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仮名手本忠臣蔵 五段目・六段目・七段目・十一段目 顔見世大歌舞伎・夜の部 歌舞伎座 [歌舞伎]2009-11-04 23:50 [歌舞伎アーカイブス]

七段目の蹉跌
 

 現役の役者で五段目・六段目の勘平を演じたことのある役者をあげてみると、坂田藤十郎、菊五郎、仁左衛門、勘三郎、勘太郎、團十郎、吉右衛門ということになる。国立劇場の鑑賞教室などにも広げれば、中村梅玉、中村扇雀などの名前もあがる。今月の興行では、実に四人もの勘平役者が揃ったことになる。歌舞伎座の通し狂言に限れば、それはすなわち誰もが認める勘平役者ということだが、菊五郎、勘三郎、仁左衛門の三人ということになる。その中でも菊五郎の上演回数が圧倒的に多い。文化勲章を授与された坂田藤十郎でさえ、歌舞伎座での上演は実現していない。仁左衛門の勘平は別にすると、六代目菊五郎に縁のある役者にしか歌舞伎座の舞台で演じることは許されない重要な演目だということがわかる。

 何度も手がけている菊五郎だけに、何ら不安のない出来で、今回も安定感があった。それだけに仁左衛門の勘平のような新しい発見などは望むべくもないが、勘平はこうしたものというお手本のような演技である。この20年余りで相手役のお軽は、玉三郎、雀右衛門、福助、菊之助と変えてきたのだが、今回のお軽は昭和58年の福助のダブルキャスト上演以来の時蔵である。実に26年ぶりの再会となった。

 ポスト玉三郎と呼ばれた福助と時蔵。福助は児太郎時代から猿之助の相手役となって脚光を浴びたのだが、勘三郎らとのコクーン歌舞伎への参加、野田秀樹の歌舞伎との出会いなど、常に派手な話題をふりまいてきた。私生活も荒れた時期があったようだが、「籠釣瓶」の八ッ橋のような佳作はあっても、好調と不調の差が激しく、ある意味独特な演技の境地をひらきつつある。今回の七段目のお軽は、独特な演技の部類だった。それについては後で述べるとして、時蔵は、福助ほどには脚光が当たらない役者人生だったろうが、着実の地力をつけて、福助には大差をつけて、芝雀とともに次代を担う女方になった。余談だが、芝雀が通し上演ではお軽に無縁なのは、少々理解できない現象ではある。

 さて菊五郎は、今回の筋書でこんなことを述べている。「おかやの一言一言にピクピクと反応する“犯罪者”の心理を表したい。もし不破と千崎が来なかったら、仇討ちの徒党に加わりたい忠義心から、邪魔なおかやを殺していたかもしれません」。どのような変化があるのか?、本当におかやに殺意を抱くのか?菊五郎の演技に注視していたのだが、書かれているような変化は少なくとも初日の演技からは感じ取ることができなかった。さすがに細かな手順が口伝として伝わっているだけあって、現代的な心理的な解釈を施した演技プランが入り込むような隙間はなかったようである。最も菊五郎のことなので、千秋楽へ向けてどんどん変化していく可能性がないわけではないので、注目していきたい。

 むしろ座頭格の菊五郎の目が行き届いたという点で、劇団の中堅の役者の成長が実感できたのが収穫であった。それは千崎を演じた権十郎である。台詞回しの明快さ、心根の具合、菊五郎の相手役を務めるということで、緊張し懸命に演じることができたのであろう。すっかり持ち役になったようだが、その意気込みは大いに客席にまでも伝わってきて感動的ですらあった。初日ゆえ五段目では、イノシシが転んだり、梅玉の定九郎の動きと鉄砲の音の微妙なズレがあったように思うが、意外に悪役が似合う人だと新しい発見をした。

 六段目は芝翫のお才という贅沢な配役で、決定版となるべき「仮名手本忠臣蔵」で、これ一役とは七段目のお軽を福助に演じさせるためのバーター出演なのかと疑いたくなってしまったほどである。江戸前の演じ方だが、なかなか苦い水を飲んできた女だということが、身体からしみでてくるのは役者の年季の違いなのだろうと思う。それに女衒の源六が左團次、おかやが東蔵と手堅い配役が揃って、全編を通じて安定した舞台成果を上げていたと思う。

