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源平布引滝 口上 新口村 五月文楽公演・第1部 [文楽]

79歳の竹本綱大夫が祖父の名跡である「源大夫」を、その子息である鶴澤清二郎が鶴澤藤蔵を襲名するという特別な公演である。

震災の直後という不運もあって、世間一般には全く話題になっていないが、親子でそれぞれの祖父の名前を継ぎ、綱大夫が源大夫に、清二郎が藤蔵を襲名するという公演。源大夫は今年79歳。何故、襲名に至ったのかはわからないが、病気がちだった綱大夫なので、なんらかの決意があったものと想像した。

もっとも先月の大阪での襲名興行では、心臓病を患って手術したため無念の休演。今月は無事に舞台に復帰したものの自分の持ち場を全部語るのはドクター・ストップがかかって「物語」までを語った。

かつてのような声量はないが、まさに命がけの語りで大きな感銘を受ける。なにしろ、「竹生島遊覧の段」の掛け合い語りの三味線を清治が、本来は切り場語りである住大夫が前段の「瀬尾十郎詮議の段」を語るという、普通はあり得ない襲名に華を添えての出演で、近頃、これほど面白い文楽の舞台にはお目にかかったことがない。

大阪で代演した御贔屓の英大夫も後半を無難に語り、人間国宝の後を語るという大役を無事に務めてひと安心。それで力を使い果たしたか、本来の役である第二部の「絵本太功記」の「尼崎の段」は、さすがに疲れが見えて気の毒だった。

相変わらず超満員の国立劇場小劇場の文楽公演だが、相変わらず寝ている人の多いことに驚く。ある意味、とても贅沢な子守歌?なのだが、ああ、もったいない。長丁場なのでリラックスして観ないと最後まで持たない。最初から気合を入れて観ない主義なので、毎回最後まで眠らずに楽しめる。最初から真剣に見ている観客は必ず途中で寝てるように思う。不思議なことに…。もっと肩の力を抜いてと声をかけてあげたい観客が多いような気がする。

歌舞伎と文楽は演目に共通のものがあるのは当然のことなのだが、4月、5月と「封印切」が東京では続いて歌舞伎でかかり、文楽では「新口村の段」が上演された。かつて同じ劇場で「封印切」と「新口村」が歌舞伎で上演されたことを思い出す。仁左衛門、孝夫の親子に雀右衛門という今思えば豪華な顔ぶれなのだが、当時は
主流ではなかった役者による舞台だったのだが、小さな空間を満たす豊穣な芸の力に大いに感銘を受けたことを思い出す。未だにあれ以上の歌舞伎の舞台にお目にかかったことがない。

歌舞伎は仁左衛門や雀右衛門の個人の芸の偉大さに酔ったのだが、文楽は個人よりも総合力で味わうものなのだとつくづく思った。 清十郎の亀屋忠兵衛と紋寿の遊女梅川は楚々とした派手さのなさが好ましいし、千歳大夫と富助、津駒大夫と寛治の語りと三味線は、寛治の名人芸は別格だが、将来の文楽を支えるべき俊英の力を遺憾なく発揮していて、総合力で感動させてくれる。感動に至る筋道は歌舞伎よりも文楽の方が直截的である。

襲名口上には、襲名する二人が中央に、住大夫、寛治、清治が挨拶する。襲名の二人は何も挨拶しないのが文楽式。人形遣いからは誰も出ないのが物足りない気もしたが、生真面目な口上がいかにも文楽らしくてよい。清治がやや砕けたエピソードを披露するが、今の源大夫の身体の衰えを思うと痛々しく感じてしまい、何も歌舞伎の真似をすることはないのではないかと思った。

ロビーでは、開演前と幕間に東日本大震災の募金活動があった。せっかく人形を遣っているのだから、もっと積極的にアピールすればいいと思うだが、生真面目さが演者や観客にもあるのか、妙によそよそしい感じなので盛り上がりに欠けていたように思う。

<第一部>11時開演

源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)
矢橋の段      11 : 00 ~ 11 : 08
竹生島遊覧の段  11 : 09 ~ 11 : 28

〈 10分 〉  

 竹本綱大夫改め九代目竹本源大夫
 鶴澤清二郎改め二代目鶴澤藤蔵
 襲名披露口上 11 : 38 ~ 11 :48

〈 25分 〉

糸つむぎの段    12 : 13 ~ 12 : 21
瀬尾十郎詮議の段 12 : 22 ~ 12 : 56
襲名披露狂言
実盛物語の段    12 : 57 ~ 1 : 57

