SSブログ

正札附根元草摺 義経千本桜・下市村茶店の場・同釣瓶鮓屋の場 松竹大歌舞伎・東コース [歌舞伎]2009-07-03 [歌舞伎アーカイブス]

いがみの権太、東へ


平成二十一年(社)全国公立文化施設協会 主催 東コース 松竹大歌舞伎と銘打たれた歌舞伎の地方公演の初日を江戸川区総合文化センターに観にでかける。その後は北区の北とぴあの吉右衛門の一座の初日公演にハシゴしたのだが、東西の立役の第一人者が、それぞれ地方公演にでかけるるのは面白い現象である。大阪の松竹座が『NINAGAWA十二夜』を上演するため、仁左衛門らが地方公演にでることになったのは襲名以来のことだという。地方のファンのために最も自信のある作品を選んだというこになるだろうか。

 天使の街にも四半世紀前に歌右衛門、芝翫、延若、現・梅玉、現・魁春、東蔵らの顔ぶれで地方公演があった。演目は息子らによる『番町皿屋敷』『お目見え口上』、極めつけ歌右衛門・延若『摂州合邦辻』、芝翫の『藤娘』と盛り沢山で上演時間は4時間を超えていた。さすがに今では地方公演で歌舞伎座なみの上演時間での歌舞伎上演は無理のようで、幕間を含めて約3時間、演目数も絞り込まれているようである。それでも十分満足させてくれたのは何よりだった。

 四半世紀前も、街中を延若が歩いていたり、舞台搬入口で魁春が日向ぼっこしていたりしたものだが、今回も開演前の劇場入口付近に秀太郎が歩いていたり、孝太郎が楽屋入りしているのが見えたり、地方公演の気楽さか役者が身近に感じられたのがよかった。ただし、気楽さが客席に伝染したのか、上演中に携帯電話の着信音が鳴ったり、出入りを平気でする人が多かったり、挙げ句に1階席の最後部の通路で体操する老紳士までいて役者には気の毒な気がした。

 江戸川区総合文化センターは1500席で典型的な多目的ホールである。間口18m、奥行18m、高さ9mとほぼ帝国劇場と同じサイズであり、上手と下手に脇花道があるのも似ている。今回は下手の脇花道に鳥屋が作られていた。脇花道の長さも文化施設としては十分である。舞台の高さは三分の一を黒幕が覆い、その下を定式幕が引かれるという設定であり、1階席で観る限り国立絵劇場や新橋演舞場で歌舞伎を観るのと変わらない。もっともクラシック音楽にも適したように設計されているため、1席あたりの空間容積はコンサートホール並に大きく、残響音や音圧の点で歌舞伎向きではない部分もあって、劇場と客席空間のバランスは、博多座で歌舞伎を観るような距離感があった。それでも、地方公演の初日として毎回使われるだけあって悪くない劇空間ではある。一番の問題は黒御簾の太鼓の音が妙に軽く響いたことである。歌舞伎座のそれとは比べものにならないほど薄っぺらい音だったのが非常に残念だった。

 近代的なホールでの歌舞伎上演で一番の問題は、雰囲気づくりだと思われる。場内には提灯などの装飾はなく、ロビーも殺風景で、およそ芝居見物という風情がない。そこで一番目の演目の役割は大きいのだが、孝太郎と愛之助による『正札附根元草摺』である。不思議なことに、幕が引かれ舞台に長唄が流れ出すと、ホールの壁の模様が市松模様に見えだした。長唄とお囃子が左右に引かれると奧から五郎と舞鶴が押し出されるという仕掛けである。これで一気に華やかさがあふれたのがよかった。

 二人による『正札附根元草摺』は、昨年の京都・南座でも上演済みであるが、二人とも小粒な味わいながら力感にあふれ、若手花形らしい若さが舞台に満ちて清々しい演目だった。客席には振付の藤間勘十郎や田中伝左衛門の姿も見えたが、まあ安心して観ていられる舞台ではあったと思う。後は藝の厚みや老練さといったものが加味されれば鬼に金棒であろうが、熟成の時を待ちたい。

 地方公演では『すし屋』のみの上演が普通であると仁左衛門は筋書で語っていた。確かに舞台装置は一杯道具ですむし、それほど多くの役者が必要ではない。前場の「椎の木」「小金吾討死」まで完全に上演しようとしたら2時間以上かかってしまうので、確かに地方公演には不向きかもしれない。しかし、今回は仁左衛門の「いがみの権太」が主な出役となるので、多少のカットはあるものの「いがみの権太」とでも名づけたくなるような充実した上演となった。

