまで通り父親の言いつけに従うと言う。医者の言うように、本人の内なる願望がない限り、変化は期待できない。“見たい”という欲望を呼び覚ますため、王はあえて、治療が失敗したらヴォーデモンの命はない、と告げる。結果イオランタの目は治り、王は娘とヴォーデモンの結婚を許す。だが見えるようになっても、イオランタには思ったような解放感はなかった。イオランタは初めて見る世界に目がくらみ、愛する人たちの姿かたちをただちに受け入れることができないのだ。しかし、ヴォーデモンへの愛と結婚式によって、イオランタの不安は少しずつ和らいでいく。

Bluebeard’s Castle

《青ひげ公の城》
作曲:ベラ・バルトーク
台本:ベラ・バラージュ
原作:シャルル・ペローの童話『青ひげ公』
初演:1918年5月24日、ブダペスト、国立歌劇場

ユディットは、青ひげ公と暮らすために自分の家族と別れ、平和で秩序ある生活を捨ててきた。青ひげ公には彼女を魅惑する怪しい秘密がある。ユディットは彼に関する恐ろしい噂を聞いていたが、後戻りできなくなる不安を抱えつつも、彼の家に足を踏み入れる。扉が閉まる。ユディットは青ひげ公に愛を告白する。自分の愛で彼を変え、この陰鬱な家を明るく照らすことができると信じているのだ。愛の言葉をお経のように唱えながら、彼女は七つの扉を開けてほしいと求める。最初の扉を開けると拷問室があり、第二の扉の向こうは武器庫だった。ユディットは恐ろしくてたまらない。続いて、宝物の部屋と花園の部屋があった。さらに青ひげ公は、次の扉を開くようにと言い、彼の帝国をユディットに見せる。だが彼女には、宝石にも、武器にも、花にも血が付いているのが見える。「俺を愛せ」、「何も聞くな」と言う青ひげ公にユディットは抵抗し、彼を愛しているが、自分に心を開き、内なる自己を見せ、何を恐れているのか教えてほしいと言う。彼女はすべての扉を開けるよう求める。第六の扉の向こうは、涙の海だった。そこまでがユディットが知るべき領域だった。7つ目の扉が残る。その向こうは、生と死の境、生を超越した空間であった。扉の奥には青ひげ公の過去の妻たちが隠されていた。第七の扉を通り、ユディットは彼女たちの仲間入りをする。永遠に青ひげ公の空間の一部となったのだ。ユディットの旅の円環が閉じる。

袈裟と盛遠 日本オペラ協会公演 日本オペラシリーズ No.75 国立劇場中劇場 [オペラ]

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歌舞伎だと国立劇場でも上演された南北の『貞操花鳥羽恋塚』。映画になると衣笠貞之助監督の『地獄門』。
人妻の袈裟御前に盛遠が横恋慕というかストーカーのようにつきまとい、夫の身代わりになって袈裟御前が盛遠に殺されるという物語。愚かで身勝手な主人公なので、なかなか共感できないのだが、第3幕は自ら愛する人を殺してしまったのがわかり盛遠の苦しみを歌い上げ、視覚的にも面白く、さらに音楽的にも満足させようという意図は明確だったと思う。

しかしながら2015年の今、上演しなければならないというほどの作品とも思えなかった。演出のせいかもしれないが、第1幕は物語の展開上、最初から説明的なのが退屈。第2幕も袈裟御前が夫の身代わりになって盛遠に首を跳ねられるというところで幕になる。ようやくオペラらしい主人公の苦悩が明らかにされる第3幕になって、幻想的な場面も登場するのだが、平安朝の衣裳に魑魅魍魎を表現した?ダンサーが絡むのは、なんだかショーを観ているみたいで軽かった。

第2幕と第3幕を続けて上演するので、なんだかオマヌケな空白の時間ができてしまった。続けて歌わされる盛遠役の豊島雄一も気の毒で休憩を入れても良かったのではないだろうか。第2幕の幕切れと第3幕の開幕が同じ場面として語られるので妙な具合だった。

