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仮名手本忠臣蔵 大序・三段目・四段目・道行 顔見世大歌舞伎・昼の部 歌舞伎座 [歌舞伎]2009-11-03 [歌舞伎アーカイブス]

大きさと潔さ、望まれる深さ


 劇場正面に櫓が組まれた十一月。最後の歌舞伎座での顔見世興行は、歌舞伎の独参湯『仮名手本忠臣蔵』の上演である。先月が『義経千本桜』だったので、4月までに『菅原伝授手習鑑』も上演されることを大いに期待したい。仁左衛門の極めつけの菅丞相を再び観ることができれば嬉しい。大曲ゆえに、現状では場面的に単独では上演されるのが困難な演目であり、歌舞伎座以外で上演されるのは不可能な現状なだけに祈りにも等しい願いである。

 「道行」、「五段目・六段目」、「七段目」のように単独で上演される場面と違い「大序」「三段目」「四段目」も単独で上演されることはなく、もっぱら通しの場合の上演に限られる。それだけに歌舞伎座さよなら公演にふさわしい理想的な配役を得て高水準な舞台が実現したことを喜びたい。

 「大序」が始まる前に恒例の口上人形が登場するのは恒例の通りである。相変わらず名題以上の役者はすべて読み上げる形式で、大幹部の名前の前には「エヘン、エヘン」と咳払いをするのも変わらない。『仮名手本忠臣蔵』は一座の顔ぶれによって何役も兼ねることが可能だが、勘三郎の判官、魁春の顔世など一役のみであるのは当然のこととはいえ、贅沢であり見識なのだともいえる。

 口上が長くなり、誰彼かまわず拍手を送ろうとする律儀な観客の存在は、いささか白けるので主な役名だけに限るのも一案なのだと思う。口上の読み上げも二人で交替制だが、人形の操作は「馬の足」で有名になった仲太郎である。今は筋書の顔写真にも登場しなくなり、裏方として歌舞伎座の写真集に着到板の前に立つ姿が掲載されていて、今月は2階のロビーに展示されている写真の中に発見することができる。新しい歌舞伎座でも人形とともに活躍することを心から願った。

 「大序」は富十郎の師直、勘三郎の判官、魁春の顔世、梅玉の若狭、七之助の直義と役者が揃った。芝居の中心は富十郎で、齢80歳にして口跡は明快、実生活とたぶるとまでは言わないが、老いてなお色好みであるということも納得の演技である。さすがに階段を下りたり上ったりする場面では危なっかしくも思えたが、世の中の80歳の老人としては驚異的な若さである。

 すべては恋が原動力といった風情で、下品にもならず、手強すぎもせず、人の良さ?さえ感じさせるのは富十郎の個性である。極端に憎憎しげにならず、誰の心の中にも潜んでいる「ちょっとした意地悪さ」といったものを感じさせて上手い。そのさりげなさが「三段目」への若狭への媚びへつらい、判官への理不尽なまでの「いじめ」へまで繋がるのだが、自分の心の中に同じ要素を感じ、あるいは判官をサディスティックなまでに苛めることに心地よさなどを感じてしまう自分を発見して驚いた。

 一方の判官の勘三郎は、絶品だった梅幸直伝だという判官を演じる。もちろん眼目は「三段目」「四段目」だと思うのだが、気品と若さのある姿は、日ごろ舞台上ではじけている勘三郎とは別人のようである。判官が本役とはいえ、芝居巧者なこの人の師直なども期待したくなった。

 この場面で最も感銘を受けたのは梅玉の若狭である。台詞の第一声より凛とした響きが劇場空間に広がった。その音楽的ともいえる声質、気品、直情的な性格をも見事に表現していたと思う。いつの間に、こんなに素晴らしい台詞を操るようになったのか…。歌右衛門の薫陶を受け、「歌舞伎座の舞台にふさわしい役者に」という父の願いは実現したようである。

 同じく歌右衛門に鍛えられた魁春の顔世ではあるが、あまり感心しないできである。時として歌右衛門を髣髴とさせるような演技を見せるようなこともあるのに、今回は松江時代の最も不味い台詞回しに戻ってしまったようである。嫌らしい台詞の粘り方が生理的に受けつけないのである。ある意味、歌右衛門風といえなくもないのだが、音楽的でない台詞は、他の役者とのバランスも悪く残念なことである。

 すでにお軽なども経験している七之助が父親と同じ舞台を踏んで神妙な演技をみせる。女形もだが、こうした役柄も品があるのと線の細さが貴重な味をだしていた。

 短い幕間をはさんで「三段目」である。「進物の場」は橘太郎の伴内で、もうこの人が、この大一座で伴内なのかと感慨深いものがあった。愛嬌のある体型、顔立ち、身体から発する雰囲気に軽さが感じられるのがよかった。例によって「エヘン、バッサリ」なのだが、中間との息もあい、なかなか楽しめる場面となり、後半の悲劇を引き立てる役目を見事に果たしていた。全編を通じて、けっして大名題のでるような場面ではないが、脇役たちの活躍する場なのだと気がついて、出演者が張り切っているもの納得だった。

 「三段目」で懸念されたのは、富十郎の師直の膝の疾患についてである。かつて松緑も同じ状態で演じたことがあるが、同じように鬘桶に腰かけて若狭と応対する形式だった。よく考えるとおかしなものだが、橘太郎の好サポートもあって違和感はなかった。伴内の身軽なこと、敏捷なこと、身軽な橘太郎ならではで上出来である。

