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METライブビューイング レハール《メリー・ウィドウ》 [オペラ]

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土曜日の10時に上映開始だというのに新宿ピカデリーは最前列まで席が埋まって超満員。1980年代からのオペラファンなら、ウィーン・フォルクスオーパーのたびたびの来日公演で必ず取り上げられていた《メリー・ウィドウ》だからということもあろうか。二期会でも十八番として人気演目で上演が繰返されていたから、観客の中にはスクリーンの音楽に合わせて手拍子をしてしまうノリノリの人までいて、肩のこらないオペレッタ見物となり楽しい時間を過ごすことができた。

今回の新演出での上演は台詞も歌も全て英語版。演出は劇団四季でも今月から再演されている出世作『クレイジー・フォー・ユー』の振付家であるスーザン・ストローマンで、METでのデビュー作品となった。ダンサー専門の出演者はいるものの、主演歌手も踊らなければならないので複雑な振付はなく、踊りの苦手な人でもそれなりに様になる方向を目指したようである。

緞帳はいつもの黄金のオペラカーテンではなく、上下に動く真紅の緞帳で舞台上方にはPA用にスピーカーが吊るされていた。さすがに巨大なMETの客席に台詞を届けるのは難しかったようである。そのほか、序曲の間は、場内演出であるシャンデリアが下がったままだったようで、オペレッタの気分を盛り上げる工夫が様々なされていたようである。

とりたてて変わった演出をしているわけでんないが、第2幕から第3幕への舞台転換で、幕を閉めず、音楽も止めないで踊り子達が踊っている間に背景が変化し、宙乗りまで登場してアッという間にマキシムの店内に変化し、ショーアップした内容になっていたのは、さすがにブロードウエイ出身の演出家であると感心した。そして洒落た趣向のカーテンコール。アメリカ人が好みそうなので、このプロダクションは人気演目になるだろうと予想した。

この上演が楽しめた第一の理由は、ハンナを演じたルネ・フレミング。「ヴィリアの歌」には感情がこもっていて、この歌に託した彼女の想いがストレートに伝わってきて泣かされた。また、ダニロと甘美な曲に合わせてワルツを踊る姿には、幸福の姿はこうしたものという訴えに深く感動させられた。相手役のダニロを演じたネイサン・ガンは、最初は野暮ったくみえたが、彼女のおかげでどんどん魅力的な男に変化していったように思う。

そして名歌手トーマス・アレンの演じたツェータ男爵のチャーミングな演技と今年71歳とも思えない若々しい歌声で上演の成功に貢献していたと思う。ヴァランシエンヌの ケリー・オハラはブロードウエイのスターらしいが、オペラ歌手と遜色のない歌唱を披露していたと思う。さすがに往年のメラニー・ホリディのように歌も踊りも完璧とはいかなかったけれど魅力的だったのは確か。そしてアクセントになっていたのは、ニェグシュを演じた俳優のカーソン・エルロッド。何気ない演技が的確で愛すべき人物を演じていて好感が持てた。スター歌手が取り組んだオペレッタは大成功だったようである。

指揮:アンドリュー・デイヴィス 
演出:スーザン・ストローマン
出演:ルネ・フレミング(ハンナ)
ネイサン・ガン(ダニロ)
ケリー・オハラ(ヴァランシエンヌ)
アレック・シュレイダー(カミーユ)
トーマス・アレン(ツェータ男爵)

MET上演日:2015年1月17日   
上映時間:2時間53分(休憩1回)予定

《メリー・ウィドウ》
作曲:フランツ・レハール
台本:ヴィクトール・レオン、レオ・シュタイン
英訳:ジェレミー・サムズ
原作:アンリ・メイヤックの喜劇『大使館随行員』
初演:1905年12月30日、ウィーン、アン・デア・ウィーン劇場

第1幕
ポンテヴェドロ(架空の国)の在パリ大使ミルコ・ツェータ男爵が、大使館で夜会を催している。経済破綻の危機に直面している祖国のために、パリの友人たちから資金を調達するためだ。彼は、若妻ヴァランシエンヌがカミーユ・ド・ロシヨンというフランス人青年と親しくしている様子を見て、妻も祖国のために努力をしているのだと思い、満足する。実のところ、カミーユはヴァランシエンヌに愛を宣言し、彼女の扇に「愛しています」と書く。ツェータ男爵は、本日の主賓ハンナ・グラヴァリの到着を待ちわびている。彼女はポンテヴェドロ人で、莫大な遺産を相続した未亡人だ。男爵は、女好きのポンテヴェドロ貴族で大使館書記官のダニロ・ダニロヴィッチを未亡人と結婚させて、夫人の資産が国外に流出するのを阻止したいと考えている。ハンナが到着すると、パリの男たちが彼女に群がってちやほやする。ヴァランシエンヌは、カミーユとの火遊びの証拠である扇子を失くしたことに気づき、慌てて捜しに行く。つい先ほどまでマキシムで夜通し遊んでいたダニロがようやく到着する。ダニロとハンナは言葉を交わし、彼らがかつては恋仲だったが、ハンナの身分がダニロのとは低すぎるという理由で結婚できなかったという過去が明らかになる。ダニロは、自分は結婚に興味がなく、「愛している」とは決して言わないと、ハンナに宣言する。一方、ツェータ男爵の首席補佐官クロモウは、ヴァランシエンヌの扇子を偶然見つけて、自分の妻オルガの浮気の証拠だと思い込む。ツェータ男爵はオルガを助けるため、その扇子は自分の妻の持ち物だとクロモウに思わせる。その後、男爵はダニロを見つけ、祖国ポンテヴェドロのためハンナと結婚するよう命じる。ダニロは、パリの男たちにハンナを取られないようにはするが、自分が彼女と結婚することはできないと答える。女性が男性のダンスパートナーを指名する時間になると、ハンナはダニロを選ぶ。ひと悶着あるが、結局二人は踊る。

