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大江戸りびんぐでっど  ネタバレ大会!其の壱 [歌舞伎]2009-12-19 [歌舞伎アーカイブス]

 初日にグダグダだった歌舞伎座の『大江戸りびんぐでっど』…。さすがに百戦錬磨の歌舞伎役者揃いだけあって、どんな酷い本であっても、それなるに見せてしまう技術があるらしく、公演も後半となると多少は観られる芝居に進化したように思う。やはり初日は公開有料舞台稽古だったようだ。あえて、この芝居のテーマらしいものを探してみると、平凡な日常に慣れきってしまって、文字通り「生きる屍」となってしまっている人間に対し、自己批判を求めているといったところだろうか。

 「生ける屍」=ゾンビは、実は観客なのかもしれないとも思った。問題意識を持って観ないと、この芝居は単なる悪ふざけのレベルである。賛辞を寄せるにせよ、不満を表明するにせよ、最も問題なのは何も感じないことである。それは現代日本の色々な場面に現れているのだが、最も身近な例では歌舞伎座の客席ではないだろうか。きっとクドカンは、高い入場料を払いながら、寝てしまう数多の観客の姿を驚きをもって眺めたに違いない。天使のお隣に座ったお嬢様は、それこそ椅子の背もたれに頭をつけ、天井を向いて口をあけ堂々と寝ていた。しかも全部の演目で、ここぞと思う場面で寝ているのだからがっかりである。う~ん、歌舞伎座の客席は、まさしくゾンビだらけなのかも…。

 さて、宮藤官九郎と勘三郎の顔合わせということで敬遠された方や途中退席された方、最後まで見たけれど何がなんだか…という方のために「大ネタバレ大会」です。まだ、ご覧になっていない方は、くれぐれもお読みになりませんように。

 
 オープニング 芝の浜

主な配役

半助 くさや兄…染五郎
くさや弟…亀蔵
くさや売りの娘 お葉・・・七之助

 定式幕が引かれ、柝の音、浪音など純歌舞伎様式での幕開きかと思ったら、スピーカーから三味線と笛の新曲?が流れてきた。くさや売りのお葉は懸命に新島名物くさやを売るものの、くさすぎて相手にされない。下手にはくさや汁の入ったツボ。上手には網に干された?くさやの干物。何故か等身大の着ぐるみで染五郎と亀蔵。言葉遊びの小ネタ満載。

「さむいよ」「くさいよ」
「ていうかくさすぎ」
「私、きれい」
「もう少し評価されても」
「くさや! そんな屋号ないし」
などなど、瞬間的には面白いのだが、歌舞伎座から出て5分歩くと忘れるレベルのものばかり。

くさや汁は、お葉の死んだ亭主の形見ということがわかる。

亀蔵のくさや弟は「泣いてなんかいないやい」と、くさやの半身から、イルカに変身。「もう少し生きてみたくなった」とかなんとか捨て台詞で海に飛び込みイルカの遠見のジャンプなど。

染五郎のくさや兄は、カメレオンに変身。ここでも、すぐに忘れてしまう言葉遊びがいろいろ。

「はで始まる男」「「半助」「呼び捨てか」

「南国の爬虫類にのって追ってきました」「ゲッ、まじで」とか・・・。

実はくさや兄は、お葉に片思いしていたくさや職人の半助だったことが判明。一方的な片思いらしく、お葉はうんざりの態。なぜ半助がくさやになったり、カメレオンになれるのかは、後半のドンデン返しの伏線?だったのかもしれない。そのこと自体、あまり意味がないので、ここは目くじら立てずにスルーするのが正解。かくして舞台は回って・・・。
(つづく)

2009-12-19 00:36
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大江戸りびんぐでっど  ネタバレ大会!其の壱 [歌舞伎] 2009-12-19 [歌舞伎アーカイブス]

 初日にグダグダだった歌舞伎座の『大江戸りびんぐでっど』…。さすがに百戦錬磨の歌舞伎役者揃いだけあって、どんな酷い本であっても、それなるに見せてしまう技術があるらしく、公演も後半となると多少は観られる芝居に進化したように思う。やはり初日は公開有料舞台稽古だったようだ。あえて、この芝居のテーマらしいものを探してみると、平凡な日常に慣れきってしまって、文字通り「生きる屍」となってしまっている人間に対し、自己批判を求めているといったところだろうか。

 「生ける屍」=ゾンビは、実は観客なのかもしれないとも思った。問題意識を持って観ないと、この芝居は単なる悪ふざけのレベルである。賛辞を寄せるにせよ、不満を表明するにせよ、最も問題なのは何も感じないことである。それは現代日本の色々な場面に現れているのだが、最も身近な例では歌舞伎座の客席ではないだろうか。きっとクドカンは、高い入場料を払いながら、寝てしまう数多の観客の姿を驚きをもって眺めたに違いない。天使のお隣に座ったお嬢様は、それこそ椅子の背もたれに頭をつけ、天井を向いて口をあけ堂々と寝ていた。しかも全部の演目で、ここぞと思う場面で寝ているのだからがっかりである。う~ん、歌舞伎座の客席は、まさしくゾンビだらけなのかも…。

 さて、宮藤官九郎と勘三郎の顔合わせということで敬遠された方や途中退席された方、最後まで見たけれど何がなんだか…という方のために「大ネタバレ大会」です。まだ、ご覧になっていない方は、くれぐれもお読みになりませんように。

 
 オープニング 芝の浜

主な配役

半助 くさや兄…染五郎
くさや弟…亀蔵
くさや売りの娘 お葉・・・七之助

 定式幕が引かれ、柝の音、浪音など純歌舞伎様式での幕開きかと思ったら、スピーカーから三味線と笛の新曲?が流れてきた。くさや売りのお葉は懸命に新島名物くさやを売るものの、くさすぎて相手にされない。下手にはくさや汁の入ったツボ。上手には網に干された?くさやの干物。何故か等身大の着ぐるみで染五郎と亀蔵。言葉遊びの小ネタ満載。

「さむいよ」「くさいよ」
「ていうかくさすぎ」
「私、きれい」
「もう少し評価されても」
「くさや! そんな屋号ないし」
などなど、瞬間的には面白いのだが、歌舞伎座から出て5分歩くと忘れるレベルのものばかり。

くさや汁は、お葉の死んだ亭主の形見ということがわかる。

亀蔵のくさや弟は「泣いてなんかいないやい」と、くさやの半身から、イルカに変身。「もう少し生きてみたくなった」とかなんとか捨て台詞で海に飛び込みイルカの遠見のジャンプなど。

染五郎のくさや兄は、カメレオンに変身。ここでも、すぐに忘れてしまう言葉遊びがいろいろ。

「はで始まる男」「「半助」「呼び捨てか」

「南国の爬虫類にのって追ってきました」「ゲッ、まじで」とか・・・。

実はくさや兄は、お葉に片思いしていたくさや職人の半助だったことが判明。一方的な片思いらしく、お葉はうんざりの態。なぜ半助がくさやになったり、カメレオンになれるのかは、後半のドンデン返しの伏線?だったのかもしれない。そのこと自体、あまり意味がないので、ここは目くじら立てずにスルーするのが正解。かくして舞台は回って・・・。
(つづく)

2009-12-19 00:36
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頼朝の死 一休禅師 修禅寺物語 12月歌舞伎公演 国立劇場 [歌舞伎]2009-12-13 [歌舞伎アーカイブス]

親子は三者三様


12月の国立劇場は「新歌舞伎」の上演がテーマである。珍しく真山青果の『頼朝の死』、坪内逍遥の『一休禅師』の舞踊、岡本綺堂の『修禅寺物語』の三本立てとなった。 普段は殺風景な国立劇場の客席も、芝居としては彩りに乏しい新歌舞伎には、むしろふさわしい雰囲気であることを実感した。定式幕を使わず、緞帳を使うというのも共通で、近頃のような現代の劇作家が好んで定式幕を使いたがる傾向とは好対照だった。

 いわゆる新歌舞伎は、別の演目、たとえば舞踊作品や黙阿弥に代表されるな世話物など娯楽性に飛んだ演目との組み合わせであるならば、その存在価値を大いに発揮する。しかし、こうして新歌舞伎が並んでしまうと華やかさに欠けるうらみがある。それでも三作品を通じて「さまざまな親子関係」といったテーマが通奏低音のようなに浮かび上がってきたのは幸いだった。

 歌舞伎座では上演が繰り返されている真山青果の『頼朝の死』であるが、国立劇場では初上演のようである。どうしても国立劇場では、新歌舞伎が取り上げられる機会が少なく、真山作品では『元禄忠臣蔵』が主に取り上げられてきた。主な登場人物が少ないとはいえ、頼家、政子、重保、小周防に台詞術が巧みな人を得ないと上演が困難だからともいえるだろうし、さらに真山美保の演出が上演するための前提条件になると、岡本綺堂の『修禅寺物語』が稚魚の会を中心に何度も国立劇場で取り上げられているのとは違うようである。

 時代物狂言の第一人者として揺ぎない地位にある吉右衛門の頼家だけに大いに期待された。今回も台詞回しは相変わらず上手いのだが、何かというと高音を織り交ぜて盛り上げようとする台詞術はいささか食傷気味だったし、最初の登場部分で、12日の公演では台詞に詰まってしまい、しばらく芝居が止まってしまった。さすがに異常を察知してか、小声で「何っ?」とプロンプターに聞き返しているなど、完全主義者だとばかり思っていた吉右衛門としては珍しい事故だった。このところ急速に老いが目立つのだが、円熟期にある人だけに残念な出来事だった。

 吉右衛門に対峙する尼御台は富十郎で申し分がない。足が不自由で正座することはできないのだが、高齢の母親役であるならば、椅子?に腰掛けるのも不自然ではないし、目線の高さに差が劇の展開ともあっていて圧倒的な存在感を放つ。最後に「家は末代、人は一世じゃ」と言い放つ貫禄には、吉右衛門の頼家といえども従わざるを得ないだろうと思った。この二人は、なかなか複雑な親子関係を描いていて、吉右衛門の頼家の優れていたのは、母親への思いも当然だが、不可解な父親の死を通じて、父親からの愛情の薄さも台詞のあちらこちらに浮かび上がらせ描き出していたことである。

 周囲の役では、重保は歌昇、小周防は芝雀と吉右衛門の次世代にあたる中堅の役者が手堅く見せた。また吉之丞が侍女音羽で元気なところをみせ、歌六の大江が手堅く演じてみせて揺ぎない。もっとも歌舞伎座でこの座組で上演できるかというと微妙な感じで、国立劇場だからこそ実現したといってもいいかもしれない。

