SSブログ

橋下市長と文楽 新しい演出で観客を獲得? [文楽]



大阪府知事時代に『勧進帳』を観て、「もう二度と観ない」と宣言したはずの橋下大阪市長が、『曾根崎心中』を再び観て演出が古すぎると苦言を呈したらしい。文楽の演目の中でも人気があり、比較的理解しやすいであろうと選ばれた演目が受け入れられないとしたら他の演目など絶対に駄目であろう。現状ではベストメンバーといえる天満屋の段を源大夫が語り、徳兵衛を勘十郎、お初を蓑助が遣っても心を動かされないとしたら文楽とは一生縁のない人なのだと思う。そんな人間が為政者となり補助金カットを言い出すのは大きな不幸と言わざるを得ない。

もともと文楽に興味がなく、歌舞伎など関連の芸能にも関心がないのだとしたら、「文楽を初めて観ました、文楽が好きになりました」なんてことは絶対にないのである。誰が観ても、初めて観ても楽しめるようなミュージカルなどと違って、オペラ、歌舞伎、文楽、能などは、自分からそれらの舞台芸術に近づこうと努力しなければ、絶対に楽しめないものなのである。受動的な態度では舞台の神様は微笑んでくれないのである。

その一方で、演出が古すぎるという指摘は大外れというわけでもない。今でこそ人気演目の『曾根崎心中』も長らく埋もれていた演目だったが、歌舞伎で復活上演されて大人気となり1955年に文楽に逆輸入?されたものである。当時はかなり斬新な演出(お初がナマ足を出す等)だったはずなのだが、すっかり古典の演目となって古臭いと感じてしまうのだろうか。この夏、期待されている三谷幸喜の新作「其礼成心中」と同じくくらいのインパクトがあったはずである。もともと復活上演されたものなのだから、本当は胆な演出があっても良いはずだが、残念ながらそんな人材、才能が文楽の世界にいるとも思えない。『曾根崎心中』を復活した歌舞伎の藤十郎は新演出に今でも挑んでいるが、文楽の保守的な観客が新演出を受け入れるほどの懐が大きさはないだろう。

東京の国立劇場の観客に限っていえば、多くの観客は着飾らない。歌舞伎やオペラに比べると圧倒的に地味である。映画を観るのに着飾る人は少ないが、歌舞伎の襲名興行や海外からの一流オペラの引越し公演などの初日ではきらびやかな衣裳であふれる。少なくとも普段よりはお洒落をして気分を盛り上げようとする。

もはや文楽の観客は、劇場へ行くことを楽しむというよりも教養主義的な芸術鑑賞の場へお勉強しにいくようになってしまっている。その観客にしたところで、昔はプログラムに挟み込まれた床本から目を離さなかったり、今では字幕に視線を向けたままだったり、一体に何を見に来ているのか?と疑問に思うことが少なくない。それでも寝ていないならまだましである。歌舞伎でもクラシックのコンサートでも少なからず寝る人は少なからずいるが、文楽で寝る人の割合は驚くほど高い。文楽を見て一度もウツラウツラとしなかった人など誰もいないと思う。そんな具合だから本当に文楽の芸がわかっている人がどれだけいるのか心もとないのである。文楽の観客のレベルなんてそんなものである。

では寝る観客が悪いかというと、文楽の舞台の出演者の力量にも問題がある。次から次に登場する出演者の中に素人でもわかるくらいレベルの低い人がいる。実力主義で芸のある者が重要な場面や役を任されるのだが、その前後には未熟な芸をひたすら我慢しなければならない。大御所である住大夫の出番まではひたすら耐えるのである。文楽の観客には多少なりともMの気が必要なのかもしれない。橋下市長はコスプレ好きだそうなのでSなのかも。だとしたら文楽には向いていないのかもしない。

松山バレエ団は森下洋子がいつまでも踊り続けないと興行がなりたたないらしい。パートナーの清水哲太郎は高齢者になっても飛んだり跳ねたり回転したりと悲惨を通り越して痛々しい。若者による芸術と違って文楽はお爺さんに支えられている古典芸能である。東京の文楽公演が大入り満員だったのも、住大夫、玉男、文雀、蓑助らの存在が大きかった。人気の住大夫も高齢となり、いつまでも舞台に出演できるわけではない。彼が出ないとチケットの売れ行きに東京でも違いがでるようになってきた。歌舞伎と違って若手に突出したスターやアイドルがいるわけでもない。文楽には菊之助や海老蔵のような存在はいないのである。まったく大衆向きではなく教養主義的な観客に支えられている文楽は細々と生き残るとは思うが、未来は決して明るくないのである。もっとも天使にとっては、昔は亡くなった貴大夫がアイドルだったし、今は英大夫が大好きなので教養主義とは無縁だと思っているし、眠る観客を観察したり、大夫の苦しげな表情をみて喜ぶという人に言えない楽しみをもつ邪な心を持つ観客なので退屈したことがないので、これからも文楽は観続けるとは思う。

ただし存続のために過度の変化だけは御免蒙りたい。劇団四季のようにミュージカルなのにカラオケで上演しても恥じないコスト第一主義だけにはなって欲しくない。人形を録音にあわせて遣うなんてことはないとは思うけれど、そんな文楽の根幹にかかわるような無謀な変更がないよう願うばかりである。大部分の日本人は一生文楽を観ることもなく終るのである。ソロバンだけなら文楽などあってもなくても困らない存在である。だからなくなっても良いというのは間違いである。いろいろな存在を抱え込む度量があってこそ国家としては一流であり国民は幸福なのである。弱者を切り捨てるような国は必ず滅びる。文化を尊ばない国も必ず滅びる。色々問題はあっても文楽を衰退させてはならない。

文楽の人々も、もっと大衆の場に出て行ってよいのではないだろうか。若手には道頓堀の道端で路上ライブをやる勇気があるかと問いたい。もっともっと冒険が必要である。人形による漫才なんて面白いと思うんだけれど、結婚式やパーティーのアトラクションなど活躍の場はいくらもある。そんな勇気も必要かもしれない。古典を守るという意味からは邪道だとは思うけれど、橋下市長が話題にしてくれている今こそ世間も注目し浮上のチャンスなのである。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。