〈 10分 〉

傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)
新口村の段     2 : 07 ~ 3 : 10

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人間国宝の竹本綱大夫 改め 竹本源大夫は、急病のため4月大阪公演の襲名披露狂言『源平布引滝』実盛物語の段を休演いたしましたが、その後体調が回復に向かい、5月文楽公演『源平布引滝』実盛物語の段の床を下記のとおり変更して勤めることとなりましたのでお知らせいたします。
 何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。
 第1部『源平布引滝』実盛物語の段
 切 竹本綱大夫 改め 竹本源大夫   鶴澤清二郎 改め 鶴澤藤蔵
 奥 豊竹英大夫               鶴澤清二郎 改め 鶴澤藤蔵
 なお、この公演では他に次のとおり休演がございますので併せてお知らせいたします。
 第2部『生写朝顔話』
 明石浦船別れの段 阿曽次郎 竹本津國大夫病気療養のため休演。豊竹睦大夫が代演いたします。

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菅原伝授手習鑑 道行 車曳 茶筅酒 喧嘩 桜丸切腹 二月文楽公演【第2部】 [文楽]

今月の白眉は予想通り、住大夫の語った「桜丸切腹の段」だった。蓑助の桜丸、勘十郎の白大夫、清十郎の女房八重とともに、現在の文楽の最高水準をしめすものだったのは間違いない。場面ごとにふりかえると。

「道行詞甘替」は、斎世親王と苅屋姫を飴売りの箱に隠して、飴売りになった桜丸が河内の土師の里へ向かうという変わった道行。歌舞伎では上演されないので文楽ならではなのだが、あまり面白いとは思えなかった。呂勢大夫、咲甫大夫、南都大夫がそれぞれ桜丸、苅屋姫、斎世親王を語る。将来の文楽を背負って立つ俊英が揃ったというところだろうか。その後に文字栄大夫が並ぶのを見るのは辛い。実力主義とはいえ、かつての貴大夫のポジションを思い出させて、何とか奮起をうながしたいのだが、実力は順列通りだったようである。

「吉田社頭車曳の段」も同じく、松王丸を松香、梅王丸を始大夫、桜丸を睦大夫、杉王丸を相子大夫、時平を津國大夫が語り分ける。現在の陣容では納得の配役というところだろうか。文楽に歌舞伎風の演出が取り入れられているのがわかり面白く観た。

「茶筅酒の段」は、このところ勢いのある千歳大夫で今回も安定感があった。歌舞伎ではめったに上演されることがないので、これまた面白く観る。春の日のめでたい気分が出ているし、八重の初々しさで笑わせるなど、後の悲劇との対比が見事である。

「喧嘩の段」は、住大夫の弟子である文字久大夫が語る。テレビでは師匠の厳しい稽古に耐えている様子が放送されたが、仕込まれただけのことはあったようである。さらなる飛躍を期待したい人である。

「桜丸切腹の段」は、住大夫がすべてである。春の夕刻に切腹して果てる若者の悲劇が過不足なく語られる。愛する者と死別する悲しみを桜丸を通して追体験する様な部分があって、何度も胸を衝かれる瞬間があった。死の悲しみを乗り越えるかのように、新しい旅立ちをする勘十郎の白太夫に哀れさがあり、蓑助の桜丸は派手さを封じ込んだなかに深みをだしていた。清十郎の八重も突然訪れた最愛の人の死を受け入れねばならない悲しみあふれ出た。

<第二部>2時30分開演

菅原伝授手習鑑

道行詞甘替      2 : 30 ~ 2 : 56    
吉田社頭車曳の段  3 : 00 ~ 3 : 25

休憩  15分   

茶筅酒の段  3 : 40 ~ 4 : 16   
喧嘩の段   4 : 17 ~ 4 : 31
桜丸切腹の段 4 : 32 ~ 5 : 27



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芦屋道満大内鑑 嫗山姥 文楽二月公演【第一部】 [文楽]

