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チェネレントラ 千秋楽 新国立劇場 [オペラ]2009-06-20 [オペラ アーカイブス]


2009年6月20日(土) 14:00開演 終演予定17:05

【指 揮】デイヴィッド・サイラス
【演出・美術・衣裳】ジャン=ピエール・ポネル
【再演演出】グリシャ・アサガロフ
【演技指導】グリシャ・アサガロフ/グレゴリー・A.フォートナー

キャスト
【ドン・ラミーロ】アントニーノ・シラグーザ
【ダンディーニ】ロベルト・デ・カンディア
【ドン・マニフィコ】ブルーノ・デ・シモーネ
【アンジェリーナ】ヴェッセリーナ・カサロヴァ
【アリドーロ】ギュンター・グロイスベック
【クロリンダ】幸田 浩子
【ティーズベ】清水 華澄

【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

のっけから軽さのない音楽が流れて乗り切れないまま始まってしまった新国立劇場の「チェネレントラ」である。シラグーザが第2幕で最高音をCのさらに上まで出して、なんとアンコールまで披露して、最後はガッツポーズで決めてくれた。観客は大興奮なのだが、残念ながら第一幕は不満が多くて楽しめないまま終わってしまった。

 最大の原因はアンジェリーナを歌ったヴェッセリーナ・カサロヴァとアリドーロのギュンター・グロイスベックだった。特にこの二人が絡む場面は、それまでの音楽の流れが急に停滞してしまっていたと思う。それでも他の男声陣や姉妹を演じた寺田浩子と清水華澄が好演したのが救いだったけれど。

 「チェネレントラ」を初めて観たのは、ルチア・ヴァレンティーニ=テッラーニが藤原で歌った公演だったのだけれど、最後のチェレネントラのシェーナで装飾歌唱の完璧さと東京文化会館を揺るがすような重低音?に度肝をぬかれた思い出がある。今回のカサロヴァは、青筋立てて、身体を海老のように仰け反らせて高音に挑み、低音は出したのか出さなかったのか判らない程度でがっかり。それにめいっぱい大口あけて必死に歌う姿は…。思いっきり醒めた。

 ミュンヘンから借りてきた?故ジャン=ピエール・ポネルの演出。緞帳が上がるとペンの線だけで書かれた緞帳がみえてきて、幕が上がるとドン・マニフィコの家が見える。暖炉のある台所風の部屋から左右対称に姉妹の部屋や父親の部屋があって、カーテンが上がると奥行のある装置が出現する。経済的に困窮しているのを階段が朽ちているので表現するなど上手い。

 他の場面でも同じような手法が使われていて、立体的な装置と平面の装置を同じ色調で組み合わせていって、西洋立体紙芝居という感じ…。小ネタ満載の楽しい演出で、日本語の台詞や歌唱が折り込まれていたりして楽しめた。これで音楽が充実していれば文句がないのだけれど、オペラで最も重要なのは音楽だということを再認識させられた公演だった。

 プログラムにカヴァーの歌手として、五郎部俊朗、萩原潤、志村文彦、森山京子、佐藤泰弘などの名前が並んでいた。ちょっと観てみたい気がしたが、彼らの出る幕がないのは、悲しんでいいのか喜んでいいのか…。

2009-06-20 23:32
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愛の妙薬 藤原歌劇団創立75周年記念公演 東京文化会館 [オペラ]2009-06-15 [オペラ アーカイブス]

 東京文化会館での「愛の妙薬」といえば、メトロポリタン歌劇場の来日公演でのパヴァロッティとバトルが共演した公演が懐かしく思い出される。開幕前にオペラカーテン越しにパヴァロティの発声練習が聞こえてきたりした。その前にニューヨークでも同じプロダクションを観ていてなんとも楽しい演出の舞台だったのを覚えている。

 さて二期会に比べると伝統的な演出を好むという印象の藤原歌劇団だが、今回のマルコ・ガンディーニの演出は舞台を現代の高級ショッピングモールという凝ったものだった。「MOOR」というのが屋号らしく、実在の高級ブランドのネーミングとロゴデザインを真似ている。商標の権利上は大いに問題ありだと思う。「Drior」は誰がなんといっても「Dior」でロゴもそっくり。もっとも高級なイメージよりもアメ横あたりの路上で売っていそうなニセ物っぽいのが笑える。

 実際の舞台もニセ物感が漂って感心しなかった。日本人観光客の多い海外のショッピングモールという設定でもよかったハズなのに、どうやら日本が舞台のようで、日本の女子高校生やアキバにいそうなオタク系な怪しすぎる青年などが入れ替わり立ち替わり登場したりする。ところがベルコーレのエリート士官学校生だけは、伝統的な衣裳のイメージでチグハグ。自衛隊の制服にすればよかったのに…。黄色のスカートにスカーフを首に巻いた販売員が、店舗スペースに入るときに一礼するなど細かい芸をみせるかと思えば、お客そっちのけで販売員が椅子に座ってしまったりと日本の店舗では絶対にありえない光景があられたりと矛盾だらけだった。

 舞台の上の出来事は嘘っぱちばかるとはいえ、もう少し本当らしくないとしらけてしまう。終始舞台上をういろいろな人が行きかうので目障りだし、音楽になかなか集中できないのは困った。ネモリーノもアディーナもショッピングモールの販売員で、ドゥルカマーラが実演販売のセールスマンというのもアイディアではあるが、このオペラにふさわしいものだったかどうかは大いに疑問である。最終的に「愛の妙薬」という大型のバナーが舞台中央に掲げられ、新しいブランドが立ち上げられ、それを買い求めようとする人々が大行列をつくるという、今の日本らしい風景が出現して日本批評としては悪くないアイディアだが、肝心のネモリーノとアディーナが埋没してしまって散漫な印象になってしまい成功とは言いがたい出来だった。
 
 音楽的には、園田隆一郎の指揮はインパクトに欠け、なかなか音楽に気持ちよく身をまかせられないのがもどかしかった。それでも後半には盛り上がりをみせていたのが救いだった。それは歌手陣にもいえて、ネモリーノの中鉢は余裕のない固い発声で最後まで歌い続けることができるのかどうか心配になったほどである。ところが後半の「人知れぬ涙」では別人のような歌唱を聞かせて意地をみせた。さすが演奏会などで何度も歌っているからだろうが、表現力においても他の部分とまったく違った安定感があった。その調子で、他の部分も歌ってくれれば文句ないのに、満足できない部分が多すぎた。背が低いけれども、イケメンなオペラ歌手として売り出しにやっきなのだろうなと思った。
 
 アディーナの川越 塔子もやはり最初は低調で潤いのない声で楽しめない歌唱だった。しかもスカーフを巻く位置が違うだけで、他の販売員と同じ制服なので引き立たなくて合唱団員の中に埋もれてしまった感じがした。中鉢同様に後半は安定してきたが、低調なスタートが悔やまれるできだった。他の役も個性的というよりも安全運転といった感じで、あまり魅力を感じない歌手陣で物足りなかった。