 中幕は上演時間25分ほどの小品舞踊『一休禅師』である。一休禅師が地獄大夫との問答が中心の舞踊劇だが、最も感銘を受けたのは禿を演じた渡邊愛子すなわち富十郎の長女である。まだ幼く、5月の矢車会では、今月の歌舞伎座で上演している『雪傾城』を芝翫と踊ったが、ただ舞台の上に立っていたという状態だった。それが、わずか半年のうちに急速な進歩をみせて驚かされた。

 国立劇場の大舞台の中央で独り踊るのだが、幼いながらも、ちゃんと観客の存在を意識していることが判るのである。しかもその目の色っぽいこと…。祖母にあたる吾妻徳穂も顔負けの艶やかさで驚異的だった。富十郎の意向では、将来は舞踊家にしたいらしいが、名手・富十郎に薫陶を受け、幼児の頃より舞台に立つ環境に恵まれるという優れた環境にあるだけに、21世紀後半を代表する舞踊家に成長して欲しいものである。その可能性が十分あるのを確認できたようである。

 髑髏の衣裳をつけた地獄大夫の魁春と一休禅師の富十郎が踊る部分は、はっきり言って面白くない。作品の設定を超えた、富十郎と愛子の踊りに見るべきものがあった。愛子の教えられたとおりの素直な踊りはもちろん、富十郎の慈愛に満ちた瞳に秘められた想いに泣かされた。

 富十郎は結婚しない独身主義だった。長い間のホテル住まいで、その間に総支配人が何人も変わったとか。だから、富十郎の芸は一代限り、血筋は絶えるのだと思っていた。それが思いがけずに結婚、しかも70歳を過ぎてから、文字通りに二人の子宝に恵まれた。こうして芸が伝えられていくのかと思うと涙が止まらなくなった。花道を去っていく愛子を見守る富十郎の姿を、いつまでも忘れないと思う。

 富十郎と違い、早くに結婚し子宝にも恵まれたが男の子を授からなかった吉右衛門の方が、その血筋と芸を伝えられないというも皮肉な現象である。染五郎、松緑、海老蔵から勘太郎、七之助らの世代に、吉右衛門の血を引く役者がいてくれたならと思わないこともないが、これも人生というものなのだろう。

 その吉右衛門の初役である夜叉王の『修禅寺物語』である。舞台面、演出を見ると藤十郎が演出した新国立劇場の清水脩作曲歌劇『修禅寺物語』とほぼ同じである。もっとも歌劇の演出が歌舞伎同様にというのが、故若杉弘芸術監督の意向だったので当然である。この舞台は、天桜こと富十郎の監修という新歌舞伎の正統的な演出となった。

 同じような舞台装置、衣裳であっても、芝居と歌劇は違う。台詞を音楽に乗せての歌唱である歌劇は、歌舞伎のように台詞と台詞の間に特別な想いをこめることができない。音楽が最優先される。それに引き換え歌舞伎は客席の反応をふまえ、生きているかのごとく台詞が語られるという、当然といえば当然のことが起きてくる。今回も歌劇では淡々と歌われていた部分にも、少なからず客席から笑いがもれて大変新鮮に感じた。果たして歌舞伎を歌劇にすることに意義があったかどうか大いに疑問に思った。

 それを強く感じたのは、吉右衛門の最後の台詞である。座頭の役者によって朗誦されるのを前提に書かれているだけあって、圧倒的な存在感と台詞の妙味に酔いしれることができた。それに比べれば、歌劇では何も残していないに等しいものだった。しかしながら、前半はう~とか、あ~とか言った音が混じらなければ台詞が言えないようで、非常にもどかしい想いをさせられた。

 その一方で、脇役ながら印象的だったのは段四郎の春彦である。普段は台詞が入っていないこともあるのだが、今回は全く危なげない。若さも申し分なく、高麗蔵の楓とのバランスも悪くない。いささか足元が危うげな部分がなくもなかったが、歌劇では全く記憶にないような役も、長く記憶に残るような役に格上げすることができる歌舞伎の不思議を思った。

 芝雀のかつらは上昇志向の強い女であるばかりでなく、父親の手によって芸術として永遠の命を手に入れるのことに、自分の使命を感じているような意思の強さをみせて上手い。なかなか普通ではありえない親子関係なのだが、強い説得力を持った幕切れになったのも、芝雀の好演が大きな力になっていたようである。『頼朝の死』では、主役だった頼家を錦之助が演じて、寂しげな影のある貴公子然とした感じがあって悪くない。その家来を演じた下田五郎の種太郎が、経験がないとはいいながら、立派に立ち回りを披露して将来に期待を抱かせる上出来だった。

 岡本綺堂の日記を読むと実に多くの作品を発表しているのがわかる。しかしながら、現在まで上演の機会があって残っている作品は思いのほか少ない。それも劇場の数が多く、発表の場が用意されているわけではない現代にあっては、歌舞伎を書く作者の出現など不可能なことに思える。かといって現代劇の作家に安易に歌舞伎を書かせても、歌舞伎とは乖離しすぎた芝居でしかなく満足できるものが少ない。あの三島由紀夫にしても、あまりに成功作は少ない。今月の歌舞伎座の新作群と国立劇場の新歌舞伎の距離の大きさに、あたらめて嘆息するばかりである。

2009-12-13 22:08
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引窓 雪傾城 野田版・鼠小僧 12月大歌舞伎・夜の部 歌舞伎座初日 [歌舞伎]2009-12-06 [歌舞伎アーカイブス]

ともかくドラマのある芝居を


 初日は昼の部の終演が遅れたものの、あの最悪な『大江戸りびんぐでっど』が終わった直後に、義太夫狂言の名作を上演しなければならないとは、出演した役者たちも気の毒である。扇雀のお早は、以前は大阪の新町の廓で都と名乗っていたという設定で、鄙びた在所には似つかわしくない色気が残っているという風情が必要なのだが、どうしても品川の遊郭「相模屋」の女郎・お染(野崎村を同時上演しているにこの無神経さに呆れる)の印象があって、役者の格が下がってしまった感じである。本当に『大江戸りびんぐでっど』に女形として出演したことは、まったく勲章にならない。『野田版。鼠小僧』同様に目を背けたくなるような下品さで、どうして「女形なのでできません」と演出家に言えないのだろうか。まさか、喜んで演じているわけではないと思うのだが・・・。

 明日の仲秋名月に備えて供物を二階座敷に運ぶ姿に、季節感や自らの出身などをさりげなく見せなければならないのに、単なる運び屋とかしていた。ただ歩くだけであっても、どれだけ高度な技術がいるのか自覚した方がいい。愚作のなかで、下品な演技をくり返すよりも、今しなければならないことがあるだろうに…。とにかく、ここでお幸と二人で劇世界を構築しておかないと、三津五郎の与兵衛、橋之助の長五郎の芝居がしにくくなってしまう。責任重大なのに、そのことに気がついているのかいないのか。女形としての自覚を促したい。宮藤官九郎と野田秀樹は、扇雀という女形になんということをしてくれたのか。本来の芝居とは違う場所でくさされてしまうのは可哀想な気もするが、これが観客の心理というものである。

 何かと話題作の並んだ十二月大歌舞伎座公演だが、その名にふさわしい成果を残したのは『引窓』だけである。何よりも又五郎に直接指導を受けたという三津五郎の十次兵衛が初役とも思えぬ出来映えで高得点。もっとも『身替座禅』を除くと、他が酷すぎるのに助けられたからで、義理と人情に板挟み、でも最後には人情が、義理に縛られた人を動かすという歌舞伎らしい物語の展開が、奇をてらっただけで中身のない薄っぺらな新作群よりも、ずっと人の心を揺り動かすことを証明していた。

 この芝居の影の主役ともいうべきお幸を演じた右之助も初役である。ともに初役の初日だったわけだが、二人とも身体の芯から滲み出てくるような味わいに乏しい感じがしたのも経験不足が原因かもしれない。ともかく無事に最後まで演じきることが目標だったようで、安全運転に終始したということだろうか。本当は毎日顔をあわせているはずの親子なのに、そうして空気を醸し出すまでにならないのは時間が解決してくれるのだろうか。そうした齟齬があるからなのか、なかなか泣ける芝居にならないのがもどかしかった。

 すでに十次兵衛を演じている橋之助が濡髪である。身体も大きく向いているはずなのに、意外に印象が薄くて義太夫にのった濃厚な演技ができていない。これも初役だからだろうか。観客の視線を全て集め、言葉に出さずとも、それぞれの役について、心の動きを手に取るように教えてくれなければ面白くなりようがない。登場人物も少なく、役者の力量が試されているような演目なのである。新作の稽古に追われて、稽古不足だったなんてことでなかったことを祈りたい。

 『雪傾城』は、芝翫の孫にあたる役者と歌舞伎座で共演したいという希望から企画された演目のようである。矢車会では、富十郎の愛娘である愛子と二人だけで踊った?ものである。今回は孫を全員出演させようという企画なので、前半に勘太郎の役者と七之助の茶屋娘が芝居の成功を浅草寺の観音さまに願掛けに来るという趣向。そこには3つの雪だるまがあって、奴の国生、景清の宗生、禿の宜生が雪の清で雪だるまから飛び出してくるという部分が増やされていた。振付は中村光江なので成駒屋ファミリーの演目といった感じである。

 雪の精が一旦去って、芝翫の傾城 魁と児太郎の新造が迫り上がっていつもの段取りになるという、実に融通無碍な演目である。芝翫の体力的なことを考慮してか、衣裳の軽量化が図られたようで、傾城の打ち掛けが質感がなくペラペラだったのにがっかりさせられた。女心をいかに表現するかが勝負なのだが、孫達の総出演で焦点がボケてしまい、爺馬鹿演目として出演者は満足だろうが、御曹司の個性的?な踊りを無理矢理見せられるというのも上演時間が短かったという以外は有難味のない演目だった。ホームドラマ的なぬるま湯の空気が居心地は悪かったけれど。

 平成15年8月の納涼歌舞伎で、野田版・歌舞伎の第二弾として上演された演目の待望?の再演である。今宵は12月24日とか、主人公と子役の役名がともに三太=サンタとか、背景画にさりげなくクリスマスのネタがっちゃっかり描かれていたりして、師走に相応しい演目ではある。また話題にして申し訳ないが『大江戸りびんぐでっど』の後では、とっても芝居らしい芝居で完成度が高いように錯覚?させられた。

 天使と天使の友人のCypressさんと一緒に、実は初演の時に最前列のど真ん中の席で見ている。そのときに舞台上から振ってきた髪の小判が、自宅のデスクの抽斗に大切に保管されていたりする。シネマ歌舞伎にもなって、東劇で観た記憶があるのだが、今回見直してみて、ああ、そういう話だったのかと気がつくような有様で、前回の上演は成功したのか失敗したのか、どちらかというと失敗作のほうだったかもしれない。

