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アイーダ ミラノ・スカラ座2009年日本公演 初日 [オペラ]2009-09-06 [オペラ アーカイブス]

1988年の9月。マゼール指揮のミラノスカラ座日本公演『トゥーランドット』の初日を観るためにNHKホールの客席に最愛の人といた。あの頃が、天使の人生が最も幸福で輝いていた時だったように思う。故ゲーナ・ディミトローヴァのタイトルロールに、ニコラ・マルティヌッチのカラフ、ダニエラ・デッシーのリューという当時の最強キャスト。そしてゼッフィレッリの巨大にして壮麗な演出。何もかもが素晴らしかった。登場人物も多く、多くのエキストラが集られたが、中国の物語といえどもイタリアの歌劇場の公演なので、西欧人のエキストラばかりが集められたと聞いた。初日の舞台では宮殿の大階段の並ぶエキストラが転ぶ?というアクシデントなどもあり、ロリン・マゼールのゆっくりとしたテンポとともに印象深いものとなった。

 カーテンコールには演出家のゼッフィレッリが登場した。翌日の東京文化会館の『ラ・ボエーム』では、クライバーやフレーニが楽屋口の混雑を避け、野球場側の裏口から脱出する?のを察知して出待ちしていたら、ゼッフィレッリが出てきて、ファンがサインをねだっているうちに、クライバーやフレーニが車に乗って立ち去るという頭脳プレイにやられたりした。そのとき、ゼッフィレッリにもらったサインは大切にとってある。当時はもう初老の年代だったはずだが、この世にこんなに美しい人がいるのかと思った。

 そして21年後の9月4日。ミラノスカラ座日本公演は、バレンボイム指揮の『アイーダ』で通産100回を迎えた。演出は新国立劇場の『アイーダ』も手がけたゼッフィレッリである。新国立劇場とは舞台機構も違うスカラ座、そして新国版初演から10年余が経過しての新演出ということもあって、どのようなものになるのかと興味があった。常識的に考えれば、細部は変更しても新国版を踏襲するが常識なのだが、80歳を越してなお、新しい演出に挑戦しようというのは、まさに真の芸術家なのだと思った。その意欲、そのエネルギーに敬服するほかはない。プログラムに演出家が書いていたように、今回の演出の目玉は、すべての出来事を支配する?あるいは導く?役割としてアクーメンと呼ばれる巫女?を登場させたことである。それについて演出家は次のように語っている。

 (前略)こうした示唆に力を得て、私は、輝かしい、そして途方もない力をもつ都市メンフィスの中心に、もう一人の霊的存在の姿、人々に不安を呼びさますような姿を思い描いた。それが巫女の長であり、私は彼女にアクーメンという名もつけた。彼女は、アイーダとラダメスとアムネリスの物語の核心的な場面に登場し、これら三人の登場人物の、運命に操られた苦難の人生に寄り添い、守るために、天上のエネルギーの「注ぎ手」となる。  彼女は、出陣するラダメスに剣を授けるために、神殿において巫女たちとともに儀式的な踊りを舞う。(アクーメン自身の声のように思われる)一人の巫女の天使のような声による歌が、儀式にともなって歌われる。  アクーメンはまた、偉大なる神々の前で、勝利の日に凱旋行進曲でクライマックスに達する「聖なる行進」を率いる。そしてラダメスが、勝利の聖剣をふたたび引き渡す相手もまた。アクーメンである。 その後の場面、ナイルの岸辺で、アクーメンは巫女たちとともに、ラダメスとの婚儀に際して女神の庇護を願うために神殿にやってきたアムネリスを迎える。そして、アムネリスをおびやかす新たなエネルギーが押し入ってきたこと、すなわちアイーダの愛を告げるのも、やはりアクーメンである。  そして、アイーダの愛の力を前にしては、神々ですら無力であり、膝を屈しなければならないことになる。アクーメンに残されたのは、愛を失った、しかし新しいエジプトの偉大な王として君臨することになる、アムネリスを守る力のみである。ヴェルディは最後に、最も偉大な、最も力強い無敵の神とは愛にほかならないことを、私たちに告げているかのようである。