 アイディア倒れに終わった演出。盛り上がらない演奏。安定感を欠く歌唱と、なかなかよい点がみつけられないのだが、敢えて言えば上演時間が長くなく2時間半で終わったことである。隣の小ホールで続けて演奏会を聴く予定だったので、食事をしてからでも十分に開演に間に合ったのは何よりだった。これからの公演予定を観ると秋の公演は記念コンサートしかなく、来春はプーランク作曲の「カルメル会修道女の対話」を上演だということだ。楽しみである。さらに来年の6月にはロッシーニの「タンクレーディ」というのも聞き逃せない。

2009年6月14日 15時開演 東京文化会館

アディーナ:川越 塔子
ネモリーノ:中鉢 聡
ベルコーレ:森口 賢二
ドゥルカマーラ:党 主税
ジャンネッタ:宮本 彩音

合唱:藤原歌劇団合唱部

管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

指揮:園田隆一郎

演出:マルコ・ガンディーニ

2009-06-15 23:37
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楽劇「ニーベルングの指環」第1日 ワルキューレ 新国立劇場 [オペラ]2009-04-13 [オペラ アーカイブス]

2009年4月6日(月)・12日(日) 新国立劇場
指 揮】ダン・エッティンガー

《初演スタッフ》
  【演 出】キース・ウォーナー
  【装置・衣裳】デヴィッド・フィールディング
  【照 明】ヴォルフガング・ゲッベル

【ジークムント】エンドリック・ヴォトリッヒ
【フンディング】クルト・リドル
【ジークリンデ】マルティーナ・セラフィン
【ヴォータン】ユッカ・ラジライネン
【ブリュンヒルデ】ユディット・ネーメット
【フリッカ】エレナ・ツィトコーワ
【ゲルヒルデ】高橋知子
【オルトリンデ】増田のり子
【ワルトラウテ】大林智子
【シュヴェルトライテ】三輪陽子
【ヘルムヴィーゲ】平井香織
【ジークルーネ】増田弥生
【グリムゲルデ】清水華澄
【ロスヴァイセ】山下牧子

【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

 一度だけ観る予定だったのに、あまりに素晴らしい上演だったので2回目は当日券にトライ。運良くチケットを入手できて、再び深い感動を味わうことができたのは何よりだった。まず歌手陣が見事な歌唱を披露してくれたのと初演を上回るような演劇的にも完成度の高い舞台をみせてくれたので大きな満足を味わうこととなった。
 
 歌手ではなんといってもジークリンデを歌ったマルティーナ・セラフィンが、歌唱・演技・存在感とも完璧で高得点。次にフンディングを歌ったクルト・リドルは発声に多少問題があっても、その存在感と説得力のある歌唱に深い感銘を受ける。第2幕では、それほどと思わなかったブリュンヒルデのユディット・ネーメットとヴォータンのユッカ・ラジライネンが、特に12日は第3幕が入魂の歌唱と演技で感動させてくれた。

 フリッカのエレナ・ツィトコーワの歌唱は立派だったが、声質が趣味にあわないのと舞台映えが案外しなかったのが残念。ジークムントのエンドリック・ヴォトリッヒは、よくは歌っていたのだが、絶好調の女声陣と比較すると物足りなさが残る。ダン・エッティンガーの指揮が、テンポや音量など第2幕までと第3幕では全く違って聞こえたのは、主にヴォトリッヒのサポートに動いていたからではないだろうか。ゆったりとしたテンポだったが容認できないほどではなかったと思う。

 キース・ウォーナーの原演出は新国立劇場の舞台機構を存分に使った大掛かりな物である。初演時にも感じたが、歌舞伎と同じ手法がいろいろなところに発見できて興味深かった。歌舞伎ではデフォルメされた強大な小道具が出てきたりする。毛抜であったり、斧であったり、人間の大きさは変わらないので、装置を大きくして人間を小さくみせようとしたり、逆に人間を大きく見せようとしたり…。この舞台も巨大なテーブルや椅子、木馬などが登場したりする。奧の壁が飛んで背景の世界が広がったり、ジークリンデとジークムントが飛び降りたり、床下から槍が出現したりと第1幕の仕掛けは、かなり楽しめた。

  大傑作だと思ったのは、第3幕の「ワルキューレの騎行」の場面。スモークが焚かれた白い装置に死体を乗せたストレッチャーが浮かび上がり、救急救命センターだということが徐々にわかるという美しい舞台。ストレッチャーを馬に見立てて、ワルキューレたちが縦横無尽に動き回りながら歌い続けるのは見事だった。

 さらに装置が奥に引かれると、ヴォータンが投げた槍が白い床をすべって舞台奥のワルキューレ達に向かっていって止まったのは見事な演出だった。床から巨大な木馬が迫上がり、さらに舞台転換をしてベッドにブリュンヒルデが横たわる場面へ続くのも、よく考えられた演出だったと思う。それに比べると第2幕は凡庸な演出で、だいぶ落ちる感じである。さらに演奏も歌唱も停滞気味で退屈。フンディングとその一味の死に方が見事だったのに感心した程度。第2幕には、天井から赤い槍が3本下りてきて、舞台床面に描かれた地図と槍に書かれた文字が連関しているというのは、幕間のオペラ好きに格好の話題を提供した形だが、その意図しているところは案外浅いように思えた。

 演出の意図を読み解く鍵は登場人物の視線の交錯にあると思った。第1幕で毒薬を飲んで自殺を企てたジークリンデがジークムントを一目見ただけで恋におちるくだり。舞台下手に置かれた等身大の結婚写真のフンディングの姿に視線を送る二人など、フンディング本人がいなくても、三人の関係を描き出して見事だった。そして二人の肉体関係を暗示させる工夫もあって上手いと思った。

 第2幕でも視線の交錯はあるのだが、全体的に演出が未整理といった感じで、登場人物の考えがハッキリ伝わってこないのである。愛情よりも対立を描く場面であったので仕方がないのかもしれないが…。

 第3幕は、ヴォータンとブリュンヒルデの視線の交わり方が説明的ではあるが、音楽の充実ぶりとの相乗効果もあって屈指の名舞台になったように思う。あまりに人間の感情に素直な解釈でワーグナーとしては物足りなく感じる人もいるとは思うが、永遠の別れを歌い演じる二人に涙がとめどもなく流れて困ったほどである。

 来年の「ジークフリート」と「神々の黄昏」の上演が待たれるが、やはり4演目のチクルス上演でなければ理解できないこともあるのではないかと思う。物理的に無理なようだが、いつの日にか実現して欲しいと思う。

2009-04-13 23:33
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ワルキューレに大感動! [オペラ]2009-04-06 [オペラ アーカイブス]

