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第159回 文楽公演 五月国立劇場 第2部 [文楽]2007-05-24 [文楽アーカイブス]

 十段目で終わるのかと思っていたら、大詰として「大徳寺焼香の段」がついてきた。これは原作とはまったく関係が無く、後世の増補作で山田案山子の作だそうである。まったく蛇足でしかないし何故に上演する必要があるのか大いに疑問である。歌舞伎で「仮名手本忠臣蔵」を上演すると必ず討ち入りをつけるよなものだろうか。それとも出番のなかった大夫の救済策なのだろうか。太功記=太閤記といいながら主役は武智光秀という物語を、最後の最後に真柴久吉に見せ場を用意した感じである。影の主役は実は久吉だったということを観客に印象づけたことだけは認めてあげたい気はする。

 第2部は「杉の森の段」からである。文字久大夫のいつもながらの誠実な語り口に感心した。その切を語ったのが住大夫である。天使とは相性が悪い大夫だが、今回ばかりは違った。子供に自らの首をはねさせ、久吉との和睦をはかる孫市の壮絶な物語。あり得ない設定すぎて、一歩間違えば白けてしまうような筋立てだが、住大夫の手にかかるとグッと説得力をまして面白く見られたのが何よりである。

 「瓜献上の段」は英大夫。これまた誠実な語り口で好感を持った。続いて「夕顔棚の段」の津駒大夫、そして圧巻の「尼ヶ崎の段」である。嶋大夫と十九大夫が前半と後半をそれぞれ語り分けたが、個性の違いが際立ってゾクゾクするような面白さだった。そして特筆したいのは富助の三味線である。これほど気迫のこもった演奏に出会うとは思っていなかっただけに聞き惚れて感心させられた。

 人形では文雀のさつき、蓑助の操、紋寿の初菊と三人が揃ったところは一級品の面白いのだが、仕方のないこととはいえ勘十郎が公演していても、玉男の光秀だったらなあとどうしても思ってしまう。登場人物の多い狂言を現有の勢力でよく上演したものと思った。でも文楽の将来のことが心配ではある。中堅、若手の頑張りに期待したい。

○ 第2部(4時開演)
 杉の森の段4 : 00 ~ 5 : 24
 瓜献上の段5 : 49 ~ 6 : 11
 夕顔棚の段6 : 14 ~ 6 : 38
 尼ヶ崎の段6 : 39 ~ 7 : 52
 大徳寺焼香の段8 : 02 ~ 8 : 30  


2007-05-24 23:02
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第159回 文楽公演 五月国立劇場 第1部 [文楽]2007-05-22 [文楽アーカイブス]

 今年の九月の文楽公演は亡くなった吉田玉男の一周忌追善で『菅原伝授手習鑑』から初段の加茂堤の段から筆法伝授の段、二段目の丞相名残の段までが上演されるという。筋書の平成5年の舞台写真をみれば、当然のように武智光秀を遣っているのは玉男である。蓑助、文雀の人間国宝が健在で舞台を務めているのは嬉しいが、やはり玉男を失ったことの意味は意外なほど大きかったように思った。ここに玉男がいてくれたらと何度思ったことだろう。仕方のないこととはいえ寂しくもあり、物足りなくもあり、なんとも複雑な気持ちになっての観劇となった。

 第1部は発端の「安土城中の段」から六月六日の「妙心寺の段」までである。通し狂言とはいうものの六月三日・四日はカット。太功記とはいうものの主人公は武智光秀だとばかり思っていた。例の三日天下の明智光秀のお話だが、最初の「安土城中の段」を観ていて、やっぱりこの物語の主人公は真柴久吉なのかもしれないと思った。横暴な主人・春長、生真面目だが主人の心が読み切れない光秀、この二人が将来どのような結果になるか冷徹に久吉が観察しているように思えてならなかったからである。実際に第2部の最後に上演された「大徳寺焼香の段」を観たら余計にそんな気になった。

 文楽は、どうやら年功序列ではなく実力主義の世界らしい。呂勢大夫や千歳大夫の活躍が目立っていたからである。中堅とはいうものの先輩を差し置いてという感じがある。天使が贔屓の貴大夫など、なかなか独りでは語らせてもらえないのに、明らかに年下の彼らの方が優遇されている。もっとも芸の差も明らかなようで残念ながら歴然と違っていては致し方がないのかもしれない。ベテランでは「長左衛門切腹の段」を語った綱大夫や「妙心寺の段」を語った咲大夫がやはり印象に残った。