第2幕
翌日、ハンナは自邸でパーティーを催す。遅れて来たダニロに、ツェータ男爵が、パリの男たちをハンナから遠ざけるという使命を続行するよう命じる。特にカミーユは要注意人物だ。そこでダニロの部下ニェグシュは、カミーユには、誰かは分からないが、意中の女性がいると明かす。ツェータ男爵はその女の正体を知りたがる。その女がカミーユと結婚すれば、ハンナはポンテヴェドロ人と結婚するであろうという魂胆だ。愛のメッセージが書かれた扇子がその謎の女性を突き止める手がかりになると考えたツェータ男爵は、扇子の持ち主を探すようダニロに命じる。偶然、扇子とメッセージを見たハンナは、てっきりダニロから彼女への贈り物だと思うが、彼はまだ「愛している」とは言わないし、彼女も彼からその言葉を聞くまでは、彼を受け入れるつもりはない。二人は踊るが、カミーユの謎の愛人の正体が気になって仕方ないツェータ男爵によって中断される。男爵とダニロは、後ほどあずまやで落ち合ってこの件を話し合うことにする。カミーユとヴァランシエンヌは、やっと扇子を見つける。そしてヴァランシエンヌは、扇子の裏側に「私は貞淑な人妻です」と書き込む。二人があずまやに入って行くところをニェグシュが目撃する。ツェータ男爵とダニロがあずまやに来ると、ニェグシュはヴァランシエンヌの秘密を守るために男爵を足留めし、彼女とハンナをこっそり入れ替える。ハンナはカミーユとあずまやから出て来て、婚約を発表する。ダニロは怒ってマキシムへ行ってしまう。それを見て、ハンナは彼が自分を愛していると確信する。

第3章 
ダニロを捜しにマキシムに来たカミーユとヴァランシエンヌは、こっそり個室に入って行く。ツェータ男爵とポンテヴェドロの者たちがやって来ると、若い女店員たちが踊って皆を楽しませる。着飾ったヴァランシエンヌもその中に紛れ込んでいる。ようやくダニロとハンナが到着する。ダニロはハンナに、カミーユとの結婚を禁止すると告げる。ハンナが、カミーユと一緒にいたのは、ある女性の名誉を守るためだと説明すると、ダニロは喜ぶが、それでも彼女を愛しているとは言わない。客が集まってきたので、ダニロはハンナがカミーユとは結婚しないことを公表するが、カミーユの愛人が誰であるかは明らかにしない。ニェグシュが、あずまやで見つけた例の扇子を取り出す。ツェータ男爵はようやくそれが本当に妻の持ち物であることに気づき、妻の不貞を理由に離婚を宣言し、その場でハンナに結婚を申し込む。ところがハンナは亡夫の遺言により、再婚すれば全財産を失うことになっていると明かす。それを聞いて、ハンナに群がっていた男たちはいっせいに興味を失うが、ダニロ一人がやっとハンナに愛を告白し、結婚を申し込む。ハンナは求婚を受け入れた上で、遺言の続きを話す――ただし、再婚と同時に財産はすべて新しい夫のものとなる、と。ヴァランシエンヌが戻って来て、ツェータ男爵に扇子の裏側を読ませる。そこには「私は貞淑な人妻です」と書かれていた。こうしてカップルたちは元の鞘に収まり、男たちは、女はやっぱり分からないと歌う。


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こうもり  新国立劇場 2015年 [オペラ]



すでに何度も観たプロダクションなので、当初は観る予定に入れていなかったのだが、急に予定が空いてしまったので観ることに。といってもチケットは全席売り切れ。Z席の抽選販売に申し込み運よく当選したので見ることが出来た。4階の最後方の通路よりと視覚条件はあまり良くないのだが、海外の歌劇場のようにボックス席の2列目以降だと半分舞台が観えないというのに比べれば、90%は舞台が見えているので問題ないというか料金を考えれば大変お得な席だと思った。買えるか買えないかギリギリにならないとわからないが、以前のように長時間並んだり、コンビにの端末で10時打ちすることがないだけ楽だし、誰にもチャンスは公平にあるようで良いシステムだと思った。

さて、舞台は舞台前面と後方を上手く使用し、平面的な舞台装置に奥行を持たせる工夫がされていて薄っぺらいけれど絵本を見るような感じがあって面白い美術。ジャポニズムの影響を受けたウィーンという設定なので、随所に日本趣味のものが登場。「おせち料理」の重箱も出ていたような。台詞にも日本語がたびたび登場して客席をわかせた。

かつてウィーン・フォルクス・オパーが来日したばかりの頃は、原語で上演されるにもかかわらず字幕もなく、語学力のない観客はひたすら想像力を働かせ、事前の予習で舞台上で何が起きているかを予想して笑うという高度な技術?を駆使していたものだが、字幕表示のおかげで、そうした珍妙な光景をみることはなくなった。ほぼウィーンで活躍する歌手が主要な役にキャスティングされていて、指揮者もウィーンからということで安定した舞台だったのは何よりだった。第1幕の後に休憩があり、第2幕と第3幕は続けて上演される形式。幕間にシャンパン売り場が大行列だったのは微笑ましいが、第2幕の後に休憩があるともっと売れたかも。

歌手陣はおおむね好演していたが、男声陣は線が細く存在感という点では物足りない。女声陣はロザリンデのアレクサンドラ・ラインプレヒト、アデーレのジェニファー・オローリンともに貫禄十分で、演技歌唱とも大味ながら、とにかく存在感で圧倒された感じ。日本人にこうした演目は不向きと思っていたが、合唱団もそれなりの雰囲気を出していて見直した。  

例によって開演前には、劇場目前で不当解雇されたと訴える中年女性の抗議が行われていた。ほとんどの観客は無関心。言っていることは間違っていないのかもしれないが、訴える方法で損をしているように思えてならない。むしろ反感を抱く人の方が多いのではないだろうか。


2015年2月8日(日) 新国立劇場 14時開演

指揮:アルフレート・エシャヴェ
演出:ハインツ・ツェドニク

アイゼンシュタイン:アドリアン・エレート
ロザリンデ:アレクサンドラ・ラインプレヒト  
フランク:ホルスト・ラムネク
オルロフスキー公爵:マヌエラ・レオンハルツベルガー
アルフレード:村上公太
ファルケ博士:クレメンス・ザンダー
アデーレ:ジェニファー・オローリン
ブリント博士:大久保光哉
フロッシュ:ボリス・エダー
イーダ:鷲尾麻衣

管弦楽:東京交響楽団
バレエ:東京シティ・バレエ団
合唱:新国立劇場合唱団
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さまよえるオランダ人 新国立劇場 [オペラ]





2015年のオペラ始めは藤原歌劇団の『ファルスタッフ』だったけれど、ほぼ同時期に上演されていたのが新国立劇場の『さまよえるオランダ人』である。スケジュールが被っていて民間団体を圧迫しているような気もしないではない。相変わらずのシングルキャスト制なので、日本人歌手の出る幕はないのだが、演奏会形式でカヴァーキャストによる上演が行われたらしい。もっとも指揮者もプロンプターを務めている若手で、コレペティトゥールによるピアノ伴奏版ということだったらしい。そんなケチ臭い真似をするのだったら、最終日くらい舞台を踏ませてあげれば良い経験になると思うのだが、さすがに日本のオペラ界の将来など全く考えていない新国立劇場らしい冷たさではある。