 今日は休みをとって新国立劇場の「ワルキューレ」へでかける。さすがに平日14時開演では観客の平均年齢がとっても高かったように思う。上演の感想は後日書くつもりだが、あまりに素晴らしい上演だったのでもう一度日曜日に当日券にトライしてみるつもり。

 なんといってもジークリンデを歌ったマルティーナ・セラフィンが大変よかったのと、フンディングのクルト・リドルとブリュンヒルデのユディット・ネーメットに感心させられた。なかなか大仕掛けの凝った演出だが、登場人物は少なく、それぞれの眼差しの交錯といった視点で読み解くと、とっても理解しやすい演出だと思う。

 第一幕は血圧が上がって血管が切れるかと思うくらい大興奮して幕間に心を鎮めるのが大変だったり、第三幕のヴォータンとブリュンヒルデの別れでは、ワーグナーなのに涙でボロボロに…。なんとかもう一度観たい。絶対に観たい。初演より間違いなく良いと思うのだが…。

2009-04-06 22:21
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METライブビューイング 夢遊病の娘  [オペラ]2009-04-12 [オペラ アーカイブス]

NYメトロポリタン歌劇場上演日:2009年3月21日

指揮:エヴェーリノ・ピド
演出:メアリー・ジマーマン

アミーナ:ナタリー・デセイ
エルヴィーノ:ファン・ディエゴ・フローレス
ロドルフォ:ミケーレ・ペルトゥージ
リーザ:ジェニファー・ブラック

客席映像&ポスター映像  約6分
解説(デボラ・ボイト)
本編1幕目 約80分
特典映像 インタビュー(デセイ&フローレス) 約5分
       次回作品紹介(ラ・チェレネントラ) 約1分
       資料映像(ガランチャ)
休憩      客席映像 約14分
特典映像 METライブビューイング来シーズン紹介 約2分
       インタビュー(C・A・マンセン)
       『THE AUDITION』予告編 約3分
本編2幕目 約56分
カーテンコール&クレジット 約5分

10時開映 12時57分頃終了 

所詮は劇場中継。何も映画館まででかけて観るようなものじゃないだろうと避けてきたMETライブビューイングなのだが、友人に誘われて初めてでかけた。ナタリー・デセイとファン・ディエゴ・フローレスという望みうる最高の組み合わせで上演されるベッリーニの「夢遊病の娘」である。NYにある稽古場で演じられる劇中劇という凝った演出。取り柄は場面転換が黒板に場面を書いて回転させるだけなので、音楽が途切れないというところだろうか。

 普段着で演じられるオペラっていうのもなんだか感じが出ない。劇中劇という設定だけで処理出来ない部分もあって、普通にやってもかわらないのに…。と今ひとつ共感できない演出だった。回転するベッドの上で歌わされたり、オーケストラピットの上にせり出す板の上で歌わされたり、客席の通路から登場させられたり、ダンサーでもないのに、足の支えだけで上に持ち上げられ歌わせられたり。ショーアップするのはかまわないが、歌いにくいのではないかと歌手達に同情した。

 歌手はいずれも絶好調なのだけれど、映画館の音響装置のせいか音圧がありすぎて耳障りだった。自宅なら絶対にボリュームを絞っていたと思う。音量さえ上げれば迫力があると思ったら大間違いである。超高音が魅力的なフローレスだが、恋心を歌う弱音の表現力の豊かさに心惹かれた。デセイはテクニックも申し分ないし、芝居も上手いのだが、アップの映像だと顔のシワまで映ってしまって気の毒だった。

 それにしても幕が降りたら、直ぐにインタビューする演出というのもアメリカ的だが、歌手のことを考えたらするべきではないと思う。来年の上映作品に「シモン・ボッカネグラ」を発見。タイトルロールをドミンゴが演じるのだとか。少々驚く。

2009-04-12 09:20
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楽劇「ニーベルングの指環」序夜 ラインの黄金 初日 新国立劇場 [オペラ]2009-03-07 [オペラ アーカイブス]

2009年3月7日(土) 14:00開演

スタッフ
【作曲/台本】リヒャルト・ワーグナー

【指 揮】ダン・エッティンガー

《初演スタッフ》
  【演 出】キース・ウォーナー
  【装置・衣裳】デヴィッド・フィールディング
  【照 明】ヴォルフガング・ゲッベル

キャスト
【ヴォータン】ユッカ・ラジライネン
【ドンナー】稲垣俊也
【フロー】永田峰雄
【ローゲ】トーマス・ズンネガルド
【ファーゾルト】長谷川顯
【ファフナー】妻屋秀和
【アルベリヒ】ユルゲン・リン
【ミーメ】高橋 淳
【フリッカ】エレナ・ツィトコーワ
【フライア】蔵野蘭子
【エルダ】シモーネ・シュレーダー
【ヴォークリンデ】平井香織
【ヴェルグンデ】池田香織
【フロスヒルデ】大林智子
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

  2001年3月30日にプレミエ上演された「TOKYO RING」の待望の再演。一時四演目連続上演も噂されたが延期になって、今年が「ラインの黄金」と「ワルキューレ」来年が「ジークフリート」と「神々の黄昏」の二年がかりの連続上演である。初演では一年ごとの新演出というプロジェクトだったために四年がかりとなってしまった。四話完結したところでチクルス上演が理想だったのだが、様々な理由によって上演が困難だったようで、8年も間が開いてしまって、ハテどんな演出だったか?細部については思い出せないまま客席に座った。

 序奏が始まると舞台奧から小さな光が客席に向かって放たれる。裸舞台でヴォータンが映写機の脇に座り記録映画を見ているといった風情で、ラインの三人の乙女とアルベリヒが客席にいる映画館のセットが迫り上がるという前回も印象深かった開幕である。三人の乙女が観ているスクリーンには川面の映像。やがて黄金色に輝くジグソーパズルになってラインの黄金が示されるなど、今回も快調な滑り出しではあった。最終幕では、ローゲの手に持った小さな火が暗闇に残るので、呼応した演出だったのかしれない。

 そのスクリーンは大きく湾曲していて、その昔、スーパーシネラマ方式だった映画館「テアトル東京」で巨大なシネラマスクリーンを前方の脇席から眺めた時を思い出した。正面からならともかく、湾曲したシネラマ・スクリーンはサイドからは真っ直ぐな地平線が歪んで見えたりしたものである。さらにスクリーンが鉄骨に張られているのは、地元のシネコンでスクリーンの裏を見せてもらった時のことを思い出した。劇場のスクリーンの裏には、スピーカー以外には何もない殺風景な場所だった。

 映画がこの演出のモチーフになっていて、各場面はスクリーンの裏側から眺めているような工夫がされていて面白いような煩わしいような微妙な雰囲気。最後のヴァルハラ城がシネコンで八百万の神様=お客様?が入場していくというのも・・・。初演の時は、後の三作の演出を知らないだけに、次は何が出てくるかと固唾を飲んで身構えていたのだが、結局、単なる思いつきだけだったのだと今さらながら気がついてガッカリ。あんなに気負っていたのが馬鹿みたい。

