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コシ・ファン・トッテ 最終日 ウィーン国立歌劇場 2008年日本公演 東京文化会館 [オペラ]2008-10-30 [オペラ アーカイブス]

 近頃、これほど上質なモーツァルトのオペラを聴いたことがあっただろうか?名演・名演奏という言葉は、今日の「コシ・ファン・トッテ」のためにあるのだと思った。心の底から、本当に久しぶりに素直にオペラを楽しむことができた。こんなに満足できるとは思わなかったので、とっても得をした気分である。それにしても小澤の「フィデリオ」とはエライ違いである。

 リッカルド・ムーティの指揮するオペラは、日本ではイタリア・オペラしか紹介されていなくて、評判の高かったモーツァルトにようやく接することができた。そのことが、まず喜ばしい。1989年4月にミラノ・スカラ座で収録されたムーティ指揮による「コシ・ファン・トッテ」のLDを長らく愛聴していたからでもある。その時のフィオルディリージはダニエラ・デッシーであった。天使が初めてこのオペラを生で聴いたのは、1986年10月のロイヤルオペラの日本公演だった。フィオルディリージは、あのキリ・テ・カナワ!ドラベラがアンネ・ゾフィー・フォン・オッター、フェルナンドがジョン・エイラー、グリエルモがウィリアム・シメル、ドン・アルフォンソがワルター・ベリーというものだった。あれから22年、同じ10月に東京文化会館で「コシ・ファン・トッテ」を聴いているのも不思議な気がした。

 幕が上がると、背後にナポリの海が広がる円形のテラス?のような舞台があって、四つに区切られた門のような壁面が円周に沿って並んでいる。円形の舞台は、回り舞台ではなくて、舞台の円形に沿って動く壁が床に埋め込まれたレール?の上を動いて、空間を上手く切り取って多場面を構成していくという手法をとった。しかも壁面は高さが違っていて外周になるにつれ、高くなるという具合。

 実はこれがなかなかの優れもので、四人の恋人たちと四つの壁面の動きが上手くシンクロしていたような気がしないでもない。それに気がついたのは、最後の最後で全てが明らかになってという場面だから、もう確かめようがないのだけれど…。それまで場面ごとに、左に右にと交錯していた壁面が、背後で一体になったのである。もともと人間関係もシンメトリーなもので、音楽もそんな風に説明できなくもないが、すべてが収まるところに収まって、しかし不自然さもあってなどと、深読みが止まらなくなりそうな演出と優れた装置だった。背景の絵も美しいかったが、壁面に描かれた絵もよくて、照明の力も借りて大変美しい舞台に仕上がっていたと思う。

 この演出、説明過多にならず、行間を観客の想像力で埋めていくようなところがあって好感が持てた。新国立劇場の新演出された「トゥーランドット」など、作品の解説を読めば容易に想像できる作曲家と周囲の女性関係が投影されて作品が成立したことを、よせばいいのにご丁寧に説明しようとするからおかしなことになるのである。「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助が、大石内蔵助で、塩冶判官が浅野内匠頭、高師直が吉良上野介などと劇中で説明すると同じくらい馬鹿げている。

 今回の演出は、説明し過ぎないので観客が想像の翼を広げるのを妨げない。変装というオペラの常套手段を使ってはいるものの、目に見えるものがすべてではないということを、さり気なく教えてくれている。人間は、見えるものだけで本当に何もかも正しく判断できているのかどうか…。それが男女関係ならなおさらである。そんなことを考えさせてくれたりする。それを、あんな変装で恋人だと見破れない方がどうかしているなんて論理を持ち込んではならないのだ。それに正当な理由を付けようとするような演出もだめなのだということが、これを観ると良くわかる。そんな愚かさがあるからこそ、人間なのである。人間は騙されやすい生き物なのだとも思わせる。上演中に「振り込め詐欺」に騙されるお年寄りに思いを馳せたりした。

 今回の上演で優れていたのは、想像の翼を広げられたからだけではない。この世のものとは思えない美しい音楽が天上から降ってきたのではないかと思えるような瞬間が何度もあった。それこそ何度も何度も…。最上の音楽に包まれると人間はこんなにも幸福な気持になれるのかと改めて思い知らされた感じである。

 それは指揮者のリッカルド・ムーティの功績であろうし、ライナー・キュッヒルが率いる世界最高のオーケストラの力によるところが大なのは言うまでもない。これだけのメンバーが揃って平凡な演奏など生まれようはずもなかったのだった。歌手では、フィオルディリージのバルバラ・フリットリ、ドラベッラのアンジェリカ・キルヒシュラーガー、グリエルモのイルデブランド・ダルカンジェロ、フェッランドのミヒャエル・シャーデ、デスピーナのラウラ・タトゥレスク、ドン・アルフォンソのナターレ・デ・カローリスといずれも素晴らしい歌唱と演技を披露して完成度の非常に高い舞台となった。独唱ももちろんだが、あとからあとから繰り出される二重唱、三重唱の比類ないほどの美しさに何度も泣きそうになった。特に女声同士の音の融け具合の妙といったら、神様の創った「美」とはこのことかと思ったほどである。

 高水準のオペラに出会えて幸福と思ったものの、我に返り周囲を眺めれば年齢の幅は大きかったが、カップルばかりであった。寂しく一人で来ている天使だけだったような…。休憩時間には、ドリンクを求めてかロビーに観客が繰り出して、1階の客席には誰もいなくなってしまった瞬間があって驚く。お隣のカップルは、上演中に雰囲気が盛り上がってしまったのか、よからぬことを始めた気配があって、風紀委員を呼ぼうと思ったくらい。まあ「コシ・ファン・トッテ」を観る態度としてはある意味正しかったような気もしたが…。あせった男性が隣の彼女じゃなく、間違って天使の腕を優しく撫でてきたのには困ってしまったけれど。普通なら怒り狂っていたかもしれない天使も、音楽の力のおかげか大人の態度で知らん顔できたのも結果としてはよかったのかも。

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト
『コシ・ファン・トゥッテ』
2幕のオペラ・ブッファ
台本:ロレンツォ・ダ・ポンテ

10月27日(月) 18:30開演 / 東京文化会館
指揮: リッカルド・ムーティ
演出: ロベルト・デ・シモーネ
美術: マウロ・カロージ
衣裳: オデッテ・ニコレッティ
合唱指揮: トーマス・ラング

フィオルディリージ: バルバラ・フリットリ
ドラベッラ: アンゲリカ・キルヒシュラーガー
グリエルモ: イルデブランド・ダルカンジェロ
フェッランド: ミヒャエル・シャーデ
デスピーナ: ラウラ・タトゥレスク
ドン・アルフォンソ: ナターレ・デ・カローリス

ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン国立歌劇場舞台上オーケストラ

第1幕  Act 1 18:30 - 20:05
Inter.       30分
第2幕 Act 2  20:35 - 22:05

2008-10-30 22:45
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フィデリオ 初日 ウィーン国立歌劇場 2008年日本公演 神奈川県民ホール [オペラ]2008-10-26 [オペラ アーカイブス]

 先週の日曜日に続いて神奈川県へ。もっとも、前回は駐車場で物損事故を起こしてしまいでかけられなかったのだけれど…。車は約10日間の入院中で代車に乗っている。久しぶりの国産車で、少々戸惑う。たとえばカーナビ。天使の車は基本的に半径10キロ圈より出ないのでカーナビはついていない。最初はへえ~とは思ったもの、たぶん利用する機会はないと思う。オートキーレスシステムというのも便利なのかな?ちょっと心配。そしてサイドブレーキ。最近はパーキングブレーキというらしいが、手で上に引き上げたり、手前に引っ張り出したりする物と思ったら、いまは足踏み式が主流とか。使い方がわからなくて恥かいた…。ということで、車ではなく電車を乗り継いでいくことにした。品川からあえて京急で、蒲田から川崎にかけての高速運転を体験。怖い…。

 さて県民ホールの外のテラスのベンチでプログラムを読んでいたら、目の前にCypressさんが…。昨夜は「コジ・ファン・トッテ」だったようで、御園座の富十郎の「修善寺物語」がよかったなどと雑談。11月8日の今回の千秋楽も一緒に観ることになるらしい。