今回で3度目の上演となるマティアス・フォン・シュテークマンの演出。異例のことだが、三演目ながら演出家本人が来日して稽古をしたらしいので、隅々まで目が行き届いて美しい舞台に仕上がっていたと思う。舞台には真紅オペラカーテンではなく黒幕が下がっている。

全体のトーンは暗闇で、そこに幽霊船の真っ赤な帆や舵、舵の形に似せた糸車など、象徴的なオブジェが宮中に浮かんで見えるというモダンアートのような舞台美術が効果的だった。演出自体には極端な読み替えなどなく、衣裳なども18世紀の雰囲気を残しつつ、歌手本位に機能的に作られていて派手さはないが、簡素な舞台にはふさわしいものだったと思う。水夫が集合?すると帆船をかたどっていたり、真紅の幕を振り落として舞台転換をしたりと歌舞伎風の演出があったのも日本発のワーグナーらしかった。

歌手陣は、巨大な声の持ち主はいなかったが、それぞれ丁寧な歌唱と演技で好印象。特にエリックのダニエル・キルヒの誠実な役つくりが良いと思った。相変わらず合唱も素晴しく健闘していた。もっとも飯森泰次郎の指揮する東京交響楽団は、序曲はワーグナーに対する生真面目なアプローチが成功していて愚直なまでの規律正しい音楽が奏でられていたと思う。たぶん、全編に亘って同じように演奏しているのだろうが、さすがに真面目さも加減次第で馬鹿真面目な単調な音楽に成り下がってしまう。今回は第2幕の後半がそれで、もっと毒のような要素がないと、観ていて一向に面白くなってくれないので困った。

今シーズンの飯守泰次郎の指揮する演目は終了。ワーグナーが専門だとはいえ、今シーズンも来シーズンも2演目ずつというのは芸術監督でありながら冷遇されているような気がする。来シーズンから始まる『ニーベルングの指環』が彼の指揮で最後まで完結することを祈るばかりである。

2015年1月31日 新国立劇場 オペラ「さまよえるオランダ人」
Der fliegende Holländer
Music by Richard WAGNER

スタッフ
【指揮】飯守泰次郎
【演出】マティアス・フォン・シュテークマン
【美術】堀尾幸男
【衣裳】ひびのこづえ
【照明】磯野睦

キャスト
【ダーラント】ラファウ・シヴェク
【ゼンタ】リカルダ・メルベート
【エリック】ダニエル・キルヒ
【マリー】竹本節子
【舵手】望月哲也
【オランダ人】トーマス・ヨハネス・マイヤー

【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京交響楽団

第1幕 14:00~14:50

休憩  25分

第2幕・第3幕 15:15~16:55
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藤原歌劇団創立80周年記念公演「ファルスタッフ」 [オペラ]

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藤原歌劇団創立80周年記念公演の最後を飾ったのはヴェルディの最後のオペラ『ファルスタッフ』である。新国立劇場が出来た当時は、新国立劇場と藤原歌劇団や二期会と共催という公演もあったのだが、五十嵐芸術監督が辞任してからはシングルキャストになり、日本人歌手の出る幕がなくなってしまった。日本の歌劇場でありながら、日本人歌手のための歌劇場ではない新国立劇場。

結局、お役人の格好の天下り先となり、そうした部分の人件費?で肝心の舞台が疎かになっているのではないかと危惧している。現在の劇場定員は1800名ほどだが、実際には視覚条件の悪い席もカウントしているので実数はもっと少ないだろう。商業的なことを考えると、東京文化会館の2300席ほどなければ採算が難しい劇場である。高速道路方向に池があるなど敷地には余裕があったのだから、4階席などもっと増やせたのではないのだろうか。せっかくの劇場も伝統芸能向けの国立劇場と同じく、貸館として遣われることが多くなったように思えてならない。

来年度のライン・ナップが発表されたが、オペラにしろバレエにしろ、芸術監督の理想が実現されているとは到底思えないような演目が続く。たとえば『ラインの黄金』。賛否両論だったが新国立劇場の新制作があったはずなのに、とっとと廃棄してしまい、今回の上演が新演出かと思えば、ヘルシンキ歌劇場のゲッツ・フリードリッヒ演出のプロダクションを持ってくるらしい。フリードリヒ自身は亡くなっているので、二十世紀の遺物のような舞台装置や衣裳を借りて経費を安く上げようという魂胆が見え見え。情けない。日本人歌手は起用されないままだし、一体誰のための歌劇場なのだろうか。

在野にあって、存在感を示そうという意欲だけは買いたい藤原歌劇団の『ファルスタッフ』。ロッシーニの第一人者であるアルベルト・ゼッダを指揮に迎え、ヴェルディ80歳の時の作品で最後のオペラとなった『ファルスタッフ』を日本人の演出家、日本人の歌手だけで上演するという心意気を大いに賞賛したい。新国立劇場が日本人歌手を主役に起用しないなら、日本のオペラ団体はせめて日本人歌手だけでという姿勢がよい。

粟國淳の演出は、舞台中央にひし形の舞台を置き、階段や後方の高い位置にある通路を設け、それを木の枠組みだけの壁を使って多場面を構成するというアイディア。必要最低限の簡素な舞台装置を用い、衣裳はイタリアから運び込んだ芸術品のような美しいものを使用するという「能」のようなアイディア。洗濯籠から川に落とされるファルスタッフが、浪布の間を浮きつ沈みつするという歌舞伎風の演出。宙乗り?もあり、舞台転換はスタッフが黒衣風でもあるという日本の伝統芸能の工夫を生かした日本らしい演出と見どころが多かった。

指揮のアルベルト・ゼッダは、とても87歳とは思えない颯爽とした登場で、若さとエネルギーに満ち溢れた音楽を展開。ロッシーニとはまた違った味わいではあるものの、新鮮な響きが何度も耳を驚かせるような瞬間があって、幸福な時間を過ごすことができた。

歌手陣も牧野正人の題名役、堀内康雄のフォードなど、演技も歌唱も申し分ないできで満足させてくれたものの、多くの舞台を踏んでいない経験不足を露呈してしまった歌手もいて、これだけの役を十分にこなすだけの歌手が集められなかったのかもしれない。これで歌手陣が万全だったならば文句はなかったが、全てが整う舞台は稀なのだと痛感させられた。たった2回の公演とはいえ満席にならなかったのも観客とのズレがあったのかもしれない。昔のようにスター歌手を連れてきて華々しく公演というもの、新国立劇場があるのでなかなか出来なくなっているのだろう。ある意味、観客動員だけを考えるとピンチなのかもしれないが、日本人歌手の実力を伸ばすにはいい機会なのだと前向きにとらえたい。