 あまりに有名な物語の展開、菊五郎の安定した演技、周囲の役者の好演など好条件がそろったのだが、それで感動できるほど歌舞伎は単純でないことを思い知らされたような気がする。たとえば、仁左衛門が演じた勘平のように、美しい二枚目役者が、次々に襲いかかる災難?に追い詰められ、どんどん美しさを失い、自滅していく部分に観客が快感を得るような不思議な感覚はなかった。一種病的な表現があってもよいと思うのだが、そこまで複雑な読み込みをしないのが音羽屋の信条なのだろう。伝統の継承という点ではまったく正解。観客へプレゼンテーションとしては平凡すぎて、物足りないということだろうか。 

「七段目」は細かなカットがあったものの、現代の上演時間の制約の中では適切な物語の展開となっていた。仁左衛門の大星、幸四郎の平右衛門と大顔合わせの上に、お軽一役で勝負をかける福助と期待値は高かったのだが、残念ながら幕切れまでの後半の由良之助の出からは高水準で緊張感あふれる舞台だったと思うが、初日の舞台に限っては大いに失望させられた。

 その一番の原因は幸四郎の平右衛門の最初の見せ場である願書を寝ている由良之助に差し出すところにあった。幸四郎も由良之助を演じているので理解しているはずだと思ったが、願書を由良之助の寝顔を覆っている扇子の上に置かず、あるいは由良之助の寝ている位置の関係で置けなかったのかもしれないが、由良之助が扇子を動かしても願書がないので手ごたえがなくて焦ったのか、由良之助が上半身を起こして、ようやく願書を叩き落とそうとした。なんという間の悪さと美しさのバランスの悪さ。失笑が広がった「七段目」の劇世界はあっさり崩壊してしまった。

 願書が床に落ちなければ、幸四郎が芝居がしにくいと考えた仁左衛門の失策ではあろうが、幸四郎にも大いに罪はあったように思う。それ以降は、しらけてしまって芝居の中に入っていくことができなかった。それに拍車をかけたのが、福助の勘違い演技の連発で、そのあまりに幼い台詞回し、品のなさにがっかりさせられた。半世紀も何をやっていたのだろう演技が退行してしまうとは…。勘平のことしか頭にないお軽ではあっても、ああまで頭の中身まで軽くしてしまっては苦笑いするしかなかった。

 最初の出来事とお軽の理解不能の演技プランによって、なかなか芝居の世界に入っていくことができなかった。仁左衛門の由良之助は最初の失敗以外はなかなかの好演で忘れがたいものとなったのだが、やはり最初の出来事が尾を引いてしまって楽しめなかった。もっぱら主役の役者よりも周囲をかためている役者に注目することにした。「あいあい」の仲居には歌江、九太夫には錦吾、伴内には松之助と実力のある役者が出演して活躍したのは嬉しいことだった。

 幸四郎の平右衛門は、足軽風情にまったく見えない貫禄十分な押し出しで得をしていたように思う。相手役ともども身分の低さに泣くという感じは乏しいのだが存在感は満点であった。福助のお軽さえ、もう少し楚々とした魅力があれば言うことなしなのだが、どうも真逆な方向へ暴走してしまうので楽しめなかった。唯一の救いは、幕切れの由良之助のきっぱりとした態度で、なるほど放蕩の限りを尽くすのも、このためだったかと思わせるような変わり身の見事さで大いに至芸を堪能した。最初の不手際さえなければ、かなりハイレベルな舞台が約束されていただけに惜しい。

 大勢の仲居や太鼓持ちが出てくる割には、見立てのお遊びなどもなく、こう見せ場を封印されては舞台に立つ意気込みをそがれてしまって気の毒だった。歌江は「あい、あい」の仲居で元気なところをみせた。

 「十一段目」は、まず「表門」があって、書割が飛んで「奥庭泉水」で歌昇の小林平八郎と錦之助の竹森喜多八の戦い、舞台が回って「炭小屋」で本懐で勝どきの声というのが定番である。今回はそれに舞台一杯に橋をかけ、舞台奥から大星をはじめとして次々に太鼓橋を渡ってくるという歌舞伎版ディフレという感じ。そこへ梅玉の服部が馬で駆けつけてきて、別の道をすすめて、浪士を見送り、服部が馬上で見送って幕という段取りである。

 上演時間が短いからよかったのと、転換時間が短めだったので、最後の場面が蛇足にならなかったのは何よりである。注目したのは歌昇と錦之助で、緊迫感が乏しく、速度も遅い、御曹司が演じるダルい立ち回りと違い、これまでで一番の出来だった。特に錦之助の宙返りや軽い身のこなしには目をみはることになった。

2009-11-04 23:50
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