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操り三番叟 野崎村 身替座禅 大江戸りびんぐでっど 十二月大歌舞伎・昼の部 歌舞伎座 [歌舞伎]2009-12-05 [歌舞伎アーカイブス]

近ごろ東銀座にはびこるもの

 
 珍しく平日の歌舞伎座初日にでかける。久しぶりの歌舞伎座での新作、宮藤官九郎の『大江戸りびんぐでっど』が上演されるからである。新作は初日に観たい、観るべきだという信念が生まれた理由は、平成13年8月に初演された『研辰の討たれ』の初日の感動が忘れられないのである。あの歌右衛門や先代勘三郎ら幾多の名優が君臨していた歌舞伎座で、同年代の小劇場出身の劇作家が新作を発表し、その上演を勘九郎が成し遂げたこと、その困難さが想像できるだけに、勘九郎のクロウは苦労なのだと思った。よくぞここまで成し遂げたという想いと芝居の感動が重なって、なんちゃってスタンディングオベーションではない自然発生的な場内総立ちの興奮と熱狂が劇場を覆った。

 今回はクドカンの作・演出ということで一抹の不安もあるにはあったが、幕が開くまで久しぶりに心の昂ぶりを押さえきれないでいた。筋書という名前なのに、「すじがき」が全く書かれていないので、どのような芝居になるのか想像もできないのが、さらに期待を抱かせた。開幕まで、これほど待ち遠しく思った芝居が、近頃あったかどうか記憶にない。

 新作の初日もそうだが、初役の初日も見逃せないものである。昔は延若、今は染五郎の専売特許?といった感のあった『操り三番叟』を、若手では踊りに定評のある勘太郎が初役で踊った。幕が開くと松羽目の舞台で、千歳の鶴松、続いて翁の獅童が登場して厳かに舞ったと書きたいところだが、二人とも舞踊の基本的な技術の未熟さを露呈してしまい楽しむどころか、イライラさせられるばかりで、あきれたり、あきらめたり、複雑な感情が渦巻くばかりだった。もちろん国家安穏を祈るのが眼目であり、劇場内に儀式性を満たして、後の三番叟の踊りを助ける役目もあるはずだが、正反対の足を引っ張る役目でしかなかったのは目を覆いたくなるばかりであった。

 舞台を下手から上手に向かって歩むという基本的な所作がまったくできていなくて、基本的なことからやり直さなければ獅童には歌舞伎役者としての未来はないだろうと思った。腰が安定していないからすり足ができない。上半身に美しさが生まれない。全体的に軽すぎるのである。朝一番の演目に勘三郎や三津五郎の登場は無理だとしても、獅童に翁を任せるのは無謀だったのではないだろうか。

 さて勘太郎だが、初日に緊張もあったのか、人形とはいえ流れるように自由に身体が動くことはなくて残念に思った。年代的に無理なのだが、延若に直接指導を受けるようなことがあれば、もっともっと違った踊りを見せてくれたかもしれない。若さがこうした体力を消耗する踊りには、必ずしも武器にならないことを教えてくれた。化粧もおかしみを強調したつもりなのか妙な顔になっていたのが気になった。松也が後見をつとめていて、勘太郎と息の合う場所と合わない場所があったが、目立ったズレがないのが何よりだった。

 『野崎村』は両花道を使用しない演出だった。歌舞伎座さよなら公演、さらに宮藤官九郎と勘三郎が組んだ新作の上演ということもあって昼の部は千秋楽まで前売りは完売である。消防法で問題になってから、通路にまで補助椅子を並べるといった光景は姿を消したが、当日券で上手側の桟敷席の前が発売されるようである。確かに一度しか使用しない仮花道で高額な客席を多く潰してしまっては減収になってしまう。しかし、歌舞伎座でソロバン勘定だけに走っては本末転倒だろうと思う。

 両花道で思い浮かぶ演目といえば、「野崎村」は「吉野川」と並んで双璧のハズである。幕切れに「本花道」が「川」になり、「仮花道」が「土手」になる歌舞伎ならではの工夫である。それでなければ、お染と久松が逆の方向へ行くようにしか思えないし、駕籠が花道で芝居をしている間に船がまったく動くことができないというタイムラグも発生してしまう。さらに気の毒なのは福助のお光で、川を行くお染の乗った船と土手を進む久松が同じ視界に入らなければ芝居のしようがない。関係者も梅幸のお光に「仮花道なしでお願いします」とは言わないだろうが、福助のお光ならいいかと思われているのなら、福助の奮起を望みたいところである。

