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知盛礼賛 ~吉右衛門の深化~ [歌舞伎]2009-10-24 [歌舞伎アーカイブス]

今日は、歌舞伎座の昼の部を観た後に、夜の部の「渡海屋」と「大物浦」だけを観た。本来ならば、昼の部の感想を書くべきなのだが、夜の部の「義経千本桜」が、あまりに素晴らしいので、しばらく昼の部を書く気になれそうもない。今月は可能な限り夜の部に通うことにして、明日が千秋楽の今日で三度目なのだが、さすがに初日近くとは違って、吉右衛門や富十郎が超名演なのは当然だが、周囲の小さな役にまで、名演の影響が出て化学反応を起こしたのか、まったく隙のない完璧な舞台だったと思う。段四郎の弁慶が花道を引っ込んでも、しばらく足の震えが止まらずに立ち上がることができなかった。一連の歌舞伎座のさよなら公演でも、最高の舞台であったことは間違いないばかりか、21世紀になってからの一番の名舞台ではなかろうか。舞台の生命は、一回きりの出会いとはいえ、この舞台を再び楽しむことが出来ないと思うと悲しくてならない。テレビの舞台中継やシネマ歌舞伎でも、ライブの魅力には到底勝てないだろう。もし、芝居の神様がいるとしたら、感謝しても感謝し足りないほどである。

 終演後のロビーで、飲み友達のFちゃんとバッタリ会ったのだが、「素晴らしいね…」と言ったきり、二人とも声がでなかったのは、同じように衝撃を受けていたから違いない。あまりに興奮して、幕間は小雨がふる晴海通りを文字通り彷徨った。最初の予定通り、幕間以降は見ないことにして、次の予定の場所に向かったのだが、もし予定がなくても芝居の余韻を壊したくないので、後半はパスしたかもしれない。

 まず驚いたのは、玉三郎の典待の局が、大きく深く成長をとげていたことである。これまでは、可もなく不可もなくと、玉三郎の実力なれば当然のレベルで、とりたてて誉めることもないなと感じていたのだが、台詞の一言一句に深い意味を感じ取らせるまでに精進していたことを悟った。特にお柳では、日和見の長い台詞に、役者の愛嬌、サービス精神といったものが感じ取れるようになったことである。さすがに緊張も解け、台詞を自分のものにした証拠であろう。余裕すら感じさせたのには驚いた。

 そして十二単衣の姿になってからは、滅びゆく者の哀れさが、陰影深く描かれたことで、舞台全体に悲劇、それも全宇宙を相手にしてといったスケールの大きさが出た。それは長い歴史の裏で、多くの戦いの犠牲になっていった幼子や女性を想起させるような壮大なレベルであった。単に源平の盛衰を描いたのではなく、今もなお繰り返される愚かしい戦争の影に泣く人々にも思いを馳せることになった。信じられないことなのだが…。

 そうした前提があったからか、安徳帝の子役独特の言葉も、復讐の連鎖を断ち切る寛容の言葉として聞こえてきて、21世紀に生きる人類にあてた、350年前の作者たちのメッセージではないかとさえ思えた。「義経千本桜」で、そんな連想は絶対に可笑しいのだが、そう思わずにおられないものがあったように思う。

 そして富十郎の心入れの深さ、目配りの行き届いていること、本当に美しいと思った。渡海屋を出立の際に、主人である銀平のいる上手屋台への感謝の目礼。大物浦での安徳帝への敬愛の念を同じく示す仕種など、悲運の人・義経が、さらに過酷な運命を辿らねばならない人への憐憫の情ともとれる演技で、感服した。天王寺屋大当たりである。

 吉右衛門の知盛が素晴らしいのは変わらない。今日の発見は、誰一人として幸福になれない登場人物の中にあって、知盛ひとりは満足して死んでいったということが初めて判った。血まみれの手負いの壮絶な死に装束であるために、今までは知盛の怨霊と同様に恨みをもって海中に没するのだとばかり思っていた。ところが、今日の吉右衛門の知盛を観て、錨を身体に巻き付けて、満足げな微笑みを浮かべながら水底に沈んでいったのだ悟った。先行作品では成仏できないでいる知盛に安楽な死を与えた作者の意図が理解できた気がした。

 そうすると、段四郎が幕外で吹く法螺貝の音も違って響いてくるような気がした。果たして、義経一行には、この知盛のような死が待っていたのだろうか。歴史の彼方へ消えていった義経一行の鎮魂として聴くときは、深さが一層ましてくる。

 吉右衛門の台詞の上手さはいまさら言うまでもない。富十郎も絶好調とみた。そして初日近くでは満足できなかった歌六の相模五郎が見違えるようによくなっていた。時代の台詞に独特の軽妙さが加味されて非常に面白く聴いた。歌昇との魚尽くしの台詞も通常とは違っていることに気がついて、挙げられた魚の名前を書き連ねてみる。

 ギンポウ、サンマ、イワシ、イイダコ、サメ、アンコウ、イナダ、ブリ、ダコ、アナゴ、タイ、メザシ、アワビ、タナゴ、サバ、タラコ、コノワタ、クジラ、イセエビ、タチウオ、カマス、ヤリイカ、タコ、メバル、ジャコ、カレイ、コチ、ハゼ、コイ、キス、サヨリ。

 明日は歌舞伎座の千秋楽。観にいけないのが本当に残念なのだが、まだ観ていない人、一度観たけれど予定が空いている人は、今からでも遅くないチケットWEB松竹にアクセスするなり、歌舞伎座に駆けつけるなり、絶対に見逃さないでと再び訴えたい。


2009-10-24 22:22
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京乱噂鉤爪 ー人間豹の最期ー 国立劇場十月歌舞伎公演 [歌舞伎]2009-10-19 [歌舞伎アーカイブス]

京の薄味、高麗屋仕立て


 国立劇場の歌舞伎の今シーズンは、十月が新作歌舞伎、十一月が古典歌舞伎の三本立てのみどり狂言。十二月が新歌舞伎の三本立てのみどり狂言。来年一月が菊五郎による復活狂言と、一応、国立劇場の使命を果たしているかのように思える。『京乱噂鉤爪(きょうをみだすうわさのかぎづめ)ー人間豹の最期ー』昨年上演して好評?だったという江戸川乱歩の『人間豹』の続編である。原作の人間豹こと恩田乱学と明智小五郎の設定だけを借りて、染五郎が原案を、岩豪友樹子が脚本を、九代琴松こと幸四郎の演出という昨年同様のスタッフによる舞台である。

 江戸川乱歩の原作を離れて自由な脚色を施したこともあって、歌舞伎の先行作品の趣向を取り入れたり、宙乗りに新趣向をみせたりして、なかなかの娯楽作品になっていて、昨年よりは楽しめたように思う。何よりも成功した原因は二つある。まず各幕の開幕時に集団での「ええじゃないか」等の舞踊を暗い中で踊るなど、乱歩らしい暗黒世界を表現していたことである。さらには歌舞伎では珍しい太鼓の乱打、雅楽、従来の下座音楽、義太夫、常磐津など、邦楽の世界からは逸脱せずに、従来の歌舞伎音楽の枠を飛び出そうという工夫があったことである。

 けっして大一座ではない座組みのなかで、開幕早々に観客を幕末の京都、それも何やら不気味さの漂う中に誘ったのは、集団での舞踊の力に負うところが大きかった。また、猿之助のスーパー歌舞伎が、亡くなった加藤和彦が作曲した洋楽に傾いていったのとは逆に、邦楽の可能性を求めている姿勢にも見るべきもの聴くべきものがあった。

 それでは、全てが成功したかというと残念ながら、そうとはならないの歌舞伎新作の難しいところである。30分の休憩時間を入れても、上演時間が2時間50分と短い。それにもかかわらず、観客の興味を繋ぎとめられないで、弛緩してしまう場面が何度もあった。その原因の多くは、幸四郎の明智小五郎にあったように思う。なんとも存在感が不足で、台詞の朗誦術の上手さ?はともかくも、この芝居に幸四郎の明智が必要だったかどうか、いささか疑問でなのである。明智小五郎の存在がなければ、乱歩歌舞伎にならないのは重々知承知はしているものの、今回もインバネスのコートを羽織った「引窓」の与兵衛のような明智小五郎は、格好はいいものの、活躍らしい活躍はなにもしない。