 通し狂言なので登場人物が多く、人形遣いは大変だったと思うが和生、玉女、勘十郎らの中堅と文雀、蓑助の人間国宝の活躍が目立っていた。通し狂言ということもあり、最初の休憩が25分。次が5分だけというハードスケジュールで少々疲れてしまった。それでも4時間35分の上演時間だったが、それほど長さは感じず面白く観られたのは何よりだった。

 いまさらながらだが、文楽のような古典芸能は「老人力」が肝心要となるらしい。勘十郎の光秀も悪くはないのだが、どうしても玉男だったらと思ってしまう瞬間が何度もあったからである。伊達大夫も含め、やはり年配の大夫の語りには味があり、思わず引き込まれてしまう魅力がある。

<第一部>11時開演

発端      安土城中の段
六月朔日   二条城配膳の段
         千本通光秀館の段
六月二日   本能寺の段
六月五日   局注進の段
         長左衛門切腹の段
六月六日   妙心寺の段


2007-05-22 23:11
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二月文楽公演 第3部 国立劇場 [文楽]2007-02-26 [文楽アーカイブス]

 良くも悪くも蓑助のお三輪がすべてだった。「道行恋苧環」にしろ「金殿の段」といい、蓑助のお三輪が登場するだけで、その場の空気が一変する。そして遣う人形の華麗を極めたこと。確かに最盛期の力量はないのかもしれないが、現在でも十分に満足させてくれた。

 本来なら玉男の鱶七を期待したいところだが、勘十郎と玉女が公演期間の前半と後半を分け合って千秋楽に遣ったのは玉女。あまりに蓑助の印象が強烈で、残念ながら周囲の誰もの印象が薄かったように思う。歌舞伎と違って、何もかもスピーディーに展開するのだが生身の人間とは違って、人形が創り出す究極の美しいポーズを追求しているような舞台だった。
 
 ここには第1部や第2部にあったような「親子の情愛」なんていう生易しいものではなくて、忠義に姿を借りた恋愛の感情が描かれていた。「嫉妬心」が悪人を滅ぼし、恋人を救うというのも不思議な話なのだが、それに説得力を与えたのが、なんといっても嶋大夫の語りである。なんという味わい。お三輪の切なく、そして激しい恋を描いて感動的であった。十分にお爺さんなのに、何故、あんなに恋する乙女が描けるのか。語れるのか。藝の力って凄いと思いました。

 最後には「入鹿誅伐の段」があって、歌舞伎では絶対に演じられないであろう人形ならではのグロテスクな演出があって面白かった。蛇足に終わらなかったのは結構。さて大顰蹙覚悟で今月の大夫のランクづけをしてしまうと、十九大夫>嶋大夫>咲大夫>綱大夫>伊達大夫>>>>>>住大夫って感じでした。それにしても11時開演で、20時50分終演なのでとっても疲れました。


2007-02-26 18:44
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二月文楽公演 第2部 国立劇場 [文楽]2007-02-26 [文楽アーカイブス]

 一番期待が大きかったのは「摂州合邦辻」である。歌舞伎では、歌右衛門と梅幸がたびたび演じていて人気演目だったが、最近はあまり上演されなくなった。ここでも「万代池の段」から始まる。次の場の主要人物が登場し、合邦の性格描写も面白く、案外拾いものだと思った。天使が贔屓の貴大夫も登場したし、まあまあ満足。ただ彼の活躍する場面は少なく、たぶん同年代の玉女や和生と違って活躍の場が少ないように感じる。奮起して欲しい。それだけが不満。

 さて「合邦庵室の段」は綱大夫、住大夫、合邦の文吾、玉手御前の文雀と大顔合わせで期待するなというほうが無理だろうと思う。ところが残念ながら大きな不満が残った。一番の期待外れは、住大夫であった。天使は昔から住大夫が苦手である。最近でも「これは良い」と思った舞台に出会ったことがない。