歌手陣は最初から最後まで出ずっぱりの盛遠の豊島雄一が大健闘。かなり過酷な条件であっても歌い通す姿勢に感銘を受けた。しかも肉声でありながら、明瞭に発音される日本語で彩られた歌詞。字幕表示はあっても、十分に聴き取れるし、美しい日本語を耳にしたという感じである。歌手陣は傑出した歌手がいない代わりに、長期間?にわたり稽古を積んだ成果が現れて、舞台上の誰もが見事な歌唱を披露していたように思う。日本語の歌詞の字幕意表示もされるのだが、さすがに数箇所間違っていたところもあったようだ。それが少しの瑕にも感じられなかったのは、歌手と合唱団、若手である柴田真郁が指揮するオーケストラも寄せ集め?オーケストラにしては健闘していたと思う。

問題だったのは演出で、いささか古めかしい日本人の書いたオペラという概念を打ち破るためか、回り舞台や照明などあらゆる手法を用いていた。おかげで美しく設計された多彩な照明で各場面をライブのようなショー的なものになっていたけれど、説明過剰で観客の想像の翼をへし折ってしまうようなものだったのが、作品を2015年に上演する意義が、今ひとつ飲み込めないままだった。

第2幕はオーケストラボックスを上手と下手から挟み込むような花道を使用しての演出があり、花道の七三で見得をきめるような演出はなく、単なる入場前の通路になってしまったようだ。盛遠の苦悩が中心になる第3幕は、演出家の腕の見せ所だと思ったのか、これでもかこれでもかと色々な球を投げてくる演出だが、軽薄に過ぎたように思う。渡辺渡の小山陽二郎は烏帽子を落としてしまったのか、何故か現代風のヘア・スタイルで演技を続けていたが、カーテンコールでは烏帽子をつけていたので、単なるミスだと思うが、さすがにアンバランスで無理があったようだ。

オペラ『袈裟と盛遠』は、1968年明治百年記念芸術祭特別公演として二期会、藤原歌劇団合同で初演し、東京を皮切りに東海・関西含め8公演を華々しく行った日本オリジナルのオペラ作品。今回は、気鋭の三浦安浩による新演出、近年人気が高まっている柴田真郁の指揮、沢崎恵美、川越塔子、泉良平、豊島雄一、中鉢聡、小山陽二郎ら充実したキャストにより上演し、日本オペラの位置づけをより確かなものとすることを目指す。

2015年3月29日(日)15:00開演 新国立劇場中劇場

原作:芥川龍之介
作曲:石井 歡
台本:山内泰雄
総監督:大賀 寛
指揮:柴田真郁
演出:三浦安浩

出演:
【盛遠】豊島雄一
【袈裟】川越塔子
【渡辺渡】小山陽二郎
【白菊】山田真里
【平清盛】江原 実
【佐藤義清】川久保博史
【呪師】井上白葉
【勢至菩薩】望月成美
【鬼子母神】西野郁子

合唱指揮:諸遊耕史
合唱:日本オペラ協会合唱団
管弦楽:フィルハーモニア東京
美術:鈴木俊朗
衣裳:坂井田操
照明:稲葉直人
舞台監督:八木清市
公演監督:荒井間佐登

第1幕 15:00~15:40

休憩20分

第2幕 16:00~16:40
第3幕 16:40~17:20

マノン・レスコー  新国立劇場 千秋楽 [オペラ]









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今回の『マノン・レスコー』2011年3月11日の東日本大震災で公演中止になったプロダクションが4年の歳月を経て復活した。何度も何度も繰返されるカーテンコールで、題名役のスヴェトラ・ヴァッシレヴァがとうとうやり遂げたという安堵の表情と日本の観客に責任を果たせたという嬉しさが伝わってきたのは天使だけだったろうか。

演出は3方向が白い壁に白い床というのが基本。第1幕は、さらに塀で囲まれていて、下手に学生達がテーブルに集団お見合い状態で掛けていて、観客に背中をみせている一団は歌うときだけ振り向くという形式。
第2幕はマノンの寝室で、天井まで届く天蓋つきのベッドが中央にあるという設定。第3幕は、周囲の壁が引き上げられ、黒い面が舞台を取り囲む。舞台中空には下手から上手へ橋が架けられ、その下は白い床のはがしてあり、運河のような場所に見立てて、小舟にマノン達が乗り込み、大きな船まで運んでもらう趣向。さらに4幕は3方向が壁で中央に2本の柱が天井まで伸び、そこには荒野を表す砂のオブジェが置かれているという設定。

