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文楽は東京でも危機? [文楽]



大阪市による今年度の文楽協会への補助金は、国立文楽劇場の初春公演で計約3万人を動員しないと満額が交付されないという。大阪が不入りでも東京公演は常に満席という神話も崩れ去ろうとしているようだ。

1月7日10時から発売された国立劇場の二月文楽公演。第一部には住大夫が出演するというのに、全日程まだ売切れていない。真冬の三部制ということで、多少割高になるものの、危機に直面している文楽の技芸員を勇気づけるためにも連日の満員御礼としたいところである。

すでにあぜくら会の優先予約でチケットは三部とも入手済みなのだが、スケジュールの許す限りチケットを買い足すことにした。
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住大夫の「千本松原の段」初日 『伊賀越道中双六』@国立劇場小劇場 [文楽]

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天使は住大夫が嫌いだった。初めて文楽を観た頃、津大夫や越路大夫がまだ現役で、そうした世代に続く人という認識しかなかったことと、文字久大夫を苛め抜くテレビ番組などの情報も良い印象を与えてくれなかった。それに住大夫を神格化したような観客の態度も気に入らなかった。病気から復帰した住大夫を観るのは今回が天使にとっては初めて。九月の文楽公演の初日、一生ものの感動が待っていようとは。それも住大夫からとは。

病気をしたからか、住大夫の印象は、それまでのギラギラしたものが無くなり、すっきりとした印象。透明感が増したといったところだろうか。元気になったといっても高齢の住大夫である。次の『伊賀越道中双六』の上演する機会に彼が語れるという保証はない。一期一会の舞台になるであろうことは、多くの観客の熱い拍手が物語っていた。

テレビ番組で、自らの声を評したように美声とはいえない声質。それを気迫で補っていたような芸だったが、その意欲も今回は前面に出ていないで、むしろ全体が淡々とした印象。物足りないと思った観客も多かったのではないだろうか。

暗闇の千本松原で、生き別れになった親子が再会しながら、親は自らの命をかけて敵の居場所を聞き出そうとし、子は義理に縛られて親の願いを聞き入れることができない。これでもかこれでもかと義理と人情の交錯を語るのではなく、丁寧に丁寧に二人の心の動きを伝えてくれる。熱演とは程遠く、むしろ慈愛に満ちた達観したような語りだった。

最後の場面で「なみあみだ」と念仏が唱えられる。それは今まで聞いたことのないような、弱々しくも、どこか遠くて清らかな場所から響いてくるような気がした。深くてそれは誰にでも出せるような声ではなくて、住大夫が人生の最後に到達した境地なのだと思うと涙がこぼれた。平作を住大夫に、十兵衛を自分になぞらえていたのかもしれない。住大夫は輝いていた。でも、その光は渋くいぶし銀の輝きというものだった。

幕が閉まっても、涙は止まらない。後から後から静かな感動が押し寄せてきて周囲に人がいなければ、大地に伏して号泣していたことだろう。売店で売っていた沼津から取り寄せた「平作もなか」を買おうとしたが、涙で財布を開けることができなくて恥ずかしい思いをした。「平作もなか」の形は、最後の名場面で、切腹した平作に雨がかからぬように十兵衛が差し出す道中笠を型どったお菓子である。小ぶりなものだが、その形を思い出したら、さらに涙は止まらなくなって、ロビーの椅子に腰掛けたまま落ち着くのを待った。

先週は吉右衛門の「沼津」を観て、11月は藤十郎の十兵衛と翫雀の平作という親子共演?による「沼津」も上演される。しかし、静まり返った場内に響いた住大夫の祈りの声音を生涯忘れないと思う。そうした機会を与えてくれた芝居の神様に感謝である。
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小鍛冶 曲輪ぶんしょう 関取千両幟 2月文楽公演・第2部 [文楽]

通し狂言風の上演が並んだ第1部と第3部。それに比べれば文楽を見物したという満足感のある第2部だった。

「小鍛冶」は、千歳大夫、始大夫、靖大夫などが出演。人間国宝の住大夫と源大夫が病気休演とはいえ、20名ほどの大夫に出番をつくらなければならないからか掛け合いでの上演が目立つ公演でもある。松羽目の舞台から暗転をはさんで写実?な舞台に転換するという文楽らしい見せ場があって、それなりに楽しめた。

