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めまいを誘う朝日新聞の劇評 [歌舞伎]

毎月、木曜日が待ち遠しくなっている自分がいる。朝日新聞の天野道映氏の歌舞伎座劇評を読むためである。今回は「玉三郎の真剣さ、海老蔵の軽さ」と題された劇評を寄稿している。今回の面白批評は次の部分。

「毛抜」の粂寺弾正は、見た目は祖父十一代目団十郎そっくりで、めまいを誘う。

祖父である十一代目団十郎に似ているのを観てめまいを起していたら、それは病気なので歌舞伎座ではなく病院に行くべきである。初代白鸚や二代目松緑まで持ち出して、海老蔵を軽いと断じるのもどうかと思う。筆者は、今の海老蔵と同じ歳の団十郎、白鸚、松緑を見ていたのだろうか。高麗屋三兄弟が大幹部となってからの「鳴神」の芸と、現在の海老蔵の芸を比べるのは無理がある。今の幸四郎、吉右衛門、亡くなった團十郎だって、三兄弟の芸を乗越えているといえるだろうか。

「幻武蔵」は玉三郎の思いを宿している。

武蔵と玉三郎は重なり合う。

宮本武蔵の「独行道」を持ち出して、玉三郎や愛之助が、歌舞伎の家柄の出ではなく、ただ自分を恃んで芸の道を歩んだ。と書くのは、いささか強引のような気もする。なんとも飛躍のある展開である。

海老蔵の芸の軽さを嘆いた後、他の役も同様であると続けて、

「鳴神」では、玉三郎の雲の絶間姫が、赤子の手をねじるように鳴神上人を堕としてしまう。

別に玉三郎でなくとも、簡単に鳴神上人は破戒する。そういう芝居なのである。

海老蔵の軽さは、アイドルに似ている。それはそれで可愛いが、いつまでも通用するものではない。歌舞伎の本来の魅力は別のところにある。

まあ、ごもっともな意見だけれど、今の海老蔵にしか出せない魅力もあるわけで、海老蔵がこのまま成長しないはずもないのである。今でこそ、他の追随を許さない芸域に達している吉右衛門だった、海老蔵の歳の頃は、スター然とした幸四郎(当時は染五郎)に比べ、ジャージー姿でだらしなく歌舞伎座の脇道を歩いているような青年だったのである。歌舞伎は時間が経たなければ真価の問えない芸だと思う。

玉三郎に苦言を呈するならば、「独行道」とやらで、宮本武蔵のような生き方をしていると思うのは早合点で、新しい歌舞伎座が出来るまでの間に東京の劇場に立とうとしなかったこと。新しい歌舞伎座になってからも、なかなか出演しようとしなかったこと。そして正月に歌舞伎座に出演後は、ずっと歌舞伎座に出ようとしないことなど、玉三郎ほどの立場にいながら、歌舞伎に対して無責任な態度と言わなければならない。玉三郎は、「幻武蔵」のような中身のない新作よりも、取り組むべき仕事があったのではないだろうか。
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