 金をめぐる因果噺とか、恋を成就させるために自殺をほのめかす行為をするなど、典型的な歌舞伎の要素をデfホルメして演じさせるなど工夫はあるが、主役である勘三郎の鼠小僧の性格が『研辰の討たれ』と似通っていて、二番煎じという印象は今回も拭えなかった。

 前回に比べ、鮮明になったのは三津五郎扮する大岡忠相の存在のおぞましさである。さすがに芝居の上手い人で、この物語の出来を左右する役だけに掘り下げ方に見るべきものがあって安定感があった。それに比べると勘三郎の三太には進歩が感じられず、膨大な台詞をこなすことと、客受けをねらった動きを追求することに終始したようである。もっとも最後の台詞に、全精力を注ぎ込んだか、いささか青臭い台詞であっても観客の心を大いに揺り動かす力があったことだけは認めてあげたい。

 問題は、もう一人の三太を演じた宜生の台詞で、さすがに幼すぎて広い歌舞伎座に明瞭な台詞を響かせることができなくて聴き取れない部分が多かった。舞台に立たせる前に、もっともっと基礎的な稽古が必要だったのではないだろか。

 最も問題だったのは、扇雀と七之助の女形ぶりである。同じ女形でも福助は強烈なキャラが確立していて、まあこの程度は許容範囲かと許せるが、ノミを持ち、足をダブルで踏みだしたり、無意味なダブル海老反りなど、女形にあるまじき下品さで笑いをトル方向の演技は止めて欲しかった。どうも宮藤官九郎といい、野田秀樹といい、女形を眼の敵にしているとしか思えない。もっと女形という存在を生か脚本が生み出せなかったものかと悲しくなる。

 初日ゆえ、客席にいた野田秀樹が出演者に呼ばれて舞台に上がった。それを見て、「ああ、野田秀樹は土足で歌舞伎に踏み込んできたのか」と感じた。一般の劇場と違い、歌舞伎の舞台は、基本的にお座敷と同じで土足厳禁である。たとえば『お土砂』など、酔って舞台に上がってしまった観客を案内嬢が追っ掛けてくるというお馴染みのギャグで、案内嬢は靴を両手に持って舞台に追っ掛けてくる。もちろん女優が演じているのだが、歌舞伎座で働く人の神聖な舞台を意識している行動なのだと思う。また、国立劇場でも歌舞伎鑑賞教室の高校生を舞台に上げて、歌舞伎を体験させるコーナーでは、やはり靴を脱いでスリッパに履き替えさせる。小さな事に目くじらを立てるつもりはないが、客席から舞台に直接上がってしまった野田秀樹の感覚って、土足で歌舞伎の本丸に踏み込んできたということなのかなあと感じた。

 意外だったのは客席の反応で、野田秀樹らしい言葉の応酬に対する反応が鈍かったのである。いや、この芝居に対する反応全体がそうだったように思う。野田秀樹の商品価値が低下したのか、二匹目のドジョウがいなかったということか…。もちろん三匹目のドジョウの登場は御免被りたいものである。それでも、野田秀樹の方は、単なるストーリー追うだけの物ではなくて、勘三郎の演じる三太の成長?ある意味、クリスマス・キャロル的な精神的な成長による人間性の向上?といったドラマが感じられるのが、少なくとも『大江戸りびんぐでっど』よりもマシだった理由かもしれない。

2009-12-06 08:54
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操り三番叟 野崎村 身替座禅 大江戸りびんぐでっど 十二月大歌舞伎・昼の部 歌舞伎座 [歌舞伎]2009-12-05 [歌舞伎アーカイブス]

近ごろ東銀座にはびこるもの

 
 珍しく平日の歌舞伎座初日にでかける。久しぶりの歌舞伎座での新作、宮藤官九郎の『大江戸りびんぐでっど』が上演されるからである。新作は初日に観たい、観るべきだという信念が生まれた理由は、平成13年8月に初演された『研辰の討たれ』の初日の感動が忘れられないのである。あの歌右衛門や先代勘三郎ら幾多の名優が君臨していた歌舞伎座で、同年代の小劇場出身の劇作家が新作を発表し、その上演を勘九郎が成し遂げたこと、その困難さが想像できるだけに、勘九郎のクロウは苦労なのだと思った。よくぞここまで成し遂げたという想いと芝居の感動が重なって、なんちゃってスタンディングオベーションではない自然発生的な場内総立ちの興奮と熱狂が劇場を覆った。

 今回はクドカンの作・演出ということで一抹の不安もあるにはあったが、幕が開くまで久しぶりに心の昂ぶりを押さえきれないでいた。筋書という名前なのに、「すじがき」が全く書かれていないので、どのような芝居になるのか想像もできないのが、さらに期待を抱かせた。開幕まで、これほど待ち遠しく思った芝居が、近頃あったかどうか記憶にない。

 新作の初日もそうだが、初役の初日も見逃せないものである。昔は延若、今は染五郎の専売特許?といった感のあった『操り三番叟』を、若手では踊りに定評のある勘太郎が初役で踊った。幕が開くと松羽目の舞台で、千歳の鶴松、続いて翁の獅童が登場して厳かに舞ったと書きたいところだが、二人とも舞踊の基本的な技術の未熟さを露呈してしまい楽しむどころか、イライラさせられるばかりで、あきれたり、あきらめたり、複雑な感情が渦巻くばかりだった。もちろん国家安穏を祈るのが眼目であり、劇場内に儀式性を満たして、後の三番叟の踊りを助ける役目もあるはずだが、正反対の足を引っ張る役目でしかなかったのは目を覆いたくなるばかりであった。

 舞台を下手から上手に向かって歩むという基本的な所作がまったくできていなくて、基本的なことからやり直さなければ獅童には歌舞伎役者としての未来はないだろうと思った。腰が安定していないからすり足ができない。上半身に美しさが生まれない。全体的に軽すぎるのである。朝一番の演目に勘三郎や三津五郎の登場は無理だとしても、獅童に翁を任せるのは無謀だったのではないだろうか。

 さて勘太郎だが、初日に緊張もあったのか、人形とはいえ流れるように自由に身体が動くことはなくて残念に思った。年代的に無理なのだが、延若に直接指導を受けるようなことがあれば、もっともっと違った踊りを見せてくれたかもしれない。若さがこうした体力を消耗する踊りには、必ずしも武器にならないことを教えてくれた。化粧もおかしみを強調したつもりなのか妙な顔になっていたのが気になった。松也が後見をつとめていて、勘太郎と息の合う場所と合わない場所があったが、目立ったズレがないのが何よりだった。

 『野崎村』は両花道を使用しない演出だった。歌舞伎座さよなら公演、さらに宮藤官九郎と勘三郎が組んだ新作の上演ということもあって昼の部は千秋楽まで前売りは完売である。消防法で問題になってから、通路にまで補助椅子を並べるといった光景は姿を消したが、当日券で上手側の桟敷席の前が発売されるようである。確かに一度しか使用しない仮花道で高額な客席を多く潰してしまっては減収になってしまう。しかし、歌舞伎座でソロバン勘定だけに走っては本末転倒だろうと思う。

 両花道で思い浮かぶ演目といえば、「野崎村」は「吉野川」と並んで双璧のハズである。幕切れに「本花道」が「川」になり、「仮花道」が「土手」になる歌舞伎ならではの工夫である。それでなければ、お染と久松が逆の方向へ行くようにしか思えないし、駕籠が花道で芝居をしている間に船がまったく動くことができないというタイムラグも発生してしまう。さらに気の毒なのは福助のお光で、川を行くお染の乗った船と土手を進む久松が同じ視界に入らなければ芝居のしようがない。関係者も梅幸のお光に「仮花道なしでお願いします」とは言わないだろうが、福助のお光ならいいかと思われているのなら、福助の奮起を望みたいところである。

 国立劇場の歌舞伎鑑賞教室ならあきらめもつくが、現在の建物で最後の『野崎村』である。何故こんな中途半端な上演形態にしたのか理解に苦しむ。少なくとも歌舞伎座は日本一の劇場のはずである。永山会長が生きていればこんな手抜きな芝居はさせなかっただろう。悔しくて悔しくて幕が開いても平穏な気持ではいられなかった。

 そうした気持は、主演の福助にもあったのだろうか。うっぷんを晴らすかのように芝居が雑で、感情表現が表層的。お光がなんとも軽薄で幼い娘にしか見えなかった。確かに演技は梅幸や芝翫と同じなのだけれど、木戸をピシャリと閉める間など絶妙だったのだが、お光の幼さよりも、お光を演じる福助の幼さとしか思えないのである。多くの義太夫狂言に登場する娘役は、一種の狂気?のようなものを孕んでいると言えないこともない。お三輪にしろ、お光にしろ、隠された狂気がストレートに出てしまうと別物になってしまう。福助の場合は、ストレート過ぎて辟易とさせられることが多いのだが今回も危うく限界点を越えそうになったが、なんとか踏みとどまったようだった。

 お染は秀太郎直伝の孝太郎、久松は前髪姿が珍しい橋之助、九作が彌十郎と、新しい歌舞伎座を担う面々が演じた。芝翫、雀右衛門、藤十郎、富十郎らの老練な名人芸を発揮するにはまだ早く、若さという強力な武器の威光も薄れつつあるという世代であって、残念ながら観ている側にとっては食指の動きにくい顔合わせである。それでも、僅かながらも感動があったように感じたのは、後半の福助の好演によるところが大きかった。前半の微妙な演技は姿をひそめ、お光の悲劇を際立たせて、他の演目で弾けている福助とは別人のようだった。やはり惜しまれるのは両花道がなかったことと、大根を刻む包丁捌きが不器用に見えたことである。

 『身替座禅』は、勘三郎の山陰右京、染五郎の太郎冠者、三津五郎の奥方玉の井が顔を揃えるという一座の看板が揃った感じである。このところ毎年のように上演されるので、いささか食傷気味であり、先代勘三郎が機嫌良く、勘九郎を相手に右京や奥方を踊ったのが思い出される。話としては理解しやすいし、出演者によって微妙に味わいが違ってくる演目である。

 勘三郎は、何事もトコトン演じ、踊らなければ気がすまない火の玉のような役者というイメージがある。大車輪になって演じ踊り、観客を徹底的に楽しませるエンターティナーぶりを発揮するのではというイメージがあっただけに、意外と神妙に羽目を外すことなく上品に演じていたのが印象的だった。