いずれも、観客に想像力が足りないと陳腐なものになってしまうが、大きな謎が仕掛けられいるわけでもなく、男がカツラや白塗りのお化粧をするロココ調の登場人物たちが生々しいので、十分すぎるくらい説得力のある演出だった。何より清潔でシンプルで品がある。それでいて観客の想像力を刺激せずにおかない優れた美術と衣裳だと思った。

指揮者のピエール・ジョルジョ・モランディと東京交響楽団は、冒頭から安全運転で、若さや官能、疾走する青春といったイメージがわかない凡庸な演奏だった。駆け抜けるような爽快感がなく、むしろ病的な音楽が流れていたように思う。前半は、特にそうした特色が出て楽しめない演奏だった。その一方、第3幕と第4幕は主役歌手の健闘により高水準な演奏になったのが不思議だった。

学生というには、いささか年齢を重ね過ぎたようなデ・グリューのグスターヴォ・ポルタは有望なテノール歌手なのだろうが、前半は容姿が邪魔をしてなかなか歌声だけに集中できなかった。対するマノン・レスコーのスヴェトラ・ヴァッシレヴァも前半はなかなかエンジンが掛からなかったようだが、後半になるにつれて、オペラの聞かせどころ、芝居の盛り上がる場面に至ってようやく本領を発揮したようで、感動的な幕切れを迎えた。

終わってみれば、なかなかの水準だったのだが、点灯夫の松浦健だけは、芝居も歌唱もいただけなかった。カーテンコールでも独りではしゃいだような演技をしていたが、果たしてあの場面の点灯夫の役は、あのような役だったのだろうか?ふざけ過ぎという印象しか残らなかった。


指揮:ピエール・ジョルジョ・モランディ
演出:ジルベール・デフロ
装置・衣裳:ウィリアム・オルランディ
照明:ロベルト・ヴェントゥーリ
合唱指揮:三澤洋史
音楽ヘッドコーチ:石坂宏
舞台監督:村田健輔

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京交響楽団

出演:マノン・レスコー:スヴェトラ・ヴァッシレヴァ
    デ・グリュー:グスターヴォ・ポルタ
    レスコー(マノン兄):ダリボール・イェニス
    ジェロント(マノンを囲う):妻屋秀和
    エドモンド(デ・グリュー友人):望月哲也
    旅籠屋の主人:鹿野由之
    舞踏教師:羽山晃生
    音楽家:井坂 惠
    軍曹:大塚博章
    点灯夫:松浦 健
   海軍司令官:森口賢二

リゴレット 東京二期会オペラ劇場 東京文化会館 2015年2月21日 [オペラ]





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平成26年度文化芸術振興費補助金(トップレベルの舞台芸術創造事業)、2015都民芸術フェスティバル 参加公演、さらに《パルマ王立歌劇場との提携公演》という角書つきの公演。ロビーには二期会のオペラの観客をターゲットにした協賛企業のブースがずらり。海外からのオペラ公演ならいざしらず、二期会の観客が富裕層とは思えないのだが…。ちょっとマーケティング戦略を間違っているような気もした。

ポスターやチラシの半分は指揮者であるアンドレア・バッティストーニのアップ画像。新進気鋭の才能豊な指揮者ということで『ナブッコ』についで再登場。若さ溢れる溌剌とした熱い指揮が評価されてのことだろうが、残念ながら天使の好きなタイプの指揮者では今回もなかった。お隣の紳士は盛んにブラボーを連発していたので、好みにあった観客は大勢いたようではある。確かに疾走する音楽は新鮮で魅力的に感じることもできるだろうが、歌手に全く寄り添わない部分もあり、明らかにまったく投げてしまったのか集中力を欠いたような部分もあり、浮沈みの激しい音楽で最後まで聴き通すのが辛かった。致命的なのは、彼が伝えたいと欲するような音楽が全く伝わってこなかったことで、周囲が持ち上げ過ぎなのではないかと思った。