 などなど活躍の場?は与えられていたようだが、バレンボイムの音楽の充実ぶりがあったせいか、舞台に違和感なくとけこんではいたが、ドラマに与える役割としては小さく存在感も希薄で成功していたとは言い難いのが残念だった。とかくゼッフィレリの演出は、20世紀の遺物のように思われるため、そのレッテルを打ち破ろうとしたのだろうとは容易に想像できる。それでも彼の演出が素晴らしいと思ったのは、従来から定評のある舞台美術であり、人物の配し方であり、衣裳の美しさであったのが皮肉といえば皮肉である。

 今回は、ほぼ新国立劇場の美術を踏襲したような第三幕を除き、基本的な階段状の舞台に古代エジプトの文様が装飾された壁などが配されるという形式で、新国立劇場のように写実に徹したような舞台装置に比べると、省略があり、抽象化があり、より洗練されたものになっていたように思う。それが端的に現れていたのは、21年前の『トゥーランドット』でも使われていた空中に配されていたパイプの存在である。照明によって黄金に輝いて見えたり、ブルーに光って見えたり、長さ1メートルほどのパイプを舞台面と平行に舞台上へいくつも吊るされている。その場の空気感を表現していて素晴らしい工夫である。古代エジプトの装置と違和感がないのは、古代中国の装置と違和感がなかったのと同じである。こんなことを考えつくとは、やはりゼッフィレッリは天才なのだと思った。

 人の動かし方も絶妙で、開幕時の主要な登場人物の動き、大人数の登場人物の出し方、引っ込め方など音楽に非常にあっているのに感心させられた。そして主役たちの立ち位置の的確さ、歌舞伎で言うところの居所が見事に決まっているのにも驚かされた。舞台上での人間と人間の間隔は、実際の世界での位置関係とは大きく違う。ましてNHKホールの大舞台である。そこに二人ないし三人の人物を配し、映画でいうようなクローズアップの効果をもたせようとすれば、的確な位置関係はおのずと決まってくるものである。それを外していないのは、さすがに長年オペラに携わってきた人であり、それを忠実に再現したスタッフの努力の賜物だと思う。

 舞台には舞台なりの秘密がある。今回もエジプトの文様が描かれただけの幕を三方向に吊るしただけで室内を表現した第二幕の第一場が見事であった。簡単に空間を仕切っているだけなのに、その基本となる舞台装置は「凱旋の場」と同じなのに、どう観てもアムネリスの寛ぐ室内なのである。それがその後に続く場面との対比となって効果的なのだが、そうした部分の工夫が上手い。パリの小さな屋根裏部屋を舞台上の大空間に見事に表現し、その後の群集シーンへ繋ぐのはゼッフィレッリの最も得意とするところだが、この『アイーダ』でも劇場の魔法をさりげなく披露していたように思う。

 「凱旋の場」は、階段状になったところに合唱団やアイーダトランペットの奏者が隙間なく並び、奥行きよりも高さで豪華さを表現したようである。残念ながら舞台のプロセニアムの高さが10メートルしかないNHKホールでは、3階席からは舞台上部が見切れてしまってその全貌を見ることはできなかった。それでも華麗さは十分に伝わってきて、新国立劇場のように馬が登場などというケレンはないものの迫力に満ちたものだった。ただし、すべての空間から、見た目の派手さにもかかわらずに空虚さが伝わってきたのは、バレンボイムの音楽の力によるところが大きかったように思う。この場面が、必ずしも「勝利ばんざい」といった単純な構造でないこが伝わってきて、深く考えさせられるものになっていたからである。「凱旋の場」で「平和」という文字が天使の脳裏に浮かんできたのは初めての体験だった。戦争の勝利を祝う場面で、なぜそんな言葉を思い浮かべたのか。音楽のほかに、壮麗でありながら、その骨組みが透けて見えるような舞台面が関係していたように思えてならなかった。

 第4幕は、地下牢の扱いが問題となる。迫りが完備している新国立劇場なら舞台装置ごと上げ下げすれば問題ないのだが、ミラノ・スカラ座ならともかく、HNKホールでは実現できないので、中央の建物?の扉を僧が観音開きで開けて中を見せるという手法で解決していた。別に新しい手法ではなく、藤原歌劇団でも東京ドームの「アイーダ」でも同じような手法が使われていたので珍しくはないのだが、周囲の舞台空間が寂寥感を一層かきたてて上手いのである。

