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桜姫~清玄阿闍梨改始於南米版 シアターコクーン 2009-06-10 [演劇アーカイブス]

 『桜姫~清玄阿闍梨改始於南米版』(さくらひめ~せいげんあじゃりあらためなおしなんべいばん)の初日を観てきた。劇場内外の雑感はこちらです。

 南北の『桜姫東文章』を現代劇に書き換えて上演という企画。しかも舞台は南米というのが趣向?来月に歌舞伎版が上演されるので…、というほど安易な取り組みではないと信じつつ、同じ舞台装置を使った野心的な試みだけでもないと思いたいが、挑戦する姿勢はよいとしても全体的に未消化に終わって全く楽しめなかった。

 劇が始まってまもなく、舞台上の席が移動して(なぜそんな手のこんだことが必要なのか不明なのだが)芝居をするエリアが狭くなって、緊密な劇空間になるのけれど、最初に墓守として登場した大竹しのぶと笹野高史が空間を掴みきれていないのか、残念ながら何を言っているのか台詞が全く聴き取れなかった。四方を観客に囲まれているからか、役者も緊張していたようだし、観客も身構えてしまって、いきなり芝居の流れが停滞してしまい舞台が弾まない。それは最後まで続いて終わり方も解ったような解らないような変な幕切れで、カーテンコールなのか芝居が続いているのか疑問のままバンド演奏に突入してしまい、結末の出来事を理解できないまま終わってしまって欲求不満になる。

 まさか歌舞伎の幕切れの「本日はこれぎり」のような訳のわからなさを不条理劇として翻案したのではないとは思うが、双子の見世物芸人やセルゲイとゴンザレスを対比させるなど、思わせぶりな仕掛けはあっても徹底していないので理解に苦しむばかりだった。何よりも南米版といいながら、南米風というよりも串田流のとでも言った方がいいような無国籍風で、結局、串田はこうした世界観からいつまでも抜け出せない人なのだなあと思う。それが楽しいと感じられる人には心地よいだろうが、役者の演奏する素人同然の演奏を楽しめと言われても…。

 サーカスや見世物小屋風の劇場空間の中で、台詞と生演奏だけだと空間が埋めきれていないなあと思う。やはり肉体的なパフォーマンスがないと物足りない。歌舞伎ではないので大立ち回りなどは期待しないが、いい大人が列車ごっことは、それはないだろうと思った。何もない空間に色々な手法を駆使して多場面を出現させる方法も、だんだんと新鮮さがなくなってくるのが辛い。

 白井晃、笹野高史、大竹しのぶ、古田新太、秋山奈津子、勘三郎と芸達者が揃っても必ずしも面白い芝居にはならないのだと気がつく。期待が大きかっただけに失望も大きかった。歌舞伎の『桜姫』は、当たり役の玉三郎をはじめ、雀右衛門、染五郎、福助など観てきたが、その面白さでは遠く及ばない。もう企画した人間のセンスを疑うぐらい酷い。

 聖と俗、貴と賤、その間を揺れ動くはずの桜姫の行動が曖昧で、彼女を突き動かす力は一体なんなのか最後まで疑問のままだ。プログラムを見れば、作者は何度も何度も書き替えと言い訳をしている。結局時間切れで未完成のまま上演してしまったということなのだと理解した。ほとんどチケットは完売らしいからいいが、一ヶ月の公演で億単位のお金が動くというのに、作者は英国へ留学中だという。つくづくお気楽なものだと呆れた。作者はもっとも~っと苦しむべきだったと思う。苦しみ方が甘いのだと断言したい。

 カーテンコールで、勘三郎が客席の串田を舞台に上げようとしたが、串田は上がらなかった。この程度の芝居の出来では恥ずかしくて上がれまい。もっともである。

2009-06-10 22:47
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