 ところで、今日2008年10月26日は、ウィーン国立歌劇場日本公演の記念すべき100回目の公演だとか。カーテンコールでは、歌手がカーテン前に出て、指揮の小澤征爾が出る前にオーケストラピットから楽員が全員になくなってしまって、アレアレ?だったのだが、オペラカーテンが開くと、例によってNBS恒例の祝100回公演の大看板が降りてきて、紙テープと紙吹雪が舞う。舞台には出演者とスタッフが勢揃い、ホーレンダ総裁、小澤征爾、佐々木忠次氏が揃いの法被を着て鏡開き!主要な出演者に升が配られ乾杯。二度目に幕が開いて下手からライナー・キュッヒルを先頭に楽員が登場して幕となった。MCがなくて段取りが悪く、ちょっとまとまらない趣向だったけれど、久しぶりに杖をついても元気な佐々木氏を観られたのは何より。終演後にはオーストラリア大使館主催のパーティーが東京であると事情通が言っていた。

 100回公演を記念して、英語版ながら1980年から2008年までの7回にわたる公演記録のプログラムを1500円で売っていた。今回と同じカルロス・クライバーが「ばらの騎士」の千秋楽で鏡開きをした写真が掲載されていた。1994年10月20日、天使も最愛の彼と東京文化会館にいたのだ!その時の酒樽の銘柄は、「菊正宗」だった模様。懐かしかった。

 その記念誌には、舞台写真、バックステージ写真の記録の他、全公演の日程別の配役、全出演者の記録など、オペラファン必携の内容。最も上演回数が多いのは「フィガロの結婚」の21回、続いて13回の「ばらの騎士」、第三位は「ナクソス島のアリアドネ」だった。最多出演は、ハインツ・ツェドニックの10演目、53回の出演の大活躍である。

 巻頭には、ウィーン国立歌劇場総監督のイオアン・ホーレンダー、音楽監督の小澤征爾、NBSの佐々木氏ノインタビューが載っているのだが、オーストリア劇場連盟総裁のゲオルグ・シュプリンガーの文章が洒落ていた。10月26日の楽屋口で日本人の男性が、ウィーンの男に煙草をすすめて会話が始まるとい趣向。最後に楽屋口に消えた男を見て、ウィーンの男性がオーストリア劇場連盟総裁のゲオルグ・シュプリンガーだと日本人が気がつくというオチ…。

 その中の会話の一部を以下に採録

JAPANESE MAN:Well,if anything,there are three things that make this a very special evening!
VIENNESE MAN:(slightly put out)Namely?
JAPANESE MAN:Firstly,today is Austrian National Day,secondly,today is the one hundredth perfomance by
the Vienna State Opera in Japan…
VIENNESE MAN:Excellent.But now I'm curious:thirdly?
JAPANESE MAN:(triumphantly)…and thirdly,today the Vienna State Opera is performing Beethoven'sFIDELIO for the first time in Japan.After all,it's the most important opera about freedom in Austrian twentieth century history!
VIENNESE MAN:(shaking his head,smilingly pensive)As I said:you know an awful lot!…I am going inside now and looking forward to a triply special evening.And for that - as well as for cigarettes
-I have you to thank! (turns and goes in at the stage door)

 開幕が近づいてオーケストラの音が止むとしばしの静寂。ちょっと長めの間が微妙だったかも。例の開演中の注意アナウンスが流れて客電が落ちると小澤が登場。序曲の冒頭は緊張感に満ちて上々の滑り出し!かと思ったらなんだが全体的にゆったりとした音楽の流れに…。緊張の糸がどんどん緩んでいき、第1幕の最後の四重唱や五重唱あたりはゆるゆるになってしまった。レオノーレ第三番など、統制がとれていたのか好き勝手やられていたのか、浮き沈みの激しい演奏に感じて感心しなかった。小澤征爾はいつもながらの暗譜で気合十分だったようで、日本人指揮者にベートーヴェンは無理?とは思わないが、歓喜や勝利をもっと高らかに歌いあげて欲しいと思った。また、それに対する苦悩や戦いの葛藤も掘り下げが足りないので、物足りなく思ったのかもしれない。ウィーン国立歌劇場にとっては重要な作品のひとつだけに残念だった。

 演出はオットー・シェンクの1970年のものというから、すでに38年目!装置はギュンター・シュナイダー=シームセンによるオーソドックスなもの。左右に石壁が袖幕かわり奧に向かって何列か並び、舞台前面端から舞台奧に向かって傾斜していく灰色の基本舞台。第一幕は中空に鉄格子のある回廊が巡り、奧に向かって牢獄の空間を表す。第1場は、その前に壁が降ろされていてマルツェリーネがアイロンがけをしているところから始まる。緞帳のラインから舞台前面端まで、けっこうスペースがあるので演技エリアは広くて、歌手にとっては有利なのかもしれないが、幕が閉まる途中で舞台奧に行かなければならないし、第2幕の最終場面では皆奧にいて演技をするので、ちょっと遠くに感じてしまって損だったかも。

 第1幕の後半は、一度幕が閉められ舞台転換。壁がなくなっただけなのに、奥行きいっぱいに空間が広がって別の装置のようだった。第2幕は三本の柱を全面に出し、中央の柱に鎖へ繋がれたフロレスタンがいて、とってもリアルな感じ。後ろに階段がみえていて、床には墓穴があるというもの。後半は、舞台奧に囚人の恋人達が集まっていていて、太い鎖のついた跳ね橋?が舞台奧に向かって降りていき囚人達が解放されるのを後ろから観る感じになって面白いアイディアだと思った。演出に関しては、目新しいものはなく、名演出ということで大切にされているのだろが、音楽の邪魔をしないのが唯一の取り柄のような凡庸さを絵に描いたようなもの。新国立劇場の「フィデリオ」は高い意識で作られていたのが、ようやく判ったような始末。確かに30年以上もこうした演出なら、色々いじった新演出に走りたくなるのももっともだ。

 歌手ではタイトルロールのデボラ・ヴォイトがカーテンコールで盛大な拍手を集めていたが、かつてベルリン・ドイツ・オペラの「さまよえるオランダ人」のゼンタで披露したような強靱な声は影をひそめ、第1幕の「悪者よ、どこへ急ぐ!」は正直なところ期待はずれ。ところどころに綻びも散見された。少し下半身に肥満の影を感じたが…。第2幕はそれでも持ち直したが、声もルックスも中途半端な歌手になってしまったのが惜しい。

 フロレスタンのロバート・ディーン・スミスといえば、新国立劇場の「ワルキューレ」のジークムントや「運命の力」のドン・アルヴァーロを歌ってすっかりお馴染みのテノール。少々一本調子のところは気にかかるが、声質は悪くない。ドン・ピツァロを歌ったルベルト・ドーメンは、敵役にしては存在感に乏しく、もっともっと悪の色気を漂よわせてくれないとハラハラドキドキできない。声の魅力も感じなくてブレーキになっていたかも。

 男声で一人気を吐いたのは、ロッコを演じたヴァルター・フィンク。とっても響くバスの台詞が魅力的だし、立派な体躯に娘への愛情や、正義と不正義の間で揺れ動く葛藤など上手く演じてみせて秀逸。まさに歌役者で、こうした歌手は日本人にはいないタイプなので面白く観た。ウィーンの合唱団には東洋人も多くいて、第2の囚人を歌った ヒロユキ・イジチ は多分日本人。女声には藤原歌劇団の合唱部が混じっていた模様。年齢層の幅広さだけはウィーンの歴史を感じさせて良い。素敵なオジサマの合唱団員をずっとオペラグラスで追っていた。まあ、それだけ演奏に集中していなかったということで、自慢できることではないが…。一音、一音を絶対に聞き逃すまいと緊張して観るようなオペラではなかったのは確か。

 小澤とウィーン歌劇場人気で満員の盛況だが、残念だったのは、幕が閉まり始めると盛大に拍手をしてしまう困った観客が少なからずいたこと。しかも自信を持っての堂々たる拍手。まだ音楽が続いているのに、特に第2幕の幕切れをぶち壊した拍手にはがっかりさせられ悲しくなった。カーテンコールを延々とやっていた割には18時5分には外へでていた。なかなか時間だけには正確な上演だったのかも。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
『フィデリオ』
2幕のオペラ
台本:ヨーゼフ・フォン・ゾンライトナー(仏語から独語翻訳)/
シュテファン・フォン・ブロイニング(第2稿)/
ゲオルグ・フリードリヒ・トライチュケ(決定稿)