 立役から出ることの多い奥方を、技量の拮抗する三津五郎が演じたことで自然と品格のある舞台になったのだと感じた。面白味には欠けるかもしれないが、歌舞伎の王道を歩む芸を披露したといってよい。そうした領域に二人とも遊ぶような雰囲気があって、心地よさを感じた舞台だった。この二人がいてくれたなら、新しい歌舞伎座も安泰なのではと思われた。

 染五郎は太郎冠者だが、将来は山陰右京を十分に演じられる立場にある。この一ヶ月で二人の芸を大いに吸収するに違いない。千枝、小枝は巳之助と新悟である。基本的な着物の扱いに難があったりしたが、この顔合わせの中で大いに汗を流すことになるだろう。二人の将来にとっては、喜ばしいことである。

 さて問題作の宮藤官九郎の『大江戸りびんぐでっど』については、筋書に「あらすじ」が書かれていないのでネタバレは避け、後日に書くことにしたい。筋書では「ぞんび物」と作者が語っているように、蘇った死者、なかなか死なない死者、いわゆるゾンビが数多く登場する。

 七之助演じるくさや屋のお葉と、お葉に片思いしていた染五郎のくさや職人半助の恋愛を縦糸に、生きる屍のそんび=らくだ衆=はけん衆を横糸に物語は進んでいく。幕開きから奇想天外ともいえる物語の展開に、完全に置き去りにされてしまった観客が多数発生した模様である。出来の悪いコントのような場面の連続で、ソンビが集団で踊るという既視感、悪く言えば「マイケル・ジャクソンのスリラー」のパクリの場面があって、観客を脱力させる。もう悪夢のような冴えないギャグの連続で苦笑するしかないのが辛いというか笑えるというか。芝居が進むに従って客席が凍りついていったようだった。何しろほとんどのギャグが理解できなかったとしたら、2時間近くの上演時間は拷問でしかないだろう。

 ひとつネタバレになるが、ある外国の芝居の有名な場面をもじったギャグがある。原点の芝居が、今はポピュラーとは言い難く、全然通じていなかったのが作者としてはショックだったのではないだろうか。もっとも元の芝居の主人公が、障害をいくつも背負いながらも、立派な人間として生き、人類に夢と希望を与えた偉人だけに、意味が理解できてしまったら、大きな地雷を踏んだことになって大騒ぎだろうが、多くの観客はスルーしてくれたので、助かった感じである。

 何が観ていて辛いかというと、芝居のため、笑いのためとはいえ、女形にあるまじき演技、その多くは下ネタなのだけれど、歌舞伎座で演じるべきではない演技があって、多くの歌舞伎ファンには受け入れ難い物があったと思う。少なくとも歌舞伎の舞台では、夢をみさてくれるもの、美しいものであふれさせるべきである。そして何よりも人間の美しい心が表現されなければならない。可愛い女方で好感を持っていた芝のぶに、あの演技はないのではないだろうか。

 そんび達の造型もリアルでグロテスクで気持ち悪い。何よりも許せないのは作者の腰の据わり方である。ぞんびとは何か?それは芝居では説明されない存在である。それが何を意味するか観客にゆだねられているような面もあるのだが、作者はその批判精神をどこへ向けようとしているのか明確ではない。むしろ逃げている。その腰の据わっていないのを、低俗な言葉遊びでごまかしているように思えた。

 ぞんび達をある手段によって自由にコントロールできるようになり、彼らを人間に変わる「はけん衆」に仕立て上げ金儲けをするという場面では、あまりに「はけん衆」=派遣社員をおとしめるような場面の連続で不愉快きわまりないものだった。歌舞伎は昔から差別には鈍感なのだが、いくら何でも酷すぎる。この冬も日比谷公園に派遣村が出現するかもしれない時期に、それはないだろうと思った。だから幕切れにかけてもどんでん返しはあるものの、結末がうまくつけられないで、一大スペクタクルも不発に終わってしまった。前半のアナーキーなテンションの高さに比べ、あまりに締まりがなく理解不能な幕切れはなんだったのだろう。夜の部が開けられなくなるので無理矢理幕を閉めたようにしか思えなかった。

 単純に考えてはいけないだろうが、派遣社員として派遣切りにあい、路頭に迷う人々をゾンビになぞらえる劇手法は禁じ手だと思う。ゾンビとは何か?何故、この世に出現することになったのか作者は明解に表現するべきだと思う。少なくとも作者が派遣社員に対して共感しているというよりも、 単なる笑いの道具としか考えていないか、何も考えていないようにしか見えてこないのである。ぞんびの姿を通して社会的弱者ら(身体障害者、精神薄弱者)に対する差別意識を隠そうともしない作者の人間性はいったいなんなのか、あらためて怒りを覚える。

 禁じ手といえば、歌舞伎座であんな下品な場面が出てくるとは想像もしなかった。歌舞伎座の客席は幕間には食事をする場所でもある。クドカンは人の排泄行為を見ながら食事のできる鈍感な人間なのかと呆れ果てた。昨年の『愛陀姫』が一番最低な芝居だと思ったが、『大江戸りびんぐでっど』はそれ以上だった。時間とお金と役者の大浪費である。クドカンの芝居なら、ある程度想像できたことだし、仕方ないのだが、切符が売れれば何をしてもいいと考えているのが松竹という会社なら、『野崎村』の仮花道を省略したのも納得できるし、今の歌舞伎座を取り壊してビルにしてしまうのも理解できる。そんびは派遣なのではなく、松竹という会社なのですというのが作者の主張なのかと深読みもしてみたりした。

追記

 これからご覧になる方におすすめの観劇方法は、これ以上観るに耐えないと思ったら、遠慮なく退場した方がいいでしょう。ストーリーはあってもドラマはありません。それ以降の芝居を見逃しても決して損はしないでしょうし、貴方自身のダメージも少ないと思います。恐いもの見たさと好奇心の強い方は、是非最後までご覧下さい。役者の奮闘ぶりに涙が出そうになります。主役をふられた染五郎が本当に気の毒です。

2009-12-05 01:32

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12月歌舞伎座・初日雑感 [歌舞伎]2009-12-03 [歌舞伎アーカイブス]

今日は仕事を休んで歌舞伎座の昼と夜を通して見物にでかけた。お目当ては宮藤官九郎の新作「大江戸りびんぐでっど」と野田秀樹の「鼠小僧」の再演である。歌舞伎座の正面玄関に置かれた電光掲示板が「あと150日」となっていた。だが今日一番感動したのは、芝居ではなかった。

歌舞伎座の正面の右側にある歌舞伎茶屋の隣家が重機を使って取り壊されていた。銀座のど真中に、奇蹟のように残っていた木造2階建ての家屋である。幕間ごとに見に行っていたのだが、どんどん取り壊されていって、あと数日もすると更地になってしまうだろう。表通りに面した部屋にあったであろう神棚の跡が見えた。毎日手を合わせていた人がいたのかと思うと切なくなる。

夜の部の『雪傾城』後の幕間に見にいくと、昼間は残っていた神棚は壁ごとなくなっていた。昂ぶった気持ちを抑えるため、晴海通りを渡って歌舞伎座のライトアップされた建物を見る事にした。信号を渡り、宝くじ売り場のボックスを過ぎると天使は一歩も動けなくなった。歌舞伎座の屋根越し満月(今日は旧暦10月16日 月齢は15.3である)が見えたからである。歌舞伎座の背景にはビルもなく夜空だけが広がる。芝居を見にいってばかりだと気がつかなかったけれど、「月は歌舞伎座の屋根を越えて昇るのか…」あまりの美しさに息をのみ感動していた。歌舞伎座の屋根瓦はネオンサインを反射して青白く輝いていたのだが、なんだか月明かりに映えているように思えてならなかった。

しばらく月と歌舞伎座の美しさに見とれていた。あまり歌舞伎座の建物を美しいと感じたことはなかったのだが、月との相性は、周囲のビルとは比較にならないものだ。もし、一両日中に歌舞伎座にでかけ天気が良かったら、歌舞伎座の月をご覧になることをおすすめしたい。新しい歌舞伎座になってしまったら、たとえ正面のファサードを残しても、今宵のような美しい月は二度と眺められない。あと150日のうちに、こんな瞬間が何度あるのだろう。京都の南座は残せたのに、東京の歌舞伎座は何故残せないのか?銀座のド真ん中にある瓦の大屋根の運命を思い泣けてきた。次の満月は1月1日。1月の初日には観ることが出来るのかもしれない。

さて初日の歌舞伎座で感心したことをいくつか。開演前にはなかった花鉢が、一回目の幕間に2階のロビーに並べられていたこと。土屋アンナ、田中麗奈、ドリカム、優香、妻夫木聡などから贈られたらしい。そして同じ階に小さなクリスマスツリーが飾られていたこと。クリスマスオーナメントが「鼠小僧」に因んで紙でできた小判だったこと。誰が考えたのか洒落ている。

感想は後日にして、寸評を少々。『操り三番叟』は勘太郎の三番叟で、顔の化粧は変だったが踊りの技術は高く楽しめた。獅童の翁は軽すぎて舞台を歩くことから歌舞伎の修行のやり直しが必要。

『野崎村』は、歌舞伎座さよなら公演だというのに両花道がない!なんという手抜き。国立劇場の歌舞伎鑑賞教室でもあるまいに。幕切れは船は上手へ引かれ、籠は本花道を入るやり方。まあ、福助のお光に、両花道はまだ早いともいえるが、歌舞伎座の『野崎村』としては、配役から何からして物足りない。福助は前半の演技で飛ばしすぎ、あわや暴走か?というところで危うく踏みとどまった感じ。最後は無難に演じていたが、破壊的な演技を期待したい面もあって、いささか欲求不満が残ったかも。

『身替座禅』は、大向こうの受けや安直な笑いを引き出そうとすればできないこともないはずなのに、勘三郎には珍しく、気品があって上出来。なによりも三津五郎の奥方が傑作で、この下支えがあってこそ、舞台に品格が生まれたことと思う。

『大江戸りびんぐでっど』は、筋書で作者が「ど-うもすいません」とあやまっている通りなので、「ごらっ~」ともいえない感じ。前半は天使の笑いのツボにはまって大笑いしていたのだが、なぜか周囲の高齢の観客はついてこれないようだった。勘太郎のマイケル・ジャクソンの踊りはファンキーな感じがあってよかったのに…。確かに「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」を観にいってないお客には受けるはずがない。27日の最終日に日本中の映画館で深夜まで盛り上がっていたことなど知らない人たちなのだ。クドカンらしい、小ネタ、ゆるさ、下品さ、飛躍が満載なのだが、多くの観客は置いていかれてしまった感じ。