 国立劇場の歌舞伎鑑賞教室ならあきらめもつくが、現在の建物で最後の『野崎村』である。何故こんな中途半端な上演形態にしたのか理解に苦しむ。少なくとも歌舞伎座は日本一の劇場のはずである。永山会長が生きていればこんな手抜きな芝居はさせなかっただろう。悔しくて悔しくて幕が開いても平穏な気持ではいられなかった。

 そうした気持は、主演の福助にもあったのだろうか。うっぷんを晴らすかのように芝居が雑で、感情表現が表層的。お光がなんとも軽薄で幼い娘にしか見えなかった。確かに演技は梅幸や芝翫と同じなのだけれど、木戸をピシャリと閉める間など絶妙だったのだが、お光の幼さよりも、お光を演じる福助の幼さとしか思えないのである。多くの義太夫狂言に登場する娘役は、一種の狂気?のようなものを孕んでいると言えないこともない。お三輪にしろ、お光にしろ、隠された狂気がストレートに出てしまうと別物になってしまう。福助の場合は、ストレート過ぎて辟易とさせられることが多いのだが今回も危うく限界点を越えそうになったが、なんとか踏みとどまったようだった。

 お染は秀太郎直伝の孝太郎、久松は前髪姿が珍しい橋之助、九作が彌十郎と、新しい歌舞伎座を担う面々が演じた。芝翫、雀右衛門、藤十郎、富十郎らの老練な名人芸を発揮するにはまだ早く、若さという強力な武器の威光も薄れつつあるという世代であって、残念ながら観ている側にとっては食指の動きにくい顔合わせである。それでも、僅かながらも感動があったように感じたのは、後半の福助の好演によるところが大きかった。前半の微妙な演技は姿をひそめ、お光の悲劇を際立たせて、他の演目で弾けている福助とは別人のようだった。やはり惜しまれるのは両花道がなかったことと、大根を刻む包丁捌きが不器用に見えたことである。

 『身替座禅』は、勘三郎の山陰右京、染五郎の太郎冠者、三津五郎の奥方玉の井が顔を揃えるという一座の看板が揃った感じである。このところ毎年のように上演されるので、いささか食傷気味であり、先代勘三郎が機嫌良く、勘九郎を相手に右京や奥方を踊ったのが思い出される。話としては理解しやすいし、出演者によって微妙に味わいが違ってくる演目である。

 勘三郎は、何事もトコトン演じ、踊らなければ気がすまない火の玉のような役者というイメージがある。大車輪になって演じ踊り、観客を徹底的に楽しませるエンターティナーぶりを発揮するのではというイメージがあっただけに、意外と神妙に羽目を外すことなく上品に演じていたのが印象的だった。

 立役から出ることの多い奥方を、技量の拮抗する三津五郎が演じたことで自然と品格のある舞台になったのだと感じた。面白味には欠けるかもしれないが、歌舞伎の王道を歩む芸を披露したといってよい。そうした領域に二人とも遊ぶような雰囲気があって、心地よさを感じた舞台だった。この二人がいてくれたなら、新しい歌舞伎座も安泰なのではと思われた。

 染五郎は太郎冠者だが、将来は山陰右京を十分に演じられる立場にある。この一ヶ月で二人の芸を大いに吸収するに違いない。千枝、小枝は巳之助と新悟である。基本的な着物の扱いに難があったりしたが、この顔合わせの中で大いに汗を流すことになるだろう。二人の将来にとっては、喜ばしいことである。

 さて問題作の宮藤官九郎の『大江戸りびんぐでっど』については、筋書に「あらすじ」が書かれていないのでネタバレは避け、後日に書くことにしたい。筋書では「ぞんび物」と作者が語っているように、蘇った死者、なかなか死なない死者、いわゆるゾンビが数多く登場する。

 七之助演じるくさや屋のお葉と、お葉に片思いしていた染五郎のくさや職人半助の恋愛を縦糸に、生きる屍のそんび=らくだ衆=はけん衆を横糸に物語は進んでいく。幕開きから奇想天外ともいえる物語の展開に、完全に置き去りにされてしまった観客が多数発生した模様である。出来の悪いコントのような場面の連続で、ソンビが集団で踊るという既視感、悪く言えば「マイケル・ジャクソンのスリラー」のパクリの場面があって、観客を脱力させる。もう悪夢のような冴えないギャグの連続で苦笑するしかないのが辛いというか笑えるというか。芝居が進むに従って客席が凍りついていったようだった。何しろほとんどのギャグが理解できなかったとしたら、2時間近くの上演時間は拷問でしかないだろう。