藤原歌劇団創立80周年記念公演「ファルスタッフ」
ヴェルディ作曲 オペラ全3幕 字幕付原語上演

2015年1月24日(土)15時開演

総監督 岡山廣幸 
指 揮 アルベルト・ゼッダ
演 出 粟國淳

出演者
牧野正人 ファルスタッフ
堀内康雄 フォード
小山陽二郎 フェントン
大貫裕子 アリーチェ
光岡暁恵 ナンネッタ
向野由美子 メグ・ページ
森山京子 クイックリー夫人
川久保博史 カイウス
岡坂弘毅 バルドルフォ
伊藤貴之 ピストーラ

合 唱 藤原歌劇団合唱部
演 奏 東京フィルハ-モニー交響楽団
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ロッシーニ《セヴィリャの理髪師》 METライブビューイング [オペラ]

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20年前、METに行ったときにも『セヴィリャの理髪師』を観ているのだけれども、当然のことながら歌手も演出も違っている。今回の上演の特徴は、何と言ってもオーケストラピットの上に、宝塚の銀橋のような張り出し舞台を設けていることで、本舞台と張り出し舞台を繋ぐ通路のような脇舞台が上手と下手にあって、大きななすのオーケストラピットが非常に小さくなって、なんだか釣堀みたいだった。

歌手が張り出し舞台に出てきて歌ったり演技したりするので、劇場で観れば迫力や臨場感があるのだろうが、さすがにそれ以上の近さで観られるMETライブビューイングなので、そこまでの効果はなかったように思う。回り舞台やスライディングステージを持つ4面舞台の舞台機構を誇るMETだが、今回の演出はいくつかの観音開きのドアを組み合わせ、人力で動かし多場面を構成していくもの。せっかくある回り舞台をあえて使わず、舞台が動かないなら、装置を動かそうという発想で作られた舞台で、かえって観客の想像力を刺激する舞台作品らしい創意工夫に満ちた楽しめる舞台だった。複雑な仕掛けがないだけに、かえって人間関係や置かれている危機的状況がよく理解できて、巨大なMETの舞台が室内楽的な緊密さを持ったかのようだった。

歌手陣は適役ぞろいでイザベル・レナードが若く魅力的なロジーナを歌い演じて見事だった。また、ローレンス・ブラウンリーは小柄ながら天性の美声と技巧でアルマヴィーヴァ伯爵を演じて楽しませてくれた。マウリツィオ・ムラーロのバルトロは、美味しい役どころを急所を外さずに歌い演じて安定感があった。周囲の歌手がいいので、 クリストファー・モルトマンのフィガロも絶好調。その他の脇役も大健闘で楽しめる公演だった。イタリアの俊英ミケーレ・マリオッティも溌剌とした演奏で盛り上げていた。

第4作 ロッシーニ《セヴィリャの理髪師》               
上映期間:2015年1月24日(土)~1月30日(金)
指揮:ミケーレ・マリオッティ
演出:バートレット・シャー
出演:イザベル・レナード (ロジーナ)
ローレンス・ブラウンリー (アルマヴィーヴァ伯爵)
クリストファー・モルトマン(フィガロ)
マウリツィオ・ムラーロ(バルトロ)

MET上演日:2014年11月22日
映時間:3時間13分(休憩1回)

第一幕
アルマヴィーヴァ伯爵が変装してセビリアの町にあるバルトロ邸の前に現れ、ロジーナにセレナーデを捧げる(“Ecco, ridente in cielo”「まさに今、空は微笑み」)。医師のバルトロは彼女を家の中に閉じこめているので、アルマヴィーヴァ伯爵は夜明けを待つことにする。この町の秘密やスキャンダルを何でも知っている床屋のフィガロが登場する(“Largo al factotum”「私は町の何でも屋」)。彼は伯爵に、バルトロはロジーナの父親ではなく後見人で、実は彼女と結婚したがっていると教える。フィガロが一計をめぐらす。伯爵が酔っぱらいの士官になりすまし、バルトロの家に宿営すれば、彼女に会えるだろうというのだ。伯爵は大喜びし、フィガロも高額の報酬に期待を寄せる。



ロジーナは彼女を魅了した声の持ち主に想いを馳せ、なんとか知恵を絞ってその人に会おうと決意する。彼女は声の主である伯爵のことを貧乏学生のリンドーロだと思っている(“Una voce poco fa”「今の歌声は」)。バルトロがロジーナの音楽教師ドン・バジーリオを伴って現れる。ドン・バジーリオはバルトロに、ロジーナを慕うアルマヴィーヴァ伯爵がこの町に来ていると忠告する。バルトロは、一刻の猶予もならないと思い、すぐにもロジーナと結婚することを決意する。アルマヴィーヴァ伯爵を追い払うためには、彼について悪い噂を広めるのが最も効果的だと、ドン・バジーリオはバルトロをそそのかす(“La calunnia”「陰口はそよ風のように」)。バルトロの計画を耳にしたフィガロは、ロジーナに注意を促し、リンドーロに恋文を届けてあげると約束する。疑い深いバルトロは、ロジーナが手紙を書いたことを証明しようとするが、そのたびにごまかされてしまう(二重唱“Dunque io son”「それは私のことなのね」)。ロジーナの反抗的な態度に業を煮やしたバルトロは、いい加減にしろと怒る。(“A un dottor della mia sorte”)



アルマヴィーヴァ伯爵は酔っぱらった士官に変装してバルトロ家へやってきて、ロジーナにこっそりメモを渡す。バルトロは、自分の家は宿営を提供する義務を免除されていると言って、伯爵を追い返そうとする。フィガロが来て、この家の騒ぎを聞きつけて表に野次馬が集まっていると知らせる。そこへ警備の兵隊たちがやって来て、泥酔した士官を連行しようとする。しかしアルマヴィーヴァ伯爵はこっそりと自分の身分を隊長に明かし、すぐさま釈放される。フィガロ以外は誰もが不可解な事の成り行きに驚くばかりだ。



