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畑中良輔先生追慕  ~死があたかも一つの季節を開いたかのようだった~ [エッセイ]

二十歳を過ぎたばかりの頃、ある場所で最愛の人と一緒に食事をしていた。お隣のテーブルには、欧米人の老夫妻と日本人が数人で食卓を囲んでいる。ただ隣に座っているだけなのに、何故かその老紳士から発せられる「人間の大きさ」に圧倒されてしまった。今ではそれを「オーラ」というのだろうが、その懐の温かさ、誰をも包み込んでしまう大きさが不思議なことに伝わってくるのである。

大いに心を揺り動かされて、帰り際にレストランのスタッフに思わず尋ねてしまった。

「あの方は、どなたですか?」

「ピアニストのリヒテル様です」

リヒテルの名前だけは知っていたが、ピアノの巨匠だということも、どのような演奏をするかも全く知らなかった。クラシック音楽に興味はあっても、歌舞伎や文楽を観始めたばかりの天使が、クラシック音楽を実際に演奏会にでかけて聴こうとは思わなかった。でも、リヒテルの人間としての存在の不思議さを知ってしまってからは、こんな人が奏でる「音楽」はきっと素晴らしいに違いないと、歌舞伎の帰りに東京文化会館に寄って、片っ端から演奏会を聴くようになった。

そうすると必ず演奏会に姿を見せる人たちがいるのに気がついた。歌舞伎座にもそうした人たちの集団がいるので直ぐに音楽評論家なのだと解った。そうした中に畑中良輔先生もいらしたのだが、自分にとっては遠い雲の上の存在で縁のない人なのだとずっと思っていた。その頃の天使の人生は、最愛の人と共にあり、それ以外のことにはあまり関心がなかったのだと思う。少々歳の離れた最愛の人には、あらゆる事を教えられ天使の人生を豊かにしてもらった。彼とともにあった四半世紀は、ずっと幸福だった。

21世紀になって最愛の人が亡くなり、天使はこれまで味わったことのない深い悲しみの中にいた。そんな失意の中、彼が亡くなって二ヶ月後に、畑中先生との出会いがあった。雲の上の存在で怖い人なのだと思っていたが、初対面の天使にも気さくに話かけてくれて大いに感激した。そして気がついた。一緒にいるだけなのに、その場にいる人を幸福にする人。その人間としての大きさ、温かさは、あの時のリヒテルと同じだった。

先生が雑誌「音楽の友」に連載していた「繰り返せない旅だから」に、若き日の先生が小説家・堀辰雄の「聖家族」の冒頭部分を読んで、失意のドン底から立ち直る話が書かれていた。そして天使も、まさにその言葉によって再生されることになる。

死があたかも一つの季節を開いたかのようだった

最愛の人の死は悲しく、辛いことだが、避けられないこと。それを乗り越えてこそ、新しい人生が開ける。天使はそんな風に解釈して、いくらか心が軽くなった。そして演奏会のたびに、それは主にオペラの会場でだが、先生にご挨拶をするのが楽しみになった。短い言葉を交わすだけだが、会うたびに天使の苦しみが癒されていくのがわかった。いつしか先生がいらっしゃりそうな日を見定めてチケットを買うようになっていた。そしてずうずうしくも先生の主催するイベントなどにも顔を出すようになっていた。それは恋のようなものだったかもしれない。

誰にでも優しい印象のある先生だったが、「優しい人」=「自分に厳しい人」なのである。多くの仕事を抱え、まっすぐに突き進む先生は休むということがない。多少の息抜きもあったようだが、「音楽」のために全てを捧げている姿は、日頃から楽な方へ楽な方へと行きがちな天使への大きな戒めとなった。

多くの人は、先生を音楽評論家と思っていたようだが、先生は「人間評論家」でもあった。人間の醜い部分には辛辣な判断を下す人なのだと気がついた。一目会っただけでも、その人間を判断できる。だから、天使が精一杯生きているときは堂々とお会いできたが、怠けているときは逃げ回っていたりした。この十年間はそんなことの繰り返しだったような気がする。それでも天使の成長を喜んでくださっていたようなのは、ただただ有難く、先生の愛の深さに感じ入るばかりである。

天使の人生を振り返ってみると、必要なときに必要な人と必ず出会いがあった。出会いがあれば、必ず別れのときは来るのだが、それは終ではなく始まりなのだということを知っている。有形無形の多くのことを与えていただきながら、何ひとつ恩返しができないままなのは、いつものことではある。行くべき道を指し示していただいたのだから、迷わずに自分を信じて前へ進めば良いと心の中の声が呼びかけてくる。お亡くなりになった夜、先生の作曲された「花林(まるめろ)」をチェロで弾いてみた。天使は「光」になった先生のお心とともにあります。


いばらの血が涙を染め

ひと日 雲が哭いていた

切れ切れの過去の中に

影をおとして


さあ 行こう

鳥の飛び立つ瞬間の

まばゆい ひかりの会話

畑中良輔詩集「超える影に」より 「光」 
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