 染五郎の人間豹を捕らえることも、梅玉の陰陽師・鏑木を成敗することもできない。すべては、周囲が勝手に動いてくれて、単なる狂言回しの役割にとどまっただけである。京の人形師の弟子だったという設定も、幸四郎が演じると、なかなかそうは感じられないのがもどかしく、設定自体にだいぶ無理があったように思う。また、幕末の京都を舞台にしながら、そうしてた動乱期にあるような切迫した感じがまるでないのも問題だと思った。

 人間豹を上回る悪役である陰陽師・鏑木幻斎を梅玉が冷徹に演じるのだが、幕末の京都という動乱の世界に生きていながら、考えや行動が大時代すぎて違和感がある。ここは、日本国の乗っ取りなど小さな野望ではなく、大日本帝国によって世界制覇ぐらいのことは言って欲しいように思った。それに高麗蔵の綾乃とのSMシーン?など、もっと猟奇的に演じてくれないと乱歩の雰囲気がでてくれない。

 公家でありながら、市井に出て庶民の生活を探るという遠山の金さんのような設定である翫雀の松吉は、染五郎演じる大子とはつりあいのとれたようでいて、似たような体型の設定になってしまって哀れが薄い。しかも滑稽でもなくて中途半端。大子と松吉の役を染五郎と取り替えて、早替わりの趣向を徹底したほうがよかろうと思った。

 そうした不満を吹き飛ばしてくれたのは、染五郎の人間豹・恩田乱学の好演による。一部は吹き替えで演じてはいたが、激しい立ち回りや、舞台上でのフライング、花道から2階客席後方への斜めに客席を飛ぶ宙乗り。しかも腰の部分で、身体を支え、回転するのは意表をつき、迫力があって驚かされた。ケレンも度を越すとサーカスのようになってしまうのだが、ぎりぎりのところで踏みとどまっていたように思う。

 人間豹が自ら命を絶つ理由が、「自由な大空がどこにもなかったから」というのも説得力を欠いていて納得できなかった。格好つけようとしてつけられなかった上滑りの内容のない台詞には、唖然とするしかなかった。それに応えて「恩田」と絶叫する幸四郎の明智も頭悪いとしか見えなかったし、客席の天井から紙がひらひら落ちてきたのも興醒めで、その中途半端な量に唖然とした。カーテンコールでも降らせ続けるくらいの度量が欲しかったような気がする。

 せっかく幕末の京都という美味しいネタの舞台を用意しながら、実在の人物をからめるというような飛躍がなく、単なる家庭劇のレベルで終わってしまったのが惜しい。丁稚を演じた幸四郎の部屋子の錦成と京人形を演じた梅丸が達者な演あ技をみせていたのが印象的であった。国立劇場の研修生までも動員しても外部の出演者をかき集めなければならなかったようで、全体的に歌舞伎味が薄いのは仕方がなかったのだろうか。もっと重厚のある演目が欲しかったと思う。「勧進帳」だけは御免こうむりたいけれど…。

2009-10-19 02:06
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吉右衛門の知盛 菊五郎の忠信 [歌舞伎]2009-10-09 [歌舞伎アーカイブス]

 歌舞伎座に最もふさわしい役者は、吉右衛門と菊五郎だったのだなあと改めて思い知らされた10月歌舞伎座の夜の部である。

 今月は、天使自身のある記念日に昼の部を観る予定なので、夜の部の二回目を先に観る事になった。本当は新国立劇場のバレエ『ドン・キホーテ』を観るつもりだったが、歌舞伎座の夜の部も空前の名舞台で、是非もう一度観てみたかったのと、チケットWeb松竹をのぞいていたら、売り切れだったはずの三階席のチケットが1枚だけ売りに出されていたので、迷わず購入した次第である。

 新国の『ドン・キホーテ』初日のザハロワも、素晴らしかったらしいが、歌舞伎座も一回目にもまして充実した舞台だったので大満足させてもらった。吉右衛門の銀平の登場は、やはりすっきりとした感じで、時代物の主人公らしい重量感には欠けていたものの、むしろ高貴な身分である知盛のイメージを自然に醸し出していて悪くない。

 「渡海屋」では、肩の力がぬけている分、むしろ人間としての大きさは増したようで、相模五郎と入江丹蔵に向かっての武士の「武の字」の講釈など、知識をひけらかしたり、分別くさくなたtり、という欠点がなく、実にあっさりと感じるのは、客受けはしなくても、より知盛という人間の本質に近づいた証拠だと思う。衣裳を変えての知盛も、勇壮さよりも滅びゆく者の悲壮美というものが感じられるのがよい。また、安徳帝を敬う気持ちなど、自然ににじみ出てくるものよい。

 玉三郎の典待の局、富十郎の義経、段四郎の弁慶らの好助演によって、最高の舞台が出現したのは前回同様だった。

 一方の菊五郎は、立役にとって至難の役であるという忠信を、身体の動きの鮮やかさや、狐言葉と呼ばれる独特の台詞回しを強調するのではなく、観客を温かく包み込むような役作りで、大きさがでた。それに比べれば、菊之助は美しくはあっても、まだまだ足りないものが多くあるように思えた。時蔵の義経といい、共演者に恵まれたなら、別の世界が広がったのかなあと思わないでもなかった。

2009-10-15 07:23 nice!(1) コメント(0) トラックバック(0)
劇場の天使 ~歌舞伎座で眠る~ [歌舞伎]
 
歌舞伎座の前に設置されたカウントダウン時計を観るたびに、ああ、あと何度歌舞伎座に来られるのだろう。あと何度劇場へ通うことができるのだろう。あと何年生きられるのだろうと思う。毎月昼の部と夜の部の1回づつ通っても、あと13回である。たった、13回・・・。

 歌舞伎座でも、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でも、ご高齢の観客が杖を頼りに階段をゆっくり上がっていく光景に出会った。たとえ長生きしても健康でなければ、劇場へ通うことはできないのである。運転手つきの車で行き来できる人はともかく、公共交通機関を利用できなくなれば、劇場へ通うことは出来なくなってしまうのだ。オペラでも、バレエでも、歌舞伎でも、顔見知りの観客という存在がある。言葉を交わしたことはないけれど、いつも劇場で出会う人である。「あっ、またいた」お互いにそう思っているに違いない。そんな観客が何人もいる。

 あれだけみかけていた人が、特にご高齢の方だが、ある日を境にまったく見かけなくなってしまう。そういえば車椅子に乗っていたなあ。などと思い出す。元気でなければ、劇場へ来ることはできないのだ。死ぬまでにあと何回、劇場へでかけられるのか。18歳から始まった劇場通いも、もう折り返し地点を過ぎたのは間違いがない。

 残された時間が貴重に思えるから、最近は劇場では絶対に寝ないようにしている。カフェイン入りのドリンクを飲んだり、エクスプレッソを飲んだりして気合を入れて集中力を高める。それでも駄目なときは、イボイボのついた手のひら健康グッズを握ったりして眠気を吹き飛ばす。もっとも効果的なのは、充実した舞台が一番である。今月ならば、吉右衛門の「渡海屋」「大物浦」である。あれだけ素晴らしいと寝る暇などまったくない。眠くなるときは、眠ってしまっても仕方がない場面なのだというのが、長年の劇場通いから得た結論である。もっとも、開演前に食事をして冷酒を飲みすぎ、パヴァロッティの出演した「オテロ」の第一幕をまるまる寝ていたという失敗をした天使なので、開演前や幕間には絶対にアルコールはとらない。

 舞台上から催眠術をかけているのか?半径2メートル以内の観客が全員寝ていたことがある。眠気は伝染するようである。最も危ないのは気合の入りすぎている人である。開幕直後の歌舞伎には、腰元が「なんとみなさん」などと、聞いても聞かなくても問題のないような渡り台詞があったりする。そんな場面を、前に乗り出さんばかりにして聞き入っている人は危ない。そうした人が前に座るられると、視界がさえぎられて困るのだが、経験から言って最後まで前のめりで見られる人は少なく、不思議なことに必ず眠る。