 演出をほめてばかりだが苦言も少々。舞台の床面には石が描かれたものが一面に張られていたが、上手と下手の舞台端まではカバーできなかったのか、舞台の床面がむき出しになっていたことである。せめて黒い布でも張ってくれないと、木材の床面が客席から見えてしまっては興ざめである。完璧主義だったはずのスカラ座ともあろうものがどうしたことだろう。初来日公演時に、舞台の前面にある白っぽいフットライトのカバーが目障りだといって、茶色の布を張り出したイタリアの職人がいたという伝説はどうなったのだろうか?世代交代しても、そうした細部へのこだわりを捨ててはならないと思う。演出家が同行していないと、こした細部への美意識が欠けるのだろうか。

 最も許せないと思ったのは、第1幕の第1場が終り、暗転幕が降りてからである。いくら素早い舞台転換が必要とはいえ、繊細な音楽が鳴り続けているのに、早くも転換作業が始まってしまって騒音が客席まで聞こえてきたのである。観客は舞台転換の速さよりも、音楽を聴きたいのである。スカラ座ともあろうものが…。なんだか老舗の文句をつける常連客みたいな台詞になってしまったが、こうした細部へのこだわりがあると信じていただけに落胆は大きかったのである。それ以降も背後で舞台転換は行われているような気配が何度も感じられて残念だった。いまどき歌舞伎座だって芝居中は静かに舞台転換をするのに…。こんなに騒音が気になったのは、バイエルン国立歌劇場がサバリッシュの指揮で『マイスター・ジンガー』を上演して以来のことである。あの時は、短い間奏曲の間に歌合戦の場面に転換する必要があったとはいえ、信じられないような大騒音で驚いたけれれど、今回はスタッフの心がけ次第の問題と思うので憤りを覚えたのである。演出家が来日していれば劇場人として絶対に許すはずがなかった問題で残念である。それに字幕…。序曲の間に登場人物の説明が映し出されるし音楽に集中できないので目をつぶって聴いた。それ以降も字幕はほとんど無視。ムーティがいた頃、スカラ座はムーティの意向で字幕は出さない時期があったのだが、素晴らしい音楽を前にしてはそれがいかに正しい見解だったかと思い知った。

 そうした問題も大きな瑕と思えなかったのはバレンボイムの音楽が素晴らしかったからである。天使の隣のカップルは、彼の指揮がお気に召さなかったようで彼女の方は小さく「ブー」をしていたようである。実際に客席からはバレンボイムに対して大きなブーが飛んだが、それは認識の違いというか、歌劇『アイーダ』に何を求め、何を表現しようというのかの違いだと思う。「ブー」を叫んだ人々は、大歌手の勝手気ままな要求に応え、その歌手が最も映えるように音楽を奏でられる指揮者の公演を選べばいいのである。バレンボイムは、そうした幾多の凡庸な指揮者とはまったく違った音楽を現出してみせたのである。

 序曲は、これ以上ないほどの繊細さで始まり、冒頭からスカラ座のオーケストラの底力をみせつけられた感じである。ところが最初の聞かせどころであるはずのボーダのラダメスによる「清きアイーダ」が冴えなかったのである。後半にかけては絶好調だったので、ボーダが不調だったとは思えないのだが、普通は最後にフルボイスで高音を引き伸ばすはずが、ファルセットで繊細?に歌われたのっである。かつて藤原歌劇団の公演でラダメス役の大歌手がまったく声が出なくなっても最後まで歌い続けたという悲惨な公演を体験していたが、それとも異なり、何かの意図があって歌われたとしか思えなかったのである。客席も今か今かと待ち構えていた瞬間が失われてアリアの後に拍手するタイミングを逸してしまった。