 世話物ならぬゾンビ物とはいうものの、ゾンビ映画を観たことがない観客が大半では辛い。マイケル・ジャクソンのスリラー風の群舞?も振付・音楽ともにゆるすぎて…。前半は飛ばして、後半失速はクドカンの芸風なのかぁ?「ゾンビ=はけん」という危険なメタファーで地雷を踏みそうになったのに、巧みによける弱腰ぶり。ストーリーはあってもドラマはないという典型的な芝居になっていたというか、公開舞台稽古だったというか完成度は超低空飛行だった。終演が16時17分予定だったが、16時30分頃になってしまってカーテンコールはなし。アレでは当然だが…。今夜も徹夜で稽古かも。千秋楽には全く別の芝居になっていたりして…。

17時近くの開演になってしまった夜の部。昼は補助席まで出るような人気だったが、総合点では夜の部が文句なく勝利。まず『引窓』の三津五郎が小粒ながら情のある演技をみせて上手い。扇雀のお早、橋之助の濡髪、右之助のお幸とバランスもよかった。現代作家の大作?や問題作に比べれば地味だが、こうした演目をきちんと上演できなければ歌舞伎役者ではない。冒険や挑戦はそれからにして欲しいものだ。

『雪傾城』は芝翫の爺馬鹿演目?といった感じで、自分の孫全員と歌舞伎座で一緒に舞台に立ちたかったという発想しかなかった演目で短いのだけが取り柄だった。

『鼠小僧』はクリスマスシーズンの再演となる。宮藤官九郎に比べれば、よほど芝居らしい芝居だったのがわかる。最後の勘三郎の独白はよかったのだが、宜生のさん太の台詞が何を言っているのか、よく判らなくて面白さ半減。初演の清水大希(現・中村鶴松)とは雲泥の差。こちらは21時06分頃に終演でほぼ時間通り。カーテンコールには、野田秀樹も登場したが盛り上がらずに終了。

『大江戸りびんぐでっど』も『鼠小僧』も筋書には作者のことば、作品の短い解説、場割ごとの全配役が書かれているのみであらすじはなし。町娘で『大江戸りびんぐでっどに』登場の小山三に拍手。

2009-12-03 00:44
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盟三五大切 弥生の花浅草祭 花形歌舞伎・昼の部 11月新橋演舞場 [歌舞伎]2009-11-05 [歌舞伎アーカイブス]

地獄を知らない者たち
 

歌舞伎座では『仮名手本忠臣蔵』が上演中だが、新橋演舞場では若手花形による鶴屋南北の『盟三五大切』が取り上げられえいる。本作が『東海道四谷怪談』の後日談であり、また初演時には『東海道四谷怪談』と『仮名手本忠臣蔵』と交互に上演されただけに、今月の上演がそうしたものを意識しているのだとしたら、なかなか考えられている演目である。

 源五兵衛実は浪士である不破数右衛門というのが趣向で、南北らしい怪奇な部分もあって、このところ上演回数が増えて人気狂言になりつつある。昭和51年8月の国立小劇場での辰之助、玉三郎、孝夫らによる初演は大評判で、歌舞伎にまったく興味のなかった田舎の高校生の天使も演劇雑誌の劇評で大絶賛されているのを読んでいて、その存在を知っていたくらいである。

 念願の『盟三五大切』を初めて観たのは、昭和60年2月の初演メンバーによる再演だった。その後も名古屋での上演以外は、すべての上演を観ている。昨年も仁左衛門、菊五郎、時蔵で上演されたばかりであり、またかという気もしないではなかったが、染五郎、菊之助、亀治郎という花形の顔合わせに大いに期待した。特に染五郎は、来月の歌舞伎座の新作の稽古にそなえてなのか昼の部だけの出演であり(歌舞伎座の勘三郎、七之助も同様である。大江戸りびんぐでっどの稽古なのだろうか?)昨年の上演成果を超えるべく、若手での挑戦は気持のよいものであった。

 結論から言えば、ある意味お行儀が良すぎて盛り上がりに欠けるのが難な芝居だった。やはり染五郎にしても、菊之助にしても「地獄」を知らないお坊ちゃん役者なのだと思う。父親たちの一世代前の役者は、空席ばかりが目立つ歌舞伎座の悲惨な時代があったことを身をもって知っている。「地獄」を知っている世代である。

 染五郎、菊之助も恵まれた名門の御曹司として育ち順風満帆。こと歌舞伎に関しては「地獄」を知らないだろうと思う。その点、亀治郎は猿之助の庇護の元を離れ、多少の苦労を知っているかのようで、前述の二人とは明らかに芝居に対する姿勢が違う。おっとり成長するのもいいのだが、食うか食われるかでギリギリまで追いつめられたような芝居を見せて欲しいものである。そんな物足りなさがついて回った『盟三五大切』である。

 元の芝居の『五大力恋緘』がほとんど上演されないので、劇中に登場する「五大力」の意味が理解できる観客も少ないだろうが、『仮名手本忠臣蔵』の外伝の『東海道四谷怪談』の後日譚という物語の背景を知らないと面白くない場面があり、さりげなく『仮名手本忠臣蔵』の要素が散りばめられているのが面白い。それがどこなのかは、ご覧になって探していただくとして、大量殺人を犯した源五兵衛が浪士の不破数右衛門に戻って忠臣に加えられるという物語がミソらしい。そうしたアイロニーはさり気なくスルーして、ひたすら物語の展開に腐心したような舞台である。

 染五郎は初演通りに家主の弥助も演じて大活躍である。当然のごとく源五兵衛が本役でニヒルな魅力があるのだが、この役としてはもっと野暮ったさがないと面白くならないだろうと思う。対する菊之助も優等生タイプな二枚目で魅力が半減。ここが菊五郎なら、長年の遊びの成果が出て味わいのある演技が楽しめるところなのだが、なんとも育ちのよさは隠せなかったという感じである。ここはお互いに相手をツブすくらいの気魄で演じて欲しかったと心から思った。

 亀治郎は相変わらずの独特な女方に挑戦といった感じで、男を手玉にとってきたような図太さがあって悪くないと思った。とにかく隙あらば、やってやろうという気構えのあるのは、この人だけだったからである。愛之助は血のつながりはないのに相変わらず仁左衛門にそっくりな小型松嶋屋ぶりを発揮して好演。脇役の中では、天使の一番の贔屓の夜番の松太郎が活躍。以前から注目していた人だが今月は大いに目立っていて結構である。どちらにしても本当の地獄を知らない役者が口当たりよく演じすぎて毒の足りない舞台になってしまったのが惜しかった。

 『弥生の花浅草祭』が新橋演舞場の本興行で踊られたのは昭和53年の10月興行で天使には思い出深い舞台である。同じ興行の夜の部では、玉三郎、海老蔵、孝夫による『桜姫東文章』が上演されていたはずで昼の部の最後が富十郎と勘九郎の『弥生の花浅草祭』だったと思う。ある舞踊会で上演されて大評判になり本興行に登場したものだと思う。

 元気いっぱいで躍動感あふれる「三社祭」もよかったが、富十郎の野暮ったい国侍や、若いのに独特の柔らかさが秀逸だった勘九郎が強く印象に残っている。それから同じ配役で三度も上演されたが、初演時の感動を超えることはなかった。人気者の中で、いかに自分たちの存在感を示すか、そんな気魄にあふれた舞台だったように記憶している。今では考えられないが40代後半の富十郎と20歳前半の勘九郎は、そういう立場の役者だった。

 松緑と愛之助もよく踊っているのだが、染五郎や菊之助と同じく、そんな危機感などあるはずもなく、ただただ淡々と踊っていて意外に盛り上がらなかった。石橋では、一体いつまで毛を振り回すのだと思うくらい、たぶん100回を越えるくらいまで頑張るのだが、客席の反応はいたって冷ややかだった。人気や期待度から言えば、観客の正直な反応だと思うのだが、せっかくの熱演なのに残念だった。そう思って冷静に眺めれば、全体的に粋ではなく野暮な感じがつきまとっていたように思う。


2009-11-05 22:30
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外郎売 傾城反魂香 大津絵道成寺 11月国立劇場 [歌舞伎]2009-11-05 [歌舞伎アーカイブス]

三ツ星?江戸の味と上方の味

 

 文化勲章を受章した藤十郎と團十郎の共演による国立劇場公演である。歌舞伎界にとっては、どちらも大名跡で本来ならば大変話題になるはずなのだが、観客の関心はあまり高くないようである。通し狂言が売り物のはずの国立劇場ではあるが、歌舞伎座と同じようなみどり狂言での興行である。大看板が二人だけなので、歌舞伎座の豪華な顔合わせに比べれば見劣りがするし、もはや新しい演目を一から創り上げるというエネルギーも時間もないので仕方ない。

 それでも演目には工夫があって、二人が顔をあわせる「傾城反魂香」を中心に、それぞれ単独の演目を前後につけている。「外郎売」はともかく、「大津絵道成寺」は大津絵の絵師である又平に関連があるし、登場する矢の根五郎は、曽我物で「外郎売」とも縁があるので悪くない工夫である。

 30年以上前の歌舞伎ファンの頭痛のタネは、当時の海老蔵の口跡の悪さであった。音声障害というか高音が全く出せないで聞き苦しく、彼の台詞では観客全員がハラハラしながら見守るという感じだった。それに比べれば、現在の海老蔵など大変恵まれた資質をもっているといってよい。その悪声を克服するべく挑んだのが「外郎売」であった。口跡の練習や早口言葉の教材として有名な台詞を曽我物の対面の趣向を入れて、昭和55年に劇作家の野口達二の改訂台本によって、初演されて大成功をおさめたのを覚えている。

 舞台は後方に富士山が描かれ、大時代な舞台装置には成田山新勝寺の御札が掛けられていて歌舞伎十八番らしい雰囲気がある。不満を言えば舞台装置が新しく美しく見えすぎることだろうか。歌舞伎座の良く見ると使い回しているからかボロボロなのに味があるのとは大きな違いである。簡素な国立劇場だからこそなのだが、新しい歌舞伎座の舞台には、どう映えるのかとあれこれ想像してみた。三演目とも所作舞台を使う演目が並んだので、花道のフットライトは所作舞台の高さまでかさ上げされていたのが珍しい光景だった。かさ上げした方が、やはり光線の当たり具合がよくて美しいのかもしれない。

 工藤が彌十郎、大磯の虎が芝雀、朝比奈が翫雀、舞鶴が扇雀、珍斎が市蔵、化粧坂の少将が右之助と藤十郎と亀鶴以外は全員出演といった演目である。逆に言うとそれだけ寂しい座組といえないこともない。その中では團十郎の鷹揚な芸が光り輝く。劇中の口上で述べていたが、今年の国立劇場の正月興行で病気から復帰したばかりである。そのときの演目が、同じく歌舞伎十八番の「象引」であったのを思い出した。そのおおらかな演技にみとれるばかりだったが、今回も同じく、團十郎以外ではありえない春風の温かさを思い出させる茫洋とした芸を楽しんだ。