 例のヲイヤイヲイヤイの繰り返しなど、淡々としすぎていて全然泣けなかった。情がこもらないからなのか集中力を欠いたままの舞台となってしまったのは残念である。ロビーでは、住大夫のCDなどが多数売られていて、人気、実力とも現役では絶対的な存在だと思うのだが、どうしたことだろう。別に義大夫なので美声を求めているわけではない。悪声であっても問題ないはずである。越路大夫のように引退してはとは思わないが、人形遣いと違って、やはり肉体的なピークが早く訪れるのかもしれない。彼らも、一応声楽家である。加齢によって技術が落ちても不思議ではない。
 
 文雀と文吾も住大夫に足を引っ張られたのか印象は良くない。もう途中から早く終わらないかなあと集中力が切れてしまって、何をやられても何も感じなかった。お隣のご婦人は涙を二度も拭っていたから、けっして悪い出来ではなかったのだろうが、やはり天使とは相性が悪かったとしか言いようがない。


2007-02-26 18:35
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二月文楽公演 第1部 国立劇場 [文楽]2007-02-26 [文楽アーカイブス]

 恒例の二月の三部公演である。かつては近松作品集ということでスタートした企画だったが、今年は国立劇場開場40周年記念ということもあって時代物が三作品並んだ。もっとも上演時間が3時間だけでは、通し上演になるはずもなく、有名場面に前段となる場面がついて、休憩をはさんで上演という形態となった。だから国立劇場としては中途半端な狂言立てである。もっとも最近は、入手困難なチケットが多少増えるので、新しい観客を開拓するには貢献したかもしれない。このところ玉男、文雀、蓑助、寛治、住大夫ら人間国宝を上手く配置するという傾向だったが、玉男が亡くなって、その均衡が崩れたが、中堅からベテランまでの活躍が目立った。

 第一部は「奥州安達原」から「朱雀堤の段」と「環の宮明御殿の段」という組み合わせ。袖萩とお君に焦点が当てられた上演となった。昼夜を通じて一番の出来だと思ったが人間国宝の出演がなかったからか入りは今ひとつだったようである。

 「朱雀堤の段」には、袖萩、お君はもとより、傔仗、生駒之助、八重幡姫、恋絹と主要な登場人物が勢揃いする。もっとも袖萩、お君、傔仗以外は「環の宮明御殿」とは関係ないので観客は混乱したかもしれないが、粗末な小屋の前に、二枚目や傾城、お姫様まで登場と舞台面は賑やかだった。呂勢大夫をはじめ若手から中堅までの大夫が出演だが、誰もこれといった印象は残さない無難な出来。人形は最初から出遣いであったが、全体に地味な印象。

 休憩後は、新大夫、千歳大夫ときて、切は十九大夫が語る。癪を起こした袖萩にお君が自分の着物を脱いで母親に着せかけるという場面は、歌舞伎だと子役が達者な演技など披露されると、居心地の悪い思いをするが、人形だと過剰な思い入れがない分だけ安心して観られるし、作品本位で芝居が進んでいくので清々しい。

 十九大夫の語りと富助の三味線が万全で親子の情愛の切なさを過不足なく描き出していた。紋寿の袖萩、お君の紋吾ともに公演。とにかくお君のいじらしさが泣ける。人形の技だけが突出することもなく、大夫や三味線だけが目立つこともない、誠に均衡のとれた舞台。もちろん個人技も大切だが、文楽の面白さは、人間国宝だけで支えられるものではないのだと痛感した次第。貞任の勘十郎、宗任の玉女と、将来の立役を遣う中堅が力強く遣った。2時間近い舞台がアッという間で退屈する暇もなかったのは、。奥を語った咲大夫と燕三の好演によるところも大きかったように思う。言語や声質など明瞭であるのは美点で、何よりも耳障りがいいのが心地よかった。


2007-02-26 17:47
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十二月国立劇場文楽 義経千本桜 [文楽]2006-12-20 [文楽アーカイブス]

 わずかな当日券をなんとか手に入れたら劇場で偶然にも友人のCypressさんと出会った。クラシック音楽やオペラにしか興味がなかったのに、強引に古典芸能を観ることをすすめたのは天使である。初歌舞伎は一緒だったが、文楽は同行する機会がなくて、同じ劇空間を共有したのは今日が初めて。最後列上手後方と、下手前方方向と対角線で結ぶとずいぶん離れた席同士だった。友人とはいいながら、この距離感が大切なのかも。終演後の新橋で、またしてもCypressさんを呆れさせる問題発言を連発してしまう。自分の迂闊さを大いに反省。耳に痛い言葉でも素直に受け入れることができたことが嬉しかった。