 高音が輝かしい未来への希望といった意味合いを失い、繊細で弱弱しい高温は、愛する者を喪うことへの恐れのように聴こえた。そして第一場は、愛する者を喪うことを恐れる者の修羅場となったように思えた。修羅場=地獄である。音楽はひたすらその悲惨な光景を伝えることに終始していたように思う。この音楽に共感できるのは、まさに「愛する者を喪った人」しかいないように思えた。バレンボイムが妻のジャクリーヌ・デュ・プレを亡くしているからとは言わないまでも、失うかもしれない愛に、失ってしまった愛に苦しんだものにしか理解できないのではないかと思えたのである。お隣の幸福そうなカップルがバレンボイムの音楽に共感できなくて「ブー」をつぶやいたとしても、それはそれで幸福なことなのであろう。そして最後まで、バレンボイムの音楽は、天使が愛する人を喪う事で味わってきた地獄のような日々を思い出させて切なく苦しかった。だからアイーダにも、アムネリスにも、ラダメスにも激しく感情移入してししまい、それぞれの胸中を慮っては苦しさを募らせることとなった。こうしてバレンボイムの音楽は「愛」を強く意識させる音楽として響いてきたのである。

 そして「凱旋の場」がこのオペラのクライマックスになるはずだったが、輝かしく響くべき勝利の合唱は、戦争の結果もたらされたものとして、おぞましいものとして演奏されたように思った。もちろん世界最高水準の合唱団は十分すぎるほど機能はしていたが…。この場面でバレンボイムが訴えたかったのは「平和」なのだと強く感じた。男女の間で悲喜こもごもの争いによってもたらされる「地獄」。国家間の戦争によってもたらされる「地獄」。バレンボイムによって、初めて舞台上に「地獄絵図」を音楽によって見せられたような気がした。文楽の名人の三味線弾きは、撥のひと弾きで「修羅の巷」を表現したりするが、まさか歌劇『アイーダ』でそんなことになるとは思っていなかったので、バレンボイムの音楽の力に圧倒された。アルゼンチン生まれのユダヤ人でパレスチナ問題に深く心を寄せる人だからとはいはないが、大向こうの受けを狙って空虚な内容のない音楽をタレ流さなかったとろが天才の天才たるゆえんだと思った。地獄絵図」は、第三幕に至ってますます、そのおぞましさをました。三者三様の愛への執着、それにアイーダの父である戦に命を懸けるアモナズロが加わって、美しい音楽が描き出す地獄という快楽にも似た苦痛を味わうことになった。

 そうした「地獄」を感じたからこそ、第4幕のアイーダとラダメスの手に入れた「天国」に響く音楽が、この世のものとは思われないほど美しく感じられたし、アムネリスの諦念の想いが悲しく響いてきて、かつてないほどの感動を味わうことになった。同じ音楽を聴いてもまったく違った感じ方をする人がいるのは仕方がない。ましてウン万円もする高額なチケットなのだから、どう感じようとそれはその人の自由なのだと思う。そうした自由を手に入れて、なおかつ感動に包まれたとしたら、これほど幸福なこともないなあと思う。勘違いと笑われようと何しようと、そう感じた自分を大切にしたいと思った。

 当初に発表された歌手から変更があり、直前になってアムネリスのルチアーノ・ディンティーノが降板してエカテリーナ・グバノヴァが代役に立った。こうしたアクシデントに備えてキャスト表には出てこない歌手を控えで準備しているのは引越し公演ならではで、大きな穴とならなかったのは何よりだった。主役の三人はバレンボイムの音楽的な意図を汲み取って好演していたと思うが、アモナズロのホアン・ポンスだけは旧態依然の大味な歌唱に思えて違和感があったように思う。大多数の観客には受けていたようだが…。

 バレエはミラノでは、ロベルト・ボッレなどスカラ座のバレエ団のスターが出演したようだが、日本では普通のプリンシパル級だったようである。限られたスペースで踊って、大きな客席にアピールしなければならないので大変だったと思うが、元ボリショイの芸術監督だったワシリーエフの振り付けは、オペラだからといって手を抜かない技術的にも高度な要求がされていたようで、なかなか楽しめた。子供たちのバレエは、東京バレエ団に付属するバレエ学校の生徒だったらしく、男の子たちはともかく、女の子たちは、子供には過酷とも思えるような容赦ない振り付けを踊りこなしていて感心させらえれた。アリアに拍手はおきないオペラだったが、バレエに拍手がおきたのは当然のことのように思えた。