10月26日(日) 15:00開演 / 神奈川県民ホール
指揮: 小澤征爾
演出: オットー・シェンク
美術: ギュンター・シュナイダー=シームセン
衣裳: レオ・ベイ
合唱指揮: トーマス・ラング

フロレスタン: ロバート・ディーン=スミス
レオノーレ: デボラ・ヴォイト
ドン・フェルナンド: アレクサンドル・モイシュク
ドン・ピツァロ: アルベルト・ドーメン
ロッコ: ヴァルター・フィンク
マルツェリーネ: イルディコ・ライモンディ
ヤキーノ: ペーター・イェロシッツ
第1の囚人: ウォルフラム・デルントル
第2の囚人: ヒロユキ・イジチ

ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン国立歌劇場舞台上オーケストラ
合唱協力:藤原歌劇団合唱部

第1幕15:00 - 16:20  
休憩 30分
第2幕16:50 - 17:50

2008-10-26 22:59
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トゥーランドット 初日 新国立劇場 [オペラ]2008-10-02 [オペラ アーカイブス]

 劇場内へ入ると舞台一面にグレーのスクリーン?。指揮者が登場して音もなくスクリーンが上がると、自転車に乗ってシルクハットを被った煙突掃除人が登場。あれあれ?「マイ・フェア・レディ」か「メリー・ポピンズ」か????幕切れは、中国の物語だったはずなのに、なんと1920年代イタリア色満開!写真だけを見たら何かのヴェリズモ・オペラみたい。五目炒麺を注文したはずなのに、イタリアのパスタが出てきたような感じ。しかも1幕目は、何コレ?という出来(音楽がフニャフニャ)で心配したが、2幕目からは持ち直してなんとか3幕のオリジナルの最後まで到達…。そこで演出が破綻をみせて、結局最後は、なんだかしっくりこなかったなあというのが正直な感想。

 以下ネタバレ全開です。



 演出家のヘニング・ブロックハウスの弁によれば、第三幕のオリジナルの結末までは、作曲された1920年代のイタリアの街の広場にやって来た中国雑伎団の劇中劇という構造。その前にカラフ=プッチーニ、トゥーランドット=妻のエルヴィーラ、リュー=自殺してしまう愛人であった小間使いのドーリアとの関係が示される黙劇がある。主要な登場人物ばかりでなく、見物人である街の人々まで仮面をつけて中国風の衣裳をつけるという芸の細かさ。なんだかフランスの「ル・ピディフ野外劇」か函館の「野外劇」か?という感じ。そこには、フランス出身のジーン・メニング扮する道化とアクロバットを披露する芸人が終始からむという趣向。元々、中国の物語とはいえ、洋楽が流れ、イタリア語で歌われるわけだし、違和感のないアイディアではある。第2幕はサーカスのテントまで登場。しかも、幕間にも舞台は開いたままで、劇中劇をさらに強調させる手法で素晴らしいアイディアだとは思った。

 イタリアのとある街のお祭りの広場らしく、青空が描かれたホリゾントの前には移動遊園地の遊具が上手と下手に一基ずつ。真ん中にサーカスのトレーラのような赤い車が置かれていて、サイドの壁が前に倒れてきて、階段とつながって劇中劇のステージとなる。左右には物売りの屋台があったりする。きっかけで舞台上の登場人物が仮面をつけ、中国服を着込むところは、思いがけない展開で興奮させられた。 

 中央のトレーラーの上には、サーカスのジンタ楽団(赤い衣裳にメイクを施したバンダ)が陣取り、何かといえばかぶり物をかぶりたがる踊り子たちなどが1920年代風の西洋風のいでたちで現れるのが効果的だった。この女性ダンサーたちは、中国風ではぜんぜんなくて、バーレスク風というか浅草オペラ風というかなんとも大衆的で白痴美人を集めましたという感じ。なんといっても金髪に提灯ブルマ風のショートパンツが泣かせる。踊りも当時流行ったに違いないダンスが満載で、なんとフラダンスも登場!首切り役人の女性ソロダンサーは、イサドラ・ダンカンみたいだし、群舞はドイツ表現主義風舞踊といえなくもない。という訳で、演じられているのは中国の伝説時代の物語なのに、周囲の枠はあくまで1920年代のイタリアなのである。ダンスを珍妙に感じた観客もいたかもしれないが、ダンス史の時代考証?が行き届いていたと解釈するべきだと思う。

 そして道化の活躍がこの演出のキモであったようだ。とにかく大活躍で、その肉体表現を見ているだけでも飽きないし、演出家がミラノ・ピッコロ座でストレーレルについていた人だけに、コメディ・デラルテはお手のものだったようで、普通の演出ではピン・パン・ポンの場面で笑えることなど少ないのだが、第三幕の冒頭で、あんなに笑ったのは初めてだった。あのフラダンスは最高!馬鹿馬鹿しいけれど…。

 そして最も感心させられたのは、プッチーニになぞらえたカラフ、トゥーランドット、リューの三角関係で、今まで聴いてきた歌がまったく違った意味あいに聞こえてきたのには驚いた。カラフの「名前」ではなく、カラフの「不倫」に置き換えると凄く通りのよい物語になるのである。亡くなった最愛の彼と22年間不倫関係だった天使は、当然のことながらリューに強烈な思い入れ…。そして涙、涙。

 もっとも、そうした物語の世界観もプッチーニが最後に書き残した部分までだったのが惜しまれる。例のアルファーノの補筆部分になると、登場人物がまたイタリアの風俗に戻るのだが、そうすると劇中劇の間には違和感のなかった三角関係が急に本来の物語と乖離してしまった印象で収拾がつかなくなって破綻しているように感じた。特に舞台上の人々が着替えを始めると芝居が散漫になってしまい主役達が可哀想であった。未消化な部分は演出家も認めているようなので、最後の最後で息切れしてアイディア倒れに終わってしまったのが残念といえば残念だった。素に戻ったトゥーランドットが、リューの遺書?手紙?を読んで、真実を知るなどという小芝居があるのにはあるのだけれど…。

 歌手陣は、第1幕は出だしが不調だったが、第2幕でトゥーランドットのイレーネ・テオリンが登場したあたりから尻上がりに持ち直したのは何より。カラフのヴェルテル・フラッカーロ、ティムールの妻屋秀和など好演。しかしなんといってもリューを歌った浜田理恵が素晴らしいと思った。リュー自身もさることながら、プッチーニの愛人だったドーリアの心情までも表現していたように思えて味わい深かった。オーケストラピットにビッシリ並んだ東フィル、それを率いたアントネッロ・アッレマンディもまずまず。

 物足りなさといえば、プッチーニの愛情問題に収斂した演出だったおかげで、オペラでありながら舞台上に悪人らしき人物というか憎まれ役がいない感じになってしまって、最後が盛り上がらない原因になったのかも。そのかわりといってはなんだが、幕間に劇場係員に食ってかかっている人物を発見!自称音楽評論家で有名なヒゲにメガネのお方である。劇場の男性案内人になんらかの落ち度があったのか、「お前じゃわからん、上の人間をだせ!理事長を呼んでこい」という完全にクレーマーな状態。声を荒らげても周囲の観客からは完全に無視されていて気の毒なほどなんだけれど、ご本人には全然自覚がなくて…。「弱い犬ほどよくほえる」の典型みたいになって哀れだった。どうも観客の前で、怒鳴り倒させるというのは劇場側の作戦=他の観客を味方につけるという高等戦術のような気がしたが、ご本人は気がついていなかったようだった。もう見るからに嫌な奴、性格や行動がはっきり顔に出ている奴、根性がねじまがっているのが、遠くにいてもわかるような奴と周囲からは見られていたようだ。関わり合いにならないで見ている分には、物凄く面白かった!ごめんなさい。終演は21時25分予定だったけれど、21時40分くらいになった。

2008年10月1日(水) 18時30分開演 
【作 曲】ジャコモ・プッチーニ ※フランコ・アルファーノが補筆
【台 本】ジュゼッペ・アダーミ&レナート・シモーニ

【指 揮】アントネッロ・アッレマンディ
【演 出】ヘニング・ブロックハウス
【美術・衣裳】エツィオ・トフォルッティ
【照 明】ヘニング・ブロックハウス
【舞台監督】大澤 裕

トゥーランドット】イレーネ・テオリン
【カラフ】ヴァルテル・フラッカーロ
【リュー】浜田 理恵
【ティムール】妻屋 秀和
【アルトゥム皇帝】五郎部 俊朗
【ピン】萩原 潤
【パン】経種 廉彦
【ポン】小貫 岩夫
【官使】青山 貴
【クラウン】ジーン・メニング