「曲輪ぶんしょう 吉田屋の段」は睦大夫に切は嶋大夫。勘十郎の夕霧、玉女の伊左衛門という配役で期待したのだが、男女の他愛無い色事とはいえ単調にすぎたように思う。こんなに心の浮き立たない演目ではないはずだったが。

「関取千両幟」は師走の京都南座の顔見世で歌舞伎での上演を観たばかりである。人間が関取を演じるよりも、人形の方が創造力がふくらんで数段に面白い。人形同士で相撲をとるという趣向も気に入った。圧巻だったのは浅葱幕が降りて、三味線を使って曲弾きを藤蔵と清志郎が披露したことである。三味線を使って太鼓の響きを表現、さらには撥を飛ばしたりといったケレン味たっぷりな演奏で客席をわかせた。

話自体は他愛無いものと思っていたが、意外な演奏がついていたので大いに楽しんだ。源大夫が休演で呂勢大夫が代演したのもよかった。期待の蓑助だが今は彼が元気に人形を遣うだけでも価値があることなので少々のことには目をつぶるしかない。いつまでも舞台に立っていて欲しい人なのである。

さて、天使の密かな贔屓は文字栄大夫なのだが、今回もアッという間の出演で終わってしまって残念。かつて愛していた貴大夫の芸といい、文字栄大夫といい、あまり評価が高くないのだが、彼らのような大夫がいてくれるからこそ、文楽は栄えるのだと思う。

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摂州合邦辻 2月文楽公演・第1部  国立劇場小劇場 [文楽]

恒例の3部制の2月文楽公演。第1部は『摂州合邦辻』より、「万代池の段」と「合邦庵室の段」の上演である。地味な演目、地味な出演者のせいか客席の入りは7割程度と、最近の文楽公演では珍しく空席が目立っていた。

上演時間は3時間、物語も「万代池の段」がつくことによって分かりやすくなっているはずだが、物語の荒唐無稽さ観客が興味をしめさなかったのかもしれない。こうした演目を観てこそ、危機にある文楽を応援したことになると思うのだが、所詮第1部を見逃しても平気なのは、その程度のファンだったのだといっておこう。

これからの文楽を担っていく人々の出演で話題性には乏しいかもしれないし、同じ料金を払うなら蓑助の出る第2部という気持ちもわからないではないが、とにかく文楽は瀬戸際なのである。今の代で文楽を衰退させてしまってはいけないのは、技芸員も観客も同じなはずである。

そうした熱い想いが、観客にも出演者にあったとしても、それが舞台成果に簡単に結びついていかないのが舞台の難しいところである。三輪大夫、南都大夫、相子大夫、希大夫、津國大夫らが掛け合いで出演する「万代池の段」は何ら印象に残るものがなかった。続く「合邦庵室の段」は咲甫大夫、津駒大夫、咲大夫も無難というにとどまっていた。これは観客は正直な判断をしたというべきなのかもしれない。

寒い時期に3部制で上演する意味は薄れてきたように思う。初期の頃は、近松名作集といった感じで3部制が取り入れられたのだと思うが、2部制ではいけない理由が見出すことができない。内容の充実、料金にみあった満足感を得るといったら2部制での上演が、今の文楽にはふさわしい気がする。

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妹背山婦女庭訓 2月文楽公演・第3部 [文楽]

いくら目玉となる出演者がいないとはいえ土曜日の公演で初日だというのに後方には空席が目立っていた。住大夫も、文雀も、蓑助も出ていないのでは観客動員が難しいという文楽の置かれている状況が反映されている客席だったのかもしれない。

天使のお目当ては、英大夫が語る「金殿の段」だったので、英大夫の大熱演で大いに満足した。ただ歌舞伎と違って、あっさりした幕切れなのは少々物足りなさも残るのだが。「鱶七上使の段」の文字久大夫、「姫戻りの段」の咲甫大夫も中堅層の充実をみせていてよかった。

その前に上演された「道行恋苧環」は、清治の三味線を中心に呂勢大夫、睦大夫、芳穂大夫ともによかったが、三味線の清志郎、清丈の真摯な演奏する姿に一番心を動かされた。

さて人形だが、お三輪の紋壽が元気なところを見せるが、あまりに人形と一緒に演技をしすぎるのように思えて文楽としてはいかがなものか。和生の淡海、和女の鱶七も適役。それ以外の役に目立った存在がいないのが問題の様な気がする。もちろん入鹿を遣った玉輝は存在感が抜群なのだが。初日ということもあって、多少の不手際もあったが、満員の客席であれば、違った舞台になったのかも。