 梅玉の若狭は、ことさら台詞を手強く言うこともなく、感情を爆発させるような台詞ではなく、軽蔑する気持をこめる演じ方で、最後まで気品を失うことがなかった。直接的でなかっただけに師直に与えた恥辱はむしろおおきくなったかのようだった。

 判官の勘三郎は、師直の邪悪な想いをも実は知っていたのかと思わせるような部分があって面白く観た。本来ならば何も知らないのが本当なのだろうが、師直の理不尽な要求にも耐えているというよりも、軽く受け流すといった感じで大人の対応だと感じた。ある意味、とっても現代的な解釈ではあるが、清濁あわせのむような理知的な部分(現実の勘三郎には一番足りないと思うのだが…)が感じられて、大序での分別くささも納得できるのである。師直の顔世への恋慕も軽く受け流す風があって面白い。

 それが師直の武士の名誉を汚すような言動で我を忘れて刃傷に及んでしまうという心理的な過程を納得させてみせた。それを助けたのは、富十郎の師直が良いからで、勘三郎も苛められ甲斐があるというものである。膝の疾患があるゆえに、正座ができないで、足をさりげなく投げ出したりしてカバーしていたが、芝居には支障がないと感じられたのは、細かな工夫が凝らされていたからである。さらに、座頭としての目配りが効いていたようで、ぞくぞくするような芝居を観る醍醐味があった。それは富十郎の強い個性によってである。近頃の歌舞伎では失われてしまった大幹部のオーラのある演技、それは、ともすると観客不在の我が儘という弊害も生んだことは確かだが、食うか食われるかといった意気込みで繰り広げられる演技合戦があると嬉しい。若手花形にみられるような仲良しクラブ的な芝居は、正しい姿であっても観客不在で面白くなりようがない。

 「四段目」は前半好調で後半は失速という形となった。何よりも前半の成果は、清潔な潔さが信条の勘三郎の判官、仁左衛門の石堂、段四郎の薬師寺の好演によるところが大きい。何よりも判官を神妙に演じている姿に大きな感銘を受けた。ひたすら判官という人間を生き、そして死んでいこうとする姿勢に心打たれた。日頃は、何かと新しいものに挑戦する姿勢を露わにする勘三郎だが、難役中の難役である判官を高水準でみせた努力と精進には目を見張らせるものがあった。

 夜の部では由良之助を演じる仁左衛門ではあるが昼の部は石堂一役である。今まで天使の中で最高だった石堂は死の直前に演じた羽左衛門だった。それに勝るとも劣らない演技を仁左衛門は披露した。何よりも判官に対する同情と、由良之助らへの共感がひしひしと伝わってくるのである。花道を祈りながら入る姿に大きく心を動かされた。観客の想いを代弁しているような石堂だった。けっして大役ではない、この役を買って出た仁左衛門の心意気にも感動させられる。段四郎の薬師寺も贅沢な配役であるが、この座組のなかでは一番の適役であろう。こうして孝太郎の力弥も含め、周囲の役に恵まれた勘三郎の判官は幸福な役者であると思った。

 ところが幸四郎の由良之助の登場で状況は一変したように思う。花道からの登場からして、なんともマイペースというか自分本位な演技の連続で芝居の流れを断ち切っているようにしか思えなかった。元々自意識過剰な演技の目立つ役者だが、まさに独壇場といった感じで歌いあげる台詞には、またしても辟易とするしかなかった。何とも底が浅いのである。だから観客の興味を繋ぎ止めることができないで、それまで丹念に積み上げてきた劇世界が崩壊したように思う。周囲の観客が集団睡眠状態に陥ったのも原因がないわけではないと悟った。

 屋敷を明け渡すことも、主人の敵を討つことの決心も、空々しくしか思えないとは…。演技に何一つ間違いはないのに、役に対する姿勢なのか、技術なのか、大星の人間的な大きさが感じられない誠に残念な結果となってしまった。

 「道行」は菊五郎の勘平と時蔵のお軽。團蔵の伴内という菊五郎劇団で固めた感じである。お軽の衣裳も矢絣であるし、幕切れも伴内が肩を組んだ花四天に乗って、刀を望遠鏡にして二人を見るという変わった型で初めてみた。それ以外は特に変わったところがないのだが、ほとんど鬱状態で自害することしか頭にない勘平を、お軽が必死に止め、故郷に向かうことを決心させるという変化を上手くみせた。

 菊五郎が最初は哀しみに沈んでいた勘平の、だんだんと精気を取り戻していく過程を納得のいくかたちでみせて上手い。音羽屋大当たりである。舞踊であって芝居とは、こうしたことなのか、役者の踊りとはこうしたものかと再確認させてくれた。憂い顔の二枚目も素晴らしいが、明るく再生した二枚目こそが菊五郎に相応しいと思わせた。時蔵は美しく気品があり、菊五郎ともお似合いで歌舞伎座のお軽にふさわしい出来で満足した。このまま六段目、七段目も演じて欲しかったが、七段目は福助が担当。二人のあまりの落差に唖然とさせられることになるのだが、それは後日に記したい。

2009-11-03 23:44
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