 ひとつネタバレになるが、ある外国の芝居の有名な場面をもじったギャグがある。原点の芝居が、今はポピュラーとは言い難く、全然通じていなかったのが作者としてはショックだったのではないだろうか。もっとも元の芝居の主人公が、障害をいくつも背負いながらも、立派な人間として生き、人類に夢と希望を与えた偉人だけに、意味が理解できてしまったら、大きな地雷を踏んだことになって大騒ぎだろうが、多くの観客はスルーしてくれたので、助かった感じである。

 何が観ていて辛いかというと、芝居のため、笑いのためとはいえ、女形にあるまじき演技、その多くは下ネタなのだけれど、歌舞伎座で演じるべきではない演技があって、多くの歌舞伎ファンには受け入れ難い物があったと思う。少なくとも歌舞伎の舞台では、夢をみさてくれるもの、美しいものであふれさせるべきである。そして何よりも人間の美しい心が表現されなければならない。可愛い女方で好感を持っていた芝のぶに、あの演技はないのではないだろうか。

 そんび達の造型もリアルでグロテスクで気持ち悪い。何よりも許せないのは作者の腰の据わり方である。ぞんびとは何か?それは芝居では説明されない存在である。それが何を意味するか観客にゆだねられているような面もあるのだが、作者はその批判精神をどこへ向けようとしているのか明確ではない。むしろ逃げている。その腰の据わっていないのを、低俗な言葉遊びでごまかしているように思えた。

 ぞんび達をある手段によって自由にコントロールできるようになり、彼らを人間に変わる「はけん衆」に仕立て上げ金儲けをするという場面では、あまりに「はけん衆」=派遣社員をおとしめるような場面の連続で不愉快きわまりないものだった。歌舞伎は昔から差別には鈍感なのだが、いくら何でも酷すぎる。この冬も日比谷公園に派遣村が出現するかもしれない時期に、それはないだろうと思った。だから幕切れにかけてもどんでん返しはあるものの、結末がうまくつけられないで、一大スペクタクルも不発に終わってしまった。前半のアナーキーなテンションの高さに比べ、あまりに締まりがなく理解不能な幕切れはなんだったのだろう。夜の部が開けられなくなるので無理矢理幕を閉めたようにしか思えなかった。

 単純に考えてはいけないだろうが、派遣社員として派遣切りにあい、路頭に迷う人々をゾンビになぞらえる劇手法は禁じ手だと思う。ゾンビとは何か?何故、この世に出現することになったのか作者は明解に表現するべきだと思う。少なくとも作者が派遣社員に対して共感しているというよりも、 単なる笑いの道具としか考えていないか、何も考えていないようにしか見えてこないのである。ぞんびの姿を通して社会的弱者ら(身体障害者、精神薄弱者)に対する差別意識を隠そうともしない作者の人間性はいったいなんなのか、あらためて怒りを覚える。

 禁じ手といえば、歌舞伎座であんな下品な場面が出てくるとは想像もしなかった。歌舞伎座の客席は幕間には食事をする場所でもある。クドカンは人の排泄行為を見ながら食事のできる鈍感な人間なのかと呆れ果てた。昨年の『愛陀姫』が一番最低な芝居だと思ったが、『大江戸りびんぐでっど』はそれ以上だった。時間とお金と役者の大浪費である。クドカンの芝居なら、ある程度想像できたことだし、仕方ないのだが、切符が売れれば何をしてもいいと考えているのが松竹という会社なら、『野崎村』の仮花道を省略したのも納得できるし、今の歌舞伎座を取り壊してビルにしてしまうのも理解できる。そんびは派遣なのではなく、松竹という会社なのですというのが作者の主張なのかと深読みもしてみたりした。

追記

 これからご覧になる方におすすめの観劇方法は、これ以上観るに耐えないと思ったら、遠慮なく退場した方がいいでしょう。ストーリーはあってもドラマはありません。それ以降の芝居を見逃しても決して損はしないでしょうし、貴方自身のダメージも少ないと思います。恐いもの見たさと好奇心の強い方は、是非最後までご覧下さい。役者の奮闘ぶりに涙が出そうになります。主役をふられた染五郎が本当に気の毒です。

2009-12-05 01:32

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