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三谷文楽 其礼成心中 パルコ劇場  [文楽]

もう2週間以上前に上演が終了してしまったのだが、忙しくてブログの更新もままならないまま無為に時間がすぎてしまった。反省の意味も込めて感想を少々。

文楽の危機が叫ばれて久しい。9月の東京・国立劇場小劇場の公演には住大夫が病気休演となってしまっても第一部は全席売り切れ、第二部も残席が僅少という大盛況である。結局は話題になればチケットは売れるということなのだろう。これまでのPR活動がお粗末だったということなのだろうか。

「文楽」も「三谷幸喜の舞台」にも一生無縁のままだというのが大多数の日本人。渋谷のパルコ劇場に集ったのは、1億人の日本人の中の変わり者なのかもと思いながら席についた。定式幕はあるものの文楽回しは当然のことながらない。文楽の地方公演で使うような巻き上げ式の御簾の下がった仮設の床もない。さて、どうして大夫と三味線弾きを登場させるのか?開幕前の三番叟はあるのか?出演者を紹介する黒子の口上はあるのか?上演中の客席は明るいのか?答えは全てNOだったのだが、開幕前に作者自身が一人での操る三谷人形?が登場。開演中の注意をしたり、客いじりをしたりして客席を盛り上げた?・・・これもNOだったかも。


人形遣いは高下駄を履くこともなく平舞台で人形を遣い、舞台後方の高い位置に大夫と三味線弾きが左右からスライドしてきてスピーディーに舞台を進行。舞台装置も最小限で照明の効果を多用、人形遣いも総勢12名しかいないので最大でも三人遣いの人形は4体までしか出せないハンディも乗り越えて爆笑の舞台を作り上げていたのは何より。

近松の「曽根崎心中」や「心中天網島」の名場面も織り込んで文楽の魅力を初めて観る観客にもアピールしていたし、人形が本来持つ喜劇的な味を「おふく」の名演技?で最大限に引き出した手腕は見事だった。ただし、文楽に欠かせない義理人情の世界とは無縁な話だったので、笑えても心に響くようなものは希薄なのは仕方がない。大多数の観客は笑いを求めていたのだから…。もっとも観客は文楽の中に出てくるカタカナ語に多く反応していて笑いの底は浅かった。

気になったのは三谷が、この芝居の中の江戸の時間をあまり意識していなかったこと。物語の発端は一体何時だったのだろう。夜に開いている饅頭屋、真夜中?に一人歩きする幼い娘?などなど疑問だらけ。江戸時代にコンビニじゃあるまいし饅頭屋が夜中には営業しないだろう。とツッコミをいれながら観ていた。

中堅の実力派である千歳大夫、呂勢大夫、清介らが実力を発揮し、若手の人形遣いが活躍。しかし、國立劇場の本公演で上演して欲しいとは全く思わない。まずは古典作品を継承することに努力して欲しい。大阪の文化の破壊者?である市長は喜んで観るかもしれないので国立文楽劇場では上演したらいいのではないだろうか。



作・演出 三谷幸喜

出演 

竹本千歳大夫
豊竹呂勢大夫
豊竹睦大夫
豊竹靖大夫

鶴澤清介
鶴澤清志郎
鶴澤清丈
鶴澤清光

吉田幸助
吉田一輔
吉田玉佳
桐竹紋臣
桐竹紋秀
吉田玉勢
吉田蓑紫郎
吉田玉翔
吉田玉誉
吉田蓑次
吉田玉彦
吉田玉路
吉田蓑之

囃子 望月太明蔵社中

上演時間

19:00〜21:00
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橋下市長と文楽 新しい演出で観客を獲得? [文楽]



大阪府知事時代に『勧進帳』を観て、「もう二度と観ない」と宣言したはずの橋下大阪市長が、『曾根崎心中』を再び観て演出が古すぎると苦言を呈したらしい。文楽の演目の中でも人気があり、比較的理解しやすいであろうと選ばれた演目が受け入れられないとしたら他の演目など絶対に駄目であろう。現状ではベストメンバーといえる天満屋の段を源大夫が語り、徳兵衛を勘十郎、お初を蓑助が遣っても心を動かされないとしたら文楽とは一生縁のない人なのだと思う。そんな人間が為政者となり補助金カットを言い出すのは大きな不幸と言わざるを得ない。

