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ヴォツェック [オペラ]2009-11-22 [オペラ アーカイブス]

【指 揮】ハルトムート・ヘンヒェン
【演 出】アンドレアス・クリーゲンブルク
【美 術】ハラルド・トアー
【衣 裳】アンドレア・シュラート
【照 明】シュテファン・ボリガー
【振 付】ツェンタ・ヘルテル

【企 画】若杉 弘
【芸術監督代行】尾高忠明
【主 催】新国立劇場

【ヴォツェック】トーマス・ヨハネス・マイヤー
【鼓手長】エンドリック・ヴォトリッヒ
【アンドレス】高野二郎
【大尉】フォルカー・フォーゲル
【医者】妻屋秀和
【第一の徒弟職人】大澤 建
【第二の徒弟職人】星野 淳
【マリー】ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン
【マルグレート】山下牧子

【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

 天使の初『ヴォツェック』は、ちょうど20年前のウィーン国立歌劇場日本公演だった。ちょうど2年前にウィーンで上演された際のライブ版がCDになり、LDになり、名作オペラブックスという音楽之友社から出ていた「究極の解説書」なるものまで買い求めて事前の予習を重ねた。ベルクの「ヴォツェック」は音楽史上初めて無調で作曲されたオペラで、20世紀になって書かれた最もすぐれたオペラの一つに数えられる作品ということだが、かなりハードルの高いオペラだった。

 あのNHKホールの巨大な舞台でなければ再現できなかったらしいいが、ベーレンス以外の出演者は子役まで同じキャストだったことと、CDの音楽にあわせ何度も練習した舞台転換もスムーズで、LDそのままに再現されていた。さすがにベルクのオペラでは観客動員が困難だったようで、無理矢理チケットをもらってシブシブ来たのか終演後に駅のホームで困惑の表情を浮かべた観客を何人も見た。今回の公演も、たった4回の公演なのに、1階席後方には空席が目立っていた。日本の観客は正直というかなんというか…。けっして愉快な気分になれる物語ではないし、音楽も難解。S席23,100円を支払うのに相応しいかどうかは、確かに疑問ではある。

 あの「軍人たち」をレパートリーに取り上げた故若杉弘芸術監督の再び意欲的な作品である。昨年バイエルン州立歌劇場で初演された最新の演出を日本で観られる貴重な機会となった。結論から言うと、高水準のベルクの『ヴォツェック』を体験したけれども、大きな感動には至らなかった。もともと救いのないオペラなのに、さらに鋭い演出で救いがなくなり、まったく金縛りになったように舞台を凝視し、身体を硬くして見たので、大きな疲労感と何故か短い上演時間なのにお尻が痛くなった。相当力が入っていたようである。観客に極度の緊張を強いる舞台だったからなのだろう。そうでなければ、お隣の観客のように眠ってしまったほうが幸福だったかもしれない。

 カーテンコールには、指揮者がゴム長靴を履いて出てきた。舞台一面が水深数センチの水たまり?というか床上浸水になっていたからである。場面によっては照明が反射して美しい輝きを見せるし、中空に浮かんだ舞台装置が映り込んで夢のような表情を見せるし、悪くない工夫なのだが、すでに今シーズンの『オテロ』で、さらに大掛かりに水を使った演出を見ているので、残念ながら「ああ、またか」という感想しかなかった。

 全編を通じて、不安定に中空に吊られたマリーの家になったり、医者の研究室になったりする家の形をした巨大なボックスが前後と上下に移動して各場面を描き出す。一切の無駄が剥ぎ取られて必要最小限のものしか置かない簡素な舞台である。舞台後方と上手と下手の側面には半透過性の幕があって、後方から照明が当てられ、観客の不安をかきたてる簡素ながら雄弁な舞台装置だった。

 不安をかきたてるのは舞台美術ばかりではない。全体が大掛かりな現代美術のような舞台で、アクセントは客席に背を向ける黒い衣裳をつけた失業者?の一団である。時々水の床にぶちまけられるパンや小銭を奪い合ったり、バンドを乗せた舞台を四つんばいで支えたりと、現代オペラにふさわしい味付けだった。

 出演者はヴォツェック、マリー、マリーの子供以外は、異様な怪物のようなメイクや肉布団の衣裳を身に着けていて実に醜悪。だが最も醜悪だったのは、マリーの子供だった。お猿の人形を持ち、感情も乏しいまま、様々な演技を繰り出す悪魔の子のような存在になっていて、余計に不安をかきたてた。

 壁にコールタール?で文字を書くのだが、ずばり「金!」とか、パパと壁に書いてヴォツェックに矢印を引いて、実は自分の父親は別人物ということを知っていて…などという演出があって、およそ誰にも愛情をしめそうとしないのである。なるほど、他の登場人物なのに、あの子には名前がないのである。「マリーの子供」という役名であって、「ヴォツェックの子供」でもなければ、「ヴォツェックとマリーの子供」でもないのである。それならば、死んだヴォツェックを足蹴にしたり、両親が死んだと聞いても関心をしめさないわけである。現代に生きていたら、クリスマスの食事にホテルの高級レストランに行っても、ずっとゲームをやっていそうな可愛げのない子供になるだろうと思った。演じた中島健一郎君はなかなかのハンサム君なのに、やることは相当にえげつない。母親であるはずのマリーに対しても実に冷たくて唖然とさせられ、救いのないなか唯一の砦ももろくも崩れ去ったという感じだった。

 歌手陣は、いずれも海外で「ヴォツェック」をレパートリーにしている歌手を集めたとかで大きな破綻がないのは何よりだった。日本人歌手も健闘していたように思うが、医者を演じた妻屋秀和以外には個性が乏しく、印象に残らなかった。指揮者は当初予定されていた若杉弘に変わってハルトムート・ヘンヒェンが振った。アバドのような圧倒的な感動はないものの、手堅い音楽を創り出していたというところだろうか。巨大な編成のオーケストラと合唱を要して、たった4回しか上演しないのでは採算は絶対にとれないないだろうが、若杉芸術監督の遺志が実現したことを喜びたい。国の予算が削られないことを祈りたいけれど、民主党って文化に対して、まったく理解がなさそうなのが心配ではある。今後は、こうした意欲的な演目が減っていくのではないのだろうか。


2009-11-22 07:23

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