二月の文楽は恒例の3部制での興行である。幕間を入れて3時間程度と料金はともかく時間的に手ごろであるのと、歌舞伎でいう「みどり狂言」で、さまざまな演目を楽しめるのが嬉しい。各部に人間国宝を配置してのバランスの良さも魅力である。大夫であれば住大夫を頂点に、嶋大夫、綱大夫、咲大夫を人形遣いであれば、文雀、蓑助である。かつては玉男もいて人気が偏らなかったのだが、今は住大夫に人気が集中しているようである。

今月は第二部が歌舞伎でいう『賀の祝』と『車引』を中心とした『菅原伝授手習鏡』、第三部が『渡海屋』、『大物浦』、『吉野山』を中心とした『義経千本桜』といった大曲が並んだが、第一部は『芦屋道満大内鑑』と『嫗山姥』という女性が主人公となる狂言となった。

最近、文楽は世代交代がゆるやかに進んでいるようである。大夫では実力のある中堅どころが次々に台頭しているし、人形遣いでは勘十郎、玉女、和生、清十郎といった面々にも登場時に拍手が起こるようになっている。その一方で、なかなか場が与えられない大夫もいて、実力主義とはいえ厳しい現実をみることにもなる。

今月は名古屋・御園座で福助の『葛の葉』が上演されているが、歌舞伎が「恋しくば…」の歌を実際に曲書きするのが大きな見せ場であるが、文楽では襖を開けると歌が障子にすでに書かれているのが大きな違いで、狐への変わり目など人形なので自由自在というのも異なる。それだけに、人の情に訴える部分が大きく作用するようで大夫の力量が求められるように思った。

まず中を語った三輪大夫の語りが意外によくて感心した。言葉は正確に耳に届くし、言葉に秘められた情愛が素直に伝わってきて感動があった。今まで、あまり目立つ存在ではなかったように思うが、耳をすませば心に響いてくる音楽的な表現が心地よかった。もちろん嶋大夫が派手さはないが、その渋い語り口が、この狂言にはあっていて、わが子を残して森に帰らねばならない悲しみ、獣の化身といった複雑な存在を巧みに語り分けて聞き応えがあった。

本来なら、嶋大夫と文雀の二枚看板の顔合わせが売り物だったはずなのだが、残念ながら文雀は病気療養のために休演となり和生が代役。引き抜きなどがあり、神経を使う役であり、また母親であり、妻であり、狐の本性もみせねばならない難役をよく遣っていた。

つづく『蘭菊の乱れ』では、呂勢大夫をはじめとして将来の文楽を担うべき若手が並び清新な舞台となった。派手さはなく、地味で哀切極まりない舞台なのだが、ぞれぞれの大夫が自分の役割を果たして、短いながら気持ちのよい時間となった。

『嫗山姥』は歌舞伎でも上演されることが多いが、女形の台詞術を見せ場とすることが多く後半だけという場合が大半である。文楽なので、煙草屋源七の言い立てなど当然のことながら語られる。敵討ちを妹に先を越され、面目なさに自害してしまう主人公。さらにその魂が妻に宿って新しい命が生まれるという奇蹟。

この奇妙な物語を最後まで緊張感を持って聞かせたのは綱大夫と清ニ郎で、この四月には77歳の綱大夫が祖父の名跡である源大夫を襲名し、清ニ郎は祖父にあたる、名人・豊竹山城少掾の相三味線を務めた鶴沢藤蔵の名跡を継ぐという。親子で襲名するのは何故?とも思うが、何か深い意味があるのだろうか。一時期の不調を脱したようで楽しみではあるが。

美しい女の顔が一瞬にして恐ろしい鬼の形相になるというのが見せ場。八重桐を遣った紋壽は、多少まごつくような部分もあったが、不思議な物語を最後まで飽きさせずにみせた。

短いながら、どちらも変化に富んだ物語で楽しめたのは何よりだった。通しでの上演よりも、こうした上演形態の方が集中力を持続できるので望ましい。

<第一部>11時開演


芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)
 葛の葉子別れの段
   
 中 竹本三輪大夫
    竹澤 團吾

 切 豊竹嶋大夫
    竹澤團七

 蘭菊の乱れ   

 豊竹呂勢大夫
 豊竹つばさ大夫
 竹本相子大夫
 豊竹睦大夫
 豊竹希大夫
 鶴澤清治
 鶴澤清志郎
 鶴澤清丈
 鶴澤龍爾
 鶴澤清公

女房葛の葉 吉田 和生
安部保名  吉田 玉女ほか


嫗山姥(こもちやまんば)
  廓噺の段

口 豊竹芳穂大夫
  鶴澤清馗

切 竹本綱大夫
   鶴澤清二郎
ツレ 鶴澤寛太郎

煙草屋源七 吉田 玉女
八重桐 吉田 紋壽  

 2月文楽公演 第1部『芦屋道満大内鑑』の女房葛の葉役で出演を予定しておりました人間国宝の吉田文雀が、病気療養のため休演することとなりましたのでお知らせいたします。
 吉田和生が代演し、安倍保名を吉田玉女がつとめます。
 皆様には大変ご迷惑をおかけいたしますことをお詫び申し上げます。