【合 唱】新国立劇場合唱団
【児童合唱】NHK東京児童合唱団

【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

2008-10-02 01:31
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大須オペラ パロマの前夜祭 千秋楽 スーパー一座 大須演芸場 [オペラ]2008-08-04 [オペラ アーカイブス]

 今日は日帰りで名古屋行き。Cypressさんと一緒に観劇しました。それにしても暑い。36度以上はあったような。名古屋駅に着いてすぐに「味噌煮込みうどん」を一半、さらにご飯を2杯、漬け物もお代わりしてしまいお腹はパンパン。外に出たらこの暑さで目が回りそうだった。少し早く大須観音に到着したら、夏祭りをしていたので見物しようと思ったけれど、じっとしていても汗まみれになるので我慢できずにコメ兵に避難。終演後は、Cypressさんとひつまぶしを食べにいき、新幹線の時間までバーで飲んでいましたが、それにしても暑い、いや熱い。

 熱いのは、大須オペラの「パロマの前夜祭」も同じで、17年間続いたオペラ公演も諸事情により今日で終わり。本当の千秋楽で、カーテンコールはいつもの倍の時間やっていたようで、終演は16時20分過ぎになった。「蛍の光」も二回演奏され、指揮者も去ったのに拍手が鳴りやまず、数度目のカーテンコールがくり返された。座長の原智彦が、これではきりがなくて、いつまでもビールが飲めないからと終了を宣言して笑わせた。そして一本締めで本当に最後。なんだか、こちらも涙ぐんでしまって…。17年間本当にご苦労さまでした。

 というわけでサルスエラの「パロマの前夜祭」は、熟年の男が若い姉妹を愛してしまうが、妹に心を寄せる若者との三角関係がどのようにして最後を迎えるかというのが簡単なお話。結局、若い男女は障害を乗り越えて結ばれ、熟年の男は、姉妹の養母と結ばれてメデタシ、メデタシというハッピー・エンド。

 それに歌や踊りが挿入されて賑やかな舞台になった。芸達者な出演者が多い中では、好色な薬屋の熟年を演じた野口登志が凝ったメイクで、とんでもない人物を愛嬌タップリに演じた。彼と最後に結ばれるアントニアおばさんを演じたのは後藤好子。なんという怪演。もうここまでやるかというクドイ演技なのだが、可笑しくて可笑しくて目が離せなかった。ダブルで薬屋を演じる間瀬礼章も薬屋の友人を演じて、小ネタを次々に繰り出して独特の存在感は、今回も健在だった。

 白塗りに青いアイシャドウに真っ赤な口紅という特殊?メイクの女性陣、キレのよいダンスで堪能させてくれた男性陣と狭い舞台に溢れんばかりの登場人物が、それぞれ大活躍していた。特に目についたのは、トランプをする客と町の男達の二役を早替わりしていた児見山宗志が踊りの実力で目立っていた。そしてカーテンコールで「グラナダ」を披露した若井雄司も高音は苦しそうな部分もあったが、一番歌えていたのは間違いなかったようだ。編曲と指揮を担当した宮脇泰は、悪条件の中で全体を引っ張っていって立派だった。

 にぎやかな場面よりも、実は一番心に残ったのは、世の中の不景気を嘆く浮浪者の部分。そこだけ色合いが違っていたのだが、なんだか心を捕らえて離さなかった。あれは一体なんだったんだろう?面白いというよりも不思議だった。来年からオペラが上演されないのは寂しい。なんとか復活してくれないものだろうか。世の中にこんなに面白い音楽劇があるのを、多くの人は知らないというのに…。

2008-08-04 00:22
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こうもり 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトⅨ 東京文化会館 [オペラ]2008-07-30 [オペラ アーカイブス]

 さて今日一番の拍手を集めていたのは、もちろん腰痛で降板が続いた小澤征爾である。登場から超満員の客席から物凄い拍手が…。元気そうだったのは何より。若い音楽家の教育プログラムの一環なので音楽的には問題が山積みのような気がするが、若い彼らが海外の一流歌手と一緒に舞台を創り上げた経験が、何年か後に花開くことを切に祈りたい。

 とにかくアンサンブルが破綻しそうになったり、実際に破綻してしまったりと常にハラハラドキドキ。とってもとってもスリリングであり、バラバラになった音楽を聴かされる居心地の悪さを久しぶりに味わった。若い楽員は演奏していないときは、舞台の芝居をみて笑っている余裕があるなら、もう少し音楽をなんとかするべきではなかったろうか。というより、小澤の身体って、相当悪いのではなかろうか?本当にこれが小澤の音楽?という瞬間が何度もあったからだ。

 それでも教育効果は絶大だったようで、コーチ役のウィーンフィルのヴェヒターが第2ヴァイオリンの第1プルトに座り隣の若い奏者とアイコンタクトしながら実に楽しそうに演奏していたのが見えて感動した。しかも彼自身が譜めくりをするのである。天下のウィーンフィルの首席になんということを!もうビックリ。なんという贅沢な教育プログラムなんだろう。

 2004年にも上演されたデイヴィッド・ニース演出のサンフランシスコ・オペラのプロダクションは、第1幕のちょっと古めのウィーンの味わいのある2階建てリカちゃんハウス風の装置が面白い。また第2幕の後半、舞踏会の場面での空間の広がり具合も劇場的で素敵だった。そしていかにもウィーンのモダニズムを感じさせる刑務所の装置など感心させられた。その一方で衣裳のけばけばしい下品な色遣いは、やっぱりアメリカ産だからかとちょっとガッカリ。照明は歌謡ショーみたい。

 今回の演出の目玉は、看守のフロッシュに特別出演してくれた元宝塚スターの大浦みずき。最初「ベルばら」のフェルゼンで登場して「愛、それは~」を熱唱するというサービスぶり。しかも本役の看守になってからは、日本語とドイツ語を駆使し、宝塚の三枚目役の技術?を惜しげもなく披露して絶好調だった。こんなに笑った「こうもり」の第3幕は初めて。大成功の演出だと思った。特にオルロフスキー公と男役トップスターの共演というのも興味深い試みである。

 さて肝心の歌手陣であるが、しょっぱなからアルフレート役のゴードン・ギーツに声量がなくてガッカリ。せっかくヴィオレッタも歌うアンドレア・ロストを相手にしながら、アルフレートがアルフレードを歌うという美味しい設定を活かせなかった。退場時にはオケが「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」を演奏して華々しく退場という派手な仕掛けだったのにVincero が張って歌えないので効果が半減してしまい残念だった。

 アイゼンシュタインのボー・スコウフス、ファルケ博士のロッド・ギルフリー、フランクのジョン・デル・カルロは、いずれも押し出しが立派で舞台映えがして、歌はもちろん芝居も上手く満足させてくれた。さらにブリント博士のジャン=ポール・フシェクールは、背が低いのを逆手にとって個性的な役作りで大いに笑わせてくれた。

 男声陣の充実に対して、ロザリンデのアンドレア・ロスト、アデーレのアンナ・クリスティ、オルロフスキー公のキャサリン・ゴールドナーは彼らの存在感に比べると影が薄いように思われた。特にアンドレア・ロストが不安定で物足りなさが残った。それでも芝居の上手さでは群を抜いており、だましだまされの男女の関係の機微は、今まで観た「こうもり」の中でも一、二を争うできだったと思う。第1幕の主人公夫婦とアデーレの嘘のつきあいのお互い様ぶりが強調されているのがわかった。最後の夫に平手打ちは、ウィーンなら眉をひそめられそうだが、サンフランシスコならありなんだろうか?