もともと文楽に興味がなく、歌舞伎など関連の芸能にも関心がないのだとしたら、「文楽を初めて観ました、文楽が好きになりました」なんてことは絶対にないのである。誰が観ても、初めて観ても楽しめるようなミュージカルなどと違って、オペラ、歌舞伎、文楽、能などは、自分からそれらの舞台芸術に近づこうと努力しなければ、絶対に楽しめないものなのである。受動的な態度では舞台の神様は微笑んでくれないのである。

その一方で、演出が古すぎるという指摘は大外れというわけでもない。今でこそ人気演目の『曾根崎心中』も長らく埋もれていた演目だったが、歌舞伎で復活上演されて大人気となり1955年に文楽に逆輸入?されたものである。当時はかなり斬新な演出(お初がナマ足を出す等)だったはずなのだが、すっかり古典の演目となって古臭いと感じてしまうのだろうか。この夏、期待されている三谷幸喜の新作「其礼成心中」と同じくくらいのインパクトがあったはずである。もともと復活上演されたものなのだから、本当は胆な演出があっても良いはずだが、残念ながらそんな人材、才能が文楽の世界にいるとも思えない。『曾根崎心中』を復活した歌舞伎の藤十郎は新演出に今でも挑んでいるが、文楽の保守的な観客が新演出を受け入れるほどの懐が大きさはないだろう。

東京の国立劇場の観客に限っていえば、多くの観客は着飾らない。歌舞伎やオペラに比べると圧倒的に地味である。映画を観るのに着飾る人は少ないが、歌舞伎の襲名興行や海外からの一流オペラの引越し公演などの初日ではきらびやかな衣裳であふれる。少なくとも普段よりはお洒落をして気分を盛り上げようとする。

もはや文楽の観客は、劇場へ行くことを楽しむというよりも教養主義的な芸術鑑賞の場へお勉強しにいくようになってしまっている。その観客にしたところで、昔はプログラムに挟み込まれた床本から目を離さなかったり、今では字幕に視線を向けたままだったり、一体に何を見に来ているのか?と疑問に思うことが少なくない。それでも寝ていないならまだましである。歌舞伎でもクラシックのコンサートでも少なからず寝る人は少なからずいるが、文楽で寝る人の割合は驚くほど高い。文楽を見て一度もウツラウツラとしなかった人など誰もいないと思う。そんな具合だから本当に文楽の芸がわかっている人がどれだけいるのか心もとないのである。文楽の観客のレベルなんてそんなものである。

では寝る観客が悪いかというと、文楽の舞台の出演者の力量にも問題がある。次から次に登場する出演者の中に素人でもわかるくらいレベルの低い人がいる。実力主義で芸のある者が重要な場面や役を任されるのだが、その前後には未熟な芸をひたすら我慢しなければならない。大御所である住大夫の出番まではひたすら耐えるのである。文楽の観客には多少なりともMの気が必要なのかもしれない。橋下市長はコスプレ好きだそうなのでSなのかも。だとしたら文楽には向いていないのかもしない。

松山バレエ団は森下洋子がいつまでも踊り続けないと興行がなりたたないらしい。パートナーの清水哲太郎は高齢者になっても飛んだり跳ねたり回転したりと悲惨を通り越して痛々しい。若者による芸術と違って文楽はお爺さんに支えられている古典芸能である。東京の文楽公演が大入り満員だったのも、住大夫、玉男、文雀、蓑助らの存在が大きかった。人気の住大夫も高齢となり、いつまでも舞台に出演できるわけではない。彼が出ないとチケットの売れ行きに東京でも違いがでるようになってきた。歌舞伎と違って若手に突出したスターやアイドルがいるわけでもない。文楽には菊之助や海老蔵のような存在はいないのである。まったく大衆向きではなく教養主義的な観客に支えられている文楽は細々と生き残るとは思うが、未来は決して明るくないのである。もっとも天使にとっては、昔は亡くなった貴大夫がアイドルだったし、今は英大夫が大好きなので教養主義とは無縁だと思っているし、眠る観客を観察したり、大夫の苦しげな表情をみて喜ぶという人に言えない楽しみをもつ邪な心を持つ観客なので退屈したことがないので、これからも文楽は観続けるとは思う。