第二幕
バルトロは、あの酔っぱらいの“士官”はアルマヴィーヴァ伯爵が送り込んだスパイだったのではないかと疑っている。伯爵は、今度はドン・バジーリオの弟子で音楽教師のドン・アロンゾを装ってバルトロ邸に現れる。(二重唱“Pace e gioia sia con voi!”「あなたに安らぎと喜びがありますように」)。ドン・バジーリオが病気で寝込んでしまったので、代理でロジーナのレッスンに来たと言う。アロンゾはまた、自分はアルマヴィーヴァ伯爵と同じ宿に泊まっていて、ロジーナが彼に宛てた恋文を持っているとバルトロに話す。その手紙は、伯爵がリンドーロを使ってロジーナを弄ぼうとしている証拠として、伯爵の別の愛人から自分に手渡されたものなのだと言う。だからこの件をロジーナに話して忠告して差し上げましょう、と申し出た。これを聞いたバルトロは、アロンゾがドン・バジーリオの本当の弟子に違いないと信用し、ようやくロジーナに会わせてレッスンを任せる。ロジーナが歌い始めると(“Contro un cor”「愛の燃える心に対して」)、バルトロは居眠りを始める。伯爵とロジーナは互いの愛を確かめ合う。



フィガロがやってきてバルトロの髭をあたりながら、バルコニーの鍵を失敬する。そこに突然、病気のはずのドン・バジーリオが元気いっぱいに現れる。伯爵、ロジーナ、フィガロは素早く彼に袖の下を渡し、猩紅熱のふりをさせて追い返す(五重唱“Buona sera, mio signore”「おやすみなさい、先生」)。ドン・バジーリオは、何がなんだかわからないまま、お金をつかまされて家へ帰る。フィガロがバルトロのひげを剃っている間に、伯爵とロジーナは駆け落ちの打ち合わせをする。しかし“変装”という言葉を耳にはさんだバルトロが勘づき、またもや罠にはめられるところだったと激怒して全員をその場から追い出す。



メイドのベルタが家の中の混乱を嘆く(“Il vecchiotto cerca moglie”「年寄りは奥さんを、娘は夫をほしがる」)。バルトロは今晩のうちにロジーナと結婚してしまおうと、ドン・バジーリオに公証人を連れてくるよう頼む。それからロジーナに、彼女がリンドーロに宛てて書いた恋文を見せた。失恋のショックと裏切られた辛さから、ロジーナはバルトロとの結婚を承諾し、なおかつ今夜リンドーロと駆け落ちする予定だったことまで話してしまう。嵐が通り過ぎた。フィガロと伯爵はバルトロ邸の塀を乗り越えて忍び込む。ロジーナは、自分を騙したリンドーロに対して腹を立てていたが、ついにアルマヴィーヴァ伯爵が本当の身分を明かすと歓喜に包まれる(三重唱“Ah! qual colpo”「ああ!何と意外な展開」)。ドン・バジーリオが公証人を連れてやって来た。賄賂と脅しに負けて、ドン・バジーリオは伯爵とロジーナの結婚の証人を務めることに同意する。そこへバルトロが警備兵を引き連れて戻ってくるが、時すでに遅し。伯爵はバルトロに、もはや抵抗しても無駄だと説明する(“Cessa di più resistere”「これ以上、抵抗するな」)。バルトロは自分が完敗したことを認める。フィガロ、ロジーナ、伯爵が新たな門出を祝う。

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人知れぬ涙 [オペラ]



METライブビューイング2014-15《セヴィリャの理髪師》の初日を観に行くので、アルマヴィーヴァ伯爵を歌うローレンス・ブラウンリーを調べていたら、彼の歌う歌劇『愛の妙薬』の「人知れぬ涙」をみつけた。



なかなかの美声である。

でも、「人知れぬ涙」といえば、もう亡くなって25年以上になる山路芳久さん。NHKニューイヤー・オペラ・コンサートでは、これを歌うのが定番だった。



天使は、知人からバイエルン国立歌劇場の来日公演『アラベラ』を上演している東京文化会館で紹介されたのが最初で最後になった。ちょうどウィーン国立歌劇場の専属からバイエルン国立歌劇場に移籍した頃で、これからクライバーにも起用されるというような話を聞いた。読響で予定されたいた「第九」のソリストは、市原多朗さんが代役に立った。小林研一郎先生指揮のヴェルディ・レクイエムで市原さんの代役に急遽、山路さんが客席から舞台に上がったこともあった。

この二人の日本人テノールが海外で活躍していた時代も遠くなった。

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Bunkamura25周年記念 藤原歌劇団創立80周年記念公演  「ラ・ボエーム」初日 [オペラ]



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藤原歌劇団が創立80周年なのだという。旗揚げ公演の演目であるプッチーニの『ラ・ボエーム』が上演された。天使にとってお針子ミミといえば、ミラノスカラ座の来日公演で聴いたフレーニなのだけれど、ある年代の人々にとっては美空ひばりかもしれない。昭和29年に映画の主題歌として世に出たシャンソン風の「お針子ミミーの日曜日」があるからだ。そんな曲が生まれたのも藤原歌劇団がオペラを身近なものにしたからなどと想像してみる。

ひばりには「長崎の蝶々さん」という曲もあり、「お針子ミミーの日曜日」を作曲した黛敏郎の「題名のない音楽会」では、歌劇『トスカ』の「歌に生き、恋に生き」を歌ったりもした。実に守備範囲が広いのである。最も凄いのは時代劇映画で歌った「ロカビリー剣法」。もう何でもありの世界観。

沼尻竜典の指揮により、舞台に浮かび上がってきた言葉は「孤独」だった。劇中で「一人ぼっちという言葉が出てくるが、登場人物それぞれの「孤独」を感じる事が出来たのは、指揮者の音楽へのアプローチによる所が大である。誰もがクライバーのように指揮できる訳ではなく、解釈も一つではない。過剰に感情を刺激するような音楽とは対象的に、常に登場人物の心に寄り添って歩みを進めるようなものに感じた。胸を締め付けられるような感情への働きはなかったが、自分の中にある「孤独」をあぶり出されたように思った。

たぶんNHKの収録のカメラが入っていたが、ミミのフリット、ムゼッタの小川里美、マルチェッロの堀内康雄は、記録されるに相応しい歌唱と演技を披露してくれた。問題はロドルフォのフィリアノーティで、オペラの冒頭から最高音は大丈夫なんだろうか?と不安を抱かせるような伸びのない歌声。何度か登場する難所は、必死の形相で音を絞り出したという感じ。調子が悪かったのだろうが、あれが記録として残るとすれば彼にとっては不名誉な事だと思う。