 よく開演してから、身をのりだす前の観客を声を出したり、肩を叩いて注意したりする人がいたりするが、そんなことをしなくても20分も待てば必ず寝てくれる。気合が入っていた注意をした人も途中から眠っていたりする。肩肘はらずにリラックスして舞台に対峙するのが一番のような気がする。

 でも充実した舞台に出会うことが一番である。天使の場合は、そうした舞台に出会うと手のひらに汗をかく。舞台の良し悪しの判断基準は、手のひらの汗であったりする。それと幕切れに胸がドキドキして興奮するのも、良い舞台に出会った証拠である。「ああ、やっと終わったか」と思うような舞台に出会うと悲しくなる。カウントダウンが始まってしまった天使の劇場通いは、なるべく感動に出会いたいからである。舞台は一期一会を日々実感している天使である。

2009-10-09 23:37
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義経千本桜 十月歌舞伎座・夜の部 [歌舞伎]2009-10-05 [歌舞伎アーカイブス]

名残の秋、実りの秋


 『義経千本桜』の「渡海屋」と「大物浦」を吉右衛門が、「吉野山」と「四の切」を菊五郎が演じるという通し狂言としては変則的な組み合わせとなった夜の部である。播磨屋と音羽屋がそれぞれ一門で脇を固めているので、同じ『義経千本桜』からとはいえ、名場面集のみどり狂言の興行形態と変わらない。それでも、その演目で望みうる最高の配役となったため、大きな満足感を味わうこととなった。吉右衛門も菊五郎も60代後半で、新しい歌舞伎座で上演するとなると70歳を超えてしまう。もう最後かもしれないという予感もあって、体力、気力とも充実していなければ演ずることのできない大役に挑んだ二人の気迫に圧倒された5時間であった。

 「渡海屋」は吉右衛門の知盛、玉三郎の典待の局、富十郎の義経、段四郎の弁慶、歌六の相模五郎、歌昇の入江丹蔵と役者がそろった。時代物の第一人者である吉右衛門はもちろん、歌舞伎座の名実ともに立女形である玉三郎が初役で務める典待の局に注目した。

 まず吉右衛門であるが、このところ歳相応?に枯れてきたのか、身体が全体的にスマートになったように感じる。時代物の主人公としては重量感が欲しいところだが、傘をさして花道から登場する銀平の出では、かえてそれがプラスに働き、門口に立った姿には、高貴な人の雰囲気があってよかった。とかく武士の部分を強調し、後半は壮絶さで圧倒するような暑苦しい知盛を見せられたことが多い中で、一瞬でもそうした表情がみてとれたのは役の性根としては正解なのだと思う。

 そうした細かな部分はもちろんのこと、歌六や歌昇を相手にしての台詞は、誠に明快で、耳に心地よいものだった。奥の義経一行に聞かせるという心も際立たせていて上手い。装束を変えての二度目の出からは、逆に公達としての気品がありつつも、戦場へ向かう悲壮美にあふれていて、源平の戦いを超えて近代まで続いた戦いの歴史にまで思いを馳せさせるような深さがあった。

 典侍の局は、歌右衛門、雀右衛門、芝翫らの好演が記憶に残っているが、前半は世話女房ぶりをみせるところが眼目で、歌舞伎の入れ事である夫の日和見の自慢話が聞きものであり、どうしても期待してしまう。女形の台詞回しで聞かせるという点では、傾城反魂香のお徳などと並んで至難な役なのではないだろうか。玉三郎は、派手な動きを封じられ、こうした台詞で勝負という役は得意としているように思われた。「ふるあめりかに袖はぬらさじ」のお園のように、観客の集中力を切らさずに想像力を働かせるという役柄は経験豊富なはずである。ところが、一応台詞はよどみなく出てくるのだが、その上手さで陶酔させてくれるまでには至らなかった。目立とうと思えば、十分な見せ場であるし、前半の唯一の為所であるはずだが、あえてそうした道をとらなかったのは、原作を研究したればこそで、物語の流れを分断しないようにという玉三郎一流の計算なのだろうと思う。

 そのおかげで得をしたのは、富十郎の義経であろう。雨が降る中を、わずかな従者を連れて出立していく義経一行と船宿の女房との交流といった詩情豊かな場面が出現した。義経には若さと品があり、強い意志を感じさせるに十分で、誠にけっこうな義経である。『義経千本桜』という題名にふさわしい存在感が傑出していた。残念だったのは、従っている若い役者の顔の白塗りがまちまちだったことで、義経の白さよりも控えめなのは心得だと思うが、右近と隼人は勘違いしているとしか思えないような白さなのは、著しく均衡を欠くように思えた。

 幕開きでは、眠っているお安を弁慶がまたごうとして足が痺れるくだりがあるのはいつもの通りである。吉右衛門、玉三郎、富十郎らに対することのできる弁慶といえば、現在では左團次か段四郎しかいないだろう。段四郎は実に立派な顔で存在感もあり、猿之助の元を離れ、こうして吉右衛門らと共演できるようになったことは、歌舞伎にとっては喜ばしいことである。この人がいなければ上演できない、あるいは成果のあがらない演目がいくつも思い浮かぶからである。

 かつて猿之助と共演していたのは、歌六、歌昇兄弟も同じで、相模五郎と入江丹蔵にそろって出るのは初めてということだ。緊迫した場面が続くなかにあって、ひと息つける唯一の場所であり、身体からにじみでる軽妙さがよい。「魚つくし」の台詞も工夫があって面白く聴いた。

 ここまでも、かなり水準の高い舞台ではあったのだが、「大物浦」は、さらに天使の予想をはるかに超えた名舞台が出現して、歌舞伎の時代物を観る喜びに打ち震えるような場面が何度もあった。まず玉三郎の典待の局である。さきほどまでの女房姿から十二単衣に替わり、その美しさ、優美さは、空前絶後ではないだろうか。これほどまでの局に育てられた安徳帝が美しく育たないわけはないと思わせるような素晴らしさだった。美しければ美しいほどに、悲劇が輝きをますわけで、誠に壮大な世界が広がったように思う。その描き出す世界が、あまりに大きいために損をしたのは歌六の相模五郎のご注進で、せっかくの見せ場も玉三郎の悲しみの宇宙に飲み込まれてしまったのか、あまり冴えなかったのが残念だった。歌昇はなんとか踏みとどまって飲み込まれなかったように思うが、玉三郎の前にはあえなく討ち死にという感じである。

 玉三郎がさらに見事だったのは、安徳帝を抱いて二重屋台から階段を下りる場面である。5段ほどの階段を正面をきっと見据えて足元を見ないで降りてくる姿に目を見張った。他の女官たちが皆足元を見ながら降りてくるだけに、安徳帝を命がけで供奉するという使命感が伝わってきて感動的であった。敵の武士に取り押さえられ、両方の腕をとられ、みせる無念さも美しく深いもので感服した。

 そして当代一の知盛である。吉右衛門と富十郎の台詞の応酬は実に聞きもので、かつてこれだけ緊迫した台詞のやりとりが行われた芝居があっただろうか。これは言葉で表現することは不可能で、実際にその場にいて体験するほかはない。あまりの素晴らしさに震え上がるような感激を何度も味わった。「おさらば」「さらば」の悲愴感と万感をこめた絞り出すような台詞の見事さは、これまで観てきた歌舞伎の中で最高のものであると断言する。

 歌舞伎が好き、趣味と考えている人は、何をおいても歌舞伎座にかけつけるべきだ。今後このような場面に出会う事は二度とないだとうと思う。吉右衛門が源氏への恨みから、入水にいたるまでの心の動きを的確に感じさせて素晴らしい。対する富十郎の凛とした口跡を聞いた記憶は、一生の宝となるだろうと思う。碇を身体に巻きつけ入水する吉右衛門もさることながら、花道に立って見届ける富十郎の姿に心打たれた。お互いに全力でぶっつかりある芝居の醍醐味に陶酔した一夜だった。