 この公演の目玉は「傾城反魂香」である。不器用な又平を團十郎が、おしゃべりで明るい女房おとくを藤十郎が演じる。歌舞伎座で吉右衛門の奇蹟のような名舞台を観ているので、正直な話、團十郎の計算のない素朴な演技?と藤十郎の頭が先行してこれでもかこれでもかと押してくる押し付けがましい演技に、いささかうんざりもして退屈も感じた。

 それが一変したのは後半の夫婦愛をみせる場面である。台詞でも演技でも何も説明していないのに、何故吃音の障害を持つ又平をおとくが夫にしたのかが理解できたからである。團十郎の又平は、本当に心優しい、愚直なまでの善人で、悲しみも喜びも素直に演じられていて好感がもてた。おとくには、絶対に手をあげたりすることのないような又平であるだけに、死を覚悟する場面では泣かされた。

 藤十郎のおとくは、さっきまで早口言葉で場内をわかせた夫の團十郎が吃音になり、その替わり饒舌になるのが趣向としては面白かったが、実力を発揮したのは、やはり後半で夫婦愛をさりげなく見せる場面で、なかなか心のこもった演技で堪能した。最後は花道を入る演出で、おとくの役者が得になるように考えられているのだが、この二人にはあっていたように思う。将監の彦三郎、北の方の右之助らが周囲をかため、雅楽之助の扇雀、修理之助の亀鶴と健闘していたが、前半の停滞部分に登場だったためか印象が薄いままだった。百姓で登場の寿治郎が上方らしい味わいだったを面白く観た。

 今回一番楽しめたのは藤十郎の五変化舞踊「大津絵道成寺」であった。大津絵と「娘道成寺」の世界がなまぜになって、立役と女方を入れ替わり立ち替わり踊りぬくのが楽しい。坊主のかわりに外方と唐子が登場して弁慶の鐘の供養が三井寺であることがわかる。スッポンから藤娘の姿で藤十郎が登場、鷹匠で若衆姿、座頭で軽妙なところをみせ、藤娘で「恋の手習い」、船頭で粋な姿をみせてから、藤娘で「山づくし」、振り鼓をもって鐘入り。弁慶と奴が鐘を引き上げると、指が三本指の鬼に変身。押し戻しに矢の根五郎が登場と、すべて大津絵の世界観で統一されているのが面白い。女形は当然ながら、若衆姿や船頭がなかなか美しく、特に船頭の若々しさと色気に驚かされた。

 元気一杯の大熱演だったのだが、矢の根五郎の翫雀が高下駄を履いているにもかかわらずに小さく力感がない。不安定な足元を気にしてか腰も高くて不恰好にしか決まらないので歌舞伎のバランスを破壊していた。台詞も怒鳴る感じで、朝比奈の声が枯れ気味だった原因がわかった。あまりに力みかえった演技で、かえって力を失うという、歌舞伎独特の力学をみた思いである。それに比べれば、亀鶴の弁慶はバランスはいいのだが、遠慮がちにみえるのが、彼の立場を想像させて複雑な思い。そうしたものを吹き飛ばす藤十郎の若さとエネルギーに圧倒された一日だった。

タグ:国立劇場 歌舞伎劇評 市川團十郎 坂田藤十郎
2009-11-16 21:22 nice!(0) コメント(0) トラックバック(0)
三人吉三巴白浪 鬼揃紅葉狩 花形歌舞伎・夜の部 11月新橋演舞場 [歌舞伎]
さらなる成長への過程

 
 かつて平成の三之助と称された辰之助、菊之助、新之助。当然、三人吉三を通しで上演しているものと思っていたら、筋書の上演記録によると、平成9年から平成11年にかけて、「大川端」のみ歌舞伎座、金丸座、松竹座で三回上演されただけであった。それから10年が経って待望の通し上演である。

 もっとも今回は、かつての新之助=海老蔵が参加せずに、愛之助がお坊吉三で参加した。「大川端」では駕籠からの出でトチッたりしたが、相変わらずの小型・仁左衛門ぶりを発揮して、二枚目の王道を堂々と歩んで見せていて得難い味があり素晴らしい。

 そのお坊吉三があって、菊之助のお嬢吉三も生きていたと思う。常々、二人は同性愛?関係と言われることが多いが、そうしたナマな感覚ではなく、アウトローの世界に生きなければならなかったお互いの共感があって、惹かれあうといった節度があるのが歌舞伎らしくていい。それでなくともドロドロした世界なので、二人の世界はあくまでも美しくあって欲しいからである。退廃的な妖しさは、ちょっとした隠し味といったさじ加減が望ましいと思う。

 「大川端」では、このところ歌舞伎座で孝太郎、玉三郎、染五郎らを相手役に和尚吉三を演じてきた松緑だけに、かつてのような姿勢の悪さ、目つきに現れてしまう幼さといった欠点が徐々に克服されていて、大人らしい芸になってきている。若手花形を見回しても、将来の和尚吉三を担う人であることは間違いがなく、さらなる安定感と成熟を期待したい。

 お嬢吉三の菊之助の美しさ、男に戻っての台詞回しの上手さ、10年も上演されてこなかったのが不思議なくらいに適役である。今が年齢的にも肉体的にも理想なのかも知れないが、松緑ともども、将来の持ち役として大きく成長を期待したいところである。お坊吉三とのバランスのよさは前述した通り。おとせは、これまた、その将来に大いに期待を抱かせる梅枝で、楚々とした女形ぶりを披露し、度胸よく?アッという間に大川に落ちていって見事だった。

 通常では通し上演とはいっても上演時間の問題もあって、すぐに「吉祥院」と「火の見櫓」となる。今回のように「伝吉内」や「お竹蔵」があるほうが丁寧で筋は通る。もっと欲をいえば、因縁噺の発端の場面も欲しくなるが、よほど伝吉に人を得ないと舞台成果が上がらない。この場面の成功は、このところ老け役に新境地をしめす歌六の存在が大きかった。それに比べると、松緑の和尚も愛之助のお坊も幼い芸と感じてしまうのが、欠点といえば欠点である。それだけ歌六がよいということなのだが…。

 「吉祥院」の本堂と墓場の場面は、ともするとテンポが悪く退屈な場面になってしまうことが多い。先行作品のパロディのような部分もあり、因果噺の趣向の種明かしになる陰惨な場面につなげるまでが、上手く弾まなくて退屈させられるからだ。今回は、この場面に関しては初役揃いだったにもかかわらず、しかも歌六のような老練な役者の力も借りない場面で、若手花形だけの力で最後まで演じ通したのは見事だった。

 何よりも菊之助と愛之助の美しさを、目で観る楽しみがあり、物語の展開の陰惨さと好対照だったのが、この作品の本質にあっていたのか、濃密な時間を得ることができた。惜しむらくは、十三郎とおとせで好演した松也と梅枝を手に掛ける松緑に、さらなる大きさや存在感が欲しくなる瞬間があったことである。亀寿の源次郎が、いかにもこうした役にはまっているのだが、同じく御曹司でありながら、少々気の毒な気もした。

 「火の見櫓」の場は、例によって火の見櫓を迫り下げたり上げたりという、よく意図の判らない動きがある。定番の演出で、それぞれの役者を引き立たせる意味などがあるのだろうが、必要以上に役者が目立ちたいという意識を持っていないと、単なる段取り以外に意義が見出せずに煩わしいだけである。

 天使の大好きな権一と松太郎、夜鷹三人娘?の段之、梅之助、徳松らが少ない出番でもキッチリとした仕事をして舞台を支えていたのが印象に残った。

 猿之助演出による『鬼揃紅葉狩』は亀治郎が主演、共演者には猿之助一門の役者が誰も出演していないという珍しい舞台である。音羽屋、萬屋、大和屋などの若手が猿之助に指導を受けるなど、ひと昔前なら考えられなかったことで、猿之助が舞台から遠のいて時間がとれるようになったこともあるだろうが、見えない壁?がなくなるのは、歌舞伎にとって特に若手には悪いことではない。

 更科の前実は鬼女は亀治郎で、相変わらず美貌を誇るタイプではないのだが、濃厚な「オヤマ」といった感覚があるのが、猿之助の女形にも通じていて面白く観た。ただし、猿之助という指導者がいるので、自分がすべてを創造する場合と違って、自由奔放さが足りないように思えたのが不満だった。松緑、菊之助ともに『紅葉狩』とは違った演出であっても安定感があるのは、数々の舞台で主役を演じてきている成果なのだと思う。

 「鬼揃」というだけあって、女人も主要な登場人物である。猿之助らの若手が演じると、門閥外の彼らにも脚光が当たるという事実に感動もし、応援もしたくなる。今回は御曹司といっても主流というよりは傍流、まだまだこれからの人だけに、別の期待を持ってみた。

 年長者の吉弥を別にすると、ほぼ20歳前半の役者たちである。松也はその中にあって、やはり年長ということもあり目立っていたし安定感があった。未来を担う女形の大器である梅枝は、その美貌と気品が目を惹くが、少々寂しげなが気になる。巳之助は立役だと、あまり美しいと感じたことはないのに、意外に若く美しく美女に変身していて驚いた。これで声さえ安定してくれば、女形でも十分いけるように思った。名子役にして、天才舞踊家である右近、簡単と思える振付でも、差す手引く手の指先までも周囲の役者とは段違いの上手さをみせて素晴らしい。その割を食ってしまったのが隼人で、何もかも中途半端にみえてしまって可哀想なのだが、御曹司らしいといえば御曹司らしい存在感ではあった。これを機会に周囲に大いに発奮して貰いたい。

 従者は亀寿、種太郎と若手中心の熱のある舞台。さらに必要なものは、仲良し同士という甘さを捨てて、喰うか喰われるかの強烈な競争心といたところがあれば、もっと盛り上がるのかもしれないが、誠実に自分のすべての力を出そうという姿勢は清々しい感動を呼ぶ。

 終わってみれば、昼の部は常磐津、清元、長唄、夜の部は常磐津、義太夫、長唄と、通して観ると歌舞伎音楽をすべて体験できるという絶好の機会だったことに気がついた。若手中心とはいえ、やはり歌舞伎は贅沢な演劇なのだと改めて思った。

タグ:三人吉三 花形歌舞伎 新橋演舞場 歌舞伎劇評
2009-11-07 23:45 nice!(0) コメント(0) トラックバック(0)
天野道映 朝日新聞の歌舞伎劇評 [歌舞伎]
 平成21年11月6日(金)朝日新聞4面に歌舞伎座「吉例顔見世大歌舞伎」 ~技芸充実 最後の顔見世~と題された歌舞伎劇評が掲載されていた。限られた字数、広告主?である松竹への配慮から、当たらず障らずの無難を絵に描いたような毒にも薬にもならないような劇評は相変わらずである。ある意味、至芸ともいえる筆致なのだが・・・。最後の二行で驚いた。

最後は討ち入りと両国橋引揚でお約束の雪。

「お約束の雪」という苦心の表現に思わずニヤリなのだけれど、もう観た人は気がついているが、初日から場割が変更になっているのは、すでに書いた通り。

両国橋ではなく、花水橋に世界が変更になっているはず。花水橋=両国橋は周知の事実とはいえ、あまりの不正確さに唖然とさせられた。この人は一体何を観ているのだろうか?