岩田達宗の演出は舞台全体をキャンバスに見立て、最小限の小道具を置いただけで平面的な書き割りだけの舞台装置で統一する。第2幕は奥の街路に通じる階段などがあって、ゼッフィレッリ演出と同じような二重構造なのだが、写実に徹しないだけセンスがあるように思った。第2幕の幕切れは、舞台奥の上方でアルチンドロが勘定書きに驚く芝居がされ、オーケストラピットの下手側に花道を設けて、客席から出演者が登場するなど工夫が凝らされていた。第3幕では壊れた荷車が下手、暖をとる為の一斗缶?だけが置かれるというシンプルさ。幕切れはムゼッタが一人ぼっちで佇むという印象的なもの。第1幕と第4幕は天窓が絵画的に描かれているおかげで、物理的な広さだけなら体育館並みの空間が屋根裏部屋に見える不思議。アイディア勝負の見事な演出だった。

kBunkamuraオーチャードホール
201411年11月1日1(土) 15時開演

スタッフ

総監督:岡山廣幸
指揮:沼尻竜典
演出:岩田達宗

出演

ミミ:バルバラ・フリットリ
ロドルフォ:ジュゼッペ・フィリアノーティ
ムゼッタ:小川里美
マルチェッロ:堀内康雄
ショナール:森口賢二
コッリーネ:久保田真澄
ベノア:折江忠道
アルチンドロ:柿沼伸美
パルピニョール:岡坂弘毅

合唱:藤原歌劇団合唱部  
児童合唱:多摩ファミリーシンガーズ
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
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パルジファル 新国立劇場オペラパレス 2014年10月11日 [オペラ]

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主要なワーグナーの作品でありながら、新国立劇場で未上演だった『パルジファル』が、飯森泰次郎 芸術監督就任第一作。2014/2015シーズン オープニング公演として上演された。10月2日(木)の初日から、5日(日)、8日(水)、11日(土)、14日(火)の合計5回の上演だが、オペラ演出の鬼才・ハリー・クプファーの新演出、グルネマンツのジョン・トムリンソン、クンドリーのエヴェリン・ヘルリツィウス、パルジファルのクリスティアン・フランツなどワーグナー歌手を集めての望みうる最高のキャスト、日本人のワーグナー指揮者である飯森泰次郎による入魂の演奏と、日本で上演されるオペラ作品の最高峰が実現した。

最高の指揮者と歌手によって演奏された音楽の素晴しさは言うまでもない。多くの話題を集めたのは・ハリー・クプファーの新演出である。舞台をいくつかのパートに分け、沈降させることのできる迫舞台を駆使し、日本の新国立劇場ならではの演出だったことを大いに喜びたい。キリスト教と仏教の融合した摩訶不思議な舞台面となったが、演出家が提示した劇世界をどう感じたか述べてみたい。

動画も公開されているが、今回の大掛りな舞台装置はふたつ。ひとつはノーベル賞を受賞した?LEDを64万個も使用し、それを舞台前面の端から、上手舞台奥に向けて幾重にも折れて続いていく「光の道」を作ったこと。その光の道には映像を流すことも可能で、場面によって映し出される映像が大きな効果を上げていた。

また、その「光の道」は前から大きな迫によって三分割されて沈降したり、舞台面より上がったりと大活躍。そこに登場人物たちを載せて上下するので、舞台転換も容易な上に、抽象的な造形ゆえイメージを大きく広げるのに役立っていた。

もうひとつは上手の空中に浮かび、場面によって「光の道」の上に降りてくる「メッサー」と呼ばれる「聖槍」を連想される巨大な槍先。これに人が寝たまま移動したりするので、その意味するところを読み解こうとするとなかなか大変である。

前奏曲が始まると、「光の道」の前面にクンドリーと槍を持ったクリングゾルが倒れており、その奥には癒されることの無い傷を負ったアムフォルタスを抱きならがグルネマンツ。その一番奥には三人の禅僧がいるという舞台面。三人の禅僧は何度も登場し、劇の展開を見守ったりする存在。一人の少年を仲介者として、僧達がコップいっぱいの水をアムフォルタスに与えたりする。そのほか、第三幕では、青年に成長した少年が、聖槍を持って倒れているパルジファルに水を与える芝居があって、時間の経過を表現したりしていた。

今回の演出の大きな違いは第3幕。パルジファルがアムフォルタスの傷口に聖槍を当てると、傷はみるみる消えるはずが、アムフォルタスは死んでしまう。十字架上のキリストを嘲笑したばっかりに永久に生き続ける女クンドリーはパルジファルの足元で息絶えるはずが、パルジファル、グルネマンツら三人で「光の道」を進んでいくところで幕となる。

どうしてこのような演出になったのか?天使なりに考えてみた。

三人の禅僧、クンドリー、パルジファル、グルネマンツの三人で絵面になっての幕切れは、「三人」に意味があり、聖書にある三人の羊飼い、三博士、三位一体、三日目に復活したキリストなど何かと「三」に関連するキリスト教の象徴なのだと思った。

「光の道」は、場面によって「行雲流水」風の映像になったり、石庭風の動かない映像になったり、快楽の園を象徴する映像になったりと変化するが、天使は「光の道」を「時の流れ」と解釈した。そこにいるのは、キリスト教の言うところの「永遠の命」を求める人間なのである。常に流れる「時」に逆らってもがく人間だが、すべては神の御手のなかにあり、「永遠の命」を得ようとして歩き続けるのである。

仏教を代表する三人の禅僧も、経を読んだりといったことは一切せずに、「身心脱落」を目指し「只管打坐」するばかりである。決して彼らは「永遠の命」を得たのでもなく、「悟り」を得たのでもない。どちらも道半ばといった感じで幕は閉まった。

キリスト教の「永遠の命」は時間的に長く生きることではない。だから十字架上のキリストを嘲笑したばかりに死ねないクンドリーは、罰としてこの世にいつまでも生き続けなければならない。天地万物をお造りになった創造主のひとり子キリストは、人類の罪を一切わが身に引き受けて十字架の上で死んでくださり、三日目に復活し、やがて天に昇られた。そのイエス・キリストの教えを受け入れることで、人間は「永遠の命」を与えられるのである。

ここでの「永遠の命」は、「光の道」に象徴されるような時の流れではない。むしろ「光の道」の外にこそある。何度か「光の道」に交差する聖槍の象徴「メッサー」こそは、「永遠の命」に橋渡しする架け橋のようなものだと思った。第1幕の「ここでは時間が空間となる」の意味も、「永遠の命」を得るということが、どのようなことなのか語っているのだろう。時の流れに支配される次元から、さらに一段階上がった時間に支配されない世界が存在することを示したのだ。

聖槍で刺され、決して治癒しない傷に苦しむアムフォルタスは、再び聖槍を受け入れる、すなわち神を受け入れることによって「永遠の命」を得て死んでいくのである。クンドリーはまだ死ぬことを許されない、神の教えを受け入れていないからであり、パルジファルとグルネマンツも「永遠の命」という「救済」を受け入れるためには、キリストを受け入れるほかはない。アムフォルタスを救済したパルジファル=救済者はまだ救済されていないのである。その三人は、キリストを受け入れていない観客自身の象徴のようにも思えた。キリストの福音を喜び受け入れることが大切なのである。