 この十二月で、文楽を見始めて28年を迎えた。歌舞伎に遅れること11ヶ月。この師走の若手公演を見たのが生まれて初めての体験だった。今、活躍している織大夫、咲大夫らが語り、勘十郎、玉女、和女などが若手で出演していたと記憶する。そうした意味でいえば、皆、未来の人間国宝候補なのである。

 「堀川御所」「伏見稲荷」「渡海屋・大物浦」と不完全ながらも物語を繋いでいこうとという姿勢は見える。外題の通り、「義経つながり」という展開。

 「堀川御所」では、やはり燕三の三味線がずば抜けていた。これは聞きもの。それに比べれば他の大夫も三味線もまだまだなのだが、大いに汗を流して勉強していって欲しい。人形遣いも深い感動を呼ぶまでには時間がかかりそうである。それでも物語を追うことには何の支障もなく、かえって興味が作劇術の巧みなことに気がつくなど、役者本位の歌舞伎と違ったテンポのよさもあって、心地よい空間に身を置いた喜びがあった。ここでは川越太郎を遣う勘十郎に拍手が集中していた。

 「伏見稲荷」では、Cypressさんに言われるまで気がつかなかったのだが確かにあり得ない展開。姫姿の静御前が梅の木に縛りつけられるという実に官能的な場面だったとは、今日が今日まで知らなかったとは…。どうしても見せ場に心が動かされていて、見落としがあったということだろうか。舞台上の誰にも思い入れがないと、やはり物語の核心に興味が湧いていくる。ただし弁慶の軽率な行動から義経が窮地に追いつめられているという緊迫感は希薄。このところが上手く伝わらないと全体が弾まない。苦渋の判断ということが観客に受け止められないと難しい場面ではある。

 「渡海屋・大物浦」は、やはり全体の中心になる場面で出演者の誰にとっても挑戦だったろう思う。亡くなった玉男の名演の記憶が観客の誰にも残っているし、客席のどこかには玉男がいるのではないかと、そんな想いにとらわれながら観た。師匠の当たり役を継いだのが弟子の玉女。若くてハンサムだった彼が、今や渋い中年男性である。確実に歳月は経過したが、芸は着実に進歩していたようである。銀平の登場から、智盛の姿になっての再登場。真っ逆さまになって入水する終幕まで、緊張感を途切れさせずに観客の眼を惹きつけていたことに感心した。同じく典待局を遣った和生も大役を見事に遣っていた。注目はこの二人と千歳大夫。次々と大曲を語る機会を与えられているようだが完成の域に達してはいないが、未来への希望を抱かせる出来で満足。


2006-12-20 09:25
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文楽鑑賞教室 Aプロ 文楽2006-12-18 [文楽アーカイブス]

 今月から「あぜくら会」に入会した。新国立劇場のクラブ・ジ・アトレにも入会しているので、割引き特典には魅力を感じないのだが、当日券を電話予約できるというのが便利。なにしろ今月は文楽も歌舞伎もチケットが前売りで買えなかったのである。なんとか鑑賞教室はオークションで14時開演の分を手に入れたが、本公演の方は当日の電話予約と並びに賭けた。結果は、電話は全然つながらなくて窓口でようやく車椅子スペースに出る補助席を手に入れることができた。それも最後の一枚。ギギりギリだった。

 まず観客にはなんの説明もなく「伊達娘恋緋鹿子」が始まる。浄瑠璃は、天使が贔屓の貴大夫をはじめとして4名の大夫と3名の三味線。娘お七は一輔が出遣い。わずか10分ほどの短い場面だが、人形がひとりで火の見櫓に登るように見える工夫もあって面白い。舞台面が美しいので初心者にも文楽に興味を持たせるという点では成功だった。

 引き続いて解説「文楽のたのしみ」がある。舞台奥にスライドのスクリーンがあって、説明に沿って映像が映し出される。大夫が腹式呼吸で声を出すための様々な工夫。時代物と世話物の区別、例によって「笑い声」でその違いを聞かせるというお約束の展開があって「つばさ大夫」が活躍。