 「下市村茶店の場」とはいうものの、茶店の場の後には一旦幕を閉めて、小金吾の死と弥左衛門が小金吾の首を討つ場面まで上演するので、ほぼ全編の上演といってもいい。さすがに仁左衛門の権太は、江戸っ子ではないが、上方風といっても台詞以外は、野暮ったさもなくサラリとした味わいで、小悪党の悪の味つけが効いて悪くない。そのおかげで、後半の妻子に対する愛情との対比が上手く出た。これから母親のところに行って小金をせびることや子供の持つ巾着と笛を自分が持つことなど、後半の伏線が折り込まれているのが目新しかった。

 相変わらず仁左衛門にソックリな愛之助の小金吾は、前髪姿がよく似合い、権太にだまされ悔しがるところ、無残に殺される若者の哀れさなど、過不足なく演じていて適役である。この場での大当たりは、秀太郎の女房小せんで素晴らしい。みすみす若葉の内侍たちが夫に騙されるのを影からみていながら、何もしないのは現代の感覚からすると、共犯者同様で受け入れられないのだが、惚れぬいた弱みで何も言えない可愛い女といった感じで演じていた。

 いがみの権太が親に勘当されたのも自分ゆえという弱みのようでいて、誇りのようなものもある複雑な感覚があるのが理屈でない男女の間を表現していて大人の藝である。それを受けての仁左衛門も子煩悩の面を強調して演じて、後半の哀切な場面を際立たせる結果となった。親子三人水いらずで田舎道を行くという詩情が近代的なホールにも広がって心温まる思いだった。

 10分の幕間をはさんで「すし屋」となる。すぐに花道から秀太郎の弥助が登場するというカットが施されているが、仁左衛門のいがみの権太に焦点を当てる今回の上演では、適切な処置だと思われた。最初から鮓桶が二つしかなくて、弥助が持ち帰った桶を加えて、最終的にに四つの鮓桶となり、右から二番目に金が入れられ、弥左衛門が首を一番右側の桶に入れ、血で汚れた着物を隠すため、一番左の鮓桶を一番右側に移動することによって、首が入った桶が右から二番目になり、権太が迷わずに首の入った鮓桶を持つという、上方らしい?合理的な演じ方である。

 小せんと弥助の二役を演じる秀太郎が大活躍だが、この一座ではどちらも本役、本格的である。孝太郎とのお里との場面も上品に演じていながら、逆に性愛の匂いが満ちてきたのが不思議だった。とかく下品だったり、大げさに演じられることも多いお里も、弥助のことしか頭にない田舎娘でありながら上品だったのは、秀太郎が共演者であったからだと思う。

 仁左衛門の権太は、家橘の母親の膝に小さな子供のようにすがりついて目一杯甘えるのが面白く、出ない涙を葉欄?の入った花瓶から水をすくって目につけるなど、上方風の演じ方で鮓屋らしい、これまた合理的な演じ方だった。弥左衛門の竹三郎は、後半になって台詞が怪しくなってしまったのが残念だったが悪くない出来。愛之助の梶原も前場から出ずっぱりで大活躍で、松嶋屋一門の結束の強さをみせた。

 後半の仁左衛門の権太は、妻子への愛情により涙を押さえる数々の演技が続くが、あざとさを感じさせないのが仁左衛門の上手いところである。肩にかけた手拭いで涙をそっと押さえる。松明に煙で涙が出たことにするなど細かな工夫がされていた。もっとも感動的だったのは、花道に引かれた小せんが扮した若葉の内侍と舞台で陣羽織を頭から被って泣く権太との場面で、猿ぐつわをされ、後ろ手で縛られ、目だけしか動かすことの出来ないなかで、目を大きく見張り権太に愛と感謝を示した秀太郎の演技に泣かされた。これでは権太でなくても泣いてしまうだろう。

 すべてが上手くいったと権太が思った瞬間に、一番誉めて欲しかった親弥左衛門から斬り付けられ命を落とす権太の哀れさに心を激しく揺さぶられた。しかも梶原にすべてを見抜かれ、犬死に同様の結果になってしまたtのも悲しい。それでも権太の愚かさよりも、家族への愛情の深さに泣かされる結果になったのは、仁左衛門以下、共演者の好演によるところが大きい。子供の巾着に頬を寄せ絶命していく場面で、倅に善太郎という名前をつけたいがみの権太とあだ名された男の息子への愛に思い至って、さらに泣かされるという幕切れとなった。

 仁左衛門は札幌、青森、宮城、山形、北関東、愛知、岐阜まで巡るが、いがみの権太の名演が大きな感動を残していくに違いない。

2009-07-03
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:演劇

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。