歌手陣は、たぶん数多の二期会会員の中からオーディションで選ばれた実力派なのだろうけれど、舞台経験の有無が大きく明暗を分けたようで、リゴレットの上江隼人とジルダの佐藤優子はなんとか及第点だが、マントヴァ公爵の古橋郷平は全く期待外れ。登場の時から発声に難があり、最後まで歌いきれるか、最高音にを出すことができるか大いに心配になった。歌手の方も自信がなさげで、それがそのまま観客に伝わってくるので、聴いているのが辛かった。

予感は的中して、第2幕では声がひっくり返ったような酷い発声になり、声量も大幅にダウン。第3幕のアリアもオリジナルに高音の指定はないにしても、観客はHI-Cを期待している訳で回避してしまったのは残念だった。第3幕の重唱も大いに足を引っ張っていたように思う。総じて歌手の声がオーケストラピットを超えて客席に届いていなかったのは、歌手の実力不足も原因だが、指揮者がオーケストラを鳴らし過ぎだったのかもしれない。

演出はパルマ王立歌劇場からレンタルされた衣裳と舞台装置らしいが、20世紀の古臭い演出そのままで古色蒼然としたものだった。第1幕の前半は書割の前に置かれた長いテーブルに狂乱の世界が繰り広げられる?というイメージなのだろうが、あまり官能的なものは感じられなかった。不道徳な面はばっさり斬られていたのかもしれない。

第1幕は工夫の為所で、リゴレットの家と街路に転換しなければならないのだが、リゴレットの家だけを暗闇の中に浮かびあがらせる手法を使い家が移動すると後方に壁とジルダのいる部屋が壁越しに見えるという舞台装置が現れる仕掛け。そのつなぎの部分では、紗幕越しの何もない空間にリゴレットが出てきて歌うなど、急に抽象的になるなど様式が一定ではなかった。

第2幕は階段状の舞台装置が組まれていて、そこに時代物のきらびやかな衣裳をまとった合唱団員が並ぶので美しい場面となった。せっかくの舞台もマントヴァ公爵が急ブレーキになってしまって残念だった。それまで書割が中心だった舞台装置が、何故か第3幕になると急に写実的で立体的なものに変わってしまって、様式が統一されていないチグハグなものになっていた。下手にスパラフチーレの酒場が入っている石造りの建物があり、それを巡るように傾斜した通路が上手から下手へ延びているという立体的で高低差のある舞台装置になっていた。

どして、ここだけ大掛りなのか理解に苦しんだが、その部分の芝居も停滞ぎみで、一向に盛り上がらないし、悲劇性も浮かび上がってこないので、淡々とした舞台をただただ眺めるほかはなかった。きっと日本で一から新演出の舞台を作り上げるよりも、輸送代を支払ってもレンタルした美術の方が安上がりだったのかもしれない。ご丁寧に演出家までイタリアから呼んだようだが、そこまでの効果があったようには思えないのである。例によって二期会名物?のブラボーの嵐だったけれど、そこまで熱狂させてくれるような舞台ではなかったと思う。


スタッフ
指揮: アンドレア・バッティストーニ
演出: ピエール・ルイジ・サマリターニ/エリザベッタ・ブルーサ

美術: ピエール・ルイジ・サマリターニ
照明: アンドレア・ボレッリ

合唱指揮: 佐藤 宏
演出助手: 菊池裕美子

舞台監督: 佐藤公紀
公演監督: 直野 資

キャスト

配役
マントヴァ公爵 古橋郷平
リゴレット 上江隼人
ジルダ   佐藤優子
スパラフチーレ  ジョン ハオ
マッダレーナ 谷口睦美
ジョヴァンナ 与田朝子
チェプラーノ伯爵 原田勇雅
チェプラーノ伯爵夫人 杣友惠子
モンテローネ伯爵 長谷川 寛
マルッロ  加藤史幸
マッテオ・ボルサ 今尾 滋
マントヴァ公爵夫人の小姓 小倉牧子

合唱: 二期会合唱団
管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

開演14:00
第1幕約60分
休憩25分
第2幕約30分
休憩20分
第3幕約35分
終演予定16:50

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