 上演終了後は、バレンボイムが指揮するオペラやシルヴィ・ギエムのボレロを演奏したシカゴ響の時と同じく楽員を舞台に上げてのカーテンコールとなった。バレンボイムが幕前に出ている間に鏡開きの用意がされて通産100回の記念公演を祝うパネルや紙テープが降ってきた。紙吹雪が舞わなかったのは、クライバーの「ばらの騎士」の千秋楽に枡酒の中に紙吹雪が入ってしまい往生したからだと思う。ただし、鏡開きの段取りは悪いように思えた。樽酒の鏡は木槌で叩いて簡単に割れるようなものではなく、前もって割っておくものである。大人数の場合は、ひしゃくで日本酒を汲んでいたら、乾杯するまでとんでもない時間がかかってしまうので、前もってある程度の枡に酒を注いで配れる準備をしておき、ひしゃくで汲むのは何名かのV.I.Pにとどめておくべきである。せっかくの鏡開きがなんだか締りのないセレモニーになってしまって残念だった。それこそ演出家が必要な気がした。

 NBSの佐々木氏が16年越しの夢を実現させたミラノ・スカラ座の初来日公演が28年前。手を引かれながらもロビーに元気で姿を現した佐々木氏に感謝の言葉を述べたい。彼がいてくれたからこそ劇場の天使と名乗る自分がいるのである。28年前、偶然にもスカラ座の「ジモン・ボッカネグラ」を観なければ、オペラやバレエを見る愉しみを知らずにいたに違いないからである。まして自分が歌ったり、チェロを弾くこともなかったと思う。ただただ感謝である。

 そんな佐々木氏が怒りで震えそうな公演案内があった。かつてバブルの頃に、NHKホールのお隣の代々木体育館で上演されたアレーナ・デ・ヴェローナの公演が、有楽町の国際フォーラムのAホールで行われるという。演目は同じ「アイーダ」で指揮はドミンゴ。かつてMETの来日公演で「カルメン」を指揮して、天使を悶絶させてくれた大歌手のドミンゴである。主役には、デッシーとアルミリアートの夫唱婦随のカップル。会場が体育館から巨大なホールになっただけましかもしれない。かつてはPAを使わなかったような気もするが今回はどうなんだろう。確か市民オペラの団体が?落としで「アイーダ」を上演したはずでPAは使っていなかったのだが。スカラ座に比べるとチケット代がお安く感じるマジック!たぶん行かないと思うけれど…。

ミラノ・スカラ座 2009年日本公演
「アイーダ」全4幕

2009年9月4日(金) 17時開演NHKホール

指揮:ダニエル・バレンボイム

演出・舞台装置:フランコ・ゼッフィレッリ
衣裳:マウリツィオ・ミレノッティ
照明:ジャンニ・マントヴァニーニ
振付:ウラジーミル・ワシーリエフ
合唱指揮:ブルーノ・カゾーニ

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エジプト王:カルロ・チーニ

アムネリス:エカテリーナ・グバノヴァ

アイーダ:ヴィオレッタ・ウルマーナ

ラダメス:ヨハン・ボータ

ランフィス:ジョルジョ・ジュゼッピーニ

アモナスロ:ホアン・ポンス

使者:アントネッロ・チェロン

巫女:サエ・キュン・リム


ミラノ・スカラ座管弦楽団 /ミラノ・スカラ座合唱団

プリンシパル:サブリナ・ブラッツォ アンドレア・ヴォルピンテスタ
ソリスト:ピエラ・ペドレッティ
ミラノ・スカラ座バレエ団

東京バレエ学校


◆上演時間◆

【第1幕】 17:00 - 17:50
-舞台転換-
【第2幕】 17:55 - 18:40
休憩 35分
【第3幕】 19:15 - 19:50
休憩 30分
【第4幕】 20:20 - 20:55

2009-09-06 20:30
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突然のコメント失礼いたします。1988年、ロリンマゼール指揮のトゥーランドットに子役として出演しておりました。初日に、キャストが倒れるハプニング、そういえばありました!文章を拝見し、その時の記憶がフラッシュバックしました。子供でしたので、その時の出演者がどれだけ凄かったのかは全くわかっていませんでした。今考えると、本当に本当に貴重な経験をさせてもらいました。
by お名前(必須) (2020-09-24 16:21) 

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