ただし存続のために過度の変化だけは御免蒙りたい。劇団四季のようにミュージカルなのにカラオケで上演しても恥じないコスト第一主義だけにはなって欲しくない。人形を録音にあわせて遣うなんてことはないとは思うけれど、そんな文楽の根幹にかかわるような無謀な変更がないよう願うばかりである。大部分の日本人は一生文楽を観ることもなく終るのである。ソロバンだけなら文楽などあってもなくても困らない存在である。だからなくなっても良いというのは間違いである。いろいろな存在を抱え込む度量があってこそ国家としては一流であり国民は幸福なのである。弱者を切り捨てるような国は必ず滅びる。文化を尊ばない国も必ず滅びる。色々問題はあっても文楽を衰退させてはならない。

文楽の人々も、もっと大衆の場に出て行ってよいのではないだろうか。若手には道頓堀の道端で路上ライブをやる勇気があるかと問いたい。もっともっと冒険が必要である。人形による漫才なんて面白いと思うんだけれど、結婚式やパーティーのアトラクションなど活躍の場はいくらもある。そんな勇気も必要かもしれない。古典を守るという意味からは邪道だとは思うけれど、橋下市長が話題にしてくれている今こそ世間も注目し浮上のチャンスなのである。
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彦山権現誓助剣 平成24年2月文楽公演 第1部 国立劇場 [文楽]

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二月というのは興行にとっては難しい時期なのかもしれない。寒波に襲われ、受験シーズンなので学校の団体の予約はとれない等原因はいろいろとあろうが、平日の11時開演というハンディがあるにせよ六割の入りというのは数年前までチケットの入手が困難だった文楽では考えられないことである。民間であれば、WEBのチケットエージェントを通じて格安チケットを発売して売りさばくということもできようが、さすがに国立劇場には無理なので仕方がない。結局この日は住大夫の出演する第二部のみが「満員御礼」だったようである。

確かに義経千本桜の「すし屋」、菅原伝授手習鑑の「寺子屋」など、屈指の名場面と景事を上演する他の部と違って、知名度も華やかさも不足する演目では、売れ行きが芳しくないは観客の立場としては正直な反応である。貴重な時間とお金を費やすとしたら、やはり演目と出演者を選びたくなるのは人情である。

歌舞伎でも上演される「毛谷村」に「杉坂墓所」と「立浪館仇討ち」という前後の場面をつけるという国立劇場らしい上演形態だが中途半端だともいえる。歌舞伎でも最近では仁左衛門によって昨年の2月に大阪・松竹座で以下のような場割と配役で上演されている。三部制で細切れの通し上演にもならないならば、二部制に戻すことも考えてもよいのではないだろうか。最初は近松作品をそれぞれ上演するということで意味もあったように思うが、名場面集というだけなら、あまり意味はないように思える。

通し狂言
彦山権現誓助剱


序 幕 第一場 長門国住吉鳥居前の場
     第二場 同 社前の場
     第三場 同 郡城下馬場先の場
二幕目     長門国吉岡一味斎屋敷の場
三幕目 第一場 山城国眞葛ヶ原浪宅の場
     第二場 同 釜ヶ淵の場
四幕目 第一場 豊前国彦山杉坂墓所の場
     第二場 同 毛谷村六助住家の場
大 詰     豊前国小倉立浪主膳正本陣の場

毛谷村六助  仁左衛門
一味斎姉娘お園  孝太郎
京極内匠  愛之助
一味斎妻お幸 竹三郎
一味斎妹娘お菊  松 也
衣川弥三郎  薪 車
若党佐五平  猿 弥
吉岡一味斎/杣斧右衛門  彌十郎
衣川弥三左衛門  段四郎

『杉坂墓所の段』は、清介の三味線が第一音から気合の入った音を出して、一気に劇世界を構築して素晴らしい。英大夫は低音が響かないというか聞こえてこないで字幕頼りなのが残念だったが手堅い語りで満足させてくれた。語り進むうちに額にうっすらと汗をにじませ、優美な指を見台にかけ、あるいは拳を握っての姿は美しかった。