 そして普段は蛇足?とも思えるような弁慶の引っ込みに深い感銘を受けることになった。それは段四郎の弁慶が素晴らしいからであるが、ほら貝を吹いて鎮魂の想いが劇場中に広がって、悲劇の締めくくりにはこれ以上のものはないと思えた。段四郎大当たりである。

 ここまでが播磨屋一門の受け持ちとすると、後半は菊五郎はが奮闘する菊五郎劇団の出し物である。『吉野山』は、菊五郎、菊之助、松緑、延寿太夫と六代目に所縁のある出演者が並んだ。匂い立つような若さと美しさの菊之助。江戸っ子役者らしい余裕と色気にあふれた菊五郎。身体から発っする柔らかさと丸みが得がたい味となっていた松緑。三者三様の面白さで最後まで目が離せなかった。

 特に親子でありながら共演し、恋人同士ではない微妙な距離感が、実際の親子関係が絡まって嬉し恥ずかしといった感覚が面白かった。菊五郎の身体はさすがに切れ味を欠き、少々厳しいかなと感じさせる部分もないではないが、それを補ってあまりあるものがあるので満足した。

 「四の切」では、花道から川連法眼が館に戻ってきて、妻の飛鳥の心を探るという場面から始まるという音羽屋ならでは演出。彦三郎、秀調という無難な配役なのだが、地味すぎて一向に面白くない。たぶん、人間の夫婦の間でもお互いに疑いをもつという関係性を、狐の情愛に対比させる効果もあるのだろうが、そこまでは突っ込んで演じないので、単なる筋を通すだけに終わってしまっていた。

 本物の佐藤忠信の出は、若さと美しさ、気品に満ちていて上出来。菊五郎のこうした役は、もっと見てみたい気がした。実盛物語などきっといいだろうなと想像したりした。亀井、駿河は権十郎と團蔵で、菊五郎劇団らしい行儀のよさで舞台を引き締めていた。

 そうした中に登場する時蔵は、同じく気品、憂い、といった義経に備わっているべきものが全て備えていて安心してみていられる。菊五郎との共演も多いが、こうして役柄を持ち役にできれば可能性は大きく広がっていくだろうと思えた。かつての梅幸のように、「勧進帳」の義経、判官などを演じたらよいだろう。

 そして菊之助の静御前である。かつて菊五郎がそうだったように、静御前から忠信へ回ることもあるのかもしれないが、今は女形に専念して欲しい逸材である。菊五郎の薫陶を受け、さらに飛躍して欲しいと心から願った。

 役者に年齢を言うのは失礼としっていながら、「死の切」とも言われる狐忠信である。菊五郎にとっては大きな挑戦であったに違いない。往年の猿之助はもちろん、自身の若い頃に比べても、格段に身体は言うことをきかなくなっているようだし、切れも早さも足りないのは仕方がない。独特の狐言葉も、あまり際立たない台詞回しで処理していたように思う。化かされの僧との絡みも必死さが伝わってきた。

 それを痛々しく感じさせないで、明るくみせるのは江戸っ子役者らしい菊五郎の心意気と芸風のおかげであろう。この役に関しては、今後演じる機会も少ないだろうと思われて、芝居の展開とは別に感動させられた。同情されたら菊五郎も面白くないだろうが、同情ではなく、自分の持てる限界に挑戦している姿に非常に感銘をうけたのである。最後に上手の桜の木に笑顔で登っていくのは、大役を無事に務め終えた安堵感のようなものも感じられて、嬉しく思った。菊五郎は、こうしたことで嬉しがらせてくれる稀有な役者でもあるのだ。 

 歌舞伎座のさよなら公演も、今月を入れてあと7回の興行を残すのみである。どの役者も充実した実りの秋を迎えていることを実感させてくれた一日だった。

2009-10-05 00:00
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浮世柄比翼稲妻 勧進帳 松竹梅湯島掛額 九月大歌舞伎・夜の部 歌舞伎座 [歌舞伎]2009-09-17 [歌舞伎アーカイブス]

刷り込まれた演技

 
 ものの本によれば『鈴ヶ森』は、南北による『浮世柄比翼稲妻』の前にも先行作品があって、白井権八と幡随長兵衛の世界と『鞘當』の名古屋山三と不破数右衛門の世界がないまぜになって成立した芝居らしい。国立劇場での通し上演では、『鈴ヶ森』『名古屋浪宅』『鞘當』と上演されるのが通例のようだが、今回は鶴屋南北の没後180年を記念のため、お互いの関連性よりも、独立した一幕ものとして上演になったと考えるとよい。

 まずは華やかな吉原仲之町での『鞘當』で、染五郎の名古屋山三、松緑の不破数右衛門という顔合わせである。染五郎の若衆姿は、いささか現代めいて線が細いものの、松緑は線が太く、この世代では唯一といってよい立役としての資質と才能を持っていることを証明して見せた。台詞回しにも安定感があり、歌舞伎座のさよなら公演を折り込むなど、なかなか聴かせる言葉を発していた。

 二人が出会い、対立となって留め女によって仲裁されるという単純さゆえ、役者の持ち味で勝負ということになるが、そした点では経験不足は否めない。「丹前六方」など身体から発する香気のようなものは立ちのぼってくることはなかった。もっともっと役者としての熟成が必要なのは言うまでもない。その点では、芝雀に一日の長があり、二人だけでは不安定だった舞台に安定感が増したのはさすがだった。

 期待の『鈴ヶ森』は吉右衛門にとって35年ぶりだとか。駕籠から出るときに尻餅をついてしまって、せっかくの長兵衛の大きさが急速にしぼんでしまってガッカリ。身体が一回り小さくなったような気がして、抜群の台詞回しながら、ちょっとしたつまずきが大きく響いて最後まで楽しめなかった。梅玉の権八も若衆姿は前幕の染五郎の残像があるので、無理があるように見えて損をしていたように思う。雲助たちとの立ち回りも、梅玉に合わせて、のんびりと進んでいくので盛り上がりに欠けていたように思う。吉右衛門と梅玉という実力を持った二人の力を持っても楽しむまでには至らないとは、歌舞伎の奥深さを思い知らされた感じである。

 没後60年になる七代目幸四郎を偲んでの『勧進帳』である。弁慶が当代の幸四郎、富樫が吉右衛門、義経が染五郎と、所縁の役者によって固められた万全の配役でと考えたのであろう。通算千回の上演回数を稼ぐために、地方公演では格の落ちる役者で演じてきたからだからではないだろうが、弁慶の幸四郎は、自分が主役、自分が座頭、すべてをリードしなければ気が済まないとばかり暴走気味の演技で辟易とさせられた。

 最も不満を感じたのは『勧進帳』の音楽劇としての側面を無視したかのような台詞の謳い上げ方で、声量の衰えを誤魔かすミュージカルの『ラ・マンチャの男』にも見られるような、台詞の高低差を極端にして迫力にすり替えた箇所が随所にあった。若き日に東宝へ移籍して刷り込まれた演技なのだろうか。歌舞伎としての調和を破壊しているようにしか思えないのだが…。

 二代目松緑は67歳で最後の弁慶を先代勘三郎、梅幸らと演じ、羽左衛門も75歳で最後の弁慶を演じた。1回だけなら先の矢車会の80歳の富十郎の例もある。戦後すぐに、七代目幸四郎と初代吉右衛門が共演したときには77歳?である。当代の幸四郎が67歳なので、あと10年間は演じ続けるだろう。祖父を超える『勧進帳』1600回を目指しているのかもしれない。

 残念ながら弁慶の見せ場と考えられる「勧進帳の読み上げ」「山伏問答」「義経打擲」「押し合い」「ついに泣かぬ弁慶も」などすべて不発だった。すべてに気迫が感じられず何か力をセーブしているようで、伝わってくるものが極端に少なかったのである。「延年の舞」になって、なんと「滝流し」が入った。体力の温存は、このためかと納得したものの、果たして前半を犠牲にしてまで上演する価値があったかは大いに疑問である。