 実は変に自己主張の強い個性的な演出?だけに歌手陣もよほどの実力がないと埋没してしまうという恐ろしいもののようである。圧倒的な印象を残したのは、アルベリヒを演じたユルゲン・リン。歌唱もさることながら、芝居も上手いし、その存在感で「ラインの黄金」の主役は彼だったのかと改めて思いしらされる。ラインの乙女に翻弄されたり、騙されて蛙にされてしまうし、徹底的ないじられキャラで、最後には指をナイフで切り落とされて指環を奪われ、挙げ句の果てに自分の股間を自傷して退場するという凄まじさ。ある意味美味しいキャラなのだが、ユルゲン・リンは自在に演じて見事だった。

 それに匹敵するのは、突然現れるエルダを、これまた存在感タップリに歌い演じたシモーネ・シュレーダーである。演出家もこの二人には見せ場を用意したようで、演出も緊迫感があったのが良かった。それ例外の歌手は残念ながら、この二人の存在感を前にしては影が薄い。ヴォータンを演じたユッカ・ラジライネンは存在感に乏しく、家長としての貫禄は皆無。ローゲのトーマス・ズンネガルトも神々の世界を冷ややかに見るような冷え冷えとした感じもなく、火の神の熱さも感じさせないという中途半端な存在でただの親父然としているのはいかがなものか。そういえば、初演の頃は、二組のキャストがあって、日本人だけで「ラインの黄金」を上演した組もあったように思う。初演から8年も経過しているのに、日本人歌手は成長どころか、進歩よりも退行してしまったかのようで全員が精彩を欠いていた。

 それが最も端的に出てしまったのは、アルベリヒの登場しない第2場で、演出のユルユルぶりと音楽の不安定さには驚かされた。俊英という言葉が似合いそうなダン・エッティンガーの指揮する東京フィルハーモニー交響楽団も健闘している部分とエッ?部分があり落差が大きな演奏だったように思う。筋金入りのワグネリアンは満足できたのだろうか?

 舞台では床に穴を開けてあって、そこからトリックを使っての人間の出入りが多用され、簡単な手品?もあってマジックショーさながら。さらに新国立劇場の舞台機構を目一杯使いましたというように、ヴァルハラ城が舞台後方からスライドしてきて、七色の風船が落ちてくる第4場は、初演のような珍妙な印象はなく、むしろ今回一番完成度が高かったかも。このキース・ウォーナーの演出した四部作のなかでも屈指の名場面なのかもしれない。途中の中ダルミが嘘のように、ワーグナーの音楽と舞台に繰り広げられる光景に珍しく興奮を覚えた。

 ところどころに、後の作品への伏線が隠されていたような気もするが、他の作品の記憶もあいまいなので判らないままだったのが残念。この演出は壮大な失敗作だったのかもと不安を抱かせた。4月の巨大な木馬や炎に包まれるベッドなどが記憶に残っている「ワルキューレ」の上演が待たれる。

2009-03-07 23:55
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ラ・トラヴィアータ(椿姫)  東京二期会オペラ劇場 [オペラ]2009-02-14 [オペラ アーカイブス]

オペラ全3幕 字幕付原語(イタリア語)上演
台本:フランチェスコ・マリーア・ピアーヴェ
作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ

会場: 東京文化会館大ホール
公演日: 2009年2月14日(土)14:00

指揮: アントネッロ・アッレマンディ
演出: 宮本亜門

装置: 松井るみ
衣裳: 朝月真次郎
照明: 沢田祐二
振付: 上島雪夫
演出助手: 澤田康子、眞鍋卓嗣

舞台監督: 大仁田雅彦
公演監督: 近藤政伸

ヴィオレッタ・ヴァレリー 澤畑恵美
アルフレード 樋口達哉
ジェルモン 小森輝彦
フローラ 小林由佳
ガストン子爵 小原啓楼
ドゥフォール男爵 鹿又 透
ドビニー侯爵 村林徹也
医師グランヴィル 鹿野由之
アンニーナ 与田朝子
ジュゼッペ 飯田康弘
仲介人 金  努

合唱:二期会合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団


今回の演出を担当した宮本亜門は、天使の一つ違いの兄にソックリというか瓜二つ。だから天使も亜門に似ているところがあるかもしれない。ということで、親近感を抱いている演出家ではある。ついでに父は、NBSの佐々木忠次氏に似ている。

 それでは、今回あえて「椿姫」ではなく、「ラ・トラヴィアータ」と題されたオペラが面白かったかというと話は別である。わざわざ「椿姫」という絶妙な日本語訳の題名があるのに、最近のアメリカ映画のように原題を用いるというのは何故なのだろうか?成功ならともかくも、これだけ手痛い失敗作ともなると、その真意が計りがたい。今どき大時代がかった演出もどうかと思うが、見た目は新しくても、なんとも薄手な中身のない芝居をみせられるは辛かった。

 それでも歌手が良ければ救いはあるが、舞台の傾斜に気をとられて気が緩んだか、なんとも情けない歌唱を披露する歌手ばかりで残念だった。ヴィオレッタの澤畑恵美は、さすがに年季の入った存在感のある歌唱と演技ではあったが、途中から妙な響きの声を出すようになってしまって好調とは言い難かった。対するアルフレードの 樋口達哉も高音が苦しげで十全ではない歌唱でがっかりさせられた。いやしくもオペラの定番中の定番「椿姫」である。二期会の看板歌手がこの程度とは情けない。アントネッロ・アッレマンディ の指揮する東フィルも、時々信じられないようなバランスで音を発して驚かされた。演出ともども、何とも雑な印象しか残らなかったのは残念である。

 最悪だったの宮本亜門の演出である。黒白の市松格子のような歪んだ壁に囲まれた傾斜した舞台。舞台面から嵩上げして、下手から上手へ登っていく感じである。観る者を不安にさせ、ヴィオレッタの置かれている世界の状況を表現したい意図は判らないでもないが、別に平面だったとしても影響はなかったかも。それでなくても暗くて美しくない舞台で気が滅入る上に合唱団は何故か黒塗り。日本ならともかく、黒人が普通にいる国では差別的に受け取られかねない危うさで不愉快。没個性な集団として描きたかったのだろうが、そんな小細工をしなくても観客にその意図を伝えるのが演出家の腕なのだと思うのだが・・・。

 さらに意味不明なのは、第2幕に登場した刺青を身体に入れた東洋系?の怪しいダンサー達?四半世紀近く前、劇団四季の「ウエストサイド物語」に出演していた上島雪夫の振付だが、傾斜舞台の狭いスペースで珍妙な格好で踊らされるダンサー達が可哀想だった。装置は簡素な上に、小道具はテーブル兼ベッドの他には椅子というような感じなのだが、その椅子ときたら、東京文化会館の備品?なのか、オーケストラピットの楽員が座っているのと同じ椅子という手抜きぶり。