 次に入門して七年目という清丈による三味線の解説。太棹と細棹の区別。悲しい気分の弾きわけなど、活字にしてしまうと面白くも何ともないが、三味線弾きは寡黙というイメージを見事に打ち破る軽快なトークで観客を楽しませた。三味線が目立たない存在だボヤく部分だとか、携帯電話のメールを貰って一喜一憂という自虐ネタも織り交ぜて大笑いさせてくれた。三味線弾きを辞めても、漫談芸人として食っていけるのではと思わせた。

 そしてお七で活躍した一輔が人形の解説。頭の説明、胴をつけ三人遣いの説明、女の人形には足がなくてもあるように見せる工夫など、これも毎回お約束なのだが面白く見せた。そして「重の井の子別れ」の物語の説明と必要な知識をすべて網羅して過不足がないのは良かった。

 「恋女房染分手綱」は、三輪大夫、つばさ大夫、英大夫、清友、寛太郎、錦糸。紋豊の重の井、紋吾の三吉といった鑑賞教室らしい清新な顔ぶれ。さすがに力不足の面はいなめなくて、観客の集中力を持続させるまでにはいかなかった。それでも作品の持つ力に助けられて、最後は切ない親子の別れに泣かされた。歌舞伎のような役者個人の魅力に頼らなくても、文楽は作品本位なのだと改めた思い知らされた。

 若手たちの研鑽という面はあるにしろ、やはり人間国宝級の演者に出演してもらって、言葉では説明不可能な一生ものの感動という高みに導いて欲しいような気がする。「なんだ文楽って、この程度か」と誤解されるのが一番怖い。学生や初心者と思われる人で溢れた客席を眺めてそう思った。


2006-12-18 23:40
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九月文楽 仮名手本忠臣蔵 第三部 [文楽]2006-09-21 [文楽アーカイブス]

 順番通り第一部から観続けて、文楽でも大曲中の大曲である「九段目」を住大夫と咲大夫で聴くことが出来て充実した時間を過ごすことができた。もし劇場に芝居の神様がいるならば、感謝して劇場を去りたいほど堪能した。さすがに地味な場面と感じたのか、天使の両隣には空席がみっつもあって勿体ない。見逃した人にはお気の毒さまというほかはない。

 「八段目」人間国宝の寛治の三味線、同じく芝雀の戸無瀬が中心となった舞台。続く「九段目」の悲劇の前に華やかさをといった意味あいもあるのだろうが、舞台面としては少し寂しい感じになってしまうのは仕方のないことである。東海道の宿場や地名を織り込んだ華麗な文が綴られていく。気の置けない母と娘だけの道中とはいえ、けっこう艶めかし言葉がさりげなく入れられていて驚かされる。字幕が導入されてからは余計に意味がわかててしまうので、左右のお客様を確認したが、そんなことを考えているのは天使だけだったようで大人の対応をされていた。

 途中に戸無瀬がタバコをキセルで吸う場面があって、実際に人形が煙をはき出すのだから面白い。身分の高い女性とタバコとは結びつかなかったが、昔は高級な嗜みだったのだろうか。嫌煙運動が広がる現代の尺度では測れないが、本蔵の後妻になった彼女って、どのような境遇の人だったのだろうか。さすがに山科まで押しかけて嫁入りをしようというだけあって、相当に芯の強い女性だと感じた。

 前段に続いて、いささか卑猥な表現もあった雪転しの段が終わると、いよいよ山科閑居の段である。全編を通じての主役は大星由良助なのだが、もう一人の主役は加古川本蔵である。それが証拠に「仮名手本忠臣蔵」の題名には、「本」と「蔵」の二文字があるではないかという説もあるらしい。ここでも二人が対比されて描かれていて、忠義に生きる武士の生き方と死に方をみせた。なるほど「忠臣」の「手本」とはこれかとも思った。両人とも義に生きながら、本心を隠しているのは同じ。そして死を受け入れるのも同じ。由良助=本蔵という図式がより明確になって迫ってきた。