だからこそ第三幕の最後に「救済者に救済を」と歌われるのだと思った。聖杯と聖槍で十字架の上で流されたイエス・キリストを思い、キリストを受け入れるこをこそが「永遠の命」を受け入れることができる。すなわち「救済」されるのである。舞台上に現れる三人の僧は、「悟り」を求めても、けっして救われることはないだろうと思った。それぞれの立場で解釈はいろいろあるだろうが、天使と名乗る以上、キリスト教的な受け入れ方をしたのである。



飯森泰次郎 芸術監督就任第一作
2014/2015シーズン オープニング公演

《新制作》
リヒャルト・ワーグナー作曲
パルジファル
舞台神聖祝祭劇


パルジファル・・・・・・・・・・・・・・・クリスティアン・フランツ
クンドリー・・・・・・・・・・・・・・・・エヴェリン・ヘルリツィウス
アムフォルタス・・・・・・・・・・・・・・エギルス・シリンス
ティトゥレル・・・・・・・・・・・・・・・長谷川 顯
グルネマンツ・・・・・・・・・・・・・・・ジョン・トムリンソン
クリングゾル・・・・・・・・・・・・・・・ロバート・ボーク

指揮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・飯守泰次郎
演出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ハリー・クプファー

装置・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ハンス・シャヴェルノッホ
衣裳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヤン・タックス
照明・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ユルゲン・ホフマン

合唱指揮・・・・・・・・・・・・・・・三澤洋史

管弦楽・・・・・・・・・・・・・・・・・東京フィルハーモニー交響楽団
合唱・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新国立劇場合唱団

第1幕 14:00~15:55  110分

休憩  15:55~16:40   45分

第2幕 16:40~17:50   70分

休憩  17:50~18:25   35分

第3幕 18:20~19:35   75分   合計約5時間40分



あらすじ
第1幕 
モンサルヴァート城では、イエスの脇腹を刺した聖槍と、その血を受けた聖杯が騎士団に守られていた。一方、魔術師クリングゾルは魔術で騎士たちを快楽の世界へと陥れていた。アムフォルタスは彼に戦いを挑むが、魔術にかかったクンドリーの誘惑に落ち、聖槍を奪われ脇腹を刺されてしまう。以来アムフォルタスの傷は治らず、激痛に耐える日々。聖槍も奪われたままだ。傷を治すには「無垢な愚者」の登場を待つしかない。ある日、白鳥を矢で射った男パルジファルが現れる。彼こそ「無垢な愚者」かと期待した老騎士グルネマンツは、彼に聖杯の儀式を見せる。しかしパルジファルは、アムフォルタスの苦痛は感じるものの、それ以上のことは理解できない。

第2幕
クリングゾルはクンドリーに、パルジファルを誘惑するよう命じる。クンドリーは、魔法の花園にやってきたパルジファルを呼び止め、彼の出生の状況や、彼の母のことを語り、パルジファルの心をかき乱す。そしてクンドリーが接吻すると、パルジファルに智が備わり、アムフォルタスの苦痛の意味と自分の使命を知る。誘惑を拒み、アムフォルタスのもとへ行こうとするパルジファルに向かって、クリングゾルは聖槍を放つ。すると聖槍はパルジファルの頭上で止まる。パルジファルは聖槍を手に取り十字を切ると、魔法は解け、花園は消える。

第3幕
幾年も経った聖金曜日。パルジファルは聖槍を手にモンサルヴァート城に到着する。感激するグルネマンツは彼の頭に水を注ぎ、クンドリーは彼の足を清め、彼に洗礼を施す。グルネマンツは2人を聖杯の儀式へ連れていく。パルジファルがアムフォルタスの傷口に聖槍を当てると、傷はみるみる消えた。パルジファルは聖杯の王となり、聖杯は光り輝く。クンドリーはパルジファルの足元で息絶える。一羽の白い鳩が舞い降りる。

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舞台神聖祝祭劇『パルジファル』の拍手 [オペラ]

今日は、新国立劇場の新シーズンの開幕を飾ざる演目、ワーグナーの『パルジファル』を観に行く予定である。三連休をとるために溜まった仕事をかたずけるためにPCに向かい、気がつけば午前2時半。なんとか仕事は終えることができて、今度は明日の舞台の事が気になってなかなか眠れない。眠らなくてはいけないと思うものの、どんどん最悪の体調で舞台を観ることになりそうである。6時間も眠らずに舞台を観ていられるかどうか心配。



初めて実際の舞台に接したのは、1989年ウィーン国立歌劇場の来日公演でNHKホール。キャストはこんな感じ。

アンフォルタス/フランツ・グルントヘーバー
ティトゥレル/ゴラン・シミック
グルネマンツ/ハンス・チャマー
パルジファル/ルネ・コロ
クリングゾル/ゴットフリート・ホルニック
クンドリ/エヴァ・ランドヴァ

アウグスト・エヴァーディンク演出
ハインリッヒ・ホルライザー指揮

その頃は、予習をしてオペラを聴きにいくのは常識?だったので、必死に聴きまくった記憶があるのだが、舞台上のパルジファルと同じく、何もわかっていなかった。結局、NHKホールの一番奥から騎士団が行進してきたこととか、第1幕の終りには拍手しないという習慣を律儀にほとんどの観客が守って、知らない観客が拍手して周囲から睨まれていたのを思い出す。

さて、今回は演出者自身が以下のように語っているので、これまた律儀な観客が拍手をするのだろうなと予想。「拍手はどのようにすべきでしょうか」と聞いてしまうのもどうかと思うけれど。

─『パルジファル』は、かつてワーグナーが拍手を禁じたこともあり、現在も第1幕後に拍手をしない慣例に従う人もいます。今回の上演に際して、拍手はどのようにすべきでしょうか。 クプファー 『パルジファル』には舞台神聖祝祭劇などという大げさな題がついていますが、あくまで舞台作品ですから、通常の他の舞台作品同様、どの幕の後にも拍手していただいて構いません。ワーグナーは確かに最初は「拍手をするな」と指示しましたが、それは、彼が劇場を教会と勘違いしたがゆえの指示であり、のちに彼はその言葉を取り下げ、拍手を認めています。  『パルジファル』を観て、心をつかまれるような感動をなさることはもちろん歓迎します。しかしこの作品は祈りながら観るものではありません。舞台とは、常に何らかの娯楽的要素があるものだと私は思うのです。『パルジファル』上演の場は、教会でもなければミサでもありません。お客様には、ぜひ頭をクリアにして、目を見開いて、舞台で何が起きているかをしっかり見ていただきたく思います。