七段目を評して「いつもこのあたりになると、さすがに疲れるが、今回は福助と幸四郎がテンポよく運ぶので飽きさせない。逆にいうとこのお軽は大星の相手をしている時は、遊女らしいおっとりとした風情に欠けるうらみがある」

と苦言を呈しているが、自分が致命的なミスをしていたら、著しく説得力に欠けるのだが、それにしても筆者も、担当の文化部の記者もチェックしないとは…。

ついでながら、渡辺保氏の「歌舞伎劇評」も歌舞伎座の劇評がアップされたが、

三段目進物場は松之助の伴内が当世風のおかしみがあってよく、菊十郎の本蔵は役どころが違うために、この腕達者にしてさすがに手に余った。

って…。三段目の伴内は橘太郎なんですけれど…。揃いも揃って二人ともどうしてしまったの?だだでもらえる筋書さえ見ないのだろうか?3日は新橋演舞場が御社の日で、もちろん渡辺大先生もお見かけした。実は天使の好みのタイプで、ちょっと枯れた感じがたまらないのだが、大好きな人が壊れていく感じって寂しい。

仮名手本忠臣蔵 五段目・六段目・七段目・十一段目 顔見世大歌舞伎・夜の部 歌舞伎座 [歌舞伎]2009-11-04 23:50 [歌舞伎アーカイブス]

七段目の蹉跌
 

 現役の役者で五段目・六段目の勘平を演じたことのある役者をあげてみると、坂田藤十郎、菊五郎、仁左衛門、勘三郎、勘太郎、團十郎、吉右衛門ということになる。国立劇場の鑑賞教室などにも広げれば、中村梅玉、中村扇雀などの名前もあがる。今月の興行では、実に四人もの勘平役者が揃ったことになる。歌舞伎座の通し狂言に限れば、それはすなわち誰もが認める勘平役者ということだが、菊五郎、勘三郎、仁左衛門の三人ということになる。その中でも菊五郎の上演回数が圧倒的に多い。文化勲章を授与された坂田藤十郎でさえ、歌舞伎座での上演は実現していない。仁左衛門の勘平は別にすると、六代目菊五郎に縁のある役者にしか歌舞伎座の舞台で演じることは許されない重要な演目だということがわかる。

 何度も手がけている菊五郎だけに、何ら不安のない出来で、今回も安定感があった。それだけに仁左衛門の勘平のような新しい発見などは望むべくもないが、勘平はこうしたものというお手本のような演技である。この20年余りで相手役のお軽は、玉三郎、雀右衛門、福助、菊之助と変えてきたのだが、今回のお軽は昭和58年の福助のダブルキャスト上演以来の時蔵である。実に26年ぶりの再会となった。

 ポスト玉三郎と呼ばれた福助と時蔵。福助は児太郎時代から猿之助の相手役となって脚光を浴びたのだが、勘三郎らとのコクーン歌舞伎への参加、野田秀樹の歌舞伎との出会いなど、常に派手な話題をふりまいてきた。私生活も荒れた時期があったようだが、「籠釣瓶」の八ッ橋のような佳作はあっても、好調と不調の差が激しく、ある意味独特な演技の境地をひらきつつある。今回の七段目のお軽は、独特な演技の部類だった。それについては後で述べるとして、時蔵は、福助ほどには脚光が当たらない役者人生だったろうが、着実の地力をつけて、福助には大差をつけて、芝雀とともに次代を担う女方になった。余談だが、芝雀が通し上演ではお軽に無縁なのは、少々理解できない現象ではある。

 さて菊五郎は、今回の筋書でこんなことを述べている。「おかやの一言一言にピクピクと反応する“犯罪者”の心理を表したい。もし不破と千崎が来なかったら、仇討ちの徒党に加わりたい忠義心から、邪魔なおかやを殺していたかもしれません」。どのような変化があるのか?、本当におかやに殺意を抱くのか?菊五郎の演技に注視していたのだが、書かれているような変化は少なくとも初日の演技からは感じ取ることができなかった。さすがに細かな手順が口伝として伝わっているだけあって、現代的な心理的な解釈を施した演技プランが入り込むような隙間はなかったようである。最も菊五郎のことなので、千秋楽へ向けてどんどん変化していく可能性がないわけではないので、注目していきたい。

 むしろ座頭格の菊五郎の目が行き届いたという点で、劇団の中堅の役者の成長が実感できたのが収穫であった。それは千崎を演じた権十郎である。台詞回しの明快さ、心根の具合、菊五郎の相手役を務めるということで、緊張し懸命に演じることができたのであろう。すっかり持ち役になったようだが、その意気込みは大いに客席にまでも伝わってきて感動的ですらあった。初日ゆえ五段目では、イノシシが転んだり、梅玉の定九郎の動きと鉄砲の音の微妙なズレがあったように思うが、意外に悪役が似合う人だと新しい発見をした。

 六段目は芝翫のお才という贅沢な配役で、決定版となるべき「仮名手本忠臣蔵」で、これ一役とは七段目のお軽を福助に演じさせるためのバーター出演なのかと疑いたくなってしまったほどである。江戸前の演じ方だが、なかなか苦い水を飲んできた女だということが、身体からしみでてくるのは役者の年季の違いなのだろうと思う。それに女衒の源六が左團次、おかやが東蔵と手堅い配役が揃って、全編を通じて安定した舞台成果を上げていたと思う。

 あまりに有名な物語の展開、菊五郎の安定した演技、周囲の役者の好演など好条件がそろったのだが、それで感動できるほど歌舞伎は単純でないことを思い知らされたような気がする。たとえば、仁左衛門が演じた勘平のように、美しい二枚目役者が、次々に襲いかかる災難?に追い詰められ、どんどん美しさを失い、自滅していく部分に観客が快感を得るような不思議な感覚はなかった。一種病的な表現があってもよいと思うのだが、そこまで複雑な読み込みをしないのが音羽屋の信条なのだろう。伝統の継承という点ではまったく正解。観客へプレゼンテーションとしては平凡すぎて、物足りないということだろうか。 

「七段目」は細かなカットがあったものの、現代の上演時間の制約の中では適切な物語の展開となっていた。仁左衛門の大星、幸四郎の平右衛門と大顔合わせの上に、お軽一役で勝負をかける福助と期待値は高かったのだが、残念ながら幕切れまでの後半の由良之助の出からは高水準で緊張感あふれる舞台だったと思うが、初日の舞台に限っては大いに失望させられた。

 その一番の原因は幸四郎の平右衛門の最初の見せ場である願書を寝ている由良之助に差し出すところにあった。幸四郎も由良之助を演じているので理解しているはずだと思ったが、願書を由良之助の寝顔を覆っている扇子の上に置かず、あるいは由良之助の寝ている位置の関係で置けなかったのかもしれないが、由良之助が扇子を動かしても願書がないので手ごたえがなくて焦ったのか、由良之助が上半身を起こして、ようやく願書を叩き落とそうとした。なんという間の悪さと美しさのバランスの悪さ。失笑が広がった「七段目」の劇世界はあっさり崩壊してしまった。

 願書が床に落ちなければ、幸四郎が芝居がしにくいと考えた仁左衛門の失策ではあろうが、幸四郎にも大いに罪はあったように思う。それ以降は、しらけてしまって芝居の中に入っていくことができなかった。それに拍車をかけたのが、福助の勘違い演技の連発で、そのあまりに幼い台詞回し、品のなさにがっかりさせられた。半世紀も何をやっていたのだろう演技が退行してしまうとは…。勘平のことしか頭にないお軽ではあっても、ああまで頭の中身まで軽くしてしまっては苦笑いするしかなかった。

 最初の出来事とお軽の理解不能の演技プランによって、なかなか芝居の世界に入っていくことができなかった。仁左衛門の由良之助は最初の失敗以外はなかなかの好演で忘れがたいものとなったのだが、やはり最初の出来事が尾を引いてしまって楽しめなかった。もっぱら主役の役者よりも周囲をかためている役者に注目することにした。「あいあい」の仲居には歌江、九太夫には錦吾、伴内には松之助と実力のある役者が出演して活躍したのは嬉しいことだった。

 幸四郎の平右衛門は、足軽風情にまったく見えない貫禄十分な押し出しで得をしていたように思う。相手役ともども身分の低さに泣くという感じは乏しいのだが存在感は満点であった。福助のお軽さえ、もう少し楚々とした魅力があれば言うことなしなのだが、どうも真逆な方向へ暴走してしまうので楽しめなかった。唯一の救いは、幕切れの由良之助のきっぱりとした態度で、なるほど放蕩の限りを尽くすのも、このためだったかと思わせるような変わり身の見事さで大いに至芸を堪能した。最初の不手際さえなければ、かなりハイレベルな舞台が約束されていただけに惜しい。

 大勢の仲居や太鼓持ちが出てくる割には、見立てのお遊びなどもなく、こう見せ場を封印されては舞台に立つ意気込みをそがれてしまって気の毒だった。歌江は「あい、あい」の仲居で元気なところをみせた。

 「十一段目」は、まず「表門」があって、書割が飛んで「奥庭泉水」で歌昇の小林平八郎と錦之助の竹森喜多八の戦い、舞台が回って「炭小屋」で本懐で勝どきの声というのが定番である。今回はそれに舞台一杯に橋をかけ、舞台奥から大星をはじめとして次々に太鼓橋を渡ってくるという歌舞伎版ディフレという感じ。そこへ梅玉の服部が馬で駆けつけてきて、別の道をすすめて、浪士を見送り、服部が馬上で見送って幕という段取りである。