 もっとも演出はよくても、まず音楽が一番大切なわけで、小澤信者ともいえる好意的な観客ばかりで「良かったね」というところだろうか。若い諸君には、「でも世の中そんなに甘くないんだ」と知ることも必要かと思う。悪いところは悪いと言われないと進歩はないと肝に銘ずるべきであろう。

来年はバーバラ・ボニー、アンゲリカ・キルヒシュラーガーらのによる「ヘンゼルとグレーテル」と演目が発表されていた。
公演地は7/20横浜、7/23上野、7/26びわ湖、7/29名古屋、8/1浜松ということである。

2008年7月30日(水) 18時30分開演 [全3幕]<原語上演/字幕付>

音楽監督・指揮:小澤征爾
演  出:デイヴィッド・ニース
装  置:ヴォルフラム・スカリッキ
衣  裳:ティエリー・ボスケ
照  明:高沢立生
振  付:マーカス・バグラー
サンフランシスコ・オペラ・アソシエーション所有プロダクションを使用

管弦楽:小澤征爾音楽塾オーケストラ
合  唱:小澤征爾音楽塾合唱団

ロザリンデ:アンドレア・ロスト
ガブリエル・フォン・アイゼンシュタイン:ボー・スコウフス
アデーレ:アンナ・クリスティ
アルフレート:ゴードン・ギーツ
オルロフスキー公:キャサリン・ゴールドナー
ファルケ博士:ロッド・ギルフリー
フランク:ジョン・デル・カルロ
ブリント博士:ジャン=ポール・フシェクール

フロッシュ:大浦みずき


2008-07-30 23:47
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トリスタンとイゾルデ パリ国立オペラ初来日公演 オーチャードホール [オペラ]2008-07-27 [オペラ アーカイブス]

 今回のいささか玄人好みの演目について語るモルティエ総裁のプログラムのこんな言葉に目がとまった。

 例えば、ウィーン国立歌劇場の日本公演のプログラムのように、《コシ・ファン・トッテ》と《フィデリオ》なんて組み合わせは、私はまったく考えません。そんな組み合わせを私は理解できないし、私に言わせれば「プログラムと呼ぶことさえできない」と思います。もうすでに評価を確立しているプロダクションや、有名な歌手を呼んでくる、なんてこと自体が退屈なことなのです(笑)。
 
 喧嘩屋?であるNBSの佐々木氏も真っ青な自信に満ちた言葉…。本来ならパリ・オペラ座バレエ団の招聘で実績のあるNBSが主催者でもおかしくない今回の初来日公演。この言葉を深読みすればNBSとモルティエの間に衝突でもあったのではないかと勘ぐりたくなる。(しかもパリ・オペラ座ではなく、パリ国立オペラっていう呼称でした)

 ということで最高席58,000円ながら、とびきりのスター歌手や指揮者はなし。最先端の演出であるらしいいが、商売になるような演目ではない。先のモルティエの言葉はごもっともなのだが、需要があってこその供給であるべきで、上から目線ではなく、観客の目線に立った演目選定をするべきだと思う。いまさら「カルメン」持ってこいなんて言わないが、あまりに独りよがりではないだろうか?せめてもの抵抗に今日は3階席で観たのだけれど、なんと42,000円。星のついたレストランでも二人で十分に食事のできるお値段ではある。

 とはいうものの「トリスタンとイゾルデ」に満足しなかったわけではない。むしろ久しぶりに心の底から沸き上がってくるような感動を味わった。(部分的だが…)それは認めなければならない。演奏、歌唱、演出とも高水準で揃った演目だったともいえる。知的な好奇心をもくすぐられて、悔しいけれど楽しんでしまった。面白いのである。退屈な部分に感じることが少なくない「トリスタンとイゾルデ」なのに…。かつてバイエルンのコンビチュニー演出の「トリスタンとイゾルデ」が上演されたことがあったけれど、趣味の悪いソファが登場した記憶があるくらいで、きれいサッパリ忘れている。それに比べれば、今回のピーター・セラーズの演出は当分忘れないかもしれない。それほど強烈な印象を残したのである。

 つい最近まで、この演出が映像を伴ったものだと知らなかった。トリスタンとイゾルデと思える裸体の男女の宣伝用の写真を見て、実際に歌手が裸で歌うのだとばかり思っていた。それがビル・ヴィオラという映像作家の映像が4時間に渡って流れると聞いて、オペラが無声映画の伴奏になるのかと思っていた。そのどちらも外れたのだが、映像の解説も配られたりしたものの、何も必要としないほど想像力の翼を羽ばたかせる力を秘めたもので、ドラマの理解は助けはしても少しも邪魔にならないものだった。

 舞台の高さは、ギリギリいっぱいまでプロセニアムアーチが広げられたようでオーチャードならではのプロポーション。全面が黒一色で覆われていた。オーケストラピットの楽員はすべて黒の衣裳。指揮者のビシュコフだけが白のシャツに黒のベストだった。幕が開くと、寝台のような簡素な装置だけで、ほとんど装置らしい装置はなく、背景のスクリーンのみ。そのスクリーンも幕毎にその大きさを変える芸の細かさが泣かせる。

 前奏曲などオーケストラの演奏以外は、すべてスクリーンに映像が映される趣向。海、水、炎、など象徴的なものと、トリスタンとイゾルデと思われる中年?の男女が映し出される。歌手はその前で演技を披露するわけだが、二次元の映像と上手く溶け込むように考えられているのか、ほとんど正面切って歌われる。床面を照明で区切って登場人物を浮かび上がらせる仕掛けで、精緻な計算が施されていて一枚の絵と見た場合、映像と演技スペースのバランスが驚くほど美しい。

 もっとも美しいと思ったのは、第2幕でマルケ王がトリスタンとイゾルデの不貞を知ってしまったときだった。その孤独、その苦悩、音楽、映像、計算し尽くされた構図の妙によって、かつて経験した事がないほど胸が締め付けられるような思いを味わった。

 そして「愛の死」が歌われる終幕の感動。音楽的には少々物足りなく思わないでもなかったが、それを補ってあまりある映像の美に酔いしれた。心の底から浮かび上がってくるような感動は本当に久しぶりである。最後の和音が響いて空間に消えていき暗闇が広がる。もう少し沈黙が続いてくれれば完璧だったのに汚い「ブラボー」で感動は打ち砕かれた。たまらずロビーに飛び出す。

 映像の出来には、さすがにデコボコがあって、一番面白かったのは第1幕である。大海原が映し出されたかと思うと主人公と思われる二人が服を脱ぎだして全裸になる。もちろん女性はヘア、男性は男性自身が見えてしまう。それがトリスタンとイゾルデの心情に微妙にシンクロしていて、いつ決定的な瞬間を迎えるのか、とってもスリリングだった。その時を迎え、上から下へ落ちる水に両手を出して手のひらをこすり合わせる。ズバリSEXを暗示していて、全裸姿よりも官能的だった。そして二人は官能の海に落ちるのだが、その瞬間に若い身体へ変身したように見えた。

 映像を使用しているからといって、劇場的ではないかと言うとむしろ逆で、この舞台は映像収録されては、面白さは全く伝わらないと思う。舞台面を見ると二次元なのだが、劇場全体を使用する演出がなされていた。第一幕では舵手が2階席上手のバルコニーで歌い、合唱団は1階席最後方に並んで歌う。第2幕ではブランゲーネが天井に最も近い下手のバルコニー?から歌って危険を知らせる。第3幕ではイングリッシュホルンが3階下手のバルコニーから、牧童らが2階席上手下手から、それぞれ歌いかけて効果的。確かにこれは劇場でしか味わえない。第1幕の幕切れは客電が点灯。マルケ王が舞台のトリスタンとイゾルデを凝視する演出があったのだとか。見えなかったけれど…。

 ビシュコフの指揮はゆったりとしたテンポで、優しい響きに包まれるかのようで、ゲルマン的というよりもラテン的なワーグナーで、いかにもパリの歌劇場といった感じ。歌手はそれぞれ健闘していて、外来オペラではNHKホールで上演されることの多かった「トリスタンとイゾルデ」も音響はともかく、この劇場空間には似合っていたように思う。


2008年7月27日(日) 14時開演 19時10分終演予定

指揮:セミヨン・ビシュコフ
演出:ピーター・セラーズ
映像:ビル・ヴィオラ

トリスタン:クリストン。フォービス
マルケ王:フランツ・ヨーゼフ・セリグ
イゾルデ:ヴィオレッタ・ウルマーナ
クルヴェナール:ボアズ・ダニエル
ブランゲーネ:エカテリーナ・グバノヴァ
メロート:サムエル・ユン
牧童/若い水夫・船乗り:アレス・ブリシャイン
舵手:ユリ・キッシン

パリ国立オペラ管弦楽団・合唱団

2008-07-27 23:21
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ナクソス島のアリアドネ 東京二期会オペラ劇場 東京文化会館 [オペラ]2008-06-29 [オペラ アーカイブス]

