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森繁久弥の功罪  [エッセイ]2009-11-11 [エッセイ アーカイブス]


森繁久弥さん死去、96歳 大衆芸能で初の文化勲章

 舞台「屋根の上のヴァイオリン弾き」をはじめ、映画やテレビ、ラジオで幅広く活躍し、戦後芸能界の最前線に立ち続けた俳優の森繁久弥(もりしげ・ひさや)さんが10日午前8時16分、老衰のため東京都内の病院で死去した。96歳だった。喪主は次男建(たつる)さん。

 森繁さんは、「駅前旅館」「社長太平記」などの各シリーズをはじめ、「警察日記」「夫婦善哉」などの映画、「七人の孫」「だいこんの花」などのテレビドラマで喜劇から悲劇までを器用にこなす多彩な演技で知られた。また、「知床旅情」の作詞・作曲なども手がけ、91年には大衆芸能の分野で初の文化勲章を受けた。

 13年大阪府生まれ。早大を中退し、36年に東宝劇団へ。ロッパ一座を経て39年、NHKに入り、アナウンサーとして旧満州(中国東北部)に渡る。50年、NHKのラジオ番組「愉快な仲間」のレギュラーになり、芸達者なコメディアンとして注目された。

 52年からのサラリーマン喜劇の映画「三等重役」シリーズが出世作となり、「次郎長三国志」の森の石松役のほか「駅前」「社長」などの人気シリーズに出演。ドタバタだけの喜劇俳優とは違う、渋さの中に独特のユーモアをたたえた演技派として評価が高まった。また、再放送を含め、57年から08年まで2千回以上続いたNHKラジオ「日曜名作座」では、間の取り方に工夫を凝らした巧みな朗読で新境地を切り開いた。

 61年、「森繁劇団」を旗揚げし、舞台にも力を入れる。ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」のテビエ役は、67年の初演以来、19年間に上演900回を重ねる代表作となった。自ら作詞作曲した「知床旅情」など、歌手としても「森繁節」と呼ばれる独特の節回しでファンを魅了した。

 56年にブルーリボン賞と毎日映画コンクールの主演男優賞をダブル受賞した後、NHK放送文化賞(65年)、菊池寛賞(74年)、菊田一夫演劇賞の大賞(76年)などを受け、84年に文化功労者となった。97年公開のアニメ「もののけ姫」ではイノシシの長の声を演じ、99年のCD「葉っぱのフレディ いのちの旅」では朗読を担当。近年まで現役で存在感を示した。

 ヨットが好きで、91年に日本一周を果たした。伴淳三郎の後を継いだ「あゆみの箱」の会長や、「アフリカへ毛布をおくる会」の会長など慈善運動にも力を注いだ。

 静岡生まれの田舎者の天使。進学のため東京へ出てきたばかりの頃、帝国劇場で『屋根の上のバイオリン弾き』を観た。ミュージカルは劇団四季の『ウエストサイド物語』などを、すでに観ていたけれど、東京の一流の劇場で、生のオーケストラを使ったミュージカルは『屋根の上のバイオリン弾き』が生まれて初めてだったように思う。何しろ劇団四季の『ウエストサイド物語』は日生劇場公演といえどもカラオケだったので…。

 とにかく大感動してしまって、その後くり返された再演を律儀に、森繁久弥の最終公演まで何度も観に行くこととなった。何に感激したのかといえば、流刑になった恋人を追ってシベリアへ旅立つ次女を見送る場面。その父性愛に大いに泣かされた。そして計算しつくされ、演出された熱いカーテンコール。田舎者がコロッとまいってしまう要素に満ちていた。今から考えれば、日本的なあまりにウエットな演出と演技で鼻白む。しつこいほどくり返されるカーテンコールも演出過多で辟易とさせられるのだが、「カーテンコール一番良かった」なんていう声を何度も聞いた。本末転倒だと思うが、本人が一番好きだったらしい。「サンライズ・サンセット」を観客と一緒に歌うなんて、今から考えると嫌味な趣向だった。