なお、この公演では他に次のとおり休演がございますので併せてお知らせいたします。

○第1部『芦屋道満大内鑑』
 葛の葉子別れの段 切 鶴澤清友病気療養のため休演。竹澤團七が代演いたします。

○第2部『菅原伝授手習鑑』
 吉田社頭車曳の段 梅王丸(床) 豊竹始大夫病気療養のため休演。豊竹芳穂大夫が代演いたします。

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由良湊千軒長者 本朝廿四考 文楽十二月公演 国立劇場小劇場 [文楽]

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中堅と若手を中心とした師走の文楽公演である。観客を大量に動員できるような人間国宝の出演はないが、普段は大役を演じることのない大夫らが中心になる公演で思いの外楽しめた充実した舞台となった。

もっとも楽しめたのは『本朝廿四考』の方で、『由良湊千軒長者 山の段』は、いくら若手のために活躍の場を与える公演といっても、わずか25分の作品を任せたのは問題。すべてにおいて水準に達していないと感じる物足りなさが残った。非常に珍しい上演という以外には、取り上げる意味が理解できない。演者が一生懸命なのは好感が持てるが、大夫らの語り、三味線ともに観客の集中力を持続させられるようなレベルではなかったのが残念だった。通常の公演で披露される長い修業を経なければ至らない芸の高みというものは、いかに身につけるのまで困難なものなのか、改めて思い知らされた気がした。

『本朝廿四考』は、相子大夫、三輪大夫、呂勢大夫、津駒大夫、文字久大夫と語り継がれていくが、誰もが第一声から気迫のこもった語りが繰り広げられ、観客の集中力を途切れさせない劇空間を構築していたことに、まず感心した。それは燕三、富助、錦糸など、普段は切り場を語る大夫の三味線を担当する人々に支えられていたのも大きい。

世代交代が進んでいるのは人形遣いの方で、中堅とはいえ人間国宝の出演する本公演でも重要な役割を演じている人々の出演だけあって充実していた。勘十郎、玉女、和生、清十郎など傑出した遣い手はいないものの、アンサンブルというかバランスのよさは、近年にないものではないだろうか。それぞれが輝く瞬間があって観ていて飽きない。

物語は、推理劇ということらしいが、何故そうなると考える時間を与えないような展開で、なんとなく納得させられてしまったが、幼い子供がさしたる意味もなく犠牲になったりと、よく考えると肯定できないものなのが文楽らしいと言えば文楽らしく感じた。

2010年12月8日 17時開演 20時46分終演 国立劇場・小劇場
由良湊千軒長者
山の段 5 : 00 ~ 5 : 25

安寿姫 睦大夫
つし王 靖大夫

安寿姫  勘彌
つし王丸 一輔

〈10分〉

本朝廿四孝
桔梗原の段 5 : 35 ~ 6 : 22

相子大夫
龍爾

三輪大夫
清友

〈25分〉

景勝下駄の段 6 : 47 ~ 7 : 20

呂勢大夫
燕三

勘助住家の段 7 : 20 ~ 8 : 46

津駒大夫
富助

文字久大夫
錦糸

慈悲蔵   勘十郎
横蔵    玉女
女房お種 清十郎
勘助の母 和生
 
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九月文楽公演 9月13日の【劇場の天使】 [文楽]

 昨日は平日ながら文楽を通しで見物。11時に始まって20時15分に終演ということなので、開演前に東京体育館のプールへ泳ぎにいく。9時にオープンなのだが平日のせいか人が少なくてマイペースで泳げるので気持ちがいい。ノルマの1000メートルをクロールで泳ぐ。

 さて三島由紀夫の歌舞伎『鰯売恋曳網』が文楽化されたからか、住大夫や蓑助の出ている第2部よりも人気を集めて満員御礼の盛況であった。感想は後日に述べるとして寸評を少々。