プロローグと1幕のオペラ 字幕付原語(ドイツ語)上演
台本:フーゴー・フォン・ホフマンスタール
作曲:リヒャルト・シュトラウス
会場: 東京文化会館大ホール
公演日: 2008年6月 29日(日)14:00

指揮:ラルフ・ワイケルト
演出:鵜山 仁
装置: 堀尾幸男
衣裳: 原まさみ
照明: 勝柴次郎
演出助手: 澤田康子

舞台監督: 菅原多敢弘
公演監督: 大島幾雄

配役
執事長 田辺とおる
音楽教師 初鹿野 剛
作曲家 小林由佳
テノール歌手(バッカス) 青栁素晴
士官 髙田正人
舞踏教師 小原啓楼
かつら師 三戸大久
召使 石川直人
ツェルビネッタ 安井陽子
プリマドンナ(アリアドネ) 横山恵子
ハルレキン 萩原 潤
スカラムッチョ 森田有生
トゥルファルディン 斉木健詞
ブリゲッラ 児玉和弘
ナヤーデ 吉村美樹
ドゥリヤーデ 磯地美樹
エコー 谷原めぐみ

 ツェルビネッタのアリアの途中で盛大な拍手が巻き起こったり、最後の幕が閉まって音楽が止んだ途端に無粋なブラヴォーがかかり、最後の余韻が台無しになった…。客席ばかりでなく後半部分では舞台装置が上手く上手から出てこないミスがあるなど、全体としてはけっして高レベルな上演ではなかったのだけれど、リヒャルト・シュトラウスのオペラを聴けたという一点に絞れば楽しめた上演だった。

 成功の一因は、作曲家の小林由佳、ツェルビネッタの安井陽子、アリアドネの横山恵子ら女性歌手陣がいずれも絶好調だったからである。それに引き替えテノール歌手(バッカス)の青栁素晴は、終始不安定な高音を聴かせて低調。二期会は女声陣は充実しているが、男声陣の実力が残念ながら追いついていないようである。ラルフ・ワイケルトの指揮する37人の東京交響楽団の精鋭?は、淡々としすぎてしまってリヒャルト・シュトラウスを聴く喜びを半減させてしまっていたようで、誠に印象の薄いものに終始していたように思う。

 さて演出は何故か新国立劇場の演劇部門芸術監督である鵜山 仁。ツェルビネッタの一座にチャップリンやグルーチョ・マルクスといった無声映画の喜劇スターのソックリさんがいるのが目新しいが、至極まっとうな演出という印象。オーケストラボックスの上手側に銀橋?が架けられ、客席からも出演者が登場するという劇中オペラという枠組みを意識した演出が施されていて、ご丁寧にも上手脇花道と下手脇花道には座席が置かれ、プロローグの出演者が途中からオペラを見守るという趣向。

 舞台上には楽屋へのドアとバルコニー席のあるプロセニアムが組まれていて富豪の邸宅でのオペラ上演というよりも本格的な歌劇場での上演という趣。歌舞伎でいう上手と下手の大臣柱を結ぶ線上にブルーの紗幕のカーテンが引かれ、その奧には波を模した装置が置かれ、後方はブルーの布製のホリゾントが見えるという形式。後半は中央に置かれた五角形の傾斜舞台の背景に「俊寛」の岩組の山のような絵が描かれた鏡板のような装置で、その奥の中空にバッカスがクレーンに乗って登場するというケレン演出。

 全体は毒にも薬にもならないような無難な演出で音楽の邪魔をしなかったのが何よりというようなレベルだった。最近の尖った二期会の演出の中にあっては普通すぎるくらい普通だった。それにしても後半はプロンプターの声が聞こえすぎた。千秋楽だというのに…。

2008-06-29 22:49
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マルタ ウィーン・フォルクスオーパー 2008年日本公演 千秋楽 [オペラ]2008-06-09 [オペラ アーカイブス]

2008年6月8日(日) 14:30開演 東京文化会館

フリードリヒ・フォン・フロトー作曲
『マルタ』
4幕のロマンティックな喜劇オペラ

指揮: エリーザベト・アットル
演出: マイケル・マッカフェリー
舞台装置: ジュリアン・マクゴーワン
合唱指揮: ミヒャエル・トマシェック
ドラマトゥルギー: ビルギット・マイヤー
CAST
レディ・ハリエット・ダーラム:
メルバ・ラモス
ナンシー: ダニエラ・シンドラム
トリスタン・ミクルフォード卿: マティアス・ハウスマン
ライオネル: ヘルベルト・リッペルト
プランケット: アントン・シャリンガー
リッチモンドの判事: ヨゼフ・フォルストナー

ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団
ウィーン・フォルクスオーパー合唱団

 少し早めに上野に着いたので不忍池の周囲を散策。南の空にはヘリコプターが7機も旋回していて騒然とした雰囲気。後から「秋葉原通り魔事件」が発生したことを知る。

 素晴らしい公演だった。まったく期待していなかっただけに嬉しい驚きとなった。ウィーン・フォルクスオーパーの9年ぶりの来日公演といえば、「こうもり」「メリー・ウィドウ」「チャールダッシュの女王」など定評のある演目を上演してもよかったはずだし、たぶん観客動員でも楽だった思う。豪華メンバー?の「こうもり」はともかく、「ボッカチオ」「マルタ」など知名度も低く、オペレッタ専門の劇場のオペラって…。というのが正直なところだった。もっとも本拠地では、オペレッタ、オペラ、ミュージカル、バレエも公演するらしいので、ようやくその全貌を日本に紹介するといった意味あいもあったのかもしれない。

 オペラといえば、大部分の演目のテーマは「愛」または「死」、その両方である。今回の演目は、もっぱら「愛」に焦点を当てたようで、舞台上では誰も死なない作品ばかりである。たぶん「愛」がこの劇場のメインのテーマなのかもしれない。今回の来日公演では、誠にそれにふさわしい作品が紹介されたといってよい。テノールのアリア「マルタ」は知っていたけれど、どんな物語か全然知らなかったし、「庭の千草」が重要な旋律として扱われていることも初めて知った。

 「マルタ」は甘美なメロディばかりかと思っていたら、オペラらしく?骨太で重厚な場面もあったりで、一筋縄ではいかない演目だったようである。歌唱力も演技力も高い水準を要求される作品で、アンサンブルも重要。大スターがチョチョイと歌い演じられるようなものでもないし、マイナーな作品なので、そもそも大スターはレパートリーに持っていないのかもしれない。

 指揮者は女性のエリーザベト・アットルが担当。序曲から躍動感あふれる生気に満ちた音楽を響かせた。もう少々、ニュアンスに富んだ部分も欲しくなって、特に第2幕の「ブランケットとライオネルの家」の場面の前半などいささか単調になってしまった部分を除けば、尻上がりに調子を上げていって成功していたと思う。

 歌手陣は、いささか生硬な声質でもっと艶やかな響きが欲しいと思わせる歌手もいなくはなかったが、それぞれ大健闘で千秋楽の舞台を盛り上げていたと思う。大きな不満はない。むしろ衒学的な聴き方は、そもそもこの演目に似合わないと思う。この演目が楽しめないとしたら不幸な人生を送ってきた人なのかもしれないと同情してしまう。簡単に言えば、恋におちた二人が、身分の違いなど困難を乗り越えて、真実の愛を勝ち取るまでというシンプルなストーリーを美しい音楽で綴ってみただけのオペラである。小難しいことを言っても仕方がないのである。観客は、ひたすら主人公に自分の恋の体験を重ねあわせていけばいいのである。そうすれば深い感動に出会える。まさしく夢を紡ぐ劇場であるウィーン・フォルクスオーパーに最もふさわしい演目であった。

 舞台はたぶんオリジナルと同じサイズで、上手と下手を狭め、空間を斜めに切った形で傾斜舞台が奧まで続いていて、一番奧が高くなり湾曲しているのが基本舞台。左右の壁が舞台奧を扇の要のようにして閉ざされたり、舞台上部からプラットホームのような装置(ブランケットとライオネルの家)がするすると降りてきたり、第1幕と第2幕、第3幕と第4幕が続けて上演されたが、音楽の進行を妨げない見事な舞台転換が素晴らしかった。前半の幕切れ、家の装置がスルスルと上部に上昇し、緞帳がスルスルと降りるタイミングの良さには目を見張った。そして後半冒頭の居酒屋から狩りの場面への転換の鮮やかだったこと!そこでは、舞台の色調が変化して、演出も破調となるのだが、音楽と演出がこれほどシンクロする例をみたことがない。狩り場の女官たちの衣裳、動き、指環のファゾルトやファフナーを思わせる巨人スタイルの女官のイメージ、そして犬!など見事である。そして計算し尽くされた照明の美しさは特筆に値する。