 それは吉右衛門の富樫の演技に深く感動したからである。いかに深い部分で弁慶への想いを表現していたか思い知らされたのである。それなのに、幸四郎の弁慶はまったく吉右衛門の心のこもった演技を無視するかのような演技を続けてがっかりさせられた。何もかも行き届いた富樫だったのだが、吉右衛門の富樫が素晴らしいと思ったのは、大向こうに受けそうな泣き上げよりも、二度目に登場しての杯事の部分である。

 従来の解釈なら、長唄の「心許すな関守の人々、暇申してさらばよとて、笈を押取り肩に打ちかけ、虎の尾を踏み、毒蛇の口を遁れたる心地して、陸奥の国へこそ下りける」の言葉の意味通り、富樫一行が、酒を飲ませて油断させる計略かもしれないと疑う部分があった。吉右衛門の富樫には、酒を持っての登場は、一行を油断させるためではなく、自らの死を覚悟しての「別れの盃」なのだということを無言で観客に伝えて見事だった。永遠の別れを惜しむ気持が痛いほど伝わってきたのである。当然、富樫は鎌倉の頼朝の命に背いたので当然のことながら自害するのが当時の常識なのだけれど、なかなか、そこまで感じさせる富樫に出会うことがない。吉右衛門ほど自然にそれを感じさせ納得させてくれた役者を知らない。

 それなのに、幸四郎の弁慶は、それに気がついたのか気がつかないのか、ひたすら弁慶の演技にのめり込んでいて、富樫の投げた球を全く受けようとしない。あまりに高度すぎて受けられないのか、知っていても知らぬ振りをする高等数学的な演技なのか…。葛桶の大盃を前ににやにやと笑っている弁慶の小ささに呆れた。自分さえ目立てばといった風なので、せっかくの熱演も有難味は半減。飛び六方も白けた気分で眺めていた。幸四郎の弁慶に手拍子が起こるかもという期待?は虚しく、冷え冷えとした反応の客席は、正直だなあと、むしろ安堵したり、感心したりした。

 そうした父親と伯父の間にはさまっての染五郎の義経は悪くはないし、父親相手の富樫よりも、経験が多いだけ安定していたように思った。ただし、父親の相手役以外で、富樫や義経に呼んでもらえるかとなると、大変微妙なのであるけれど…。

 『松竹梅湯島掛額』には吉右衛門が紅長で出演なので、夜の部は出ずっぱりの大活躍となった。昭和61年1月の国立劇場に松緑で上演されてから、近年は富十郎、菊五郎、吉右衛門らが手がけている。「お土砂」で、登場人物はおろか、ツケ打ちさん、酔っぱらいの観客に扮した役者や案内嬢、幕引きまでグニャグニャになってしまう。可笑しいと思えば可笑しいのだろうが、劇中にはさまれる流行語というかギャグの無理矢理感と同じく馴染めない。初代の当たり役とはいえ、当代に喜劇のセンスは皆無とは言わないまでも、なかなか苦しいなというのが正直な印象である。

 福助のお七が、いかにも歌舞伎の世間知らずのお嬢様といった演技なのだが、福助だからひょっとして何かサプライズ演技があるのかと先読みをしてしまうのは、いつものホラー演技を見せつけられているせいのかもしれない。いささか無理な部分もあるが初々しさだけは表現していたように思う。続く「櫓のお七」は、福助にしては上出来で、鮮やかな人形振りであったと思う。それでも、何かあるのではと思わせるとは、つくづく日頃の演技の凄まじさが刷り込まれているからだろう。八百屋お七は鈴ヶ森で処刑されたのだとか、関連しているようないないような。お七が処刑されるという運命にあるなどとは福助の演技からは何も伝わってこなかったので気がついた人は少なかったかもしれない。

2009-09-17 21:39
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龍馬がゆく 時今也桔梗旗揚 お祭り 河内山 九月大歌舞伎・昼の部 歌舞伎座 [歌舞伎]2009-09-07 [歌舞伎アーカイブス]

時は今、  

 毎年恒例になっていた初代中村吉右衛門を記念する秀山祭も、今年は歌舞伎座さよなら公演となって特に謳われてはいないが、実質的には幸四郎と吉右衛門兄弟による祖父を顕彰する公演である。

 昼の部の最初の演目は、初代の曾孫にあたる染五郎の当たり役になった感がある「龍馬がゆく」の完結篇で「最後の一日」とサブタイトルがあるように大政奉還を成し遂げた慶應3年11月15日、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺された顛末を描く。三部作なのだが、前作から2年が経過していて物語の展開に飛躍があり、三部作を一挙に上演すれば興行として成り立つといった作品ではない。むしろ染五郎の個性を際立たせる方向を選択していて、周囲の役の好演もあって、なかなか見応えのある作品に仕上がっていた。

 音楽や回り舞台、斬新な照明など歌舞伎としては新機軸を打ち出した舞台で、好みは分かれることだけは容易に想像できる。ミュージカル以外の商業演劇が壊滅的な状況にあって、こうした芝居を上演できる機会は貴重である。もはや歌舞伎以外では上演できない題材であるだけに様々な工夫がなされていたのだと思う。テレビドラマや映画に日常的に親しんでいる多くの観客にとって、場面転換を極力少なくして観客を台詞に集中させるということは、もはや大劇場では無理だと思ったのだろうか。この芝居は、近江屋の装置を舞台いっぱいに飾り、回り舞台を駆使して芝居を展開していく。そのため前半は転換が相次いで、落ち着いて芝居を見る感じではなかったのが残念だったのだが、客席側はそれほど気にしているようでもなかったのが今風なのだろうか。

 芝居が締まったのは、松緑の中岡慎太郎が登場してからで、ようやく芝居らしい落ち着きを取り戻した。そして突然訪れる刺客によって無残に斬り殺される。絶命の瞬間を音楽が止まることで表現したり、よけいな思い入れを許さない幕切れといい、突き放した感じの演出は新鮮であった。いささか格好よすぎるようにも感じたのも確かで、龍馬の死を描くことに重点が置かれたためか、男女蔵と芝のぶのエピソードなどとってつけたようになってしまったのは、上演時間の制約を考えれば仕方ないのかもしれない。また「ええじゃないか」なども登場するが民衆のエネルギーを感じるには迫力不足で、舞台全体から激動する時代の風が感じられなかったのも惜しい気がした。

 染五郎は龍馬そのもので力演好演。松緑にも存在感があった。猿弥や門之助なども芝居にとけこんで成果をあげていた。細かな事だが芝のぶが、寒さを感じさせる演技に工夫があり嬉しがらせる。男女蔵はこうした朴訥な市井の人を演じさせると上手い。天使が贔屓している仁左衛門のところの松之助が何故か出ていて、短い出番だが上方の味を出していて、東京で上演する芝居に京都を感じさせてくれた竹三郎とともに貴重な存在となった。

 「時桔梗出世請状」は南北の時代物である。初代吉右衛門は通常の「馬盥」や「連歌」の場面の前に「饗応」をつけるのが通例だったそうで、当代もそれにならっているようであるが、戦後は初代と先代勘三郎が一度演じたのみで、あとの3回はすべて当代の吉右衛門が演じている珍しい芝居ではある。

 「饗応」の場面では、御簾の内から吉右衛門の声があって、いつもの名調子を愉しんだのだが、御簾が上がると「仮名手本忠臣蔵」の大序の若狭助のような衣裳の光秀が登場するのだが、肩のあたりが小さく見えて意外だった。若い若いと思っていても65歳になる人である。老いを感じたとしても無理はない。2013年春の新しい歌舞伎座の開場時には、幸四郎ともども70歳近くになっているのである。これから円熟期を迎えるときに歌舞伎座という活躍するべき舞台を失うのは、役者にとっても観客にとっても不幸なことである。