 『良弁杉由来』は、志賀の里の段から二月堂の段まで。天使がご贔屓の英大夫が「志賀の里の段」と「東大寺の段」の2回も登場して得した感じ。特に「東大寺の段」は、彼の人の良さがそのまま出たような語り口で心温まるものがあった。「二月堂の段」の綱大夫も素晴らしかったが、大きな感動にまでは至らなかったのは残念。

 『鰯売恋曳網』は歌舞伎の中でも軽妙な演し物で勘三郎と歌右衛門にアテて書かれただけあって、歌舞伎役者でよくても人形にすると、必ずしも良くなるとは限らないという見本のような舞台だった。現・勘三郎と玉三郎の存在あってこそ面白く観られるのだということを実感。魚の名前をはめ込んだ戦物語など、思ったより受けていなかったのも歌舞伎役者の演技や愛嬌あってこそなのだと感じた。

 少々不完全燃焼だった第1部に比べ、やはり文楽を観たという満足感を与えてくれたのは第2部だった。「阿漕浦」繋がり?なのか『勢州阿漕浦』は、やはり住大夫が圧巻。いつもは点数の辛い天使なのだが、こうした文楽らしい展開の物語を何の迷いもなく語れるのは住大夫しかいないを、これまた実感させてくれた。

 そして今月の大ヒットは『桂川連理柵』の「帯屋の段」を語った嶋大夫である。歌舞伎で観ても、なかなか面白さの伝わってこない演目なのだが、帯屋ってこんなに面白かったのかと再認識。言葉で説明するよりも実際に観てもらう他はないのだが、これほど文楽らしい演目は久しぶりに観た。嶋大夫大当たりである。さらに蓑助入魂のお半も光彩を放って大満足。「道行朧の桂川」まで大いに堪能して欲しい。ということで第2部は地味そうに思えた演目ながら圧勝であった。
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勢州阿漕浦 桂川連理柵 九月文楽公演・第2部 [文楽]

チケットの売れ行きはよかったものの期待外れに終わってしまった第1部に比べ、文楽を観た、文楽を聴いたという喜びに満たされたのは第2部であった。

 伊勢の国「阿漕浦」繋がりでもないだろうが、『勢州阿漕浦』は、これぞ文楽といった演目で満足を味わう。やはり、住大夫が素晴らしく至芸を味わった。いつもは住大夫に点が辛いのだが、積み重ねた芸の重みを感じないわけにはいかない。筋立だけを見れば、馬鹿馬鹿しいとしか思えない物語なのだが、それを一気に別の高い所へ観客を連れ去る力業には感嘆せざるを得なかった。

 同じく『帯屋』で客席を大いにわかせた嶋大夫も素晴らしい。泣いたり、笑ったり、大げさとも思える仕種なのは文楽の大夫で、醒めてみてしまったら、これまた馬鹿馬鹿しいだけなのだが、嶋大夫は見事に語ってみせて、これまた感嘆させられるばかりであった。

 チャリ場は歌舞伎でも同じ場面を上演することがあるが、名優が演じても、だいたいは「何だ、コレ?」と理解し難いまま苦笑せざるを得ないことが多い。文楽を観て、初めてこういうことかと気がつくことが多いが、この場面はまさしくそれに当たったようで、大いに満足を味わった。その後を語った千歳大夫もいつもながらの熱演で、安定感があって好印象である。

 蓑助の遣うお半は、相変わらず華麗を極め、勘十郎らの中堅も活躍した。寛治の出演する「道行」まで、いつもながらのバランス感覚のよい配役で楽しむことができた。

【第二部】(四時開演)

≪勢州阿漕浦≫

<阿漕浦の段>
平治  松香大夫
次郎蔵   津国大夫
林右衛門  文字栄大夫
団 吾

<平治住家の段>(人形出遣い)
切 住大夫  錦糸

(人形役割)
医者林右衛門  紋吉
阿漕の平治  玉女
平瓦治郎蔵  玉也
女房お春  勘弥
平治母  勘寿
庄屋彦作  勘市(前半) ・玉佳(後半)
伜友石  玉翔(前半) ・玉誉(後半)
代官奥村兵庫  清十郎



≪桂川連理柵≫

<石部宿屋の段>     
三輪大夫  清志郎
ツレ 芳穂大夫  寛太郎(ツレ)