『毛谷村』の前半は咲甫大夫と清志郎。早春の空気を感じさせて上手い。後半は咲大夫と燕三。思いがけない展開にふりまわされる六助、さらにだまされたと知って怒りを露わにする六助を語り分けて万全。現在の文楽では最も安定した語りをする人でありながら、空席が目立っていたのが残念。文楽の面白さを感じたいなら、咲大夫を聴くのが一番だと思う。

三世野澤喜左衛門によって作曲された『立浪館仇討の段』が上演されるのは国立劇場では35年ぶりだとか。六助、お園、弾正、伝五右衛門をそれぞれ三輪大夫、南都大夫、津國大夫、文字栄大夫が語り分ける。それゆえ、上手い下手がはっきり分かってしまって気の毒な大夫もいた。普段はあまり出番がないからか、あまり目立たないが、文字栄大夫の非力は明らかで全体の足を引っ張っている。自殺した貴大夫を思い出させて聴いていて辛かった。極端なヴィブラートがかかってしまう音声障害があって引退した大夫もいたが、積み重ねた芸や技術、意欲だけではどうにもならない部分なのは気の毒としか言いようがない。日々の舞台を無事に務めることを祈るばかりである。

玉女の六助、和生のお園というコンビでの上演で安心して観てはいられるが、観客の視線を一身に集めるようなオーラを発するような人たちではないので、何をやっても平凡に見えてしまう。そうした中で強烈な個性を発揮していたのが玉輝の遣う弾正で、このところ何を遣っても面白く見せてくれて敵役などに存在感をみせてくれているのが頼もしい。今後はもっと活躍してくれそうな人である。

世代交代が進んだ部分と実力を発揮しつつある部分が渾然一体となっているが、今ひとつ迫力に欠けていて平凡な舞台になってしまうというような第一部は良くも悪しくも現在の文楽を象徴するような舞台であった。一番正直で見る目があったのは劇場へ足を運ばなかった文楽ファンなのかもしれない。

<第一部>11時開演

彦山権現誓助剣
    
    杉坂墓所の段
 
    口 希大夫 龍爾
    奧 英大夫 清介
   
    11 : 00 ~ 11 : 37

幕間 30分

    毛谷村の段
    
    中 咲甫大夫 清志郎

    切 咲大夫 燕三
    
    12 : 07 ~ 1 : 28

    立浪館仇討の段  三世野澤喜左衛門=作曲

    六助      三輪大夫
    お園      南都大夫
    弾正      津國大夫
    伝五右衛門  文字栄大夫

             團吾

    1 : 31 ~ 1 : 52

奴  大ぜい
近習 大ぜい
村人 大ぜい
供人 大ぜい
駕籠舁 大ぜい
轟伝五右衛門 清五郎
杣斧右衛門 文司
娘お園 和生
母お幸 勘彌
杣栗右衛門 紋秀
弟子軍八 勘介
弟子曽平次 玉彦
山賊 紋吉
門脇儀平 玉佳
一子弥三松 蓑紫郎
若党佐五平 勘市
斧右衛門の母 紋臣
京極内匠実は微塵弾正  玉輝
杣樫六 玉誉
杣槇蔵 玉翔
杣松兵衛 玉勢
毛谷村六助 玉女


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三谷幸喜 文楽に新作を提供?! 文楽の危機なのか [文楽]

三谷幸喜、3か月連続舞台上演に挑戦!初ものづくし!! - シネマトゥデイ



パルコ劇場で三谷幸喜の新作文楽『其礼成心中』(それなりしんじゅう)が8月に上演されることが発表された。確か昔の西武劇場には「船底」があったハズなので改装されていなければ文楽の上演は可能なハズである。最初は国立劇場の定期的な公演で上演されるのかと思ったら、3ヶ月連続舞台上演の一環ということらしい。チケットの入手は困難を極めると思われるので観ることはかなわないだろうけれど、果たして文楽の将来のためにプラスになるかは、はなはだ疑問である。

近松の「曽根崎心中」「心中天網島」が下敷きで、店の前での心中を逆手に「曽根崎饅頭」を売り出す饅頭屋を巡る爆笑譚なのだとか。作者は「甘美な心中も、はた迷惑と思えば笑いの要素がいっぱい」と自信を見せているのだとか。まあ、興行的には成功するだろうけれど、「これを機に若者が文楽を応援してくれれば大きな力になる」と吉田一輔は語っているようだけれど、三谷幸喜の作品に群がる若者?は絶対に国立劇場の文楽なんて観に来ないし、観に来ても二度目はないと思った方がよい。