 あまり上演されない芝居であるので、不慣れな部分があるのか、富十郎の春永の台詞が怪しいので盛り上がらない。さらに春永の狩装束や蘭丸と力丸の紅色系の色合いが、歌舞伎の舞台としては落ち着きのないものと映って座りが悪い。芝居の筋立ても整理されすぎているように感じて、あの枝が折れてしまった蘇鉄は何のために?といった疑問だけが残ってすっきりしなかった。もちろん光秀の寛容な人柄を見せるのに違いないのだが…。見応えがあったのは、やはり「馬盥」で時代物役者の第一人者である実力を発揮してくれて大満足である。花道の出から引っ込みまで発散する場所がなく、役者としては大変な芝居が続くのだと思う。観客の興味をそらすことなく、次から次へと襲いかかる恥辱の数々に堪え忍ぶ姿が、前場と違って大きさがあったのがよかった。

 それは対する富十郎の春永が良いからで、口跡の見事さはもちろん、存在感からしても、果たして今後これだけの春永が出現するだろうかと心配になったほどである。足の不自由さから、通常の高座に正座するのではなく洋風の椅子に腰かけて芝居をするという演出。高さが上手く調整されていて、歌舞伎の均衡を破壊することなく芝居が進行したのはよかった。これだけの春永に責められて幸福な吉右衛門の光秀ではある。深く掘り下げられた演技で、台詞で多くを語るわけではないのに、光秀の心の動きが手にとるように理解できて、こちらまで苦しくなってきた。特に切り髪の入った木箱を抱え、花道を入るときに箱を持ち替えるだけで謀反の意思を持つことを明確に表現するなど見事としか言いようがない。

 「連歌」の場では、魁春や歌六など、この芝居の色に慣れている感じがして腕のあるところをみせていた。そして圧巻は光秀が切腹とみせて、使者を殺す場面で耐えに耐えてきたエネルギーの爆発が素晴らしかった。そして幸四郎が最後に登場して初代吉右衛門と七代目幸四郎の孫が揃ったことは、芝居好きにとっては何よりのご馳走だった。


 清元で踊られる「お祭り」は木挽町界隈の祭礼という趣向で、芝翫の芸者を中心に歌昇、錦之助、染五郎、松緑、松江の鳶頭と手古舞姿の芝雀、孝太郎によって賑やかに踊られた。芝翫を除く出演者が大迫りに乗って登場。さらに裾に波の模様の入った衣裳で裾をまとめた形で花道から芝翫が登場。裾をおひきづりにして、上手下手と中央の客に挨拶して踊るという演出。これは最後に一同が揃って同じことがくりかえされるが、暗い演目の後だけに気分転換にはもってこいの演目だった。歌舞伎座の改築にもふれての「一本締め」や獅子舞まで登場して楽しい工夫が凝らされていた。けっして難しい振付ではないものの、歌昇の踊りが最も面白く、目を引くもので感心した。小型の富十郎といったら誉めすぎだろうか。

 最後は、これも初代吉右衛門所縁の「河内山」は幸四郎の主演である。吉之丞や歌六など「質見世」に出したい役者もいるというのに、「松江邸」だけとは最近では珍しい現象である。さすがに昼の部の上演時間が5時間を超してしまっては仕方がないのだが、「馬盥の光秀」に「饗応」がついていただけに残念だった。

 幸四郎の河内山は、梅玉の松江侯との対決など淡泊なもので台詞の名調子を聴かせる方向であったようである。台詞の運びなどにも幸四郎なりの工夫があって、黙阿弥の作品に次々と意欲的に取り組み、新しい光を作品に当てている幸四郎らしいものになった。大膳に対しては「まかり出て、土手に手をつく蛙かな」という台詞で演じていた。「馬鹿め」も豪快さよりも知能犯らしい言い方で痛快さよりもインテリやくざといった理知的な側面をみせる感じだった。周囲の役も充実していて、段四郎の高木、高麗蔵の浪路、門之助の数馬など、幹部と中堅で固めたぜいたくな配役であった。

部数限定  先行発売という言葉に負けて写真集と吉右衛門の書籍を購入。お買い求めになられてもご損はないと思いますので、筋書売り場で是非どうぞ。

2009-09-07 00:01
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お国と五平 怪談乳房榎 八月納涼歌舞伎・第3部 歌舞伎座 [歌舞伎]2009-08-24 [歌舞伎アーカイブス]

勘三郎あってこそ
 

 当初は21時30分くらいまでの上演予定時間だったはずなのに21時に終演した。筋書の上演記録を確認すると前回までは四幕八場で食事時間の幕間を入れて2時間半かかっていた「怪談乳房榎」が、大幅に短縮して1時間40分になっていた。前回の平成14年版の実質上演時間が1時間50分、今回は実質上演時間が1時間30分で四幕八場で、最後の敵討ちの場面が省略されて勘三郎の圓朝が説明して終わりになった。

 平成14年8月は「通し狂言 怪談乳房榎」ということで一本立てでの上演だった。さすがに今回は「通し狂言」とは書いてないが勘三郎の早替わりに焦点を当てた芝居になったようである。そこに大きな不満を抱いている観客は少ないようで、三津五郎、扇雀、勘太郎ら「怪談乳房榎」に出演していない役者によって「お国と五平」が上演された。

 谷崎潤一郎の「お国と五平」は秋の那須野ケ原を舞台に展開する。舞台いっぱいに薄を飾って歌舞伎には珍しい奥行のある舞台装置で何やら「黒塚」を連想させた。音楽は仙波 清彦が担当し、邦楽の香りは残しつつも斬新な音楽で不気味な雰囲気を表現していて秀逸だった。この芝居で立派だったのはここまでで、お互いの立場を切々と訴えるような台詞劇は、「怪談乳房榎」の上演形態まで変える価値があってかどうか、また納涼歌舞伎の演目として適当だったかどうかは疑問が残る。

 敵討ちはもちろん不義密通に対しても罪悪感が薄い現代にあっては、解き明かされていく秘密の衝撃は少なくむしろ笑劇になってしまって谷崎が表現したい世界とは微妙なズレがあったように思う。それでも本来なら無事に本懐を遂げてめでたしめでたしの幕切れが、お国と五平が底なしの地獄に堕ちていくような最後は印象的で成功していたと思う。

 お国の扇雀には二人の男の人生を狂わす女という危うさは少なく、むしろ好色なだけ?というのが物足りない。勘太郎の五平には、年上の未亡人に寄せる複雑な想いを抱いた若者という危うさがあるのが良いが、お国の足袋を脱がせるところなど、もっと複雑な想いがみえたほうがよい。三津五郎の友之丞は武士としては有り得ないような存在だが、そうした彼にも彼なりの論理を与えているところが芝居としては新しいところなのだろうか。その古くて新しいテーマをみせるために、延々と台詞につきあわされるのは、なかなか集中力を保つのに骨が折れた。この三人なら何か「道行」のような舞踊劇の方がよかったのではないだろうか。

 「怪談乳房榎」は実川延若から直接に指導を受けた勘三郎がたびたび演じているが、今回は最後の敵討ちの場面をカットして圓朝に扮して筋を説明し、歌舞伎座のさよなら公演にもふれて笑わせてくれる。第2部の「豊志賀の死」でも噺家を演じていて、いささか安易な感じがしないでもないが観客は大喜びである。

 何故?どうして?と観客に考えさせる暇を与えないほど芝居の展開は早くて、勘三郎の早替わりの速度と良い勝負である。ご都合主義も極まったような物語で芝居としては大きな瑕がいくらもあるのだが、それを感じさせないほど勘三郎の早替わりが鮮やかで見事である。最も驚かせてくれるのは、本水を使った水中での早替わりで刺青のある身体をどうしているのか不思議だった。

 吹き替えも使うが勘三郎は右足の親指を怪我しているのかテーピングしているので、すぐに判ってしまったり、敢えて隠さないのか勘三郎のバックステージの動きが見えたり、聞こえたりするのは観客の興奮を煽って上手い。橋之助の磯貝、福助のお関とも芝居らしい芝居ができないので気の毒だが、早替わりが売りの夏芝居ならば仕方がないのかもしれない。90歳の小山三が元気に舞台を務めていたのが一番のご馳走だった。勘三郎も身体に気をつけて千秋楽まで完演して欲しい。くれぐれも新型インフルエンザに気をつけてと言いたい。