 衣裳や宝飾品なども、まともかと思ったら、第2幕でヴィオレッタの衣裳のスカートが外れ、足が露わになるなど、神田うのか、香里奈あたりのタレントがデザインした婚礼用のドレスみたいで安っぽく、無国籍な上に、時代考証がゼロに等しい品物。男性の衣裳も、革風の上着に、花模様?のプリントされたベストを着ているといった塩梅で、演出とは統一感があるようなないような微妙なテイストだった。

 登場人物の描き方にも大いに問題ありだったと思う。強烈なマザコンのアルフレードで、ジェルモンには殴られ、ヴィオレッタには未練タップリに縋り付くような弱々しい役作り。どうしてヴィオレッタが彼に対して「愛している」などという言葉を発せられるのかと思うほど情けない奴に描かれていた。こんな男に惚れてしまうヴィオレッタが馬鹿にみえてきた。さらにジェルモンは、何事も金で解決しようというような嫌らしい人間に描かれていて、ヴオレッタが、こんな馬鹿な親子のために身を引く意味が理解できなかった。

 演出も音楽も完成度は著しく低いのに、二期会のぬるま湯体質なのか、ブラヴォーが盛んに飛び交っていたのには呆れた。演出で感心したのは、第2幕を続けて演奏したことで、一瞬に場面転換をしたこと。ただし、「椿姫」を熟知している観客向けともいるもので、第3幕は第2幕の幕切れと同じポーズで並んでいる人々の真ん中にヴィオレッタが倒れている設定で効果的ともえいるが、単なる思いつきの域を脱していないようにも思えた。このオペラを何度も観ているような観客でないと何がなんだか判らないかもしれない。そうした玄人好みの演出をするのは10年早いかもしれない。

2009-02-14 23:52
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ラ・ジョコンダ 藤原歌劇団創立75周年記念公演 [オペラ]2009-02-01 [オペラ アーカイブス]

2009年1月31日(土) 15:00開演(18:30終演)
東京文化会館

指揮:菊池 彦典   演出:岩田 達宗

ジョコンダ    エリザベート・マトス
エンツォ     チョン・イグン
バルナバ    堀内 康雄
ラウラ      エレナ・カッシアン
アルヴィーゼ  彭 康亮
チェーカ     鳥木 弥生
ヅァーネ     坂本 伸司
イゼーネ     納谷 善郎
聖歌隊員    小田切 貴樹
水先案内人   水野 洋助

合唱    藤原歌劇団合唱部
児童合唱 多摩ファミリーシンガーズ
バレエ   スターダンサーズ・バレエ団
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団

女声陣の充実による感動
 

 ドラマチック・ソプラノの歌手が活躍するオペラは苦手である。何故なら単に声が大きいだけとか、感情のこもらない歌唱であったり、逆に声量が足りなくて欲求不満になってしまたり、満足させられたことが非常に少ない。今回、タイトルロールを歌ったエリザベート・マトスは完璧ともいえる歌唱で大満足させてくれた。特に第四幕のアリア「自殺」から死ぬまでの歌唱と演技は見事で、ジョコンダの心の動き、追いつめられていく過程の切なさなど、涙、涙、涙だった。とにかく彼女は第一幕から最後の場面まで、まったく文句のつけようのない名唱&名演技で、観客を魅了し興奮させ感動させた。

 それに対する恋敵であるラウラを歌ったエレナ・カッシアンもエリザベート・マトスに負けず劣らずの歌唱を披露。そして特筆したいのは、まだ若手歌手ながら老け役のチェーカを歌った鳥木 弥生の大健闘ぶりである。コントラルトの声はよく響かせたし、歌に心がこもっているという点では、エリザベート・マトスと肩を並べるレベルというか凌駕していた部分さえあったともいえる。女性歌手はいずれも高水準の歌唱をしめしたのが、大成功の一因だったのは間違いがない。

 それに比較すると浮き沈みが激しかったのは男声陣だった。まず韓国人テノールのチョン・イグンは、スピントの声質であるのに、響きが明瞭に伝わってこなかった。そうかと思えば第2幕の全幕中、最大の聴かせどころである「空と海」では、今までの歌唱はなんだったのかと思わせるほど、別人のような見事な歌唱を披露。まあ最後はうん?な部分もあったが、尻上がりに調子を上げていった。ただ背が低いらしく、バレバレの上げ底靴を履いても相手役との背の高さが釣り合わなかったのは辛かった。女性陣は階段の段差を使って、なんとか彼を引き立たせようとするのだが、背の低さはどうにもならない感じ。

 台本作者であるボーイトの「オテロ」のイヤーゴに影響を与えたのではないかと言われる悪役・バルナバを演じた堀内康雄は、悪の魅力全開だったものの、芝居をしているときはともかく、せっかくの舟唄「釣り人よ餌を投げよ」が意外に平凡に終わってしまって残念。それでも男声陣では一人気を吐いたといった感じで、狂言回しの役割を強烈な個性で演じていた。凄味や色気が、さらに加われば完璧だったと思う。

 大ブレーキだったのは、アルヴィーゼの彭康亮である。不調だったのか、それとも彼の実力だったのか、存在感に乏しい歌唱でがっかり。せっかくのアリア「彼女は死なねばならぬ」は、オーケストラの音にかき消されてしまうような声量のなさ。他の歌手が客席まで明瞭に歌詞を届けているので、その差はあまりに大きかった。藤原歌劇団では、バスの役柄は一手に引き受けている感じなのだが、他に適任者はいあなかったのだろうかと思う。それでなくても第3幕は完成度が低いのに、スタートの彼で躓いてしまったことの責任は大きいように思う。

 日本では、ほとんど上演する機会のないオペラを高水準で舞台上演を実現させたのは、指揮の菊池 彦典の力に負うところが大きいのは間違いがない。開幕のチェロの響きの美しさなど、思わずウットリ。菊池の思いを受けた東フィルも一部危ない部分もあるにはあったが、健闘していたと思う。

 演出は、舞台に置かれた石畳を模した大きな二重舞台が基本。それに左右から橋を繋げたり、背景を変化させる工夫に、沢田祐二の雄弁に語る照明で場面を上手く表現していった。第一幕は「獅子の口」サン・マルコ広場で中央に建物と下手側に獅子を頂いた塔があるというシンプルながら美しい。群衆の動きもよく計算されていて快調な滑り出しだった。

 第2幕は同じ土台に大きな帆を舞台に飾って、「トリスタンとイゾルデ」あるいは「さまよるオランダ人」かと思うような出来映えだった。実際に音楽も「さまよえるオランダ人」かと思わせような部分もあって不思議だった。ここでも人物の動かし方など、なかなか観客の想像力をする方向でよく考えられていたと思う。