 上演時間が短いからよかったのと、転換時間が短めだったので、最後の場面が蛇足にならなかったのは何よりである。注目したのは歌昇と錦之助で、緊迫感が乏しく、速度も遅い、御曹司が演じるダルい立ち回りと違い、これまでで一番の出来だった。特に錦之助の宙返りや軽い身のこなしには目をみはることになった。

2009-11-04 23:50

仮名手本忠臣蔵 大序・三段目・四段目・道行 顔見世大歌舞伎・昼の部 歌舞伎座 [歌舞伎]2009-11-03 [歌舞伎アーカイブス]

大きさと潔さ、望まれる深さ


 劇場正面に櫓が組まれた十一月。最後の歌舞伎座での顔見世興行は、歌舞伎の独参湯『仮名手本忠臣蔵』の上演である。先月が『義経千本桜』だったので、4月までに『菅原伝授手習鑑』も上演されることを大いに期待したい。仁左衛門の極めつけの菅丞相を再び観ることができれば嬉しい。大曲ゆえに、現状では場面的に単独では上演されるのが困難な演目であり、歌舞伎座以外で上演されるのは不可能な現状なだけに祈りにも等しい願いである。

 「道行」、「五段目・六段目」、「七段目」のように単独で上演される場面と違い「大序」「三段目」「四段目」も単独で上演されることはなく、もっぱら通しの場合の上演に限られる。それだけに歌舞伎座さよなら公演にふさわしい理想的な配役を得て高水準な舞台が実現したことを喜びたい。

 「大序」が始まる前に恒例の口上人形が登場するのは恒例の通りである。相変わらず名題以上の役者はすべて読み上げる形式で、大幹部の名前の前には「エヘン、エヘン」と咳払いをするのも変わらない。『仮名手本忠臣蔵』は一座の顔ぶれによって何役も兼ねることが可能だが、勘三郎の判官、魁春の顔世など一役のみであるのは当然のこととはいえ、贅沢であり見識なのだともいえる。

 口上が長くなり、誰彼かまわず拍手を送ろうとする律儀な観客の存在は、いささか白けるので主な役名だけに限るのも一案なのだと思う。口上の読み上げも二人で交替制だが、人形の操作は「馬の足」で有名になった仲太郎である。今は筋書の顔写真にも登場しなくなり、裏方として歌舞伎座の写真集に着到板の前に立つ姿が掲載されていて、今月は2階のロビーに展示されている写真の中に発見することができる。新しい歌舞伎座でも人形とともに活躍することを心から願った。

 「大序」は富十郎の師直、勘三郎の判官、魁春の顔世、梅玉の若狭、七之助の直義と役者が揃った。芝居の中心は富十郎で、齢80歳にして口跡は明快、実生活とたぶるとまでは言わないが、老いてなお色好みであるということも納得の演技である。さすがに階段を下りたり上ったりする場面では危なっかしくも思えたが、世の中の80歳の老人としては驚異的な若さである。

 すべては恋が原動力といった風情で、下品にもならず、手強すぎもせず、人の良さ?さえ感じさせるのは富十郎の個性である。極端に憎憎しげにならず、誰の心の中にも潜んでいる「ちょっとした意地悪さ」といったものを感じさせて上手い。そのさりげなさが「三段目」への若狭への媚びへつらい、判官への理不尽なまでの「いじめ」へまで繋がるのだが、自分の心の中に同じ要素を感じ、あるいは判官をサディスティックなまでに苛めることに心地よさなどを感じてしまう自分を発見して驚いた。

 一方の判官の勘三郎は、絶品だった梅幸直伝だという判官を演じる。もちろん眼目は「三段目」「四段目」だと思うのだが、気品と若さのある姿は、日ごろ舞台上ではじけている勘三郎とは別人のようである。判官が本役とはいえ、芝居巧者なこの人の師直なども期待したくなった。

 この場面で最も感銘を受けたのは梅玉の若狭である。台詞の第一声より凛とした響きが劇場空間に広がった。その音楽的ともいえる声質、気品、直情的な性格をも見事に表現していたと思う。いつの間に、こんなに素晴らしい台詞を操るようになったのか…。歌右衛門の薫陶を受け、「歌舞伎座の舞台にふさわしい役者に」という父の願いは実現したようである。

 同じく歌右衛門に鍛えられた魁春の顔世ではあるが、あまり感心しないできである。時として歌右衛門を髣髴とさせるような演技を見せるようなこともあるのに、今回は松江時代の最も不味い台詞回しに戻ってしまったようである。嫌らしい台詞の粘り方が生理的に受けつけないのである。ある意味、歌右衛門風といえなくもないのだが、音楽的でない台詞は、他の役者とのバランスも悪く残念なことである。

 すでにお軽なども経験している七之助が父親と同じ舞台を踏んで神妙な演技をみせる。女形もだが、こうした役柄も品があるのと線の細さが貴重な味をだしていた。

 短い幕間をはさんで「三段目」である。「進物の場」は橘太郎の伴内で、もうこの人が、この大一座で伴内なのかと感慨深いものがあった。愛嬌のある体型、顔立ち、身体から発する雰囲気に軽さが感じられるのがよかった。例によって「エヘン、バッサリ」なのだが、中間との息もあい、なかなか楽しめる場面となり、後半の悲劇を引き立てる役目を見事に果たしていた。全編を通じて、けっして大名題のでるような場面ではないが、脇役たちの活躍する場なのだと気がついて、出演者が張り切っているもの納得だった。

 「三段目」で懸念されたのは、富十郎の師直の膝の疾患についてである。かつて松緑も同じ状態で演じたことがあるが、同じように鬘桶に腰かけて若狭と応対する形式だった。よく考えるとおかしなものだが、橘太郎の好サポートもあって違和感はなかった。伴内の身軽なこと、敏捷なこと、身軽な橘太郎ならではで上出来である。

 梅玉の若狭は、ことさら台詞を手強く言うこともなく、感情を爆発させるような台詞ではなく、軽蔑する気持をこめる演じ方で、最後まで気品を失うことがなかった。直接的でなかっただけに師直に与えた恥辱はむしろおおきくなったかのようだった。

 判官の勘三郎は、師直の邪悪な想いをも実は知っていたのかと思わせるような部分があって面白く観た。本来ならば何も知らないのが本当なのだろうが、師直の理不尽な要求にも耐えているというよりも、軽く受け流すといった感じで大人の対応だと感じた。ある意味、とっても現代的な解釈ではあるが、清濁あわせのむような理知的な部分(現実の勘三郎には一番足りないと思うのだが…)が感じられて、大序での分別くささも納得できるのである。師直の顔世への恋慕も軽く受け流す風があって面白い。

 それが師直の武士の名誉を汚すような言動で我を忘れて刃傷に及んでしまうという心理的な過程を納得させてみせた。それを助けたのは、富十郎の師直が良いからで、勘三郎も苛められ甲斐があるというものである。膝の疾患があるゆえに、正座ができないで、足をさりげなく投げ出したりしてカバーしていたが、芝居には支障がないと感じられたのは、細かな工夫が凝らされていたからである。さらに、座頭としての目配りが効いていたようで、ぞくぞくするような芝居を観る醍醐味があった。それは富十郎の強い個性によってである。近頃の歌舞伎では失われてしまった大幹部のオーラのある演技、それは、ともすると観客不在の我が儘という弊害も生んだことは確かだが、食うか食われるかといった意気込みで繰り広げられる演技合戦があると嬉しい。若手花形にみられるような仲良しクラブ的な芝居は、正しい姿であっても観客不在で面白くなりようがない。

 「四段目」は前半好調で後半は失速という形となった。何よりも前半の成果は、清潔な潔さが信条の勘三郎の判官、仁左衛門の石堂、段四郎の薬師寺の好演によるところが大きい。何よりも判官を神妙に演じている姿に大きな感銘を受けた。ひたすら判官という人間を生き、そして死んでいこうとする姿勢に心打たれた。日頃は、何かと新しいものに挑戦する姿勢を露わにする勘三郎だが、難役中の難役である判官を高水準でみせた努力と精進には目を見張らせるものがあった。

 夜の部では由良之助を演じる仁左衛門ではあるが昼の部は石堂一役である。今まで天使の中で最高だった石堂は死の直前に演じた羽左衛門だった。それに勝るとも劣らない演技を仁左衛門は披露した。何よりも判官に対する同情と、由良之助らへの共感がひしひしと伝わってくるのである。花道を祈りながら入る姿に大きく心を動かされた。観客の想いを代弁しているような石堂だった。けっして大役ではない、この役を買って出た仁左衛門の心意気にも感動させられる。段四郎の薬師寺も贅沢な配役であるが、この座組のなかでは一番の適役であろう。こうして孝太郎の力弥も含め、周囲の役に恵まれた勘三郎の判官は幸福な役者であると思った。

 ところが幸四郎の由良之助の登場で状況は一変したように思う。花道からの登場からして、なんともマイペースというか自分本位な演技の連続で芝居の流れを断ち切っているようにしか思えなかった。元々自意識過剰な演技の目立つ役者だが、まさに独壇場といった感じで歌いあげる台詞には、またしても辟易とするしかなかった。何とも底が浅いのである。だから観客の興味を繋ぎ止めることができないで、それまで丹念に積み上げてきた劇世界が崩壊したように思う。周囲の観客が集団睡眠状態に陥ったのも原因がないわけではないと悟った。

 屋敷を明け渡すことも、主人の敵を討つことの決心も、空々しくしか思えないとは…。演技に何一つ間違いはないのに、役に対する姿勢なのか、技術なのか、大星の人間的な大きさが感じられない誠に残念な結果となってしまった。

 「道行」は菊五郎の勘平と時蔵のお軽。團蔵の伴内という菊五郎劇団で固めた感じである。お軽の衣裳も矢絣であるし、幕切れも伴内が肩を組んだ花四天に乗って、刀を望遠鏡にして二人を見るという変わった型で初めてみた。それ以外は特に変わったところがないのだが、ほとんど鬱状態で自害することしか頭にない勘平を、お軽が必死に止め、故郷に向かうことを決心させるという変化を上手くみせた。

 菊五郎が最初は哀しみに沈んでいた勘平の、だんだんと精気を取り戻していく過程を納得のいくかたちでみせて上手い。音羽屋大当たりである。舞踊であって芝居とは、こうしたことなのか、役者の踊りとはこうしたものかと再確認させてくれた。憂い顔の二枚目も素晴らしいが、明るく再生した二枚目こそが菊五郎に相応しいと思わせた。時蔵は美しく気品があり、菊五郎ともお似合いで歌舞伎座のお軽にふさわしい出来で満足した。このまま六段目、七段目も演じて欲しかったが、七段目は福助が担当。二人のあまりの落差に唖然とさせられることになるのだが、それは後日に記したい。

2009-11-03 23:44
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