2009-08-24 21:23
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賀の祝 双面水照月 源氏店 稚魚の会・歌舞伎会合同公演B班 第15回国立劇場青年歌舞伎公演 [歌舞伎]2009-08-24 [歌舞伎アーカイブス]

 正式名称は平成21年8月青年歌舞伎公演 国立劇場歌舞伎俳優研修修了生・既成者研修発表会 第15回稚魚の会・歌舞伎会合同公演というらしい。そのB班の公演を観た。今月は歌舞伎座と新橋演舞場で歌舞伎興行があるので、参加者数が限られるのと、さらに若手に役を経験させるという方針転換によって、経験年数が浅く、20代から30代前半の役者に役が割り振られたようである。例年になく若手の抜擢が目立ち、これだけ台詞のある役は初めてという役者もいたようで、日頃の修業の成果が試される場になり大変興味深くみた。

 「賀の祝」には白太夫という重要な老け役もあり、兄弟とその女房たちに、それぞれの個性と技量が求められるので、かなり難易度の高い演目を選んだものだと思った。歌舞伎役者としては避けては通れないのだが、日頃の修業と心得のありようが現れてしまったようだ。

 三人の女方は、基本が身についていない部分が目について見苦しい。芝居の中身よりも歩くこと、後ろ向きでも女方でいられること、裾を引いた着物の扱いなど普段から舞台に立ったり、日本舞踊も習っているだろうに何故できないのかと不思議に思った。

 そうした女方陣に比べ、立役には印象に残った役者がいた。まず梅王丸の市川左字郎が幼さは残るものの、むしろこの役にはプラスになり、口跡もよく台詞も明解、隈取りも似合って上出来。次に桜丸の坂東玉朗が気品のある若衆が似合い、死を覚悟した憂いもあって、これも上出来だった。松王丸の市川段一郎には元気が足りなく思えたのと、白太夫の中村蝶八郎には、老け役の大役は気の毒ながら、後半息切れして芝居全体をささえくれなくなって舞台が停滞してしまった部分があったのが惜しい。

 「双面水照月」は、これも難関の舞踊劇だが、雀右衛門門下の役者によって上演され、なかなか見応えのある舞台に仕上がっていたのは何よりだった。渡し守おしずの中村京紫が、さすがに役者歴が長い上に古風さも兼ね備えてうて、安定の出来で満足させてくれた。

 その一方で永楽屋娘お組の中村京三郎は経験の乏しさを露呈して花道の振りで袖がドンドン落ちてきてしまい女方にあるまじき二の腕まで見えてしまう失策で色気に乏しく周囲が好演していただけに残念な出来。要助の中村蝶紫は、その影響?であまり冴えなかった。

 今回一番の功労者は法界坊・野分姫の霊の澤村國矢である。場内が暗くなり、面明かりに照らされ花道のスッポンに浮かび上がった具合、野分姫からお組の姿に引く抜いた際の驚き、そして法界坊と野分姫を踊り分ける技巧など、お金を取れる水準まで十分に達していて安心してみられたのは何よりだった。

 「源氏店」は今回の最難関かと思われた。時代物に比べ、やはり世話物は若手には荷が重いと思われたからである。結論から言うと、台詞がナマすぎる弱点はあっても、役者それぞれが案外と様になっていて芝居として破綻がなかったのに驚かされた。どうしてこんなに出来るのかと思ったが、徹底的な稽古とビデオなどを利用した合理的な学習があったのではなかろうか。

 与三郎の中村梅秋は、少々小粒で甘えた感じが幼さに通じてしまうのだが悪くないできで名調子の台詞を聞かせた。対するお富の澤村伊助も何とも言えないあだっぽさがあって粋な黒塀に見越しの松の妾宅に囲われている女というリアリティがあって独特な感覚。蝙蝠の安の中村富彦は、若さが出てしまい嫌の奴といった部分が足りない気もしたが悪くない。多左衛門の中村吉六には師匠譲りの貫禄と大きさがあって面白い。腕のある役者のもので一番の難役と思われた番頭藤八を吉也が演じて、柔らかみはたりないもののなんとか演じていて立派だった。芝居の結末もお富が多左衛門の妹と判り、膳を持って戻ってきた藤八を与三郎が追い出し、二人が抱き合って再会を喜び合うという幕切れで観客にも親切なやり方で良かった。

 今後も役者修業を積み重ね、将来の歌舞伎を支える一員となるよう努力を続けていただきたいと心から願った。

平成21年8月23日(日) 11時開演/15時終演 国立劇場小劇場
竹田出雲・並木千柳・三好松洛・竹田小出雲=作
市川左團次=監修・指導
中村時蔵=監修・指導
菅原伝授手習鑑 一幕
佐太村賀の祝の場

舎 人 桜 丸:坂東玉朗(坂東玉三郎門下 第14期生)
桜丸女房八重:中村春之助(中村魁春門下 第16期生)
舎人松王丸:市川段一郎(市川段四郎門下 第14期生)
松王丸女房千代:片岡松寿(片岡仁左衛門門下 第16期生)
舎人梅王丸:市川左字郎(市川左團次門下)
梅王丸女房春:尾上みどり(尾上松緑門下 第16期生)
左太村の白太夫:中村蝶八郎(中村歌昇門下)

奈河七五三助=作
藤間勘祖=振付
双面水照月 常磐津連中

法界坊・野分姫の霊:澤村國矢(澤村藤十郎門下)
手代要助実は:中村蝶紫(中村獅童門下)
吉田松若
永楽屋娘お組:中村京三郎(中村雀右衛門門下 第14期生)
渡し守おしず:中村京紫(中村雀右衛門門下 第8期生)

三世瀬川如皐=作
中村梅玉=監修・指導
中村魁春=監修・指導
与話情浮名横櫛 一幕二場
源氏店妾宅塀外の場
源氏店妾宅の場

切られ与三郎:中村梅秋(中村梅玉門下 第17期生)
蝙蝠の安五郎:中村富彦(中村富十郎 第16期生)
番頭 藤八:中村吉也(中村吉右衛門門下)
下女 およし:尾上隆松(尾上松也門下 第17期生)
和泉屋多左衛門:中村吉六(中村吉右衛門門下 第12期生)
横櫛 お富:澤村伊助(澤村藤十郎門下)


2009-08-24 12:48
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豊志賀の死  船弁慶 八月納涼大歌舞伎 歌舞伎座・第二部 [歌舞伎]2009-08-21 [歌舞伎アーカイブス]

幸福な2時間35分

 
 第二部は芝翫と福助によって主に演じられてきた「真景累ヶ淵 豊志賀の死」から始まる。怪談で観客が怖がらずに笑うというのは、何もこの演目に限った現象ではない。むしろ、それが普通になってきている。怖さを笑いで紛らわせているという説もあるが、むしろ怖がった、怖がってしまった自分自身を笑っていると思えないこともない。その現象に違和感を抱いたり、腹を立てることもなく、一緒に笑えることができるならば、観客としては上級者といえるかもしれない。

 毎回毎回、独特のホラー演技で天使を悶絶させてくれる福助なのだが、今回もその期待?に背かず、福助らしい演技を全開で観客を爆笑の渦に巻きこんでいた。因果噺とはいえ、年増女の見苦しいふるまいは見れば見るほど可笑しい。それを最大限までに拡大して提示してみせたのは福助ならではで、非難されるのは百も承知で観客を楽しませる方向に向かったのは確信犯というか故意犯というか、単純な観客よりも一枚も二枚も上手である。これにより、後で上演される「船弁慶」の義経の気品が引き立ったわけで、福助にはプラスだったのだろうと思う。

 今回の収穫は新吉を演じた勘太郎である。若手花形の役者には珍しい古風にさえ感じさせる若い二枚目の色気があって感心させてくれた。ちょっとした足取りの細やかさなど工夫があって悪くない。いかもに清潔そうにみせておいて、性愛に溺れそうな厚ぼったさがあって近頃では珍しい味である。かつて前進座の国太郎と共演した邦次郎が醸し出していた得難い味が、いまの勘太郎にはあるように思った。