 新演出の場合、時間切れになってしまったのか、どんなに名演出でも必ずエアポケットのように水準に満たない部分があるものでだが、今回は第3幕がこれに当たったようである。冒頭のアルヴィーゼの彭康亮のアリアにがっかりさせられたのも原因なのだが、幕前と脇舞台を使っての群衆処理などまったく平凡でつまらない。特に幕切れでラウラがチェーカをつけねらうような伏線の芝居をしておかないと、第4幕の出来事が唐突になってしまう。種あかしをしないという考えだとしても、何かしらのアクションがあっても良いだろうと思った。

 そして有名な「時の踊り」のバレエ。趣味が悪いとしか思えない衣裳を着て、考証が行き届いていたのかいないのか時代錯誤のバレエを見せられてもといった感じで浮き上がっていた。グランドオペラのお約束の趣向とは思っても、平凡なダンサーによる平凡な振付なので、技術的にも見るべきものがないので退屈した。狭い傾斜舞台でダンサーは得意の技を封印されてしまって大技を披露できないのも痛かった。

 第4幕は続けて上演されるので、極シンプルな装置だったが、かえって歌唱とドラマを的確に浮かび上がらせていたように思う。ジョコンダの心理が手に取るように理解できたのもエリザベート・マトスの歌唱と演技力に全てをゆだねた演出家の勝利だったと思う。最後に屏風を倒し、薔薇の花びらが舞うというのは、予想通りの演出で、歌舞伎風というか唐十郎の状況劇場のようなアングラ劇風というか、ヴェネチアが一挙に現代に飛んでしまった感じではあったが、そんなに悪くないアイディアではあった。

 NHKの収録があるらしく、会場にはテレビカメラが何台も設置されていた。この見事な舞台を数ヶ月後に再見できるのは嬉しい。ただし、一部の拍手したがりの観客の存在は残念だった。やたらと拍手していいものではなく、幕切れなど、もっと我慢して先走りはしないようにしてもらいたいたかったのだが…。日本では舞台上演が困難な作品を取り上げた英断、そして期待以上の舞台に仕上げた関係者の努力に敬意を表したい。この舞台を観たなら藤原義江旦那も喜んでいることだろうと思う。新国立劇場とも、二期会とも違う藤原歌劇団の特徴を、もっともっと強調して、藤原ならではの舞台をこれからも続けていって欲しいものである。

2009-02-01 00:43
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ドン・ジョヴァンニ 新国立劇場オペラ劇場 [オペラ]2008-12-13 [オペラ アーカイブス]

 今更なのだが、モーツァルトの音楽には「ゆらぎ」がある。それも心地よい「ゆらぎ」が…。今回の新国立劇場の新制作された「ドン・ジョヴァンニ」を観て感じたのは、まさしく「ゆらぎ」だった。

 まだ若いコンスタンティン・トリンクスの指揮する東京フィルハーモニーは、冒頭の序曲こそデモーニッシュな響きに欠けていたが、全編を通じてとっても軽やかな印象。彼はチェンバロを弾きながら指揮をして大活躍。音楽l全体は尻上がりによくなっていったが、第一幕の前半は盛り上がらずに終わったように思う。ドン・ジョヴァンニの「シャンパンの歌」あたりから、モーツァルトらしい音楽が劇場中に満ちてきて、感動的な瞬間が何度もあって、第二幕は大変な盛り上がりをみせただけに、前半の出遅れ?が惜しまれた。

 歌手にも好不調の「ゆらぎ」があって、天使の好みはふたつに別れた。まったく気に入らなかったのは、トム・ハンクス似?のドン・オッターヴィオを歌ったホアン・ホセ・ロベラである。才能のあるリリックなテナーであることは認めても、その歌心のなさには閉口。第1幕と第2幕の聴かせどころのアリアがともに不発だったのはどううしたことか。両アリアであんなに退屈させられイライラしたのは初めての経験だった。お隣のおデートカップルが二人ともその部分だけ?ぐっすり眠っていたのも理由のないことではないだろうと思った。気に入らなかった二人目は、騎士長を歌った長谷川 顯。実力あるバス歌手というイメージがあったのに、不安定な歌唱を聴かせてイライラ度は、こちらの方が高かったかも。

 気に入った歌手の第一は、ドンナ・アンナを歌ったエレーナ・モシュクである。出だしこそ不調?なのかと思ったが、後半になるにつれドンドン調子をあげていき、最後のアリアはまさに絶品。これほど美しい音楽を聴くことはなかなかできまいと思ったほどで深い感動を味わった。技巧的な部分はもとより、その歌心の豊かなこと、ドン・オッターヴィオのテノール馬鹿ぶりとはエライ違いである。

 さらにタイトルロールを歌ったルチオ・ガッロが最高の歌唱と演技を見せた。最初は外見がルパン3世?かと思ったほど冴えなかったのだが、オペラが進むにつれ、どんどんと好色な騎士となっていき、見事な地獄落ちを見せてくれて満足。

 第三は、ツェルリーナとマゼットを歌った高橋薫子と久保和範の日本人コンビ。ガタガタだった第1幕が持ち直したのも、彼らが登場してからで、他の歌手も刺激されたのかどんどん良くなっていったのが不思議だった。そのほか、レポレッロを歌ったアンドレア・コンチェッティ、ドンナ・エルヴィーラを歌ったアガ・ミコライも好演。

 さて演出は時代と場所を、18世紀後半のイタリアのヴェネツィアに設定した。演出家の言葉によれば、台本作家のダ・ポンテと親交があったと思われる?カサノヴァの生まれ育ったのがヴェネチツィアだからという。冒頭にドン・ジョヴァンニとレポレッロがゴンドラに乗って登場するのと、背景にヴェネチアの風景が映し出される以外にはあまり効果があったよには思えなかった。第二幕以降は、パネルに描かれた襖絵のような森が出現するので、演出意図は徹底されていないようだった。無理してヴェネチアにする必要があったかどうか、大いに疑問だった。別にスペインでも日本人の我々には大差ないのだけれど…。

 序曲の半ばで幕が上がると、黒の大理石?にも見えるような鏡のように光る黒い床。舞台の左右には大きなドア状の開閉部分が並んでいる壁。石造りというよりも木材を使ってヴェネツィア風?の文様が描かれた壁紙が貼られている。さらに天井には同じような梁が走っているので、ちょっと室内劇風な設えとなっていた。開閉部分が開くと、下手からドン・ジョヴァンニとレポレロが乗ったゴンドラ、上手から階段がスルスルと登場。背景には運河に建物が建つヴェネチィアの風景が映像で登場する。ぼやけたような映像なのだが夜の場面なので気にならなかったのは何より。