 「庭の千草」といえば、思い出すのは杉村春子が足踏みオルガンを伴奏に歌っているイメージ。何かの本かテレビの特集で見たかもしれない。それが今回、これほど心を震わすような懐かしさをもって歌われるとは思わなかった。こんなに美しく、情感をこめて歌われるとは脱帽である。そして「マルタ」。よく素人の発表会などで歌われるのを聴くが、これまたオペラの中で歌われると格別の味わいがあった。

 紆余曲折のあった男女が結ばれる幕切れの爽やかな余韻は、ドロドロの愛憎劇を繰り広げる他のオペラの筋書とは違って、今回の来日公演を締めくくるにふさわしいものとなった。例によって裏方まで登場して、舞台にテープや紙吹雪が舞うNBSの千秋楽の趣向も後味の良さを残した。

 さて5月の中旬から6月の中旬までNBSが東京文化会館をずっと借り切っているようである。今日はモーリスベジャールバレエ団の横浜初日である。佐々木氏は横浜へでかけたようで上野にはいなかった。月曜からは東京公演の仕込みと本番である。会場では、またまたCypressさんとバッタリ。来週の土曜日には同じ会場で「バレエ・フォー・ライフ」を観ることになるようだ。嬉しい。楽しみだ。

2008-06-09 00:06
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こうもり ウィーン・フォルクスオーパー2008年日本公演 [オペラ]2008-05-25 [オペラ アーカイブス]

ヨハン・シュトラウス作曲
『こうもり』
3幕のオペレッタ

5月25日(日) 14:30開演 / 東京文化会館

指揮:レオポルト・ハーガー
演出: ハインツ・ツェドニク
舞台装置: パンテリス・デッシラス
衣裳: ドリス・エングル (エヴェリン・フランクのオリジナルに基づく)
振付: リリ・クレメンテ、スザンネ・キルンバウアー
合唱指揮: ミヒャエル・トマシェック

ロザリンデ: ナンシー・グスタフソン
アデーレ: ダニエラ・ファリー
イーダ: マルティナ・ドラーク
オルロフスキー公爵: ヨッヘン・コワルスキー
アイゼンシュタイン: ディートマール・ケルシュバウム
ファルケ博士: ミリェンコ・トゥルク
アルフレート: ルネ・コロ
イワン: ハインツ・フィツカ
フランク: カルロ・ハルトマン
フロッシュ: ハインツ・ツェドニク
ブリント博士: ゲルノート・クランナー

ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団
ウィーン・フォルクスオーパー合唱団
ウィーン国立歌劇場およびフォルクスオーパー・バレエ

 初めてウィーン・フォルクスオーパーを見たのは、2回目の来日公演でCBCが招聘していた頃だった。「こうもり」を東京文化会館の1階席中央で観た時の驚きと感激を今も忘れはしない。あのメラニー・ホリデーのアデーレの第一声から圧倒されてしまった。そしてペーター・ミニッッヒのアイゼンシュタインにも、すっかり魅了されてしまった。12年ほど前、初めてウィーン・フォルクスオーパーを訪れたときの演目は「こうもり」で、ペーター・ミニッヒは素敵に歳を重ねて刑務所長のフランクに回っていた。彼は今頃、どうしているのだろうか?

 今回は9年ぶりの来日公演となってオペレッタと珍しいオペラ2作品である。かつてNBSがウィーン国立歌劇場の第1回目の来日公演を実現させたのに、ウィーン・フォルクスオーパーで実績を上げていたからなのか、ウィーン国立歌劇場との抱き合わせだったのか、CBCが ウィーン国立歌劇場の第2回目の来日公演を招聘していた。その敵討ちなのか、怨念なのか、NBSの佐々木氏はまたしても挑戦的な文章を書いている。今までの来日公演を親しみ安さをはき違えた“低俗”と斬って捨てている。

 たしかに本拠地では実現しないような豪華メンバーの『こうもり』になったことだけは確か。でもウィーン・フォルクスオーパーであって、ウィーン国立歌劇場ではないのである。あのNHKのホールに圧縮空気を床面に吹き付けて舞台装置全体を浮かび上がらせて回り舞台での転換が実現した来日公演の豪華さはない。ウィーンで観たのと同じ薄っぺらな舞台装置を継承しているようである。そんな無理をしてまでオリジナル演出を再現したのは、もちろんクライバーが指揮をしてくれるかもという期待があったからだろ思うが、彼は「ばらの騎士」だけを振ったのだった。

 そのときオルロフスキーを歌ったのが今回と同じカウンター・テナーのヨッヘン・コワルスキーである。NHKに飾り込んだ舞台装置を火曜日にNHKのホールから放送される歌謡番組のために撤収することが出来ず、第2幕の装置をそのままNHKの番組に提供。五木ひろしとコワルスキーが同じ番組に出ていたのである。

 さすがに今回の来日公演では、メンバーがすっかり入れ替わってしまったようで、往年のスターであったマルティッケやネーメット目当てにキャストを替えて「ボッカチオ」のチケットを2枚買ったのに、その週の金曜から日曜まで仕事になってしまって泣く泣くチケットを手放す羽目になってしまった。本当に残念である。

 今回の「こうもり」の売りは、20世紀後半を代表するヘルデン・テノールのルネ・コロの出演だろうか。さすがに70歳になってしまっては老いが隠せず、音楽的にも辛いものがあったのだが、若手の歌手が演じることも多いこの役を大ベテランが歌い演じるとなると、老いているからこその生への渇望といった必死さが感じられ、作品の本質は離れるが、性への執念みたいなものもみせて凄まじいばかり。別の味わいを大いに楽しんだ。第3幕のウィーン・フォルクスオーパーの歌手と聞いて同情され賄賂を返されるお約束のギャグでは、大スターのコロでは現実味が乏しいのかほとんど笑いが起きなかったが…。

 この「こうもり」ときたら、舞台装置や衣裳など伝統を継承しているし、定番のギャグ(第1幕の体操で夜会行きのウキウキ気分をごまかす、第3幕の12月32日とか、落ち続ける帽子の奇跡とか…)も満載なのだが、とにかく出演者全員がエロいのである。かつては、そこはかないといった感じだったのに、肉感的、官能的な演出がストレートに施されていて21世紀的。しかもオルロフスキーとイワンが主従を越えた同性愛で結ばれているとは驚いた。保守的な劇場かと思われたが、大胆なことをするものである。しかし同性愛の意味あいが、単なる風俗としてしか描かれていなかったのが不満と言えば不満ではある。

 そのコワルスキーは、中音域はともかく高音がことごとく不発であった。さすがに演技力でカバーはして健闘していたが、力任せに歌ってふり絞るような高音は、全盛期を知るだけに聞いていて辛い。それでも出演者の中では、圧倒的な存在感で舞台を支配していたように思う。

 その割を食ってしまったのがロザリンデのナンシー・グスタフソンとアイゼンシュタインのディートマール・ケルシュバウムである。本来なら盛り上がるべき、「時計の二重唱」や「ふるさとの調べよ」のチャルダーシュ の部分が不発で集中力を欠いたエア・ポケットに入ってしまったような微妙な空気が流れた。その他の歌手陣ではアデーレのダニエラ・ファリーが、本来美味しい役ではあるが達者な演技と歌で客席を喜ばせていた。

 体裁はウィーンの本拠地のアンサンブルをということで、かつてのような余計な入れ事(刑務所でのバレエなど)がなく、日本語をしゃべったりするサービスもなく、ほぼオリジナルに近いのだろう。1点豪華主義?のキャストとはいえ、現地では庶民的な劇場なのにS席39,000円という強気な値段設定はいかがなものだろうか。東京でなら星が三つついたレストランでそこそこのワインを含めた食事ができる値段である。この舞台にそれだけの価値があったかは大いに疑問である。音楽監督・レオポルド・ハーガーの指揮するオーケストラは、演奏し慣れているのか快調そのものだが、洗練とか繊細さに著しく欠けていたように思うが、そうした完成度を求めるのはお門違いなのかもしれないが…。来日公演自体が珍しく無条件ですべてを受け入れることのできた時代が懐かしい気もする。