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イドメネオ 東京二期会オペラ劇場 《アン・デア・ウィーン劇場との共同制作》 新国立劇場 [オペラ]

ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場との共同制作というモーツァルトの若き日の作品『イドメネオ』の千秋楽を新国立劇場へ観に出かけた。二期会では初演となるこの作品、指揮に 準・メルクル、演出に新国の『コジ・ファン・トゥッテ』を現代のキャンプ場という設定にした ダミアーノ・ミキエレットという豪華版。オーケストラは東京交響楽団で、若手の歌手が多く配役された舞台は、刺激的でありながら登場人物の心の動きが手に取るようにわかり、見た目の奇抜さよりも、ずっとしっかりした演出が施されていて、オペラ・セリア=退屈という先入観を見事に打ち破るものだった。

劇場に入ると真紅のオペラーカーテンではなく、白いジョーゼットのような薄い幕が下がっている。たぶん アン・デア・ウィーン劇場のプロセニアムに合わせたサイズで、新国立劇場のプロセニアムを黒枠?で囲っててリサイズしての上演のようだった。

音楽が始まると、白い幕にイドメネオらしき人物が小さな男の子に服を着せる映像が流れる。着せ終わると幕が上がって、そこに成長した?息子であるイダマンテが立っているという具合。古代ギリシャの物語は現代に置き換えられ、舞台面はおびただしい靴が転がった砂浜?(実際はゴムらしいが)が傾斜して舞台奥まで広がっていた。その靴を見て連想したのは、昔行ったアウシュビッツ収容所の虐殺されたユダヤ人の靴の山。そして劇中に舞台に投げ込まれる沢山のスーツケースは、同じ収容所のカバンの山の展示物を思い出させた。

何かただならぬ雰囲気の中でオペラは始まったが、何故か舞台上で登場人物が服を脱いだり着たりする芝居が多かったが、どのような意図があったかは不明。囚われのトロイア王女イリアがイダマンテにお腹を触れられる冒頭の二重唱や、イドメネオのベッド?の上に並べられる産着など、謎だらけだったのだが、第3幕ではイリアの妊娠が発覚?さらには、最後の「シャコンヌ」の演奏部分で、なんとイリアは舞台上で出産という仰天演出。冒頭の映像とも重なりあって、生命賛歌として前向きに捉えられる解釈でもあり、演出家の並々ならぬ才能を感じた。この部分には第1幕から伏線が張り巡らせられていたようだが、1回みただけでは発見できそうもないのが残念。もう千秋楽で確認のしようがない。

斬新な演出の中で、歌手陣はそれぞれ大健闘。特にエレットラの田崎尚美は素晴しい歌唱ばかりでなく、舞台上での着替え、コミカルな演技、そして泥の中でのた打ち回り死んでいく最後の場面など、体当りともいえそうな熱演で大きな感銘を与えてくれた。

イドメネオの又吉秀樹、イダマンテの小林由佳、イリアの経塚果林と演技も歌唱を申し分なく、二期会合唱団ともども大いに満足させてくれた。その立役者ともなったのは、指揮者の準・メルクルで多少の瑕はあっても、全体を通して聴けば紛れもない堂々としたモーツァルトの音楽を創り上げていたと思う。おかげで多少生理的に受け入れがたい演出の部分があったとしても、音楽の充実度で全てが帳消しになり、久しぶりに刺激を受ける舞台に出会うことができた。

今回の公演は3連休が入っているとはいっても、全てが昼公演で夜公演はなし。上演時間がカーテンコールを入れて3時間20分ほどだったので、金曜の夜であっても昼に上演したほうが集客できるということらしい。それだけ観客の高年齢化しているということか。 今日は敬老の日だが8人に1人が75歳の高齢者らしい。終演後は、後期高齢者のTさんと楽しくおしゃべりをしながら電車で帰ってきた。久しぶりにお会いできて嬉しかった。

イドメネオ

オペラ全3幕
日本語字幕付き原語(イタリア語)上演
台本:ジャンバッティスタ・ヴァレスコ
原案:アントワーヌ・ダンシェ『イドメネ』
作曲:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

会場: 新国立劇場 オペラパレス
公演日: 2014年9月15日(月・祝) 13:00

指揮: 準・メルクル
演出: ダミアーノ・ミキエレット

装置: パオロ・ファンティン
衣裳: カルラ・テーティ
照明: アレクサンドロ・カルレッティ
演出補: エレオノーラ・グラヴァグノラ

合唱指揮: 大島義彰
演出助手: 菊池裕美子

舞台監督: 村田健輔
公演監督: 曽我榮子

キャスト

イドメネオ 又吉秀樹
イダマンテ 小林由佳
イリア   経塚果林
エレットラ 田崎尚美
アルバーチェ 北嶋信也
大祭司   新津耕平
声 倉本晋児

合唱: 二期会合唱団
管弦楽: 東京交響楽団

あらすじ

 舞台はトロイア戦争後のクレタ島。クレタ王イドメネオの息子イダマンテは、戦争で負けて囚われの身となっているトロイア王女イリアを密かに愛しています。クレタに逃れているアルゴスの王女エレットラもイダマンテを思っています。一方、イドメネオはクレタに戻る途中嵐にあって遭難してしまいますが、海神ネプチューンと「陸に上がって最初に出会った人物を生け贄に捧げる」という契約を交わして救われます。そんなイドメネオが上陸して初めて会ったのは、なんと息子のイダマンテでした。

 イドメネオは忠臣アルバーチェの提案により、息子をエレットラとともにアルゴスへ逃がそうとしますが、イリアがイダマンテを愛していることを知り悩みは深まるばかり。エレットラは喜び、イダマンテはイリアへの思いに心乱れます。イダマンテとエレットラが出航しようとした時、突然海がざわめき怪物が人々を襲います。イドメネオは、契約を守らないのでネプチューンが怒ったことを知ります。

 死を覚悟して怪物を退治することを決意したイダマンテはイリアと愛を確かめ合います。司祭長が登場しイドメネオに生け贄を捧げるようにうながすと、イドメネオはついに生け贄が息子であることを告白。生け贄になることを決意したイダマンテをイドメネオが刺し殺そうとしたその時、イリアは自分を身代わりにと申し出ます。イリアの献身的な愛に、海神ネプチューンは「イドメネオは王位を退き、イダマンテが王となりイリアが妻となる」という神託を下し、一同喜びのうちに幕となります。

開演 13:00

第1・2幕  90分

(休憩・25分)

第3幕  70分

終演予定 16:05

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