今月の文楽公演の筋書で住大夫が対談で次のように語っていた。

『私は、新作もやらないかんと思うてます。新作を呼び水にして「文楽ってこんなんやったはるから、いっぺん公演を見てみよか」というふうにね。ええ本書いてもらわないけまへんけれど、浄瑠璃調に書いてもらわんでも、口語体でええのです。それを演者が浄瑠璃風に脚色し、節付けして、人形遣いが振りを考えたらええのですから。宇宙船が出てきてもいいし、宇宙人が出て来ても僕はええと思うてます。いつも新作ばっかりという訳ではいきまへんけど』

この発言は三谷幸喜の新作を指しているのは明らかである。果たして思惑通りにいくかどうか。今月の文楽公演は恒例の三部制である。住大夫と源大夫が語り、お里を簑助が遣う「すし屋」のある第二部に人気が集中したようで、平日公演というせいもあるのか第一部と第三部には空席が目立った。東京の文楽ファンは何が何でも全部観るということではないようであるし、観客も高齢化していて若者の姿は皆無だった。

玉男が活躍した数年前までは、割り振りが上手くいっていて、どの部も満員御礼が続いていたが、世代交代の時期を迎えて観客動員に翳りが出てきたのは確かなようである。この惨状を見れば大阪市の橋下市長の文楽協会への補助金見直しに説得力を与えかねない。目先の演目の彩りを変えれば問題が解決するような単純な話ではないのである。

今の文楽は観客不在なのだと思う。大夫と三味線の組み合わせは固定化してしまって例えば住大夫と寛治、あるいは清治などという夢の組み合わせは本公演では絶対にない。それが当たり前の世界なのであるが、どうしてそんな非常識なことを考えたかといえば、源大夫が病気休演のために代役として天使の大好きな英大夫が藤蔵の三味線で語ったからである。

第一部で「杉坂墓所の段」の奧を語った英大夫は、低めの音に難があるように思えたが誠実に語っていて好感が持てた。三味線の清介の第一音から観客を劇世界に誘うような深い音を聴かせてくれて満足させてくれた。第二部では清介に替わり源大夫のパートーナーである藤蔵との顔合わせが実現した。「すし屋」という大曲、しかも第一人者の住大夫の後に語るのでは、相当な重圧があったはずだが破綻なく語っていて新しい彼の魅力を発見したように思う。その後を語った千歳大夫の大音量で騒々しいだけの語りと違って表現が深いのである。固定した組み合わせでは発見できなかった可能性を見出すことができて嬉しく思った。代演を見事に務めた英大夫に心からの拍手を贈りたい。

さて第三部では嶋大夫らによる『寺子屋』の後で、清治による補綴・補曲による『日本振袖始』が上演された。何よりも感心したのは音楽面の充実で、三味線、胡弓、琴?と打楽器群が見事に調和して浄瑠璃語り、人形の振付とが高度に絡み合い充実した劇世界を構築していたことである。その中心となった清治が、通常の公演では冷遇されているとしか思えないのはどうしてだろう。

今年は古事記千三百年?なのだとか。それで八岐の大蛇の物語というのも安易な気がしていたが、上演成果は充実していたし、四匹?の大蛇の造型と動きの面白さは通常の文楽公演を超えていたと思う。それなのに空席が目立っていたのは残念なことである。確かに三部を全部観ようとすれば合計で2万円近くの出費になってしまうので、どれかひとつでもということになれば、やはり第二部を選んでしまうだろうなと思う。実際にあぜくら会の売り出し初日には第二部、第三部、第一部という順番で購入したのだから、皆考えていることは同じなのだと思う。

かつてシェイクスピアの「テンペスト」を翻案した『天変斯止嵐后晴』が上演されたが結局再演されることなく終わってしまった。三谷幸喜の初歌舞伎作品『決闘!高田馬場』も再演されていない。文楽の新作といのは困難を伴うようである。それでいて技芸員を平等?に出演させなければならないという制約があるのか、明らかに技芸が劣るものを我慢をして見せられる。これでは人間国宝が活躍している間はともかくも、文楽の衰退は避けられないのではないだろうか。