 幕間にロビーでCypressさんに、またまたバッタリ。まあ毎度のことで驚かなくなったが、同じ舞台を観ることが多いのは誠に嬉しいことである。食事の先約があって、終演後が別行動だったが、たまには終演後にオペラ談義などしてみたいものである。

 話は全く関係ないが、この文を書いているときに、教育のN響アワーをBGMに流していたら、中村紘子のラフマニノフのピアノ協奏曲第二番?だったらしいが、あまりの酷さに思わず手が止まってしまった…。何コレ?びっくりです。

2008-05-25 23:29
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軍人たち 新国立劇場 千秋楽 [オペラ]2008-05-11 [オペラ アーカイブス]

 どうも評判が良いらしいという噂が耳に入って、観劇予定ではなかったのだが、急遽観ることに決定。もっともチケットは売り切れらしいので、当日売りに賭けることに…。新国立劇場へ買いに行けるわけもなく近所のファミリーマートへ。10時ちょうどにアクセスできて、D席のチケットGet!と思ったら、突然ファミポートがフリーズしてしまい動かなくなってしまった。店員さんを呼んで再起動しているうちに売り切れてしまい、泣く泣くS席を購入。それもアッという間に売り切れたようで新国立劇場へ行くとキャンセル待ちの長い行列が…。当日券を手に入れただけでもラッキーだったようである。

 当初は観る予定をしていなかったので予備知識はゼロ。未知のオペラだというのに予習もまったくしていなくてプログラムだけが頼りという状態。同じ思いの人が多かったのかプログラム売り場の行列がいつまでも途切れないのが珍しい光景だった。

 場内に入ると舞台面は黒一色。オーケストラピットは深くて楽員が全く見えない。左側のバルコニー席にはジャズのバンドが陣取り、オーケストラピットに入りきれなかった打楽器奏者は地下の練習室でモニターで指揮を見ながらの副指揮の合図で演奏するのだとか…。しかもその音はスピーカーを通して場内へ流すことを作曲者自身が指定しているらしい。その他、効果音用のスピーカーが客席にいくつも配置されていた。

 場内の客電が落ちると、なんの前触れもなく黒幕が振り落とされ、序曲?が始まった。音楽は予想通りの20世紀の現代音楽的なもので、演出がよほど練られていなければ、最後まで聴き通すのが難しいような、よく言えば多彩な、悪く言えばハチャメチャな音楽が最後まで流れ続けた。もっとも場面が変わる毎に暗転幕が降りてきて舞台転換となるので、音楽が止むので助かったが…。

 舞台上高さ1メートルくらいのところに、長方形の舞台が作られていて、ちょっと見たところはシネマスコープサイズのスクリーンみたい。黒地に白いラインが引かれたモノトーンの舞台装置。奥行きはあまり無く演技スペースの広さはズッと変わらない。そこに白い洋服、白いメイク、白いスキンヘッドのおびただしい人々が並んでいた。よく見ると白い洋服はグレーの水玉模様になっていて、放射能の影響で全員ハゲになり、放射能雨によって模様が出来てしまったのか?と深読みをしてみる。もっとも衣裳の色には意味があって、白は市民階級、赤は軍人、黄色は貴族?という色分けがあるので、深く読みし過ぎたかもしれない。

 市民階級の娘が、婚約者がいるにもかかわらず軍人に交際を迫られ、やがては貴族にまで二股かけるが、結局は娼婦に転落していくという物語。これを額面通りに受け取ってしまったら面白くも何ともないものになってしまう。それを飽きさせないのが演出者の腕の見せ所なのだという。そして最終幕の意味については、観客が答えをだすよう迫られているようで、楽しめた人、退屈してしまった人、感動した人、居眠りしてしまった人と様々な反応だったように思う。天使のお隣さんは、オペラ初めてだったとか…。いくらなんでも初体験オペラが「軍人たち」とは、運が良いのか悪いのか微妙。

 なぜ娼婦に身を落とすのが、そんなに不幸なのかは理解しがたいというのが天使の感想。確かに軍人たちに強姦されたりという境遇は不幸なのだけれど…。「東海道四谷怪談」では、お岩さまとお袖の姉妹は、生活力のない父親が浪人すると、お岩はゴザを持って夜鷹に、お袖は地獄宿に出て、それぞれ売春婦になる。歌舞伎では、娼婦になるなんて当たり前。男にだまされて当たり前。もっともっと凄い境遇が後から後から不幸が…。という設定が当然なので「マリーって、生きてるだけでもまだ幸福じゃん」と思った。どのような状況でも、当の本人が不幸と思えば不幸だし、幸福と思えば幸福ということだから、マリー自身は不幸だと思っているのだろけれど…。

 序曲の間はけっして自分自身を幸福とは思っていない市民階級の人々の中に混じって、マリーと母親がいる。きっかけで他の人々が下手へ集まっていき、母娘が残されるという小芝居。それは終幕にもくり返されて、連環というか関連性を持たせる意図があるらしいが、その効果は…。どうにも使い古された演出という印象が残る。

 場面、場面で登場人物の心の動きを視覚的に見せようというのが演出者のねらいらしく、それは主に色で表される。白の仲間だったマリーが、軍人と出会って赤い靴を履いたり、軍の赤い帽子を被って、だんだんと染まっていく。途中で貴族の黄色い衣裳になるが、無残な姿にされてしまい、結局は赤い衣裳を身にまとい娼婦に身を落とす。赤い衣裳で売春というのが、知らず知らずに戦争へ巻きこまれてしまう無力な市民の姿なのかな?とも思ってみた。

 大きな白い椅子、後ろの壁が倒れ、赤い背景から匍匐前進で進んでマリーに迫る軍人。仕立屋の長い布をひっぱて来るシュトルツイスとハサミを持ったその母親とか。印象に残る場面は多いが、第一幕ははっきり言って退屈だった。観るのも聴くのも苦痛だったかも。もう一度観るかどうかと聞かれたら、きっぱりと観ませんと言ってしまいそう。

 やはり面白かったのは第2幕から、特に終曲になって、舞台装置全体が下手に大きく傾斜し、シュトルツイスの毒殺と服毒自殺、娼婦になった血みどろのマリーと父親の邂逅。それにもまして、劇場内に響いた軍人たちの奏でる?暴力的な音響。今までの音楽をすべて否定するような音に底知れぬ恐怖を感じた。でも感動とは違う。苦さといったザラついた感覚が残ったという感じ。

 とにかく20世紀を代表する巨大な作品を取り上げ、成功に導いた若杉弘芸術監督の手腕を高く評価するべきであろう。少なくとも新国立劇場なくしては上演されることもなかったに違いないのだから。それに駆けつけた聴衆が数多存在したことも。劇場へ足を運ばなければ絶対に体験できない作品だけに貴重な機会ではあったと思う。

2008年5月10日(土) 14時開演 16時40分終演

【指 揮】若杉 弘
【演 出】ウィリー・デッカー
【美術・衣裳】ヴォルフガング・グスマン
【照 明】フリーデヴァルト・デーゲン
【再演演出】マイシェ・フンメル
【指揮補】トーマス・ミヒャエル・グリボー
【共同衣裳デザイナー】フラウケ・シェルナウ
【衣裳・ヘアメイク監修】ロビー・ダイヴァマン
【音 響】渡邉 邦男
【舞台監督】大澤 裕

【ヴェーゼナー】鹿野 由之
【マリー】ヴィクトリア・ルキアネッツ
【シャルロッテ】山下 牧子
【ヴェーゼナーの老母】寺谷 千枝子
【シュトルツィウス】クラウディオ・オテッリ
【シュトルツィウスの母】村松 桂子
【フォン・シュパンハイム伯爵 大佐】斉木 健詞
【デポルト】ピーター・ホーレ
【ピルツェル 大尉】小山 陽二郎
【アイゼンハルト 従軍牧師】泉 良平
【オディー 大尉】小林 由樹
【マリ 大尉】黒田 博
【3人の若い士官】中嶋 克彦 / 布施 雅也 / 倉石 真
【ド・ラ・ロッシュ伯爵夫人】森山 京子
【若い伯爵・伯爵夫人の息子】高橋 淳
【ラ・ロッシュ伯爵夫人の召使】木幡 雅志
【若い見習い士官】青鹿 博史
【酔った士官】川村 章仁
【3人の大尉】細岡 雅哉 / 藪内 俊弥 / 浅地 達也

【合唱指揮】三澤 洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団


2008-05-11 00:32
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