 それでも『屋根の上のバイオリン弾き』を持って全国を巡演したのは評価できよう。少なくとも劇団四季のようにカラオケでミュージカルは上演しなかったようだから。もっとも米国の西海岸まで行って日系人に見せようと本気で思っていたらしいのは笑えない。なんという不遜な考え方なんだろう。慈善活動でも、そうした思い上がった態度があったらしい。そんな噂を聴いてから、急速に森繁久弥を見聞きするのをやめた。東宝では『レ・ミゼラブル』を初演するのと前後して、森繁久弥はミュージカルの舞台に立たなくなった。

 森繁久弥は東宝で森繁劇団を旗揚げしたものの、実質は座員はいなくて毎回人を集めるプロデュース公演だったという。主に喜劇を上演したが、初日に台本ができあがっていなかったりという毎回綱渡りというか、いい加減な公演をくり返していたらしい。公演中に出演者による隠し芸大会があって、そこで認められて良い役がつくこともあったという。また、毎回のアドリブで、その時間になると他の出演者が舞台袖に集まって見物するなんていうこともあったらしい。ノリノリになれば上演時間が延び、客が良くないと判断すれば短くしてしまうなんていうことも。

 社会情勢の変化もあったから仕方がないが、森繁久弥が活躍した東宝の舞台からは商業演劇が消えた。後継者となるべき人材も育てられなかったし、これで森光子が舞台に立てなくなるようなことがあれば、商業演劇の舞台は東宝の舞台から完全に消えてしまうに違いない。人間にとって本当に必要な演劇を生み出せず、単なる消耗品にしたのではないだろうか。これから世の中には礼賛の記事や番組があふれるだろうが、テレビでは市橋容疑者の逮捕で、あまり露出がないのが不運というべきだろうか。

 ご冥福を心よりお祈りいたします。

森繁久弥の功罪  [エッセイ]
森繁久弥さん死去、96歳 大衆芸能で初の文化勲章

 舞台「屋根の上のヴァイオリン弾き」をはじめ、映画やテレビ、ラジオで幅広く活躍し、戦後芸能界の最前線に立ち続けた俳優の森繁久弥(もりしげ・ひさや)さんが10日午前8時16分、老衰のため東京都内の病院で死去した。96歳だった。喪主は次男建(たつる)さん。

 森繁さんは、「駅前旅館」「社長太平記」などの各シリーズをはじめ、「警察日記」「夫婦善哉」などの映画、「七人の孫」「だいこんの花」などのテレビドラマで喜劇から悲劇までを器用にこなす多彩な演技で知られた。また、「知床旅情」の作詞・作曲なども手がけ、91年には大衆芸能の分野で初の文化勲章を受けた。

 13年大阪府生まれ。早大を中退し、36年に東宝劇団へ。ロッパ一座を経て39年、NHKに入り、アナウンサーとして旧満州(中国東北部)に渡る。50年、NHKのラジオ番組「愉快な仲間」のレギュラーになり、芸達者なコメディアンとして注目された。

 52年からのサラリーマン喜劇の映画「三等重役」シリーズが出世作となり、「次郎長三国志」の森の石松役のほか「駅前」「社長」などの人気シリーズに出演。ドタバタだけの喜劇俳優とは違う、渋さの中に独特のユーモアをたたえた演技派として評価が高まった。また、再放送を含め、57年から08年まで2千回以上続いたNHKラジオ「日曜名作座」では、間の取り方に工夫を凝らした巧みな朗読で新境地を切り開いた。

 61年、「森繁劇団」を旗揚げし、舞台にも力を入れる。ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」のテビエ役は、67年の初演以来、19年間に上演900回を重ねる代表作となった。自ら作詞作曲した「知床旅情」など、歌手としても「森繁節」と呼ばれる独特の節回しでファンを魅了した。

