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住大夫の「千本松原の段」初日 『伊賀越道中双六』@国立劇場小劇場 [文楽]

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天使は住大夫が嫌いだった。初めて文楽を観た頃、津大夫や越路大夫がまだ現役で、そうした世代に続く人という認識しかなかったことと、文字久大夫を苛め抜くテレビ番組などの情報も良い印象を与えてくれなかった。それに住大夫を神格化したような観客の態度も気に入らなかった。病気から復帰した住大夫を観るのは今回が天使にとっては初めて。九月の文楽公演の初日、一生ものの感動が待っていようとは。それも住大夫からとは。

病気をしたからか、住大夫の印象は、それまでのギラギラしたものが無くなり、すっきりとした印象。透明感が増したといったところだろうか。元気になったといっても高齢の住大夫である。次の『伊賀越道中双六』の上演する機会に彼が語れるという保証はない。一期一会の舞台になるであろうことは、多くの観客の熱い拍手が物語っていた。

テレビ番組で、自らの声を評したように美声とはいえない声質。それを気迫で補っていたような芸だったが、その意欲も今回は前面に出ていないで、むしろ全体が淡々とした印象。物足りないと思った観客も多かったのではないだろうか。

暗闇の千本松原で、生き別れになった親子が再会しながら、親は自らの命をかけて敵の居場所を聞き出そうとし、子は義理に縛られて親の願いを聞き入れることができない。これでもかこれでもかと義理と人情の交錯を語るのではなく、丁寧に丁寧に二人の心の動きを伝えてくれる。熱演とは程遠く、むしろ慈愛に満ちた達観したような語りだった。

最後の場面で「なみあみだ」と念仏が唱えられる。それは今まで聞いたことのないような、弱々しくも、どこか遠くて清らかな場所から響いてくるような気がした。深くてそれは誰にでも出せるような声ではなくて、住大夫が人生の最後に到達した境地なのだと思うと涙がこぼれた。平作を住大夫に、十兵衛を自分になぞらえていたのかもしれない。住大夫は輝いていた。でも、その光は渋くいぶし銀の輝きというものだった。

幕が閉まっても、涙は止まらない。後から後から静かな感動が押し寄せてきて周囲に人がいなければ、大地に伏して号泣していたことだろう。売店で売っていた沼津から取り寄せた「平作もなか」を買おうとしたが、涙で財布を開けることができなくて恥ずかしい思いをした。「平作もなか」の形は、最後の名場面で、切腹した平作に雨がかからぬように十兵衛が差し出す道中笠を型どったお菓子である。小ぶりなものだが、その形を思い出したら、さらに涙は止まらなくなって、ロビーの椅子に腰掛けたまま落ち着くのを待った。

先週は吉右衛門の「沼津」を観て、11月は藤十郎の十兵衛と翫雀の平作という親子共演?による「沼津」も上演される。しかし、静まり返った場内に響いた住大夫の祈りの声音を生涯忘れないと思う。そうした機会を与えてくれた芝居の神様に感謝である。
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