 全体に正統的な演出とみせかけておいて、視覚的には省略するべきものは省略していて案外と現代的な演出。基本的な舞台は、舞台のほぼ中央部分に上手から下手にかけて通じるアーチ型の橋?、その前に降りる壁、チェスの駒を模した白黒に塗られたメリーゴーランド、細長い長谷川等伯あたりが描きそうな襖絵風のパネル、下手に出現するバルコニーなどが適時に飾られ、多場面を構成し、簡素ながらセンスのある舞台装置。

 さらに衣装は、身分が高い者たちは光るサテン?のような布地でつくられていて照明の効果があってとっても美しい。ちょっと趣味が悪いと感じたドン・ジョヴァンニ第二幕の紫の衣装は、足元にあたるブルーの照明の効果が思いがけない変化をみせて幻惑的な舞台が出現して大いに驚く。偶然の産物か計算づくなのかはわからないが、計算づくだとしたら衣裳デザイナーと照明プランナーは天才である。平民は花柄のプリントの衣裳で、これまたお花畑かと思うくらい華やかで効果的だった。

 今回の演出の肝は、ドン・ジョヴァンニよりも女たちの描きかたに重きがおかれていたように思う。ドンナ・アンナはドン・ジョヴァンニに肉体を奪われたようで、冒頭で彼を追いかけながらも唇を奪われたりする。確かに序曲の間に、十分な時間があったので可能だったわけなのだが、ドンナ・アンナはドン・オッターヴィオと間違ったと言い訳していたが、ドンナ・アンナの方がドン・ジョヴァンニの方に未練たっぷりのように感じられた。貞操を守れなかったのに、しゃあしゃあと婚約者と一緒にいられるって、いまどき
もよくありそうな話で「女って怖い」の典型で、一番どうしようもないタイプだったかも。

未練たっぷりなのは、ドンナ・エルヴィーラも同じで、ドン・ジョヴァンニが自分の侍女に手を出しているのにも気がつかず、あるいは気づいていても見てみぬふり、それでも男を忘れられない悲しい女の性を描いていて秀逸。ツェルリーナにいたっては、結婚式なのにドン・ジュヴァンニになびいてしまう恐ろしさ。最後の場面で登場人物がそれぞ彼に所縁の小道具を象徴的に手にする演出がある。帽子、仮面、カタログ。彼女は一度捨てたブーケなのだけれど、絶対に再び捨てるときがあるだろうと思う。彼女に限らずそれが人間なのだと非難よりも共感できるように描かれていた。

 音楽はもとより、演出もシンプルでありながらセンスの光る上質な舞台で悪くない。会場で配られるステージノートに書かれていた解説の「ご観劇後には満ち足りた気分になることでしょう」という言葉に嘘はないように思われた。終演後はすっかり暗くなっていて、オペラシティの巨大クリスマスツリーのイルミネーションが美しく輝いていた。天使のオペラは年内はこれが最後。大きな満足を味わうことができて幸福。

2008年12月13日(土) 14:00開演

スタッフ
【作 曲】W.A.モーツァルト
【台 本】ロレンツォ・ダ・ポンテ

【指 揮】コンスタンティン・トリンクス
【演 出】グリシャ・アサガロフ
【美術・衣裳】ルイジ・ペーレゴ
【照 明】マーティン・ゲプハルト

【芸術監督】若杉 弘

キャスト
【ドン・ジョヴァンニ】ルチオ・ガッロ
【騎士長】長谷川 顯
【レポレッロ】アンドレア・コンチェッティ
【ドンナ・アンナ】エレーナ・モシュク
【ドン・オッターヴィオ】ホアン・ホセ・ロペラ
【ドンナ・エルヴィーラ】アガ・ミコライ
【マゼット】久保和範
【ツェルリーナ】高橋薫子

【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

2008-12-13 23:38
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ロベルト・デヴェリュー 千秋楽 ウィーン国立歌劇場2008年日本公演 [オペラ]2008-11-08 [オペラ アーカイブス]

 エリザベッタを歌い演じたエディタ・グロベローヴァは、完璧な歌唱の上に圧倒的な存在感で観客を魅了した。しかしながら演奏終了後、前方の席に座っていた友人のCypressさんがスタンディング・オベーションするのを目撃しつつも、素晴らしい演唱に出会った喜びよりも虚しさに囚われていた。何故、演奏会形式でなければならなかったのか?噂によれば、ウィーン国立歌劇場の原演出が、迫りを多用していて東京文化会館ではオリジナルな演出の再現が不可能だったとか…。でも、よく考えて欲しい。我々が経験した海外の歌劇場の日本公演で、真の意味でのオリジナル演出が再現されただろうか?厳密にいえば、どれもそれらしく再現したに止まっている。要は工夫次第ではないのだろうか?

 87年のベルリン・ドイツ・オペラの「指環」は、奥行の浅い会場の条件に合わせて、36メートルの奥行きが必要なタイムトンネル?の形状を変更した。88年のメトロポリタン・オペラの「ホフマン物語」では、迫りを使用しない上演形式で公演を実現した。パヴァロティの出演した「トスカ」では、見せ場の第三幕をオリジナルの大迫り使用ではない上演方法を採用した。ウィーン国立歌劇場の「パルシファル」では、舞台の最深部から始まる行進をNHKホールの奥行いっぱいを使用して再現した。アバドの指揮した「フィガロの結婚」、同時期にNHKホールで上演した「こうもり」も圧縮空気で舞台装置を浮上させる手法で、回り舞台もスライディングステージの設備もない劇場でオリジナル演出を再現した。

 今回も東京文化会館でもオリジナル演出を当初は考えていたのではないだろうか?それを証拠に、昨日と明日、唐突に東京文化会館で上演される東京バレエ団の「ベジャールのくるみ割り人形」が割り込んでいるのは、いかにも不自然である。押さえてしまった会場の穴埋めに企画されたバレエ公演のような気がしてならない。幾多の不可能な上演を可能にしてきた元NBSの広渡勲氏の穴が埋められでいないのではなかろうか?今日、東京文化会館の客席にいた観客のうち、何人がオリジナルの上演にこだわっているというのか?海外の歌劇場の日本公演では異例すぎる演奏会形式よりも、不完全であっても舞台上演を選択するべきではなかったろうか。レベルの高い演奏であればあるだけ、演奏会形式という画竜点睛を欠いたものであったことが残念でならない。