 本蔵の出まで、主に戸無瀬とお石の対決を住大夫が語る。女の意地のぶつかり合い。情に重きを置いた語り口で、最高峰の演目を最高峰の大夫でという満足が得られた。渋くて重厚な語り口のなかにも娘を思う母親の「愛」が見事に表現されていた。奥は咲大夫で、何よりも勢いがあり華麗であって住大夫とは対照的。武士の「義」を語って力強さ大きさを語って見事である。同じ山科閑居の段でも、これだけ違う語り口なのだから、いかに大曲であり難曲だというのが判る。しかも現代最高の舞台であるのに間違いはないのだが、感動に到達できたかどうかは微妙で、そう易々とは攻略できないのが屈指の大曲たる所以であろう。とにかく話が単純ではないのである。

 大夫、三味線、人形遣いは勿論のこと、客席に座っているだけの観客にも高い次元での観劇態度を求めてくる作品なのだと思った。劇中何度も訪れる無音の瞬間に、それこそ息を殺して舞台に対峙できる集中力のある観客でなければ劇世界は完成しないし崩壊する。そして複雑な登場人物の心の動きを追っていかなければ、複雑に巧妙に張り巡らされた作者の視点を見失うことになる。そして観る度に新しい発見があれば吉。劇場を出た後で人生が変わるような感銘を受けることが出来れば大吉ということになる。まさに古典中の古典なのである。

 登場人物を対比して物語を展開していく作劇術はここで最も冴えをみせていて、お石と戸無瀬はお互いに理不尽としかいいようのない論理で不毛な対決をする。押しかけて嫁入りと言うも無理なら、本蔵の首をよこせというのも無理。相手の家で面当てに自害しようとするのは、もっと無理。この忠臣蔵はすべて無理な論理の積み重ねかと思ったほどである。

 そして本蔵の登場。敵を欺くために遊興三昧の由良助。敵役を装って力弥に討たれる本蔵。ともの方向は違っても本心を隠しているのは同じ。待っているのは名誉の死というもの同じ。自ら死を選んだ本蔵の姿に由良助は自分の将来の姿を重ね合わせたであろうし、観客もそこを観なければならないだろうと思った。

 そして本蔵と戸無瀬、由良助とお石、力弥と小浪、それぞれの夫婦の別れの姿をみせる。もうこうなると武士道を礼賛する単純な演目ではないことがよく理解できる。全編はここで終わってもいいくらいだが、花水橋引揚の段で若狭助を登場させたのは観客を納得させるためだろうが、作品に隠されたテーマからは離れる気がした。

 文雀を中心として次代を担う人形遣いが魂のこもった演技をみせて確かな手応えを感じた。全編を通じて文楽の未来を占うといった意味あいの通し上演で、大いに成果があったといっていいだろと思う。じっくり観るためにも三部制の工夫もよかったように思う。


2006-09-21 08:31
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九月文楽 仮名手本忠臣蔵 第二部 [文楽]2006-09-19 [文楽アーカイブス]

 第二部に続けての観劇となった。忠臣蔵でも屈指の人気場面である五段目から七段目が上演されるというだけあって満員の盛況だった。そして熱のこもった名演の連続で、まったく集中力を途切れさせずに最後まで観られたのは何よりだった。

 さて歌舞伎では超二枚目と人気の女形が演じるお軽と勘平だが、第一部で二人の行動に疑問を持ったこともあって、破滅していく勘平に別の快感を覚えてしまった。とっても邪道な見方だとは思うけれどもそうした要素もあるような気がする。歌舞伎が役者本位で主演者のイメージが崩れるような演技はしないのが約束のようなものだが、文楽はあくまでも作品本位で余計な入れ事がない代わりに話がトントンと運ぶ。そのため歌舞伎を観ていては気がつかない事や考えない事にも思いが至ってしまうというはなはだ不思議な観劇体験となった。

 定九郎は与市兵衛を殺すまで、あれやこれやと説明らしい話が続いて挙げ句のはてに殺してしまう。そして金を奪い取るのだが、ここでも異なる二者を対比するという視点が効いていて勘平はアッという間に定九郎を殺してしまい、思い入れや葛藤はあるものの両者は金を奪うという行為に違いはあれども悪事ということに変わりはない。それなら色にふけり、金への欲望に負けた勘平も師直も大差はないのではないかとさえ思えてきた。