 その相手役のお久は、売り出し中の若女方の梅枝である。少々暗い感じがするのがこの役に合っていて、歌舞伎には多い役柄である不幸を一身に背負ったような若い女の役を、lこれから一手に引き受けていくような感じがある。特別出演?として勘三郎が噺家で登場。納涼歌舞伎の観客が望んでいる軽さがあって暑苦しさのないのが好印象。

 「船弁慶」といえば富十郎。富十郎といえば「船弁慶」である。初めて観たのは昭和55年10月だったのだが、それ以来何度も観る機会を得たのは同時代に生きた者として幸福なことである。その富十郎が平成15年に一世一代として舞納めてしまった。菊五郎の「船弁慶」も悪くはないのだが、やはり富十郎のような感動と興奮を与えてくれそうだと期待できるのは勘三郎しかいない。

 その勘三郎が16年ぶりに上演した。義経の福助、弁慶の橋之助の初役、舟長に三津五郎と納涼歌舞伎を支えてきた役者が集まって目覚ましい成果をあげた上演となった。衣裳は玉三郎に贈られたものと六代目のものを用いるということだったが、義経の衣裳の模様の花籠と静御前の衣裳の花籠を乗せた車という心配りは玉三郎ならではのものではないかと感じた。それによって、観客が二人の心の繋がりを意識するだけで、静御前の舞の思い入れが違ってくる体験をした。静御前は能の様式で舞われ、感情を露わにすることもないだけに、より深い表現が可能になったように思う。眼目の「都名所」の部分では、それまでの能から離れ、歌舞伎舞踊らしい動きをみせ、変わり目が鮮やかで見事だった。

 知盛には、もう少し凄味が欲しいような気もしたし、花道の出、義経一行に襲いかかる部分など思ったよりも勢いに乏しい気がした。一番の見せ場は、やはり花道の引っ込みで、長刀を使っての六方、ぐるぐる回って花道を入る技巧など富十郎に肉薄する迫力で満足させてくれた。現在の歌舞伎座の最後に勘三郎の「船弁慶」を観られた幸福を噛みしめた。それにしても福助の驚くべき気品。あの豊志賀との違いに唖然とさせられた。「やればできる」という言葉は福助のためにあるように思えた。

2009-08-21 23:56
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石川五右衛門 八月歌舞伎公演 新橋演舞場 [歌舞伎]2009-08-16 [歌舞伎アーカイブス]

海老蔵のプロジェクトX

 
 樹木伸の漫画を原作に、川崎哲男と松岡亮の脚本、猿之助の復活狂言でもお馴染みの奈河彰輔の監修、藤間勘十郎の演出による新しい時代物の歌舞伎狂言の誕生である。右近や猿弥が出演しているので、猿之助の復活通し狂言の数々を思い出すが、現代向けに手際よくまとめた感じで長すぎず、短すぎず、八月の暑い時期に上演するには適当な演目だったと思う。海老蔵の五右衛門と團十郎の豊臣秀吉の関係に物語の重心をおいていたので、すべてが海老蔵の一挙手一投足に焦点があてられているような内容だった。

 海老蔵もそれに応える熱演で、劇中で何度か披露する「睨み」というか見得というか人間業とも思えないような異形の形相をみせるのが、浮世絵の役者絵を連想させる見事さで思わず見とれてしまった瞬間があって幸せだった。五右衛門ものなので、釜煎り、南禅寺の山門、葛籠抜けの宙乗りなど、お約束の名場面は盛り込みつつ、新しい趣向や演出なども織りまぜて楽しませてくれたのは何よりだった。

 夏芝居なので早い展開なのがありがたいが、その反面、芝居のコクが足りないのは仕方がない。猿之助ならば、義太夫狂言の構造を守り、清水寺あたりで海老蔵の五右衛門が若衆に化け、七之助のお茶々と恋に落ち、秀吉の家の重宝の詮索があってという序幕。二人の寝所での出来事、山門の名台詞、さらに右近の霧隠才蔵の世話場の愁嘆があって、本水を使った「鯉つかみ」ならぬ「鯱つかみ」があって、大屋根の立ち回りから宙乗りといったような物語で上演時間が5時間超なんてことになりそうだが、この興行は海老蔵の人気がすべてなので、面白くなりそな脇筋はすべて削除。右近の才蔵、猿弥の百地三太夫、七之助のお茶々など、共演者とも一緒にいる場面が少なく、説明的に終わっていて筋立てとしては物足りないのだが、海老蔵のワンマンショーと割切れば、3時間25分の短めの上演時間も納得である。

 まず義太夫狂言としては異例?の人形振りで釜煎り直前の場面が演じられ、石川五右衛門という主役を強く印象づけるとともに、大詰の驚きの展開へ繋げる伏線ともなっていて、五右衛門の回想?という形式で演じられるのが新機軸である。

 序幕は五右衛門が右近の霧隠才蔵と出会い、猿弥の百地三太夫から伊賀忍法の奥義を授けられるまでを季節の移り変わりも織りまぜてみせる。とっても早い展開なのだが、これが漫画らしいのだと思えば悪くない。劇中に才蔵との立ち回りがあり、スローモーションで見せ、付け打ちがタッタッと小刻みにリズムを打つのが面白かった。ここで右近と猿弥の出番は終わり。その後に活躍の場がないのは少々寂しく思った。

 5分の短い休憩後は、洛中の聚楽第の広庭で五右衛門と七之助のお茶々が出会い、恋におちて一緒に踊るという場面。後にお茶々は五右衛門の子を懐胎するので重要な場面となる。驚かされたのは七之助が水際だった美しさを放っていたからである。海老蔵という二十一世紀の二枚目に、少しも引けをとらない若女方の誕生の瞬間だと感じた。それほど七之助は輝いていたのである。物語の弱さなど吹き飛ばす美しさで楽しめた。

 休憩後の第三幕の第一場からは、團十郎の秀吉が登場する。五右衛門の親の形見である銀の煙管、お茶茶の妊娠と、あとの場面への複雑な?伏線となるのだが、團十郎の大きさと鷹揚さがすべてだった。七之助は、せっかく良い役なのだが、ここでお役御免となって登場しない。贅沢とも勿体ないともいわれる起用のされ方で、主役級の女方は七之助のみで、華を添える存在で終わってしまって、もっと観ていたいと思わせたのだから、だいぶ腕を上げたということなのだと思う。キーワードとなる銀煙管を持っての團十郎の思い入れは、さすがに大きくて芝居が締まった。

 第二場は、南禅寺で團十郎の秀吉と海老蔵の五右衛門が出会って、実は親子だったということが明かされる場面。実の親子が親子関係のある人間を演じるので興味深い。第三場は内陣から山門の場へ居所替わりでみせるのが見せ場で、ここでも浮世絵さながらの見得をみせて興奮させてくれる。

 20分の休憩後は大詰からは見せ場の連続で、面明かりを使用した印象的な登場と花道での力者との立ち回り、そして鯉つかみならぬ金の鯱つかみという夏芝居らしい趣向。あえて本水を使わないのは、歌舞伎座の勘三郎とも重ならないので見識だと思う。大阪城の天守閣での立ち回りは、海老蔵の分身の術で、五右衛門の分身が10人も登場。ご丁寧に海老蔵マスクをつけているのが驚くやら可笑しいやら楽しめた。

 そして発端の釜煎りに戻って、釜に五右衛門が落ちると、釜が割れてその中かた葛籠が登場して宙を上っていく。暗闇の中、3階の鳥屋から葛籠が舞台端の上部に出現。葛籠が割れて五右衛門が登場「葛籠しょったがおかしいか」というお約束の台詞があって宙乗りではいる。物語の出来よりも、様々な海老蔵を楽しむのだと心得れていれば、不満も消えていくとは。海老蔵はなんと不思議な役者であることか。その魅力を再認識させられた公演だった。

 新歌舞伎風のもの、歌劇や乱歩を原作にしたり、歌舞伎の新作が細々と上演されてはいるが、今どき義太夫狂言の時代物を一から産み出そうという意欲は誉められて良い。若手では海老蔵以外に実現できそうにないプロジェクトなのだから。

2009-08-16 00:42
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