 エディタ・グロベローヴァのような不世出の大歌手であれば、舞台美術、衣裳、照明などの力を借りずとも、劇的な世界を現出させることは容易であろうが、ソリストはともかく、合唱団員が歌い演じた?小姓や従者の存在感のなさは、一体なんだろう。せっかく舞台に広がりかけた大英帝国の人間関係のドロドロが消えていった。主催者のエディタ・グロベローヴァが最も得意とする演目を日本の観客に紹介したいという思いは伝わっても、その上演形態の不完全さによって素直に受け入れ、熱狂的な反応を示すまでには至らなかった。歌舞伎ファンなら、日本舞踊で素踊りというジャンルがあるように、役者が化粧も衣裳もなしに、紋付き羽織袴で裸舞台で歌舞伎を上演している姿を想像して欲しい。確かに物語の展開は追えるだろうが、それが歌舞伎の魅力のすべてといっても納得できないだろう。やはりオペラの演奏会形式は、片翼をもがれた天使のようなものである。音楽に集中して直接向き合うことができるとしても、やはりオペラとして異常な形としか思えなかったのである。

 全席完売で、さながらエディタ・グロベローヴァのワンウーマンショーのようになってしまったウィーン国立歌劇場2008年日本公演の千秋楽公演には、なんとも形容しがたい不満が渦巻いてしまって素直に熱狂できないでいた。NBSの千秋楽公演恒例の紙吹雪と紙テープは、コンサート仕様の音響反射板が設置された東京文化会館の舞台では無理だったようで、プロセニアムと天井の音響反射板の隙間から看板が降りる中途半端な方法がとられた。祝大成功、2012年に会いましょうの文字が白々しく思えてならなかった。次回は、すべて演奏会形式なのか?と憎まれ口もきいてみたくなる。演奏会形式は今回の特例であって、今後はないことを切に願いたい。普通のオーケストラが定期公演でオペラの全幕上演を取り上げ、コンサート形式で演奏するならともかく、歌劇場がオリジナルの演出をレパートリーにもっていながら演奏会形式にするとは自殺行為に等しいと感じた。どうしても、その欠落感が埋めきれなくて早々に会場を後にする。コアなオペラファンならともかく、普通のオペラファンの天使には受け入れがたいものだった。

 いまだに舞台上演形式での演奏が実現していないエディタ・グロベローヴァ「ノルマ」とは根本的に違うのである。あろうことかNBSはヴェッセリーナ・カサロヴァの「カルメン」を演奏会形式で開催するらしい。だとしたら、エディタ・グロベローヴァの「ロベルト・デヴェリュー」もウィーン国立歌劇場の手を煩わせることなく実現可能だったのではないだろうか?別の演目の上演があってもよかったのではないだろうか?ドニゼッティではなく、シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」の三度目の上演などだったら?と夢想してみたりした。
 
 東京文化会館の音響反射板をみるのは久しぶりだった。オペラとはいえ演奏会形式なのである。オーケストラピットが舞台面まで上がっているのは、いつも演奏会と同じ。舞台端から指揮台までが長めにとられていて、歌手が演技するスペースになっていた。オーケストラの並びは通常の演奏会と変わらない。実質ウィーンフィル演奏会でのオペラ上演という趣である。舞台奧には、指揮者をとらえるカメラが立っていて、舞台裏でのドラム演奏用のモニターに映像が送られるらしい。さらに、その後ろには山台が設置されていて、1列に14名の座席が用意されていて、全部で4列となっていて56名の合唱団が並ぶ。

 開幕のアナウンスの後、盛大な拍手で迎えられたコンサートマスターのライナー・キュッヒルを先頭に楽員が入場。その後、合唱団員が上手から男声、下手から女声が入場。男性は全員燕尾服の正装であり、女声も上下黒の揃いのドレスであった。男声の4列目と3列目の一番上手に座っている団員は、小さな役を演じるときに席を立って舞台前面までくるが、基本的にはソリストは上手と下手の脇舞台から登場する形式である。

 主に演技スペースは下手側で、簡単な演技が付けられていたものの、演出家の指示はないようで、歌手の自主的な演技に任されていた模様。指輪とかショールなどの最小限の小道具しか使わない。照明も通常の地明かりなので、舞台が昼なのか夜なのかは不明。よくあるようなセミステージ形式でもなく、歌手が横一列に並んで歌ようなガチガチの演奏会形式でもなかった。

 圧倒的なのは、やはりエディタ・グロベローヴァの存在感とその演技で、わずかな演技スペースを駆使してドラマを浮かび上がらせたのは圧巻。指揮台の手すりにすがリつくような演技も交え、演奏会形式でありながら絶妙な歌唱の力もあって、見事な劇世界を構築。それに比べれば、他のソリストは立派な歌唱は披露しても、演技では手も足もでないという有様で、演技面だけでいえばエディタ・グロベローヴァのいない場面は退屈の極みだった。それでもサラの ナディア・クラステヴァ 、題名役のホセ・ブロス、ノッティンガム公爵のロベルト・フロンターリは立派な歌唱を披露していて満足。それだけに舞台美術、照明、衣裳、それに考えられた演出の力を借りたならば、彼らの歌唱がもっと輝いたような気がしてならなかった。

 エディタ・グロベローヴァの前夫?である指揮のフィリードリッヒ・ハイダーは可もなく不可もなしといった感じ。リサイタルは別の指揮者が振るらしいので、彼の指揮も日本では見納めだろうか?エディタ・グロベローヴァは、さすがに歳を感じさせる外見なのだけれど、それを補って余りある完璧で絶妙な歌唱で観客を熱狂させる。近頃、これほど身体の底から熱くなってくるような演奏は久しぶり。第一幕を終わってみれば手のひらは汗でビッショリ。文字通り手に汗握る演奏だった。グロベローヴァは幕ごとに衣裳を替えるが、他の歌手は同じ。簡単に言ってしまえば、不倫を交えた四角関係なのだけれど、普通の演奏会用衣裳に素顔での歌唱だと、やはり普通の人間関係のように見えてしまって損だったかも。意外に第一幕第二場のサラとロベルトの二重唱が盛り上がらなかったのも、このあたりに原因がありそうである。

 今回の日本公演は、やはりムーティの指揮する「コシ・ファン・トッテ」がオペラの総合点では圧倒的によかった。小澤の「フィディリオ」は、まあ最後の日本公演で華を持たせたという意味しか感じなかったし、「ロベルト・デヴェリュー」は前述したように、彼女の「ノルマ」の演奏会形式での初演のように、優秀なソリストさえ集められれば、日本スタッフでの上演で十分だったかも。


ガエターノ・ドニゼッティ
『ロベルト・デヴェリュー』
(演奏会形式)
台本:サルヴァトーレ・カンマラーノ

11月8日(土)15:00開演 / 東京文化会館
指揮: フリードリッヒ・ハイダー
合唱指揮: トーマス・ラング



エリザベッタ: エディタ・グルベローヴァ
ノッティンガム公爵: ロベルト・フロンターリ
サラ: ナディア・クラステヴァ
ロベルト・デヴェリュー: ホセ・ブロス
セシル卿: ペーター・イェロシッツ
グアルティエロ・ローリー卿: 甲斐栄次郎
小姓: 伊地知宏幸
ノッティンガム公爵の従者: マリオ・ステッラー


ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団

2008-11-08 23:00
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