<六角堂の段>(人形出遣い)
文字久大夫  富助

<帯屋の段>(人形出遣い)
切 嶋大夫  清友
奥 千歳大夫  清介

<道行朧の桂川>(人形出遣い)
お半 津駒大夫  寛治
長右衛門  文字久大夫  喜一朗
相子大夫  清丈′
つばさ大夫  寛太郎
希大夫  清公

(人形役割)
娘お半  簑助
下女りん  玉佳(前半)・勘市(後半)
丁稚長吉  勘緑(前半)・玉志(後半)
帯屋長右衛門  勘十郎
出刃屋九右衛門  簑次
出刃屋の女中  勘次郎
女房お絹  紋寿
弟儀兵衛  玉輝
母おとせ  簑二郎
親繁斎  和生

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良弁杉由来 鰯売恋曳網 九月文楽公演・第1部 [文楽]

 昼の部は、三島由紀夫の歌舞伎『鰯売恋曳網』を文楽化した下新作があるためか満員御礼であった。夜の部には、住大夫、蓑助、寛治ら人間国宝が出演にもかかわらず、空席もあったというのは、近頃では珍しい現象である。

 第一部は明治期に初演された『良弁杉由来』から始まる。文楽から始まり、歌舞伎にもなって両方とも上演がくり返される人気演目となっているのは、『鰯売恋曳網』の逆パターンでもあるので一緒に上演する意義もあるということだろうか。

 文楽で観る作品自体は、残念ながらさほど名作とも思えない。歌舞伎も然り。歌舞伎では舞台上に出現する二月堂の大掛かりな舞台装置と、選ばれた名優のみに演じることが許された良弁と渚の方の演技が感動を呼ぶ。同じように文楽でも感動できるかというと難しかったようだ。「二月堂の段」を語った綱大夫は休演した日もあったようだが、見物した日には無事に出演。しかしながら、過去の彼の実力を知るものにとっては厳しい現実を見せつけられたようで残念な結果に。そうした中で気を吐いたのは、英大夫の活躍で「志賀の里の段」での渚の方と「東大寺の段」を語って好印象。人柄が芸に出たということか語りが温かいのである。

 人形では文雀の渚の方と和生の良弁。極めつけの芸と過渡期の芸ということを割り引いても数年前までの玉男のいた時代とは違うということを思い知らされる結果になった。悪くはないが、とびきり良くもない。一体に何に感動しろというのか難しい演し物である。

 さらに難物だったのが『鰯売恋曳網』である。三島歌舞伎でも先代勘三郎と歌右衛門のよって創り上げられ、当代の勘三郎と玉三郎によって練り上げられた歌舞伎には珍しい笑劇である。これを文楽に書き換えれば面白いモノが出来上がり、文楽の人気レパートリーになるハズと思ったかどうか。安易な企画と言わざるを得ない。言い切ってしまえば三島由紀夫の歌舞伎作品としては、けっして上等な部類ではないと思う。初演の二人にアテ書きしただけあって、誰彼かまわず上演しても面白くなりようがない作品なのだ。

 主演者二人の存在感、自在な演技力、役者の持つ愛嬌などなど凡庸な役者では、とても演じきれるようなものではないのだ。物語の面白さよりも役者の力量を観るような部分があって、文楽のように物語重視とあっては、なかなか辛いものがある。例えば馬に逆さまに乗ってしまう場面など、勘三郎のとぼけた調子の演技の前では無条件に笑うほかはないのだが、文楽ではわざろらし作為が目立って素直に笑えないのである。

 歌舞伎役者の演技には、ナンセンスな物語の隙を埋める術があったが、文楽にはない。生真面目すぎるのである。致命的だったのは、高貴な姫と身分の低い男の恋愛譚といった官能的な部分がスッポリ抜け落ちていること。脚色者は、いかに表面的なことしか見ていないし、読めていないのかがわかる。三島由紀夫だからこその世界がないので、これは三島歌舞伎の脱け殻のようなものである。

 ただただ初演にこぎつけるまで努力を惜しまなかった咲大夫、燕三、振付の藤間勘十郎などスタッフにはご苦労様としか言いようがない。文楽を観る喜びに全く満たされなかったのはどうしたものだろうか。


【第一部】(十一時開演)