 こんなに勘平に批判的な見方をすることになるとは思わなかったのだが、演じる役者に対する思い入れがない分だけ、実は作品の底流に隠されていた作品の本質が露わになったのかも知れない。だから勘平がどんなに悲惨な死に方、よく考えれば犬死に似た惨い死も、意地悪な見方に傾いてしまった。人形だから本当に臓腑を掴みだして血判をするし、別の快感に囚われてしまうのも無理はないかもしれない。

そして原郷右衛門の存在。塩谷判官の切腹に立ち会った唯一の家臣である彼に注目することなど普通はないのだが、二人の武士の切腹に立ち会ったのも偶然のこととはいえないような気がしてきたのである。でも歌舞伎だと不破数右衛門だったような気がするが・・・。何故二人は切腹しなければならなかったのか。別の原因のように見えて実は同じだったのかも知れない。愚かさにおいて…。原郷右衛門を遣った玉輝が天使の贔屓だということがあったかもしれないが…。

 切腹の段は綱大夫で相変わらず重厚な語り口で感動させられた。歌舞伎なら勘平の切腹で幕だが、文楽は残された女の運命に思いを馳せる余白があって、より深い感銘をあたえてくれるような気がした。おかるも与市兵衛の女房も、実説の赤穂浪士の影にいて、悲劇に見舞われた女たちの象徴であって、顔世御前のその後も含め、語られないその後に忠臣蔵の本質があるように思った。

 全段を通じて最も華麗な場面は七段目であろう。蓑助の由良助、おかるの勘十郎、平右衛門の玉女と珍しい顔合わせもあったが、実力者が揃って今考えられる最高の顔合わせといってもよく、期待に応える充実した場面となった。

 そして嶋大夫は残念ながら休演となってしまったが、ここは若手を中心とした大夫が熱演を繰り広げて見応え聴き応えがあった。全部の役を12人の大夫が語りわけるのだが、千歳大夫が由良助の代役に文字久大夫が平右衛門を語った。特に平右衛門は下手に特設された床で見台なしで客席に向かって語るわけだが、華やかさが増し全員の気迫に圧倒させられた。人形独自の演出も多く、場面の動きもあって面白かった。文楽の未来を託す若手の活躍に心から拍手を贈りたい。


2006-09-19 08:46
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九月文楽 仮名手本忠臣蔵 第一部 [文楽]2006-09-15 [文楽アーカイブス]

 土曜日のラジオで咲大夫が切符の売り上げが今ひとつという話だったのに、さすがに独参湯と呼ばれる演目だけあって満員御礼となっていた。前回の通し上演と違って朝10時半から夜の9時半まで延々と上演されるのだが、カットはあってもほぼ全編が三部に分けて上演されるのは画期的な出来事である。現在の文楽の総力を結集し、また将来を占うものとして注目された。玉男、文吾、嶋大夫は休演、喜左衛門は亡くなって一気に世代交代が進んだ感じである。前日はほとんど寝ていなかったのだけれど、カフェインのドリンクとキャンディーを片手にコーヒーを何杯も飲んで臨んだが、熱のこもった舞台にウトウトとすることもなく、最後まで集中力を切らさなかったは天使には珍しいことであった。

大 序  鶴が岡兜改めの段/恋歌の段

 役者本位の歌舞伎と違い、作品本位の文楽は入れ事がない分だけ物語の展開に無駄がない。この大序は、上手上方の御簾内で若手が交替で語り弾いていく。何よりも心強く思ったのは、言葉が明解に伝わってきたことである。文楽の大夫はの日本語は実に明瞭に感情がこめられているか再認識した。あらゆる日本の舞台芸術の中で、これほど美しく発せられる日本語はあるまいと思った。御簾の中ゆえ、姿は見えないが若手の気迫のこもった演奏に魅了された。
 
 兜あらためは、演技は歌舞伎と同じようなものだが、顔世御前でなくと本物とそれ以外の兜がわかる歌舞伎と違って、どれも本物らしい立派な兜だったのが可笑しかった。文楽はリアリズムをけっこう追求するものらしい。