 56年にブルーリボン賞と毎日映画コンクールの主演男優賞をダブル受賞した後、NHK放送文化賞(65年)、菊池寛賞(74年)、菊田一夫演劇賞の大賞(76年)などを受け、84年に文化功労者となった。97年公開のアニメ「もののけ姫」ではイノシシの長の声を演じ、99年のCD「葉っぱのフレディ いのちの旅」では朗読を担当。近年まで現役で存在感を示した。

 ヨットが好きで、91年に日本一周を果たした。伴淳三郎の後を継いだ「あゆみの箱」の会長や、「アフリカへ毛布をおくる会」の会長など慈善運動にも力を注いだ。

 静岡生まれの田舎者の天使。進学のため東京へ出てきたばかりの頃、帝国劇場で『屋根の上のバイオリン弾き』を観た。ミュージカルは劇団四季の『ウエストサイド物語』などを、すでに観ていたけれど、東京の一流の劇場で、生のオーケストラを使ったミュージカルは『屋根の上のバイオリン弾き』が生まれて初めてだったように思う。何しろ劇団四季の『ウエストサイド物語』は日生劇場公演といえどもカラオケだったので…。

 とにかく大感動してしまって、その後くり返された再演を律儀に、森繁久弥の最終公演まで何度も観に行くこととなった。何に感激したのかといえば、流刑になった恋人を追ってシベリアへ旅立つ次女を見送る場面。その父性愛に大いに泣かされた。そして計算しつくされ、演出された熱いカーテンコール。田舎者がコロッとまいってしまう要素に満ちていた。今から考えれば、日本的なあまりにウエットな演出と演技で鼻白む。しつこいほどくり返されるカーテンコールも演出過多で辟易とさせられるのだが、「カーテンコール一番良かった」なんていう声を何度も聞いた。本末転倒だと思うが、本人が一番好きだったらしい。「サンライズ・サンセット」を観客と一緒に歌うなんて、今から考えると嫌味な趣向だった。

 それでも『屋根の上のバイオリン弾き』を持って全国を巡演したのは評価できよう。少なくとも劇団四季のようにカラオケでミュージカルは上演しなかったようだから。もっとも米国の西海岸まで行って日系人に見せようと本気で思っていたらしいのは笑えない。なんという不遜な考え方なんだろう。慈善活動でも、そうした思い上がった態度があったらしい。そんな噂を聴いてから、急速に森繁久弥を見聞きするのをやめた。東宝では『レ・ミゼラブル』を初演するのと前後して、森繁久弥はミュージカルの舞台に立たなくなった。

 森繁久弥は東宝で森繁劇団を旗揚げしたものの、実質は座員はいなくて毎回人を集めるプロデュース公演だったという。主に喜劇を上演したが、初日に台本ができあがっていなかったりという毎回綱渡りというか、いい加減な公演をくり返していたらしい。公演中に出演者による隠し芸大会があって、そこで認められて良い役がつくこともあったという。また、毎回のアドリブで、その時間になると他の出演者が舞台袖に集まって見物するなんていうこともあったらしい。ノリノリになれば上演時間が延び、客が良くないと判断すれば短くしてしまうなんていうことも。

 社会情勢の変化もあったから仕方がないが、森繁久弥が活躍した東宝の舞台からは商業演劇が消えた。後継者となるべき人材も育てられなかったし、これで森光子が舞台に立てなくなるようなことがあれば、商業演劇の舞台は東宝の舞台から完全に消えてしまうに違いない。人間にとって本当に必要な演劇を生み出せず、単なる消耗品にしたのではないだろうか。これから世の中には礼賛の記事や番組があふれるだろうが、テレビでは市橋容疑者の逮捕で、あまり露出がないのが不運というべきだろうか。

 ご冥福を心よりお祈りいたします。


2009-11-11 00:19
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