≪良弁杉由来≫

<志賀の里の段>  
渚の方  英大夫
小枝  南都大夫
腰元  始大夫
腰元  希大夫

喜一朗
龍爾(ツレ・八雲)
清公(ツレ・八雲)

<桜の宮物狂ひの段>(人形出遣い)
呂勢大夫  清治
咲甫大夫  清志郎
睦大夫  清馗
靖大夫  清丈′
咲寿大夫  錦吾

<東大寺の段>
英大夫  団七

<二月堂の段>(人形出遣い)
切 綱大夫  清二郎

(人形役割)
乳母小枝  亀次
光丸  玉彦
渚の方  文雀
腰元藤野  紋臣
腰元春枝  紋秀
花売娘  簑二郎(前半) ・勘弥(後半)
吹玉屋  幸助
船頭  文哉
雲弥坊  勘寿
先供  勘次郎
良弁僧正  和生 
弟子僧  玉勢
弟子僧  簑紫郎
 


≪鰯売恋曳網≫

<五条橋の段>
咲甫大夫  宗助

<五条東洞院の段>
切 咲大夫  燕三

(人形役割)
博労六郎左衛門  文司
遁世者海老名なあみだぶつ  玉女
猿源氏  勘十郎
けいせい薄雲  清三郎
けいせい春雨  一輔
禿  簑次
けいせい螢火実は丹鶴城の姫  清十郎
庭男実は藪熊次郎太  清五郎
亭主  簑一郎 

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今日は一日文楽漬け  [文楽]

 このところ五月の劇場の風物詩といえば、團菊祭、文楽公演、新橋演舞場の播磨屋の歌舞伎、前進座の国立劇場公演といったところだった。歌舞伎座の建て替えで、團菊祭は大阪での上演となり、新橋演舞場は花形歌舞伎となった。前進座も座員の退団が相次ぎ苦しい台所事情のはずだが、嵐芳三郎の襲名と25年ぶりに「切られお富」を國太郎らが上演するというのにメディア的には、ほとんど話題になっていない。

 変わらないのは文楽公演だけと言いたいところだが、五月の文楽公演は世代交代が大きく進んだようである。歌舞伎のように家柄が重視されることもなく、人気実力が物を言う世界だけに中堅の大夫が語る部分の格差は露骨でさえある。また、玉男、さらに玉松を失った人形も勘十郎、玉女、和生、清十郎を中心に動いているかのようである。

 いつまでも住大夫、蓑助、文雀ばかりの頼っていられるはずもなく、世代交代が急務なのは言うまでもないのだが、簡単に世代交代がなるほど甘くない世界であることも事実である。毎回毎回超満員という印象のあった文楽公演も平日だったせいか。少ないながらも空席があったのが意外だった。イヤホンガイド、字幕表示など観客を増やす努力は続けられているが、果たして現在の観客が文楽にとって良い観客なのかどうか疑わしい。

 およそ古典芸能は眠気を誘うことが多いのだが、文楽公演ほど客席の睡眠率が高いのも珍しいのではないだろうか。さらに悲劇的な場面でも笑いがおこってしまって観客の反応が浅薄に感じる。どうも受動的な観客が多く、自分から文楽に近づこうとする客が少ないように思えてならない。感想は後日にするが、天使が贔屓の嶋大夫が不調に思えたことと、大好きな英大夫の扱いが小さすぎて大いに不満に思えた。
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大経師昔暦 平成二十二年二月文楽公演・第二部 [文楽]

 文楽の第二部は、近松門左衛門の「おさん茂兵衛 大経師昔暦」である。「大経師内の段」を松香大夫・喜一朗、綱大夫・清二郎。「岡崎村梅龍内の段」を文字久大夫・清馗、住大夫と錦糸という現在考えられるうちでは最高の布陣である。人形も女房おさんを文雀、下女お玉を清十郎、手代茂兵衛を和生、道順を玉女と人間国宝と次代を担う実力派が揃った。

 これで面白くなわけはないのだが、近年稀にみる名舞台になった。あまりの感動に「岡崎村梅龍内の段」を語り終わった住大夫を見終えたところで劇場を後にした。あとの予定があったこともあるが、あの住大夫の至芸を耳にしてしまっては、掛け合いの「奧丹波隠れ家の段」をどうしても聞く気持にならなかったからである。完結する物語を楽しむよりも、その瞬間、瞬間での感動が大切だと思われたからだ。好色な主人に仕える男女が登場したり、取り替えの悲劇喜劇があったりと、ちょっとした「フィガロの結婚」風な物語ではあるが、義理と人情という日本的な味付けがされていて面白く観た。