天使自身三十数年見続けてきて、最近はなんとなく惰性で見ているような気がしてならない。今の文楽の舞台に「夢や希望」を見出しているだろうかと自問自答してみる。前向きに生きる力が湧いてくるような舞台だったろうかと今日一日の舞台をふり返ってみる。結局は英大夫の切々たる語りだけだったなあと思い返した。

英大夫の舞台に二度も接することの他に嬉しかったことは、憧れのT氏に第三部でお会いできたこと。今日は会えるかもしれないという予感が的中したのだった。帰りは方向が同じなのでT氏おすすめの路線で一緒に帰ることに。ちょっとした工夫でずっと座って帰ることができた。しかも到着時間は、いつも立ちっぱなしで帰る電車と同じ。多少費用はかかっても、こんな裏技があるのかと感心した。そして何よりT氏と親しくお話しできたことが何より嬉しかった。お互いに電話番号やメールアドレスを交換するなどという気が全くなくて、劇場での偶然の出会を期待しているという緩い関係がなんとも心地よいのである。
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12月文楽鑑賞教室 文楽の魅力 曽根崎心中 [文楽]

劇場に入るとインターナショナルスクールの小学生らしい外国人の子供達の団体がいた。近松の心中ものなど見せていいのか心配になる。ところが、最初の『文楽の魅力』だけを見て退場していった。実演はあっても日本語の説明で、舞台面も黒幕の前で地味だったので子供達には面白くないものだったと思思った。肝心の『曽根崎心中』では、後方の席がガラッと空いてしまい演者には気の毒だし失礼。満員御礼で観ることのできなかった観客もいるはずで、チケットが売れるなら誰にでも売ってしまうという劇場側の姿勢は問題だと思った。

『文楽の魅力』は、初心者にもわかりやすいようにと実演を交えての若手の解説。義大夫は「いかに観客にわかりやすく伝えるか」を重点におき、一人で語り分ける工夫を聴かせてみせた。ただし、それほど変化がないので実感がわかないのが難。時代物の泣き笑いなど演じてみせて欲しかった。

三味線は単なる伴奏ではなく、登場人物の状況や心理を描写していることを若い女と位の高い女性の場合を弾きわけて巧みに観客を納得させて上手い解説だった。

人形は構造や操作方法を実演を交えての解説。女の人形が目の前で生命を吹き込まれて動き出すのには感嘆する。普段のダラリとして人形を目にする機会がないだけに、強烈な印象を残した。最後に『曽根崎心中』の物語の解説があってお終い。劇場構造の解説などは一切排したものだったが次への舞台への期待が膨らんだ。それだけに外国人の小学生にも見せてあげなければ可哀相である。

さて天使が初めて文楽を観たのは昭和53年の12月の公演だった。その頃から文楽鑑賞教室と一般向けの公演だったのだが、人間国宝級の出演者はでなくて、中堅と若手に活躍の場が与えられる公演という位置ずけは今も変わらない。

徳兵衞に勘十郎、お初に和生という数年後には本興行でも通用するであろ魅力的な顔合わせ。大夫も『天満屋の段』を語った英大夫をはじめとして充実していた。特に英大夫は、文楽の大夫には珍しく男性的な魅力が横溢していて男の色気を感じさせる珍しいタイプである。とかくお爺さん?の枯れた味が珍重される文楽の世界では、落ち着きはあるものの現役らしい艶やかさがあるのがよい。お初や徳兵衞の肉感的なものを感じたのは初めてだったので新鮮に聴かせてもらい満足した。若者の疾走する感覚があったのが良かった。

『生玉社前の段』、『天神森の段』ともに若手、中堅の出演。興行的には人間国宝に人気が集中してしまうが、こうした世代の人々にも実力が備えられているのを再確認できたのは良かった。とかく人間国宝などの肩書きに惑わされてしまいがちだが、彼らの成長を長く見守るのも文楽を観る楽しみなのだと改めて感じた。天使の一番の注目は、やはり英大夫で目の離せない人である。


解説 文楽の魅力 11:00~11;30

休憩 15分

睦大夫
龍爾

蓑紫郎

近松門左衛門=作
曽根崎心中

    生玉社前の段 11:45~12:11

    三輪大夫
    團吾

    天満屋の段 12:14~12:49

    英大夫
    清介

    天神森の段 12:52~1:17
    つばさ大夫
    睦大夫ほか
    宗助ほか

徳兵衛 勘十郎
お初   和生

    

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