 今さらなのだが、この仮名手本忠臣蔵では登場人物を対比してドラマを展開しているのだということを改めて認識する。塩谷判官と桃井若狭助、加古川本蔵と大星由良助、ちょっとした違いが重大な結果をひきおこすのがよくわかる。恋歌の段で還御にならなければ、若狭助は師直に斬りつけていたに違いないわけで、そうした緊迫感に満ちた場面を天使の贔屓の貴大夫をはじめとして全員の力を結集して上手く描いていた。

二段目  桃井館本蔵松切の段

 ここでは本蔵の現実的な忠義の覚悟のほどをみせる場面である。武士の道に反するとはいいながら、主人を守るにはこれ以外にはなかったので、その現実主義的な対応も簡単に責められないような気がした。多くの登場人物は、皆が欲望の虜になるか、寛容の心を失ってしまった人ばかりなのであるからだ。人間社会というものは、白黒をハッキリさせられたら、これほど楽なことはない。そうならないのが人間社会と知っているからこそ、本蔵もああした行動をとったわけである。武士としてのケジメは後半にちゃんととるわけで、主人思いの所は由良助も本蔵も大差はない。それが証拠に主人思いの家来は、この物語の中では急ぐのである。この二段目があったおかげで、初めて気がついたのだが、本蔵は師直の館に馬で急ぎ、由良之助は切腹する主人も元に急ぐ、なるほど、こんな対比もあったのかと目からウロコの感じだった。

三段目  下馬先進物の段/殿中刃傷の段/裏門の段

 この本蔵という人もなかなか用意周到な人物だということにも初めて気がついた。歌舞伎では単なる悪役といった扱いで、いい役者もでないものだが、人形では皆平等、役の軽重はない。そのおかげで初めて気がついたのは、師直への賄賂の贈り主である。若狭助の名前はどこにもなく、奥方や家来から贈ったという形式をとっていることである。万一、師直に受け取りを拒否されても主人の顔はつぶれないし、主人の名を出さないことによって主人の名誉をも守るという考え抜かれた対応の仕方だったのだと今さら思いがいたって唸った。師直に誘われるまま、城内に入ってしまったのが間違いと言えば間違いだし、命さえ助かればと判官を抱き留めてしまったのが裏目に出たのも、まさに人生そのものだといえる。また、抱き留めたのも塩谷判官の激昂する姿に、自分の主人の若狭助をみたに違いないと感じたのも人形には役の軽重がないからである。

 次にお軽と勘平である。腰元お軽文使いの段は省力されているが、この二人、筋書では逢瀬とぼやかした書き方をしているが、仕事中にいわゆるHをしていたわけであり、なんとも共感しずらいカップルである。もちろん同じ家中であるから明らかに不義である。しかも腰元と侍の格好のままで「夫婦」と名乗られてしまっても…。さらに大事な場面にいなかった決定的な落ち度といい、もう死ぬしかない二人の運命なのである。なんと死に彩られた人々が。主要な登場人物は、自分の意志とは別に死でしまうわけで、憎しみの連鎖は死の連鎖でもあるわけで、単なる仇討ちものと思っていると足元をすくわれかねない深さがある。

四段目  花籠の段/塩谷判官切腹の段/城明渡しの段

 「通さん場」といわれるまでもなく、国立劇場のお客様は行儀がいい。真面目な優等生のような人ばかりである。いささかお疲れなのか、かなり眠っている人を見かけたけれど、十九大夫の切腹の段を聴きながら眠られるとは幸福な人たちだと思った。それほど充実した場面で、緊迫感に満ちあふれていた。そして蓑助の由良助、玉男の名演の記憶がまだ残っているが、それとは違った味があって面白くみた。何よりも柔らかさを感じさせる由良助であった。歌舞伎だと腹を強調するばかりに硬さが目立つ演技ばかりだが、後半の由良之助の変身も納得させるような気配を感じさせたのは高等数学の世界で、こうしてやり方、解釈もあるのかと感心した。

 城明渡しの場は、歌舞伎だと現実の距離を感じるしかないものになるが、文楽では心の距離、心に浮かんだ様々な感情を味わう場面となる。気合もろともキマる瞬間の素晴らしさ、いつもいつも感動させられる箇所だが、今回も深い感動のうちのに幕となった。仮名手本忠臣蔵という劇世界を遙かに越えて、現実の赤穂浪士に思いを馳せずにいられない文楽でも屈指の名場面だと感じた。


2006-09-15 21:53
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