 体調がすぐれなかったのか、このところ何を語っても感心しなかった綱大夫だが、おさんと茂兵衛が取り違えたばかりに、密通の濡れ衣をきせられるまでが緊迫感を持って語られた。特に幕切れの無音のうちに幕が引かれる演出は、文楽としては異例なのだが、悲劇的な結末を暗示して心を大いに揺さぶられた。綱大夫の充実がこの作品の舞台成果を高めたのは言うまでもない。それぞれの登場人物の描写も的確で、何もかもが悪い方向へ向かって動き出す瞬間を丁寧に描いていった。

 そして「岡崎村梅龍内の段」を語った住大夫には感心し、感動させられた。いつもは苦手は大夫の筆頭である住大夫なのだが、複雑な思いが交錯する舞台を見事に語りわけていた。最も感心させられたのは、人間の感情は当然のこと、言葉ではなく音楽的な部分によって物語の場の空気をも表現していたことである。

 実力のある大夫が語ると、人形のいる舞台は、いささか説明過ぎてつまらなくなる。せっかく大夫が漆黒の闇を表現しようと精進努力を重ねても、舞台の照明によって暗さを感じさせる手法を、観客は当たり前のことと受け取るために、イメージが広がるように見えて、実は狭めていることに気がつく。住大夫の語りは別格で、証明や舞台装置の力を借りなくても、「夜」は「夜」として存在し、ちゃんと暗闇が広がっているかのように感じた。

 おさんと茂兵衛、それにお玉まで加わっての影が、後の悲劇を感じさせて、上手い作劇法である。舞台では壁に影法師を映す工夫がされているようで、視覚化という点では成功していた。住大夫の語りを聴いていれば、そうした工夫は、圧倒的な至芸の前には、むしろ邪魔でしかないのだが…。

 今回は、あの住大夫によっても、深い感動を味わったので、文楽の力強さを改めて認識させられる格好になった。そうした訳で最後の場面は見届けずに終わってしまったが、余韻を壊されたくないという思いだったので、まったく後悔はしていないのだが。
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花競四季寿 嬢景清八嶋日記 平成二十二年二月文楽公演・第三部 [文楽]

 文楽の第一部は、景事の四本立て「花競四季寿」から始まる。万才・海女・関寺小町・鷺娘なのだが、太夫を勘彌、才蔵を勘緑、海女を清十郎、関寺小町を文雀、鷺娘を和生という若手から中堅、人間国宝までという布陣。呂勢大夫、咲甫大夫らと清治、宗助らの三味線。文楽のなかでは、景事の扱いはどちらかというと軽く気分転換のような意味合いでとらえることが多いので、朝の最初から四つも続くと、さすがに辛くなる。

 もちろん文雀は至芸を見せるし、清十郎の海女は蛸と共演したり、和生の鷺娘は艶やかなのだが、どうも楽しむことができなかった。景事は文楽にとって軽い演目とは言わないまでも有り難味は少ないのは確かである。東京だとなかなか見る機会もないのも事実で、そうした興味を満たす意味では成功だったのかもしれないが…。暗転で場面転換していき約1時間をほとんど休みなく演奏を続けていたのはご苦労様である。

 第2部と第3部では、近松の世話物が取り上げられているので、当然のように第1部は時代物が選ばれたようである。「嬢景清八嶋日記」は実力のある大夫によって充実した世界が展開したので大いに楽しむことができた。「花菱屋の段」は、盲目になった父・景清のために自ら遊女に身を売る健気な娘と、それを取り巻く人情家の遊女屋の主人とその妻で強欲な女房の対比が面白く、またしても千歳大夫が実力を発揮したという格好だった。

 「日向嶋の段」は、咲大夫が盲目になった景清の人間の弱さ大きさを巧みに表現していて素晴らしい。人形も勘十郎と玉女という次代を担う人形遣いが共演して、これまた頼もしく思えた。少々彩りに乏しいのが難で、作品の知名度も低いのが響いたのか平日はいえ、空席が目立ったのが意外に思えた。こうした時代物の大曲をも十分に味わってこそ、奥深い文楽の魅力を知ることになるのだが、残念なことである。
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